万緑・緑陰・花菖蒲など


DIC川村記念美術館

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また佐倉市の川村記念美術館に行ってきた。
自宅から車で30分くらいなので、手軽に自然に触れたくなったら、ここがお気に入り。
展覧会の方は、気に入ったものをやっているときだけ見る。広大な庭園が大変美しいから、緑のシャワーを浴びたくなったら、ここに来る。

自然の雑木林などを生かしながらも、造園の素晴らしさは心に残る。
ちょっとした坂道の勾配や小道の曲がり方、小さな小川の誂えかた、木々や花々の配置。
全てが五感に「心地よい」のだが、作り込まれすぎてはいない。

それから、お気に入りのわけは他にもある。
これだけ自然の中でも、2か所にある野外トイレがとても綺麗だという、ちょっと変わった理由なのだ。
自然公園などで、一番辟易するのは、トイレである。
これだけ自然の中で遊べて、野外に洋式の清潔なトイレがあるというのは、とても嬉しい。
膝が悪い人など、感涙ものだと思う。
美術館の建物も、サイロのような、お城のような・・・なにかほっとするし、郷愁を感じる不思議な建物。





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噴水のある池には、白鳥がのんびりと浮かんでいる。(白鳥写っていなくてスミマセン。)


とどこおるもの無く噴水美しく


噴水の彼方の月日かき乱す



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大賀蓮で埋め尽くされている池に、コローの風景画のような大木。この、和風でも洋風でも一辺倒でないところが好き。
夫が忙しかったので、来るのが5月下旬になってしまったら、全ての花の端境期。(笑)
躑躅は大方終わり、見事な藤棚は完全に終わり、大賀蓮はこれから、紫陽花もいーっぱいあるけど、まだ蕾。
「ここに紫陽花が、ワーッと咲くね」「ここに蓮がワーッと咲いたら凄いね。」「ここに藤がわーっと咲いてたんだね、これだけあったら壮観だっただろうね」。などなどと、「花の亡霊」のオン・パレード!
でも、ま、これだけ新緑を湯水のように浴びられたんだから、いいか。
それから、そういう時期だから、混んでいなかったのも良かった。



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初めて出会った花。清潔感があるけど華やかで、とても気に入ったが名前がわからない。後で調べたら、「カシワバアジサイ」という北アメリカ東部原産のアジサイの仲間だそう。どおりで葉っぱがカシワに似ている。



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疲れたらここで一休み。最高の休憩所。
椅子とテーブルがあるので、コンビニで買ったものを広げてお昼にする。
特にここのトイレはキレイ。デパート並み。自販機も、5月でも冷たいものばかりでなく、紙コップのホットコーヒーなどの飲み物もあるので、冷たい飲み物が苦手な私にはありがたい。
新緑のシャワーの中で、ゆっくりする。



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これぞ「緑陰」。鬱蒼とした木々が無限に重なり合っている。


緑陰を言葉少なく通りゆく


緑陰に鎮まれるもの騒ぐもの



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これは「ガマズミ」の花。なんかおっとりしてて、いいな。5月に咲いていたが、夏の季語には無かった。



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どくだみ。十薬。白い花は可憐でストイックな感じ。


十薬や日陰に憩うもの多き


十薬や身辺整理の日々続く



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花菖蒲。アヤメ、カキツバタなどと似ていて分かりにくいが、これは花びらの根本に黄色い色が入っているので、花菖蒲だと思う。まだ「はしり」で、4,5本にしか出会えなかった。それにしてもインパクトのある紫。



風を切る如き色なり花菖蒲


立ち上がるひとりまたひとり花菖蒲


花菖蒲アンドロメダは旋回す


花菖蒲ピカソの女こちら見る




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万緑の中に、ヘンリームーアのブロンズ像がある。


万緑や奥へ奥へと揺ぎなく


思い切ることも万緑新しく


万緑やブロンズ像は昏睡す

私は2次元の女なのである。と言って、別にお化けではない。絵を描いたり、平面のデザインをするのは好きだったが、粘土や工作など、立体の創作はまるでダメ。陶芸とか、あと料理の盛り付けなどもダメ。生け花、フラワーアレンジメントなども全く苦手である。
一枚の平面の中での色彩や配置は、あーでもない、こーでもないとこだわりにこだわるが、かたや立体となると、何処を高くして、何処を低くし、何処を出っ張らせて何処をへこませたら格好が良いのか、とんと勘が利かなくなってしまうのである。
だから彫刻というものの得意な人を、非常に尊敬しながらも、よその星の人のように、思っているところがある。

