コスモス・秋夕焼けなど

コスモス


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コスモスや少女空への浮力持ち



コスモスの影揺れてわが影揺れず



コスモスに蒸発してゆく地平線



コスモスやほどけない愛ほどける愛




眠れば真昼がコスモスを閉じ込める



またもやというかなんというか、色々頭を悩ませるようなことが続き、毎日無い頭を振り絞ってどうすべきか考え抜いた。
シャンプーしたら、髪の分量がかなり減ったような気がして、恐ろしくなった。
その後決定的にもっと打ちのめされるようなことがあり、もっと髪の分量が減った。

毎日、やるべきことをがむしゃらにやった。
その間は忘れていられるような気がした。

しかし朝になると、自動的に脳が元に戻ってしまうのだろうか。
どんよりとした悩ましい気持ちがまた舞い戻ってくる。

このどんよりとした鉛のような心が、髪の毛根をどろどろに溶かしているのかもしれない。
うわー、考えるにつけ恐ろしい。

そんな時素足でフローリングの上を歩いていて、ふと足の裏に得も言われぬ優しい感触を感じた。

なんだろう、踏んだことのない、身に覚えのない感触だ。

そう思ってみると、日日草のピンクの小さな花だった。
ベランダに植えようと買ってきたポット苗を、玄関からベランダへ運んだ折に、一輪零れ落ちてしまったらしい。

ただそれだけのことだった。

しかし花を踏んでしまったその一瞬、私ははっきりと癒しのようなものを感じた。

花と言うものを、私は今までひたすら眺めて愛でていただけだった。
踏んでしまって可哀想だったが、花というものの、感触の柔らかさ、たおやかさを改めて思った。

家事に忙しく、その後すぐ靴下をはいた足で、また同じところを歩いてしまって、また踏んでしまった。
しかしその時にはもう、私は何も感じなかった。

あんなに小さな花の感触で一気に癒されるためには、こちらも柔らかい素足でなければ、駄目だったのだ。












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秋夕焼けなど


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我を追う我がいて秋夕焼ける


本日のBGM
 
Tears In Heaven/Eric Clapton 


エリック・クラプトンの1992年の大ヒット曲。最初私は歌詞の意味を意識せずに、ただいい曲だなー。と聞いていただけ。
自宅ベランダからの転落事故で4歳の息子を亡くした悲しみを歌ったものだとわかったのは、大分後のことだった。
当時クラプトンは悲しみのあまり、長い間家から出ることもできなかったという。
この曲とともに仕事に復帰し、悲しみを乗り越えたという。


Tears In Heaven | Tommy Emmanuel & Igor Presnyakov

こちらはアコースティック・ギター界の大御所トミー・エマニュエルとモスクワ生まれのギタリスト、イーゴリ・プレスニャコフによる同曲の演奏。

歌詞がそのままギターの音になったような、表現力もさることながら、クラプトンの曲への共感、そしてまた脇役に回っているイーゴリの表情を見ると、リードを取っているトミーへの共感、いや、もう相手も自分もない、そこにあるのはただひとつの曲の世界への共振だ

