冬アラモード2

冬アラモード2

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本日のBGM/Richie Beirach , Lost in the stars , Jazz Adagio


涙腺のゆるむ電話にシクラメン



地平まで続く無言や寒の雨




冬の雨忘却に靴漬けている



前世の話していて冬林檎


息子がいきなり前世を思い出した人の話を始めた。
ネットで仕入れた話なのだろう。
それなりに面白い話ではあったが、とんと実感が湧いてこないのだ。

なんてったって、ここのところ、日常的な記憶回路の働きが、本格的にいけなくなってきている。
洗濯物を干し終わったと思っている。
そして他の家事、洗い物や部屋の片付けをしている。
片付けをしているので、洗濯機の前も通り過ぎる。

と、「ナヌ?」
何と洗濯物が、まだ全部干し終わっていないではないか。!!

何かをしている最中に、ふとした思い付きで違うことが始まってしまう。
それはいいとして、前にやっていたことが途中になったまんま、その記憶がぶつっとぶつ切りになっているのだ。

前世の記憶どころではない。
今生の記憶が危険にさらされているのだ。

年末年始に多忙を極めた後、どうもその程度が度を越し始めたような気がする。

若い時は、疲れというものが、一過性で済んだのだろう。
年を取ると、それが深いところへ落とし込まれて、何か根本的な影響を及ぼしてしまうのかもしれない。

我ながら一番唖然としたのは、まだ正月明けそこそこだったのだが、歳時記を読んでいて、さっきから手元で飲んでいたマグカップのコーヒーが半分冷たくなっていたので、もう一度レンジで温めてから飲もうと思った時のことだ。

確かにその時、色んな事を一緒くたに考えたり、息子に何か話しかけられて答えたり、複数の事が私の脳裏で同時進行はしていたんだけれど。 でも・・・でも・・・。

私がレンジに入れようとして、その前まで持って行ったものは、

なんと歳時記だったのだ!







思い出し笑いしていて寒雀



枯木立一つの曲を繰り返す



新しき頁眩しく寒晴れぬ



寒菊や意味無き日々もみっしりと



沢庵の最初冷たく冬晴れぬ



抗えぬことのいくつか冬の梅



山茶花やひとっこひとりいない昼



寒林の影の中我が影帰る



逃げる夢ふと思い出す冬薔薇



靴音のそのまま登り冬銀河


ある夜窓を閉めようとしたついでに、冬の星座を確かめていると、突然、甲高いハイ・ヒールの音が聞こえてきた。
下の表通りを、こんな夜更けに女の人がひとり、帰宅する最中なのだろう。
その音の、夜道に響くこと、響くこと、「カン・カン・カン・カン」
まるで金属の打楽器のように、硬く凍てついた音が、寒さの中で尚一層、際立っている。
その憚らぬ歩きぶりは、自分でもその歯切れのよい音を楽しんでいるとしか思えない。

音というのは、建物に反射すると、思いがけぬ方向から聞こえるように、人を混乱させるものだ。
凍り付くような寒の街で、あちらの建物、こちらの建物に、その靴音は思いっきり反射するものだから、一体どっちから聞こえてきて、どっちへ消えてゆくのか、皆目見当がつかない。
万華鏡の中に迷い込んだようなハイ・ヒールの音。

おまけに私の視野は真っ直ぐに星空だけを見ていたから、その鋭く金属的な靴音が、どう考えても、硝子のように凍てて煌めく、その星空から聞こえてくるようにしか思えなかった。
星とハイ・ヒールの靴音が、ひとつもののように、硬質な煌めきを持っていたからだ。

寒の夜道を足早に歩いていたその女性が、いつの間にか冬の星座の散らばっている夜空に登って、ぐるーっと、オリオン座やおおいぬ座のシリウスなんかの上を、嬉しそうに闊歩している。

彼女が近づいてゆくと、ペテルギウスは柘榴のように、赤々と煌めく。
おうし座の昴はより柔らかく、さざ波の如く瞬く。

「カン・カン・カン・カン」「カン・カン・カン」

眠りにつこうとしても、あの楽しそうな靴音が、耳についてなかなか離れなかった。







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冬アラモード1

冬アラモード1

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本日のBGM/Simone Kopmajer - Home 