ヘンリー・ムーアのブロンズ像も、これを見て考えていたのは、どういう手段でこんなに大きく重たいものを、ここまで運んで来たのだろう、ということと、この広場の中での置き場所を、一体どうやって決めたのだろう、などという姑息なことなんである。

3Dソフトなんてものがあるのだから、それを使って、何処に置いたら最高の眺めか、シュミレーションして決めたのかもしれないが。

このブロンズ像は何に見えるだろう。

私には、ちょっとうつむいて、考えている人のように、見える。
悲しんでいるようにも、見える。
何かをじっと聞き取ろうとしているようにも、見える。

そしてまた、チェスの駒のようでもある。

もしや、草木も眠る夜真っ只中、万緑の森の後ろ手から、のっそりと巨人が現れて、ヘンリー・ムーアのブロンズ像を、ひょいと掴んだのではないだろうか。
そしておもむろに、広場のとある場所へ、チェスの駒さながらに、置く。
「いやー、そこじゃないな・・・」
こちらで応じているのは、美術館の館長だ。「もっと、右、右だよ」
巨人がブロンズ像を動かす。
「いやいや、行き過ぎ。もうちょい左だ!」
巨人はイラついてくる。
「うーん、うううーん!」巨人がため息をつくと、大きな風が巻き起こる。
「もう少し手前、手前だよ、君、わからんかね、手前!」

巨人は怒る。
「ぶぅぅぅぅぅうううう!」
そこいらじゅうが、竜巻に巻き込まれてしまう。

などという埒もない白昼夢が、ほんの一瞬私の理性を麻痺させてしまうのであった。







緑夜かな猫も信号渡りをり

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深夜夫と二人で車で帰宅する最中のことだ。
ハードスケジュールだった一日で、二人とも疲れ果てていて、無口になっていた。
後5分くらい走れば家、という辺りで、交差点の信号で止まった。
交差点周辺はキャンパスなので、緑も多く、5月の夜の伸び伸びとした夜風に、木々が気持ち良さそうにざわめいている。11時頃だったこともあり、人影はほとんど見当たらなかった。

ふと見ると、横断歩道を渡っているものがいる。人間ではない。

目を凝らして見ると、なんと黒猫が一匹、信号が青になったそのタイミングで、私たちの車の目の前の、横断歩道を
真っ直ぐに渡っているではないか!

ゆっくり歩いていくのではなく、すっ飛んで走るのでもなく、時々見かける、「小走り」という感じ。
あの、何となく足の数が倍になって見えるくらいの、「スタタタタタタ・・・」、という軽快な「小走り」なんである。

私は夫と顔を見合わせて、思わず笑ってしまった。
「猫が、猫がちゃんと信号渡ってるー!!!」
「どうして信号が青になったの、わかるわけ?」

興奮すると、あらぬことを考えてしまうものだが、よくよく考えてみると、猫なんだから、信号の青だの赤だのわかるわけない。たまたま横断歩道のところで、待っていたのだろう。
あっち側へ渡りたいなー、と思っても、車がビュンビュン走っていたら、そりゃ猫だって、じっと待っているというものだろう。
そして、急に車達がピタッと止まってくれたのだから、「さあ、どーぞ、渡っていいよ」って言われたように、思ったとしても無理はない。

「よっしゃ」
という感じで、「スタタタタタタ・・・・・」と横断歩道を渡っていったのでしょう。

で、でも、もしや「この白い線のあるところからなら、時々あの怪物たちが皆止まってくれるんだよな」、なんて考えていたりしたら・・・スゴイ。・・・コワい。

それにしても、こんな小さなハプニングで、私達はとても良い気分になった。
少なくとも、今日起きたことの中で、一番素敵なことだった。
これで二人の疲労は、半分くらいは回復した。