最後の方で、二人が思わず歌わずにいられなくなって、頷き合いながら小さな声で歌っているのが、なんともイイ。

イマジネーションが共感を生み、共感が繋がって、大きくなっていく。

それはあっという間に消えてしまう、夕映えと同じようなものかもしれない。

しかし、それが無くては、世界はたちまち枯渇してしまうだろう。






秋夕焼け芝居の如き街をゆく



秋夕焼け傷ついたもの皆つつむ



上り電車秋夕焼けに直進す



秋雨の静かに大地確かめる



鈴虫や指輪を箱にしまいをり



青春が密閉され林檎の真ん中



虫の闇星の夜空に釣り合いぬ



秋高しまだ見ぬものの多さかな










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葡萄・秋天・水澄むなど

葡萄


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刻一刻時の実りて葡萄かな



高き天の額より葡萄垂るる



密生すアルゴリズムの葡萄かな



葡萄裂れ迸り出る夜の四肢



かなしみは真っ直ぐに垂る葡萄かな

かなしみは、真っ直ぐに垂れる。どこにも干渉する力が存在しない。
葡萄も、真っ直ぐに垂れる。重力に身を任せるのに、どこにも干渉する力が存在しない。

もし人が捥いで食べなければ、鳥が食べるのだろう。雨風が葡萄粒を落としてゆくのだろう。
そして何度も昼夜が入れ替わり、葡萄も私も鳥も風も存在しなくなるのだ。









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秋天・水澄むなど


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本日のBGM 

Keith Jarrett Trio - When You Wish Upon a Star



秋天に紙舞い上がり落ちて来ず

今日は、はっきりと「秋になった」と確信した日だった。
といっても、暑いのは暑かった。
しかし、確実に秋が訪れていた。

暑くても、風が木綿の布のようにサラリとしているのだ。
べっとりしていない、なんていうか、身を清めてくれるような、風。

それから光の粒子が、しっとりと落ち着いている。
光がきめ細やかに、微かな重みを持っているような気がする。

そして、地上のものはしっかりと沈下し、天のものはすっかり高みへと遠ざかる。

こんな日が、記憶の中のそんな日を一挙にかき集める。

今日の秋の光のその角度の中に、私が見ているものは、またあらゆる過去の同じような日の、秋の光なのだから。


秋天や列車出てホームは無人



チェンバロがひかりの螺子を巻く秋天



虫の闇我も沈める船となり



人待てば火照ってをりぬ虫の闇



モナリザの微笑の後ろも秋高し

これは、本物のモナリザの絵の通りでは、ない。
本当のモナリザの絵の背景は、まあ秋っぽくないわけではないが、もっと湿気がありそうだし、この世かあの世かわからぬもやーっとした怪しげな感じがあって、あまり「秋高し」という雰囲気ではない。

でもこれはモナリザの絵を写生した俳句ではない。
何となく秋っぽいモナリザの微笑みと、「天高し」という季語の、両方のコントラストを利用した、俳句の中の自然現象を作っているものなのだ。

俳句の中の力学が、現実の力学とおんなじ、というわけではないのだ。



秋晴れのような嘘つくおとこかな



柘榴落つ馬鹿野郎という言葉



私とは誰なのかしら水澄みぬ



水澄みて滑らかな幾何となりゆく



その昔風だったことのある蜻蛉



思案とは林檎の中の虫の道



うつくしき引き算となり秋の空

春、夏というのはイメージとしては「足し算」だ。
伸びてゆく草木、増えてゆく花々、暖かくなり、やがて暑くなって、上昇してゆく温度。

秋は、そうなれば「引き算」だ。
低くなってゆく温度、湿度、少しづつ木々の緑の厚みが薄れて、花もどちらかというと秋のものは地味目である。

しかし引き算の大気のどれほど透明で心地よいことだろう。
そして花を終えて、充実した実を結ぶもの達。

この上なく豊かな余剰、美しい、引き算。

ひとの秋もできるだけこう行きたいものだが、なかなか。












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曼殊沙華・秋アラモード2

曼殊沙華

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空の青祀り上げたり曼殊沙華



睡るもの地に層なせる曼殊沙華



曼殊沙華つかむ虚空の涼しさよ



曼殊沙華古き白黒写真の中



暮れゆきて遠きネオンや曼殊沙華

曼殊沙華には沢山の別名がある。ご存知の彼岸花のほか、死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)など、あんまりだ、という不吉な感じの名前ばかり。

球根には毒があるというが、水で何度もさらすと無くなるので、昔の人は飢饉の際のデンプン源としていたという。

それにしても自然の造作とは思えぬ見事な造形である。
混ざり気のない「赤」だから、見れば無条件に「ドキッ」とするが、よくよくその形を見れば、全てが曲線で構成されていて、優雅で繊細だ。

私はこの花を見ると、浮世絵を思い出す。

歌麿や国芳、春信など、どうして浮世絵の中の人々は、あんなにどこからどこまで、曲線だけでできているのか。
色彩がいまひとつ地味目なのは、植物性の絵の具しかなかったからだというのは、分かる。
でもあの人間たちのシルエットは、極端に柔らかく描かれていて、軟体動物のように不気味である。