冬帽の下より遥かなものを見る



言いにくい言葉マフラー通り抜け



こころまた色褪せやすく冬の雨



毛糸編む妻になったり親になったり



寒の月後ろにも目があるやうな



帰り花時間の帯は戻らない



枯園に愛の言葉を失へり



まだ家事が残ってをりぬ冬燈し



寒燈の湯舟に揺れて揺れやまず



水鳥の増ゆる如くに睡りくる



今という座標動かず寒の星



寒月やバッグに青い手帖あり


普通手帖やカレンダーは暮に買うものだろう。
しかし、いつもそのつもりでいるにもかかわらず、年末年始の一人駅伝のような有様で、結局そういうことは年明けになってから、しかも正月が終わって、家族が外界に出るようになってから、やっとゆっくりと品定めに行くことができる。

大分前のことになるが、子供が小さなころには、自分の手帖は薄かった。小さかった。
PTAのことくらいしか日をたがえられぬ用事はなかったし、立派なものを買い込んだところで、白々と終わってしまうことを思うと、いかにももったいなかったのだ。
それはまた、雑用ばかりで終わってしまう日月の、虚しい証明のようでもあり、寂しかった。

しかし、年が経つにつれ、手帖はやや厚く、大きめなものになっていった。
理由は三つつあり、ひとつは小規模でも自分の仕事を得たことと、それからもう一つは、頭の中にインプットされた情報が、早目早目に行方不明になってしまうようになったからだ。
つまりは書きこむスペースをより多く必要とするようになったということである。
もう一つは、パソコンを長時間注視する仕事ゆえに、老眼の度の進みが年齢的な平均よりずっと早く、小さな面積に書き込むことが苦痛であること。
これらの事情から、大きめの、少し厚めのものを買うようになった。

毎年柄で大いに迷う。
仮にもデザインを仕事にしているからには、出来れば無地でなく、気の利いた「なにか」がデザインに、欲しい。

ところがこれがなかなか難しい。気に入るものは中々見つからない。
派手派手しい柄物は嫌だが、きらりとミニマムな「なにか」があるもの。
すると、去年と同じになってしまう。
それの色違いだって、一昨年に使用済みだ。

小一時間も手帖売り場に立っていて、結局妥協できる柄物は無かったので、しぶしぶ無地のものにすることに考えを変えた。

手帖の大きさ、軽さ、書き込めるフリースペースの分量などで熟慮した結果、私の最終選考に残ったのは、柿のようなオレンジ色と、冬茜の藍から茜色へのグラデーションの中から持って来たようなような藍色。
それも張り詰めたようなピークの「紺碧」というような鮮やかな色味ではなく、峠を越していよいよ暮れてゆく、ややグレイッシュな落ち着いた冬の夕空の色。

いかにも冬の「青」だ。

私は迷った。
「今年はいい年にしたい」「今年はいいことがありますよう」
誰もが思うように、思った。

去年はさんざん思いがけないことがあって、ほとほと疲労困憊した。
であれば余計に縁起を担ぎたいものだ。

それなら、柿のようなオレンジ色が、「ぱっとして」いるじゃあないか。
暖色系のなかでは、赤やピンク、ワインレッドなどに比べたら、少しスポーティーなイメージがあって、嫌いではない。
それにやや抑えた色味のオレンジだから、明るいけれど派手派手しさは感じない。
「新しい、いいことが起きますように」「新しい仕事が開けていきますように」
そんな風に考えると、
いかにもこちらのオレンジ色の方が、明るい運勢を連れてくるように思えてくる。

一方藍色の方は、まさに自分らしいような色、と言うべきか。
夕暮れの空が、やがて隠していた星々の煌めきをあらわにする程に暗くなる、その一歩手前の藍色。
この色を見ている時に、どんな幽かな「抵抗」も「興奮」も、自分の中に起きないような。
意識しているわけではないのに、クローゼットを開ければ、黒、グレー、ベージュなどの基本色以外は、様々なトーンの青や紺色の服しか、入っていない。
言うなれば自分の「Home」のような色なのだ。