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姫女苑・クローバー

やはらかき星を歩けばクローバー

クローバーは春の季語。白詰草(シロツメクサ)・苜蓿(ウマゴヤシ)とも言う。まあ、春の季語となるとできれば四月に詠みたいところだけれど、今年は四月が寒かったからか、うちの近所では今真っ盛り。上を見れば新緑が爽やかな緑をまき散らし、下を見ればシロツメクサや姫女苑がゆらゆらと風に泳いでいる。
こんなに美しい季節はやはり五月をおいて他にない。

街中に住んで、いつもおんなじアスファルトの道を歩いていると、すっかり忘れてしまうのだ。
この地球が優しい土と草に覆われている、とてもとても柔らかい星だということを。



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うら若きふたりの距離やクローバー

クローバーの咲き乱れる公園の中を大満足で散歩していると、30メートルくらい先に、若いカップルらしき人影がこちらへ向かって、歩いて来るのがぼんやり見えた。
何せ視力が落ちている今日この頃。老眼の度も、そばのものは壊滅的に見えないが、遠くのものはクリアに見えていたのに、このごろはすっかりだめで、遠くのものもぼんやりしてきた。老眼の他に、遠視も進んできたと言われたのだが、不便なものだ。

だがどうにも眼鏡というのが性に合わない。ずっと視力が良かったから、老眼が始まるまでは、眼鏡の世話になったことはなかった。眼鏡を長時間していると、皮膚が弱いので、鼻の横に黒っぽい痣のようなものができてくるし、パソコン作業や読書の距離に合わせて、2つの眼鏡を作ってあるが、しょっちゅうそのどちらかを探している。
たまに、主人が笑いをこらえながら、眼鏡を二つかけている、と教えてくれる。
つまり、一つは頭の上へ乗せたまま忘れて、もう一つかけてしまうのだ。

二人は、まだ15,6歳くらいの雰囲気だ。
それは、ぼんやりとしていても、わかる。 服の雰囲気と、1・5メートルくらい、互いに横に距離を置いて歩いている、ちょっとぎごちないその感じで、わかる。
まだカップルと呼んでいいかわからない、でもただの友達ではなさそう、そんなうら若い、二人なのだ。

ところが、ん?なにか、女の子が不自然な挙動。
あれ、目を拭いている。涙をぬぐっているのだろうか?微妙に男の子からの距離が遠くなったり、またまた近くなったりしながら、フラフラ歩いて来る。 まるで酔っぱらっているかのよう。

えーっ!?泣いてるのかな。 あんなに若々しい二人が、まさか別れ話? まだ早いんじゃない?
いや若いカップルだって、カップルというからには別れることだってあるだろう。初恋は実らないというではないか。
でなけりゃ、男の子がもう一人付き合っている娘がいるとか。あんなに若いのによくやるなあ。

可哀想に、女の子はついに両手で顔を覆ったりしながら、歩いている。

さてどうしたものか。  私はこのまま直進するのが気まずかった。
少し二人の来るであろう方向から右側にずれて、それでも引き返すわけにもゆかず、そのまま前へ歩いて行った。

二人は相変わらず距離を広げたり、縮めたりしながら、特に女の子は立ち止まったり、また歩き出したり。よっぽどまともに歩けないような心理状態なのだろうか。

しかし私と二人の距離がいよいよ縮まってくると、全てのことが、明るみになった。

男の子は、ごく優しそうな顔立ちでにこにこしていて、相当面白いことを言っていたのだろう、女の子を笑わせていたのだ。女の子は、あまりの可笑しさに耐え切れず、涙を流して笑い、まともに歩けず、よろよろし、不自然な歩き方になっていたのだ。

なーんだ! 全く、人騒がせな視力だ。
私はほっとして、道理で、あの二人の初々しい距離感に、別れ話はどう考えても不自然だ。そう思った。
あの距離感は、まだこれから、新しいものが始まっていく、そういう可能性に満ちた距離感なのだ。