日本に来たことのない外国人が、昔あんな絵を見たら、日本人には骨と言うものが無いのか、と思ったりしなかったのだろうか。

曲線ばかりで描かれた浮世絵の、かんざしだらけの女性のような、柔らかくて哀しい雰囲気、そんなイメージを、私はこの花に、持っている。












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Eva Cassidy - You've Changed
フォーク、ロック、ブルース、ジャズ、どんなジャンルの音楽でも独自の解釈でソウルフルに歌い上げるエバ・キャシディ。曲はビリー・ホリディのもの。











秋アラモード2


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眠り入る我は銀河と平行に



蛇口から水漏れている銀河かな



瞬けば花野が消えてしまいそう



しあわせはどこかが麻痺す花野かな



かかわりにならぬがよろし秋の雲



秋風や四肢水平に伸びゆきぬ



コスモスや考える筋肉弱る



手放してゆくもの多しコスモスや



過去のこと過去に帰りぬ秋の風



秋夜長ドラマ見ている百面相

深夜家事がすべて終わった後、ダイニングキッチンのいつもの自分の席に座ると、ちょうどその位置から違う部屋、今は主に夫が使っている奥の部屋の一角が見える。
そのほんの10センチくらいの視覚の中に、私の見たことのない夫がいる。

その時間、夫は大抵布団に寝そべって、お腹の上にノートパソコンを置き動画を見ている。
映画かドラマかわからないが、そういうものを見ている時間が、彼の黄金時間のようである。

私が驚いてしまうのは、夫の表情が、私には見せたことがないような、豊かで繊細な、色んな顔をする、ということなのだ。

本当に、結婚以来見たことのない、色々な顔。
まるで奇妙な隠し事でも発見したかのように、私は驚く。

だって、そう言っては何だけど、私は彼の、大体5パターン位の表情しか見たことがないのだ。
笑っている顔、怒っている顔、適度に機嫌のいい顔、戸惑っている顔、ごくたまに塞いでいる顔。
だいたいがこんな感じで、いつもの夫の、いつもの顔。

だがドラマを見ている時の夫の顔は、繊細かつ微妙な表情で、秋の夕焼けのように、刻々と変化するのだ。

ニコニコしていたかと思ったら、眉根がかすかに曇って来る。
怪訝そうな顔色になって来たかと思うと、そのまま目には同情と心配の色がありありと漲って、眉は八の字に下がり、今にも涙が浮かぶのでは、というような表情へと変わってゆく。

えーっ、あんな顔、するのー!

ここですかさず私はムラムラっとくる。
何故って、私の身の上にも、ほんと色んな事があったのだが、いまだかつて、あのひとのあんな視線を浴びたことはないのである。

あの共感に満ち満ちた、心配そうな視線!

そうかと思えば、限りなく優しい顔になり、その柔らかな視線はあたかも秋草を撫でてゆく微風のよう。
その風が、キラッと光ったと思ったら、まあなんて、芯から嬉しそうに微笑むではないか。
混ざり気の無いひとの心の表れた表情というものは、これほど印象的なものなのか。

それから、ああ、これも初めて見る顔だ。
何かと何かに葛藤、している顔。
憎しみと悲しみ、或いは憤りと諦め。相反する感情に引き裂かれ、葛藤している、こんなに深い大人の表情を、私は現実の夫の顔に上に、一度たりとも発見したことはないのである。

2人で話している時に、よく私の言うセリフ。

「ねえ、聞いてる?」。「聞いてるよ」。

しかし話には返事がないことも結構ある。
話は聞いてくれているのだろう。しかしそのレベルというものがあるだろう。

私という川の、水面に近いところで、彼はコミュニケーションしているのだ。
その下の、深いところまで、あまり降りてくることが、無い。

でも人間なんてこんなものかもしれない。

夫の知っている私と、私の知っている夫でコミュニケーションしているだけだから、それは途方も無く、お互いの現実から、遊離しているのかもしれないのだ。まるで木霊の木霊のようだ。

ひとりの女性の心を掴むのは、そんなに難しいことではないと、私は思う。
時にはその女性の話を、心底共感して、聞いてあげること。相手の心の前に、じっと立ち止まってあげること。