迷った挙句、私は縁起の良さそうな柿色の手帖を手に取り、レジの方へ行きかけた。

しかし何かが、その足を止めた。

突然私は思ったのだ。 何の前触れも無く。

「自分らしくいたい」。






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寒・寒晴れ

寒・寒晴れ

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本日の1曲/Yo-Yo Ma, Chris Botti - My Favorite Things



寒晴れに骨まで照らされてをりぬ



寒晴れや自分に嘘をついていて



寒晴れに吹奏楽団通り過ぐ



非常階段降りて眠りぬ寒の夜



寒切り分けてひとりゆく夜道かな



戻れない戻らない寒の道



瞬きもせずにひと夜を寒の月



身ほとりに争いばかり山茶花散る



割り切れぬままに白菜割っている



吉という字のなる如し実南天



身の重さ身で持ち上げて冬暁



水仙香毛細血管透明に



加湿器の煙真っ直ぐ松の内



コート着る我の影着る如く



コートを買いたいと思っている。
今持っているどのコートでも、夜帰宅するおりに、寒いのだ。
もう少し厚手のウールか、やっぱりダウンか。

しかしダウンも、姫達磨みたいになっちゃうしなあ。
今はそうならないようなおしゃれなダウンも色々研究されてはいるが、ウェストをシェイプすればしたで、お腹のぱちぱちぶりが却って目立つし、太って見えないような薄手のダウンじゃもとから意味無いし。

どの店に入ってみても、中々探しているようなコートは無い。

この「寒」に対抗できるほど厚手ならば、ふくよかに見えないというのは、よほど研究されつくしたものでなければ無理と言うものだ。尚且つお値段もこなれてなければというのだから、「要求が高すぎる」のだ。

それから、探しているのは、「私らしい」コートだというのだから、これまた中々にあるものではない。

着てみる、鏡の前に立つ、その時に、まるで前から着ていたような、しっくりいく感じ。
これまた中々あるものではない。「要求が高すぎる」のだ。

普通の服だったら、ここまで要求は厳しくない、のだ。
「普通の服」というのは、セーターやトレーナーやスカートやワイドパンツなどのことであるが、これらは言うなれば取り換えのきくエキストラようなものだ。

しかしコートというのは、少し次元が違う。

それは私の代名詞のような服で、私がコートを着ると、コートは私を守ってくれる。

どんな風に守るのか、寒さから守ってくれるだけではない。
コートを着ると、コートは私が持っている悲しみや戸惑いや落胆や苛立ちを、それとなく包み込んでくれるような気がする。

これはきっと、悲しみや落胆や苛立ちが、体に溜まっているからなのだろう。
厳しい寒の外気から私の体を包み込んでくれる時、心の中の負の要素達をも、ふわりと包んでくれるような気持ちになるのだ。

それは「悲しみ」や「落胆」は心であり、体とは違うと思っている、そういう考え方はすでに野暮で、実は心と体はひとつものなのだという、そういったことを如実にに物語っているのだと思う。

だって、そりゃそうだ。

身体が無くなれば、心だって無くなってしまう。
何かがもし残るのだとしたら、それは「個」と言う状態を超えているのではないだろうか。

コートは寒さから私を守ると同時に、同じ温度と仕草で、私の「個」を守ってくれる。
コートは様々な荷を持った、人々の「個」を包んでいる。

だからコートは大人に似合うのかもしれない。






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初春・去年今年

初春・去年今年


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本日の1曲/千住真理子 「主よ、人の望みの喜びよ」J. S. バッハ



初春のまだ知らぬ我がどこかに



初春やいつも通らぬ道を行く



去年今年貫く特急列車かな



少しづつ変わる景色も去年今年



ワイングラスの中のキッチン去年今年

なんだかんだ言っても、主婦の年末年始は、キッチンに終わり、キッチンに始まる。
年末一週間は掃除に明け、掃除に暮れ、普段放棄をしている箇所が多いので、当然その報いは大きく、体力の減少も相まって、それはもう意志の力をフル活用しなくてはならない。
大体が、大まかな計画を立てても、やっているうちにどんどん新たな良からぬ発見があり、やらねばならぬ場所が増えてゆく。
また、例えば食器棚の中のように、ここはなんとか目をつむって行き過ぎてしまおう、と思っていたのに、いざとなると、「むらっ」といらぬやる気が芽を出して、手をつけてしまったら、もう最後までやるしかない。