あの二人は、これから恋人同士になるのだろうか。   うーん、それは誰にも分らない。



木漏れ日の斑母子にクローバー

別々に生きてきた二人が出会って、愛が始まる。
一つの命からもう一つの命が離れて、愛が始まる。

別々だったものが、一つになったり、一つだったものが別々になったり、それが繰り返されて、きりがなくって、まるで終わりのない子守歌みたいだ。










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缶蹴りの鬼に夕暮れ姫女苑

姫女苑。そんな名前を意識もしなかった。子供のころ、いつも身近にありすぎた花だから。
お決まりの遊び場になる小さな空き地、ブロック塀の周り、校庭の裏庭、高架線の下の日陰、歩道の敷石の細い隙間、ありとあらゆるところに、この花は咲いていた。

でも、ひょろひょろした頼りない茎のせいか、白くか細い綿の糸のような花びらのせいか、どうも心細かったシーンにイメージが呼応する花だ。


姫女苑少女のこころに高き塀



姫女苑みるみる日陰に吞み込まれ



姫女苑不安不安と風に揺れ



瞬きをするたび闇に姫女苑



姫女苑迷子のままに年を取り

9歳くらいだったと思うが、マンションに住んでいる友達の家へ一人で遊びに行くことになった。
その時代、マンションなどというものに住んでいる友達は、後にも先にもその子だけだった。
大抵の家は木造の平屋だった。だから否が応でも期待は膨らんでいた。

しかし彼女の家は、駅の向こう側の町で、その年頃の自分は、そちらの町内へ一人で遊びに行ったことは、まだなかった。冒険だったが、地図も書いてもらったし、なにせ「マンション」というものに興味深々だったから、一人で行ってみることにした。

当日、駅を越えて、緩やかな坂を私は登って行った。期待でわくわくしていた。
そして教えてもらったマンションについた。ここに間違いない。

ところが!
全く思いがけないことが降って湧いた。

「エレベーター」、それも自分で運転する「エレベーター」に乗らなくては、5階の彼女の家にたどり着かないのだ。最も後で考えれば、どこかに階段があっただろうに、それさえ頭が回らなかったのだ。

その時代、「エレベーター」なるものは、デパートにあって、蝶々のように綺麗な大きなお姉さんがすべて誘導してくれるものと、相場は決まっていた。
個人宅とエレベーターなんてものは、全くのところ、イメージが結びつかなかった。

私は怖気づいた。
一体どうしたものだろう、どのボタンを押して、どうエレベータを呼んで、中へ入ったら、まずどうすればいいのだろう。もし閉じ込められて出てこれなくなったら、どうしたらよいのだろう。
汗が噴き出してきた。

一人エレベーターの前で悶々としていると、帰宅してきたそのマンションの住人だろうか、優しそうな中年女性が、「どうしたの」と声をかけてくれた。私はほっとして、5階の「○○さん宅」へ行きたい旨を話した。
そして親切なその中年女性にお世話になって、やっと友達の部屋へたどり着くことができたのだ。

一人っ子だった友達は、当然の成り行きなのだろうが、大人っぽく、ませていた。

その日彼女の家で何をしたか、
ほとんど忘れているのに、たったひとつだけ、覚えていることがある。
彼女の家でお昼をご馳走になったのだが、里芋の煮物がおかずの一つに、出された。
それを食べながら、友達が言った。
「里芋って、白芽より、赤芽のほうが、美味しいんだよねー!」

私はなんだか、びっくりした。もちろん親が常々言っていることを、そのまま言っただけなのかもしれない。
だがおよそ9歳くらいの子供の言葉らしくないということが、9歳の子供にも漠然と分かったのだ。

やがて夕方になり、私は帰ることになった。
今度はちゃんと、エレベーターで下まで送ってもらった。

後は駅にたどり着くだけだ、そうすればもう、いつものかつて知ったる自分の町だ。
私はなんだか軽い気持ちになって、さっき来た坂道を、降り始めた。

だがなにか妙だった。
駅からはそれほど距離が離れていないはずなのに、駅周辺のデパートのネオンや時計台の時計が、一切見えてこない。
おかしい、いつの間にか違う道へ入ってしまったのだろうか。まさか反対の方角へ突き進んでいるのではないかしら。もしかして、違う町内へむかっているのでは?
夕暮れが迫ってきているのも、得も言われぬ心細さに輪をかける。
またもや私はじわじわと汗をかいた。必死で歩いた。真っ直ぐ行けば駅に着くはずなのに、どうしてデパートのネオンが見えないのだろうか。
不安な気持ちが夕暮れの青さと完全にシンクロしていた。
あの時の心細さだけは、今でも忘れられない。