それはかならず相手に伝わる、そう思う。










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桔梗・秋アラモード

桔梗

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すみません、リンク切れでご迷惑おかけいたしました。2度手間で申し訳ありませんが、「桔梗」はこちらをご覧ください。


きちこうや地球の半分いつも夜



桔梗咲き人みな別れゆく夕べ



きちこうや片恋はどこまでも奇数



きちこうが月までの距離を測る



男の背扉がありぬ桔梗かな



きちこうやほしのひかりがとんがりぬ

この句はかなり誤解されやすいかもしれない。
桔梗というのは考えてみれば星型だ。
しかも花びらがとんがっている。
だから誤解されたらされたでそれは仕方のないものが俳句というものだ。

秋めいてきて、星々のひかりも何となくとがってくるような感じが、桔梗と共存していると良い、そんな雰囲気を表現したかった。

でも後から気が付いたら、桔梗の花の星型、とんがり花弁。
やっぱりこの句を詠んだ人は花の形の句だと思ってしまう方が多いんだろうなあ。

私は、桔梗という花を思うと、どうも宇宙だの星だの、月だのという方にイメージが広がってゆく。
一体なんで?と今回よくよく考えてみたら、あの「色」なのだ。

青紫~紫。
物凄く神秘的なオーラを放っている「色」なのだ。

それが宇宙の神秘と絡み合ってゆくらしい。

他にもタロットとか、古代文明とか、謎めいているもののイメージに、吸い着いていくようだ。











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秋アラモード



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本日のBGM Bach's Goldberg Variations Glenn Gold.1981 record(BWV988)

グールドの秋のバッハの螺旋かな

30代の頃、グレン・グールドのピアノが好きで時々聞いていた。
バッハのゴールドベルグ変奏曲は1981年に録音されているものだが、
残念なことにグールドはこの録音をした翌年には亡くなってしまう。

この曲を聴くと、私はいつも「秋」という季節の透明感に思いを馳せた。これほど秋にぴったりの曲はないと思っていた。

しかし現在この曲を聴いて私が心に浮かべるのは、「白秋」という言葉だ。

人生の各々の年代を季節になぞらえて、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」というのはご存知の通りだが、ちなみに「白秋」は、50代後半から60代後半あたりだそうで、うーん、まさに今、という感じ。
よく聞いていたのは30代だったのだけれど、今聞くとその時よりも自分の心にフィットしてくる。

この澄んだ水の中を、果てしなく螺旋を描きながら沈下してゆくような、また透明な風の中を、天空へと螺旋を描きながら果てしなく搭の中を登って行くような、どこまでも内省的な音。

言ってみれば「静かに深く自分というものに耳を澄ましている音」なのだ。

だが、奇しくも最後の録音となったゴールドベルグ変奏曲は、また彼のデビュー曲でもあった。

1955年に録音されているゴールドベルグ変奏曲は、81年録音のものとは、全く別物のように、表情が違う。
軽快なアップテンポ、バッハらしからぬロマンティックな雰囲気、春の驟雨にわけも無く胸がはやるような、まさにこれは「早春の光に満ちている」音。

グールドが23歳の時の録音だ。

Bach's Goldberg Variations (V5)(1955) complete by Glenn Gold

そして今私は、やはり「白秋」の真っ只中にいるのだろう。
55年の録音のものも、これはこれで素晴らしい。
でも、81年録音のゴールドベルグの透明感の方が、よりしっくりとくるのである。



三日月や何処から見ても物語



途切れれば闇の巨大や虫の声



新涼に初めて通ってみる路地を



しばらくは喋りたくない秋日傘



忘れゆくものの大きさ秋の海



だんだんと無口になりて葡萄食ふ



秋の夜ギリシャの壺の中もまた



鰯雲どちらの道を選ぶべく



鰯雲空の面積思い知る










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狗尾草・晩夏アラモード

狗尾草

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それらしい言い訳考へ猫じゃらし



猫じゃらしわたしはわたしに矛盾する



雑用に明け暮れてゐる狗尾草



陽を吸へる狗尾草を見て帰る



狗尾草まだ飼い猫になり切れず



猫じゃらし愛想出さずに尻尾出す

近所で、餌だけ貰って、その家の玄関周りにたむろしている半野良猫?外猫?達が、そういってはなんだが、全然可愛くない。

ちょっと呼んだりしても、「ふん、お前は何か持ち合わせがあるのかね?」みたいな顔をしている。
1メートルまでは逃げないが、50センチまで近づくと、やはり逃げてしまう。