そんなだから、今年はスムーズに行くだろうなどと高を括っていたものが、結局後へ、後へと押してゆき、簡単なお節料理を作る時間は、結局大晦日の深夜になだれ込む。
10時半頃から、大根なますを作り始めるが、家族がかなりの分量を食べるので、大根1本半くらいは使う。
しかも自慢じゃないが手先は滅法不器用なので、大根の細切りを満足のゆくように切り終わるには、相当時間がかかってしまう。
しかし不器用な自分に対して、拮抗するように、堅牢な意志も出そうと思えば出るので、なんとか家族が満足するだけの大根の細切りは、無事に出来上がる。

人参も混ぜ、甘酢に漬け、柚子の細切りを入れる。
うちのなますは塩をしない。いってみれば「フレッシュサラダなます」だ。
その方がお節料理の中で、ちょっと歯ごたえや爽やかさが異色で家族に喜ばれるし、塩分という観点からしても、健康的だ。

そうこうするうち、年が明けそうになる前に、年越しそばを作って、慌ただしく食べる。

最近近くにお寺さんが無くなり、風向きによっては、除夜の鐘の音も聴こえなくなってしまった。
一日フル労働していたために、疲労困憊した状態で、「あー、そろそろカウントダウンしているねー」などとさしたる感激も無く年明けを迎え、結局炒り鳥ときんとんを作るのは、新年になってからという有様だ。

だから、私にとって、年末は「駅伝マラソン」のような過酷な毎日なのであるが、この駅伝は、バトンを渡す次のランナーが、他ならぬ自分であるということが、最も過酷であることの所以なのだ。

そして朝4時頃やっと寝床につき、「ああ、今年も何とか終わったー!」などと思いきや、そうでもなく、次の元旦の朝は、これはこれでパン食の朝食に比べたら、雑煮を作りながら、お節を非日常的なディスプレイでセッティングしなければならない、という激務が待っている。

そしてやっと、食事を始める、この時初めてまずはほっとする。
やれお餅が焼けたか、白髪ネギは何処だとか、柚子を入れたかとか、お茶も欲しいとか、スプーンをとってとか、こういう細かな期待に応えながらも、もうここまで来れば大きな山は越している、という気持ちになっている。

お屠蘇のワイングラスに、後ろのキッチンが映り込んでいるのを、実に満足して、見る。

ここまでしなくてもいい、或いはしたくない、という気持ちももちろんあって、思案もするところなのだが、去年私は、ある理由で年末年始の家事を全くやれなかったのだが、そうしたら、正月というものが、非常に希薄で、殆ど無かったのだ。

私は驚いた。正月というのは、やることのいかんに拘わらず、「元からある」ものだと思っていたからだ。

確かに世間一般には、普通「正月」というのは、元から、厳然としてあるのかもしれない。
しかし私にとって、正月と言うのは、大きな一括りの、抽象的なものではないのだ、ということが、しみじみとわかったのだ。

私は私を、家族思いの良き主婦だなんて、微塵も思っていない。
主婦として生きるには、最も不向きな女なのではないかと思っている。
その証拠に、何十年ぶりかで会った若い時の友人が、何度も言ったものだ。
「結婚、しないかと思ったよー」「子供産まないと、思ったよー」・・ハイハイ。

でもそんな私の不器用な手が意志の力に引っ張られ、辛抱強く切り続ける大根なますとともに、「正月」がやって来る。
小さかった息子が喜ぶから、バターと牛乳でサツマイモを煮るのが定番になった洋風きんとんとともに、「正月」はやって来る。

いつも放棄しているがために、余計に感動する、磨かれた窓ガラスから迫って来る風景とともに、「正月」はやって来る。

玄関や窓辺に飾る、ささやかな千両や水仙の周りの淑気から、「正月」はやって来る。

「神は細部に宿る」じゃないけれど、こうした小さな生活の片鱗ともに、確かにそこには大きな正月、というものの気配が、立ち現れてくる。

「自分でやったこと」の集積が、正月となって、自分に返ってくるのだということを、私は知ったのだ。




葉牡丹や自堕落を許してをりぬ



破魔弓をひとりで持ちて向かい風



水仙や水に乱れている光



悲しめば悲しみ終わる寒の星



寒星や遠きもの何故懐かしく



煎餅の音立てている初日かな








明けましておめでとうございます。
本年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。






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冬の雲

冬の雲

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今日の1曲/Blue Mitchell / When I Fall in Love