しかししばらく行くと、徐々にいつもの馴染みのデパートのネオンが見えてきたではないか!
何のことはない、その町は坂になっていたので、
駅周辺のほうが低くなっていて、しかもその坂はカーブしていたから、なかなかそのあたりの建物が見えてこなかっただけだったのだ。

あの時の安堵感も、心細さとセットで忘れられない。
安心して、体中にどっと血が巡ったのだろう、なんだかいやにポカポカしてきたのを覚えている。


それにしても・・・なんだかこんな事を繰り返して、この年まで来てしまったような。・・・・・







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薄暑・日傘・薔薇

ウィンドにウィンド映る薄暑かな



薄暑光道間違えて引き返す



薄暑光覗けば逃げる水の我




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白日傘眠らせておく記憶かな



日傘たたみて鳥抱えゆく如く



相触れし日傘に世間話棲む







薔薇咲けばゆっくり話す電話かな

昔から不思議で、不満に思っていることがある。
何故花が咲く時に、肉眼でその動きを確認することができないのだろうか、ということだ。
もちろん花に限らず、植物の全て、青々とした草も、雲に届きたがっているような木々の枝々も、五月ともなれば、嫌が応にも大きく伸びる。
にもかかわらず、その動きは、決して人間の肉眼では見えないのだ。
人間も含めて、動物の動きは速い。その脳の活動も、神経の動きも、全てはスピーディーだ。だが植物の動きというのは、ゆったりと、目に見えないほどの遅々たる速度で、しかし確実に変化し、成長している。
そしてまた、哺乳類である人の中にも、そういう植物的な、原始的な部分がしっかりと残っていていて、そういうものが私たちの底辺をなしているのではないだろうか。
ただ、あまりにも効率の良さだけを追求してゆく生活の中で、普段はめったに意識されなくなっているのだと思う。
例えば病気になると、どんなに意識が頑張って速く回復しようと思っても、薄皮を剥ぐようにという例えがあるように、一進一退の遅々たる変化でしか、なかなか回復してゆかない。
心も同じようなものだ。
感情と心というのは、微妙に違うものだと思う。
感情というのは、動物的な意識に、1番近いところで発生している。
しかし、心というのは、その下の層の無意識に少し近いところに、ひそかな密林のように、びっしりと生い茂っているようなものではないか。
感情は、弱いものから激しいものまで、様々に発生しては台風の如く成長し、時間の流れとともに、速やかに変化しては、消えてゆく。
しかし、より深いところにある心というものに、落とし込まれ、吸収されてしまったものは、やすやすとはコントロールできなくなってしまう。
意識の上では解消したと思っていることでも、例えば同じ問題で、余りにも何度も何度も傷ついていたら、心の深いところで、確実に何かが形成されてしまうだろう。