思えば実家では猫がいないことはほとんど無かった。
いなくなっても、すぐに私がその辺の野良猫をなつかせてしまった。
若い時、私はあの柔らかな猫の背や、頭を撫でて暮らしていたのだ。

しかし、いつでも悲しい別れが訪れた。
病気で私の部屋で亡くなった猫もいたし、どこかへ行ってしまった猫もいたし、街に住んでいたから、交通事故も多かった。

その度にもう猫は飼うまい、と固く心に誓うのだった、が。

今になって、ふと思う、あの猫たちは、今何処にいるのだろう。
何処にもいないってことは、あり得ない。

だってこれだけ私の記憶の宇宙にいるんだから。

最も、猫だけではない。
いなくなってしまった、大事な人達、無くなってしまった、懐かしい場所。

今はもういない、色んな人達、色んな場所、色んなもの。

何となく思うんだけど、今いるものに、今いないものは、組み込まれている。

ジグソーパズルのように、色々なピースで私の周りは埋め尽くされている。
実在しているものも、実在していないものも、かつて実在していたものも、私の周りをぎっしりと埋め尽くして、いる。

さしたる理由も無く、そんな風に感じる時があるのだ。








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晩夏アラモード

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新涼やもの考える人の顔



秋夕焼け今日も両手にレジ袋



行く夏にいつも何かを置き忘る



秋暑し恋はゆっくり解体す



わだかまり持て余しつつレモン買う



蛇口思い切り捻れば秋夕焼け



吾の中の少年少女の晩夏かな



梨食ふや月夜のすべり台降下



稲妻やどっちつかずな我の前



虫の声闇洗われてゐる如し



かなかなや小刻みに我の奈落へ

この句は、最初はこうだった。「かなかなや 小刻みに恋の奈落へ」。
どちらでも成り立つとは思ったが、なんにせよ気が引けた。

ゆっくり解体していくような恋について詠むのは、この年になると実に現実的で気が引けないのだが、ゆっくりと熟成してゆくような恋について詠むのは、なんだかもう気が引けてくるのだ。

でも若い人が読んでくれて、「そうそう」なんて思ってくれたら嬉しいし、やっぱり「恋」でいいにするかと思ったり、かなり迷った。

22歳の、俳句なんぞ全く興味無い息子にどっちがいい?と見せたら、「我」だという。

同じ奈落でも、「恋の奈落」と「我の奈落」では雲泥の差である。
「恋の奈落」なら、少しづつ、少しづつ上昇してゆくのだけれど、「我の奈落」だったら、少しづつ、少しづつ、確実に落下してゆく。

でも「我の奈落」というのは、矛盾しているかもしれない。

なぜなら、奈落というからには、もう「我」などという範疇をとうに超える境地に達してしまうと思うからだ。
「我」というバケツの底が抜けて、空だの風だの、花だの木だの、虫だの魚だの、森羅万象と渾然一体となっているような場所、そういうものが奈落というものでは、ないだろうか。

それならば、「恋の奈落」でなくったって、別段それほど救いようがなく寂しいものではないということだ。

ここまで考えて、ふと立ち止まった。

いや、そんな風に思うのは、確かにこの年になったからではないだろうか。

若い頃、特に10代の頃なんぞ、自分は本当に激しい孤独の空洞を、確かに持っていた。
それはバケツどころではない。
長い長いトンネルのような、そんな救いようの無い孤独だったのだ。
底は空いていたかもしれないが、10円玉くらいの穴が開いて、うすぼんやりと光でも射していた程度だったに違いない。

それが今となっては、バケツの底はすぐそこだ。

そして、バケツの底が抜けた向こうは、果てしなく豊かな、森羅万象の奈落なのだ。











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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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