冬雲を映して過ぎぬバスの窓



冬雲の散りて金剛力士像



冬雲を追えば鳥影ひとつあり



昼月を残して流れ冬の雲



冬雲や帽子目深に被りゆく



冬の雲人付き合いは苦手なり

「冬の雲」とひと言で言ったって、ピンからキリまである。
どちらかと言うと、写真のような雲ではなく、もう少し暗めの、どんよりとしたものの方を、真っ先に想像するのではないだろうか。だが、空が殆ど見えないとくれば、それは「冬曇り」という季語の方が相応しいということになる。

また、写真のように、冬晴れの日の、縁が銀色に輝いているような明暗のコントラストの高い雲もまた、冬独特の風物詩だ。
空気中の水蒸気が少なく、乾燥しているところへ、オゾン層の破壊もあって、昨今の冬の日差しは、射るように鋭い。
冬晴れの日の雲たちは、晴れやかで、力強く、堂々としている。

今回の俳句の中では、「帽子」と「人付き合い」の句が、どんより冬雲のイメージで詠んでいて、他のものは、今日見た派手な冬の雲のイメージで詠んだ。でも「鳥影」の句は、どちらでもいけるイメージだ。

それにしても、「季語」というやつは、強引というか、アバウトというか、間口の広いものである。

どんよりとした冬の雲、晴れやかで豪奢な冬の雲、はんなりと薄い冬の雲、ぽっかりと呑気な冬の雲、あらゆる「冬の雲」を内包していて、その句その句によって、季語以外の部分を読んで想像するわけだ。

それを言ったら、「冬の空」「冬の夜」「冬の朝」「冬の雨」「冬の海」「冬の山」など、もう切りがないと言ってもいい。

しかしこの恐ろしい程の簡略化、この単純化が、それゆえにシンボリックな働きをするのではないだろうか。

似たようなことを前にも書いたのだが、対照性が分かりやすいので小説と比べると、小説の場合、読むものは自分の中の過去の体験の蓄積を参照しながらも、書き手の描いた世界のディティールの中へ、時間をかけて、じっくりと入り込んでゆく。
これがまた小説を読むことの醍醐味でもあろう。

しかし、「俳句」という世界で一番短い詩は、殆どの場合、それを読む者の過去の人生の中から、「ああ、これは分かる」「ああ、この感じ」「これは何処かで知っている」というような、「既視感」を呼び起こすのではないだろうか。

「季語」というもののシンボリックな働きによって、それが一種のフックのように、読む者の経験の方から、自分なりの、「冬の雲」や「冬の空」を記憶の中から吊り上げる。

それは、もしかしたらその句の詠み手の思い浮かべていた「冬の雲」とは、かなり違うものかもしれない。
だが、そこは俳句の懐の深さで、読み手の自由を許す広い空間を持っている。

小説の世界からすると、読み手の過去の経験を生かすパーセンテージが高いということだ。

ここが俳句の面白さだと思うのだ。

小説は書き手の構築した緻密な世界の方へ、読み手が大きく移動していかなくてはならない。
しかし「俳句」というものの、「季語」というものの、ミニマムでシンボリックな性質が、逆に読み手の人生の方へ大きく流れ込み、詠み手と読み手の経験が合流する。

こんなにも短い詩形が、そんな自由な大きな空間を、持っている、そのことが、時々不思議になるのである。






寄せ鍋やあれやこれやとあった年



花八手言わねばならぬことは言う



冬薔薇言ってはならぬことを言う



冷たくて甘き孤独を蜜柑かな



湯上りの湿疹痒し冬銀河



冬灯さっき見ていた夢の底



我が窓もまた寒燈のひとつかな







いよいよ今年もあとわずかな日を残すばかりとなりました。
5日ごとに更新していたのが、今は6日ごとになり、仕事が忙しいと7日になったり、色々なのですが、いつも見に来ていただいている皆様のおかげで、励みとなり、続けることができました。
来年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。

良いお年をお迎えください。平和で明るい年でありますように。






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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