だが、長い時間をかけて育んでいくような親密な関係もまた、こういう場所で育つのには違いない。

きっと人の心というものは、誰にも動かすことはできない。
当の本人さえもが、安易に操作できるようなものではなくなってくるからだ。





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薔薇咲きぬひとつひとつの城となり



薔薇咲いて視線逸らさぬ女優かな

女優というとイメージするのは、古い外国の映画女優達で、古すぎて名前を出すのはやめた方がいいかも、と思うのでいちいち名前を出さないが、何故か「女優というのは視線を逸らさない」というイメージがある。
ラブシーンになっても、小さな火事のような熱い眼差しで、その視線はひとたび相手を捕まえると、寸分たりともそこから逸れることはない。
あんな眼差しで見られたら、男性でなくとも、ひとたまりもなく催眠術かなにかにかかってしまうだろう。
でも考えてみれば、女優に限らず外国の人はオープンな感情表現をするから、公園などで見かける堂々としたキスシーンなどのことを思えば、映画に限らず恋人同士の間では、ああいう視線というのは、ごく当たり前のことなのかもしれない。
かたや日本人は、ここぞという時には視線を合わせない方法に傾く。大昔の大名行列しかり、高貴なものは下々は見ることさえ許されないような文化の上に乗っかって来たからなのか、視線を合わせるイコール無礼、という感覚を持っている。
身体的な動作だけではない。言葉の使い方も、それに則していて、なんとか「NO」と言わずに、「NO」であることを分かってもらうために、四苦八苦する。
なんとか「愛している」と言わずに、「愛している」のだと分かってもらうために、四苦八苦している!
つくづく遠回りの文化なのだ。ずいぶんと無駄な労力を使う国民性だと思う。

先日とあるデパートのエレベーターで、途中から乗って来た若いカップルが、どうやら喧嘩の真っ最中らしかった。
日本人ではない。大方韓国の人ではないかと思う。二人ともスラリと長身で、抜群にプロポーションが良く、ファッションもバッチリ決めている、が、その決め方は日本人の感覚ではない。少し違っている。
さすがにエレベーターに乗って来た時から、言葉は呑み込んでいる。ストップがかかっている。
しかし、その表情たるや、二人が喧嘩をしていることを、微塵も周りの世界に対して、「恥」などとは思っていない。
喧嘩真っ最中であることを丸出しのその視線は、お互いを発止と捉えて、絡み合って、見事に五分五分で動かない。
エレベーターに乗っている全員が、エレベーターの扉の方を向いているのに、彼らだけは、その真っ只中で、それぞれ腕組みをし、お互いの顔を穴のあくほど見つめ合っているのだ。

私はこのカップルが、本当に羨ましかった。
ここまでいくと、国民性云々を超えている。
ああいうビクともしない視線を交わせるのは、余程お互いの間に、信頼がなくてはできない。
信頼があるから、お互いの中にある怒りの感情に、どんな翳りもないのである。

これはなまじなキスシーンなんぞより、中々に当てられた。





一斉にに咲いても薔薇の孤高かな



薔薇咲きぬ歓喜も憂いも皆咲きぬ


「バラ色の人生」という言葉がある。
また、化粧品のシリーズなどで、薔薇を香料やイメージに使うと、決まって「幸せな〜」とかいうフレーズが頭にくっつく。
兎角薔薇と幸せは、世間ではセットになっているらしい。

しかし私の中では、薔薇は「幸せ」というイメージとは、少しかけ離れている。
もちろん何色の薔薇かということもあるだろう。ピンクや薄いオレンジなどは、そういうイメージに結びつきやすい。
だが、薔薇というのは、花びらが非常に多い花だ。
一つの花のボリュームが大きくて、重そうで、気怠い雰囲気を持っている。
「憂愁」という言葉がこれほど似合う花もない。
そして沢山咲いていたとしても、孤高である。
一つ一つの花が、完結した世界、ひとつの城のようである。

少なくとも幸せしか知らないような、そんな子供っぽい花には見えないのである。








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夏立ちぬ・聖五月・花茨

聖五月数多のひかり踏んでゆく



いきいきと爪切る音も夏立ちぬ



日向より帰し闇みどり立夏かな

すっかり陽射しの強くなったベランダで色々仕事をして部屋に戻ると、暫くの間、視界は濃い緑の闇に塗りつぶされていて、何も見えなかった。
そういえば子供のころ、この現象がとても面白くて、わざと日向と家の中を行ったり来たりした覚えがある。
しかしそれでなくともあの時代の家の中は雑然と暗く、古い卓袱台や箪笥がひしめき合っていて、特に奥の台所は暗かった。
現代の明るいリビングダイニングからは想像もつかない暗い台所で、祖母が鰹節をかいたり、糠味噌をかき回したりしているのを、そばにしゃがみ込んで、放心したようにじっと眺めていた。
考えてみれば、昭和30年代のことであるから、大人たち、特に祖父や祖母はまだまだ時代の大きな苦労を引き摺っていたことだろう。日当たりの悪い小さな家で、大人たちは黙々と働いていた。
でもまだどんな人生の目的も責任もない子供たちは、いたって呑気に毎日の生活に満足しているのだった。
家の奥のいっとう暗い台所でさえ、そこにはそこの安らぎがあった。
外の日向にはあらゆる楽しみと冒険があり、日陰の家の中には安心できる薄暗さがあった。
子供たちは戸外での健康的な遊びに飽きると、大きな木陰のような仄暗い家に帰って来て、気の向いた場所に忽ち自分の居場所を決め込んでは、拾って来た小石や硝子の丸くなったかけらを眺めたり、きりもない空想の翼を大きく広げたりしていたのだ。


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立夏かなやるべきことを一つづつ

大人になると、やるべきことは不思議なくらいいくらでもある。
しかし、この頃、とみにやるべき事を後回しにする傾向がある。その元を辿れば、何をやるにも億劫という年相応の症状が悪化しているということで、いくらでも言い訳は立つのだが、なにせ元々も、そういう傾向がある性格だから、相乗効果も甚だしい。
美容院に行って、髪を切り、染め、パーマを少しかける。
うん、そう決心したのは確か去年の年の暮れ。
そして速いもので、今や季語は立夏である。これはまずい。
まあ、美容院って嫌いなのである。
歳を取ると色々な事情から、新たな美容院を開拓する気力が無くなってくる。色々な事情って何かって?髪質を知り抜いているとか、髪型の好みを把握しているとか、トイレの近い事を了解していて作業の途中でも嫌がらないとか、そういところがモノを言うのだ。
だから、その他の担当さんとの不一致については、私は目をつぶることに決めているのだ。
どんな不一致かというと、これまた珍しいくらいに、話をしていて「通じない」、反りが「合わない」、タイミングが「ずれる」、まるででこぼこ道を歩くような会話になってしまうのだ。

こういう人も珍しい。「空気が読めない」とかよく言うけれど、そういう事なのか、いやいややっぱり組み合わせというものなのか。
これを言えば大抵笑うだろうというところでは、むっつりと大真面目に返答が返ってくる、そして割合シリアスな話にさしかかってくると、いきなり大声で笑い出す。時によってはいたく傷ついたりしてしまうのに、全く気がつかない。
面白みのある話題には説教じみた答えが返ってくるし、つまらない話は長々と独演調で聞かされる羽目になってしまう。
このリアクションの以外さは、めったに体験できるものではない。
しかし彼女のいる店内で、他の人に担当を変わっってもらうような勇気は私にはない。

他にも、あー!出さなくてはいけなかった、郵便物!
深夜ミニストップで切手を買おうと思ったら、ほとんど毎日出ずっぱりの店長らしき人が、世にも悲しそうな顔で、「すいません、無いんです。買いに行っている時間が、無いんです。」と視線を合わせずに言うではないか。
ここにも過酷な労働状況の犠牲になっている人がひとり。
それでは明日、自分で郵便局へ行こう、そう思ったのだが、明日には明日の風が吹いてしまって、それからかれこれ3日経過!

こんな調子であれこれと、銀行へ行って、お金をおろして、布団を干して、図書館に本を返却し、会社に先月のデザイン料の請求書を出し、医者に薬をもらいに行き、パソコンの不具合の原因をネットで探り、買って来たままポット苗の状態で置いてあるペチュニアを植えてやり、今夜のおかずを考え、全てが終わったら俳句を捻り、ブログを書き、・・・・!

まるで台所の排水管のように、やるべき事が集積して詰り、私の頭の中は一挙に混乱する。

こんな時、どうするか。
私は決心する。ああ、また「演劇部」をやらなくちゃ。

自分の中に滞る、やるべき事をテキパキとこなすキャラクターがいないとすれば、もう女優になったつもりで、次々に諸事を冷静にこなして行く人間を、「演じる」しかないのである。

これは意外に使える手である。
演じているつもりが案外その気になっていく。

最も想像しにくいほど、異様にかけ離れたキャラクターは無理があるだろう。そこは範囲というものがあろう。
でも考えてみれば、結婚して妻となる、仕事で色々な役割りにつく、今までに経験のない様々な事の、はじめの一歩を踏み出す時、人はどこかでこういう方法を、無意識の内に少し使っているのではないだろうか。




何取りに来たか忘れて風光る



サイダーや生きのいい過去立ちのぼる





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花茨ひとかたまりの風抱いて



花茨少女の未来あまりある



花茨家路を行けば影長く




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躑躅・新緑・柿若葉

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燃えうつる如咲きゆけり躑躅かな



白昼の風の透明躑躅咲く

躑躅というのは、マンションやアパートなど、シンプルで現代的な建築物にとても似合う。
白や黒のフェンスからはみ出しているのも、中央分離帯の中にも、真っ白なガードレールの下にも、とにかくモダンで単純な形の物の周辺に、ぴったりくるのである。
一体何故だろう。形だって、よく見れば日本的な雰囲気もあるのに。
やはりあの、空へと一気に抜けていくような、この上なく鮮やかな色のせいだろうか。
シンプルな形へ、鮮やかな色。

あの燃えるように情熱的なマゼンタの花を、直方体の硝子や氷に閉じ込めてみたくなるのは、私だけだろうか。


躑躅咲く夥しい願望の連続



また同じ化粧していて躑躅咲く






Alison Krauss - Losing You Windy City(2017) より
アリソン・クラウスはアメリカのシンガー、フィドル奏者。ブルーグラスを一般のポップスファンに広めた。
曲はブレンダー・リーのもの。グラミー賞受賞は28回で、歴代2位だそう。5月のように、伸びやかな声。









柿若葉空へ逃げ切ってゆく緑



柿若葉ポストに広告犇きぬ



躊躇なき色と思へり柿若葉


「青蛙おのれもペンキぬりたてか」と詠んだのは芥川 龍之介だが、私は晴れた日に近所の大きな柿の木の若葉を見て、「柿若葉おのれもペンキぬりたてか」と心の中でつぶやいた。
それほどまでにその萌黄色は、「派手」だった。自然の造形物とは思えないほどに、人工的なまでに鮮烈な黄緑だったのだ。
なんでも柿若葉にはビタミンCがたっぷりと含まれているそうで、レモンの10倍だとか。見れば見るほどそれらしい。見れば見るほど、美しい。

それにしても、と私は考える。
俳句をやっているせいもあるけれども、「柿若葉」なんてものにこれほど感激したりするのは、やはり50代になってからというもの。そしてもうすぐ、還暦がやってくる。

若い頃には、「若葉」だの「新緑」だのなんて、意識にたいして上らずに暮らしていた。
年を重ねて、いのちの大元の電池の残量が大分減ってきて、髪へも皮膚へも内蔵へも、どうも血の行きが心許なくなってくると、人はこういう、端々までいのちの行き渡っているものに、惹かれるようになるのかもしれない。
一方、生命力が有り余って、細胞のひとつひとつまでフレッシュな年頃には、人は時にさしたる理由もなく死や孤独に惹かれることがある。
それは本当の死ではなく、本当の孤独ではないかもしれない。
しかし生命が頂点にいる時、その熱さを中和させるために、生命そのものが本能的に、バランスを取っている、そんな気がしてならない。

それにしても、いいなあ、樹は。
年を重ねている樹でも、春ともなれば可憐な花をつけ、初夏ともなれば鮮やかな若葉がまた生まれる。
人間もこうだったらどんなに良いか。
街で知り合いに合う、そして挨拶するのだ。
「あーら、ご無沙汰しております、まあ、今年はまた随分と若返られて、まあ、なんて沢山の、ご立派な若葉なんでしょう!」
そして腰も痛まず、不整脈もなく、お肌つやつや、物忘れもすっかりなくなり、エネルギッシュに仕事をし・・・
なんてね。


20175b.jpg
これはイメージ写真です。柿若葉ではありません。


新緑の中無数の翳ざわめきぬ



新緑に追い込まれてゆく社



新緑へバイク吞み込まれてゆきぬ



あれこれと充電していて緑夜かな



ベビーカー3台続く若葉風







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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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