雪柳・春の闇

雪柳・春の闇

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本日のBGM/Maurice Ravel / Piano Concerto in G major, II. Adagio assai


鏡の中にひかる鏡や雪柳



街灯の影は寡黙に雪柳



雪柳この頃髪の細くなり



雪柳小数点以下切り捨てず



雪柳はっきりと覚えている夢



雪柳眉描きながら思ふこと



オーケストラの音なみなみと春の闇



春の闇2番線ホームの末端に



春の闇我を家まで運びをり

春、日の落ちた後に出かけると、なんとも体中の力が抜けてくる。
夕闇は温い湯のように私の毛細血管を広げて、カメの甲羅さながらな分厚いコートを着てもまだ厳しかったあの寒の夜が嘘のようである。
見ている町の光景は変わっていないのに、気温が変わったというだけで、ここまで歩いている時の気分が変わるのだから、人間というのは現金なものだ。

1月31日のブログでは、「棒の如寒波の夜をひた歩く」と詠んでいて、まさに硬直した刃物が寒の厳しい塊に切り込むように身体を固くしなくては、歩けなかった。
あの寒波に、正面から風でも吹いていようものなら、「ワ~」とか「ヒ~」とか、微かに小声で悲鳴を上げながら、レジ袋を両手に必死で夜道を帰宅したものだ。

それが大気の緩んできた気持ちの良い春の夜ともなれば、その闇は、凭れ掛かってみても大丈夫なのではないかと疑うほどに、私の身心を弛緩させる。
歩いているのは自分なのだが、半分は春の闇が自動的に押して、運んで行ってくれているような心持なのだ。


「どこまでがわたしどこから春の闇  」山下知津子

まさにこんな感じである。


「春の夜のわれをよろこび歩きけり」 日野草城
こちらは「春の夜」なのだけれど、雰囲気はシンクロしている。

「時計屋の時計春の夜どれがほんと」  久保田万太郎
これも大好きな句で、どうしたって春の夜に纏わりついている、ふくよかな幻想性をそのまま掬い上げている。


「探し物している家じゅう春の闇」 高桑婦美子

「めつむりてひらきておなじ春の闇」 森澄雄

「うかうかと飲んでしまえり春の闇 」秋尾 敏

「吊皮の踊つてゐたる春の闇」
竹内悦子



しかしこれがまた暑くてたまらぬ真夏の夜などになると、それはそれで大変になるのだから、春宵一刻千金と言う言葉通り、今しばらくの尊い自然の贈り物と思って、遠慮なくいただいておくことにしよう。

もちろん人は金銭が無くてはどうにも立ち行かない。
でも本当に素晴らしいものは、大枚を積んでも手に入るとは限らない。

春宵しかり、春風しかり、若さや恋しかり、愛情もしかり。

本当に素晴らしいものは、人間の手には負えないものなのかもしれない。
それは流れる水のように、ひと時を満たして、どこかへ去ってしまう。
あるときにはあるのだけれど、ふと気が付くと、もう煙のように、それは立ち消えてしまっている。

それを捕まえて虫籠の中に閉じ込めておくことは、どうにもできない相談だなのだろう。




春星の下に無人の観覧車



約束は忘れていないサイネリア



ブランコを漕ぐともなしに放心す



春の波寄せては引いてあきらめて



タンポポや結構踏まれているけれど



春外套風の袋小路かな



忽然とわかる答えや春の月






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沈丁花・沈丁香

沈丁花・沈丁香

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本日の1曲/Yoshiko Kishino - You Make Me Feel Brand New


沈丁香もうひとり我のいる闇



厚き雲今日は動かず沈丁花



沈丁花水面の月も移動する



沈丁花医院の裏の日陰かな



沈丁香ハンカチほどの胸騒ぎ



行き過ぎて二三歩戻る沈丁香

急いで通り過ぎてしまった沈丁花の香りの中。
勿体ないので少し戻って、も一度どっぷりと浸かる。

いきなり何か神聖な水を浴びたような気持ちになる。
沈丁花の香りは、濡れている。
雨が降っていなくても、陽が当たっていても、日蔭でも、昼でも、夜でも、沈丁花の香りというものは、濡れている。

そして深い空間を持っている。
水仙や梔子もそうなのだが、奥行きのある空間を持っているのだ。

ジャスミンや薔薇の香りは全然違う。「空間」ではなく、「体積」を持っているのだと思う。
ふわふわとつかみどころは無くとも、しっかり空気を膨張させている。
こういう花の香り達とは、ジャンルが違うのだ。

沈丁花の香りは、決まって、花から少し離れた所に、浮遊している。
だから時々、香りが見つからずにウロウロすることもある。
その日の風や気象条件によって、沈丁花の香りは色々なところに、蟠っている。

ふと思うのだけれども、人もまた、沈丁香のように、実体から少し離れたところに、その人となりの本質が漂っているのではないだろうか。

様々な現実のしがらみやら幸不幸やら身に纏わる条件達から、私達は決して逃れることができない。
いいことも悪いことも含めて、私達の根を張っている土から離れて生きていくことは不可能だ。

しなければならない仕事が大半を占めているのに、残る時間も色々な人間関係の波に流されて、あっちへぶつかったり、こっちで沈んだりして、心騒がしい時ばかり。
漱石でなくとも、「とかくこの世は住みにくい」と言いたくなることしきりである。

そんなこの世に掻き回されている部分から、すっと少々離れたところに、元々のその人らしいエッセンスのようなものが、沈丁香のように漂って浮遊しているような気がする。

人間関係に纏わる様々な心のしがらみやひずみ無しに、来し方を過ごせていたら、どんなにか充実した時間があったのではと、そんな風に考えてしまう時がある。

しかし、過ぎてきた時を巻き戻すこともできないし、自分なりに、一生懸命、本質的な自分を追いかけて来たのではないか。
デザインに打ち込んできたのも、俳句を続けているのも、そんな雨風の中で、すぐに行方不明になってしまう自分の魂のようなものを、洗い出していなければ、私というものを保つことが難しかったからだ。

願わくば、これから先の時間を、要らぬ人間関係に振り回されずに、もう一度自分の原型のようなものを、思い出し、思い起こし、生きていきたいものだと思っている。








春昼やグラビア雑誌パラパラと



草萌えて誰も彼もが語りだす



やりかけのことを付箋に春めきぬ



春霖や閉じ込められたままの過去



タンポポや地球の円さ見えねども



思ふことすぐ掻き消して春の雨



囀りのまばらにこぼれているテーブル



春愁の大きな邸の前を過ぐ







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春アラモード1

春アラモード1

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本日の1曲/タイースの瞑想曲 葉加瀬太郎


春の夜のどこかにありぬメリー・ゴーランド



雛あられあたりさわりのない話



啓蟄やあれもこれもやるつもり



啓蟄やコンビニ前は人で混み



春光にじっとしている記憶の背



春光を吸ってタオルの乾きけり

洗濯物を干しにベランダに出ると、まさに春が来ていた。
眩暈がするような明るい陽の光によってそう感じたのだけれども、ぐっと底上げされてきた温度や、風の柔らかさや、何の匂いとは特定できないけれど、ああ、春の匂い、と身に覚えのあるような匂い、そういったものが一丸となって、私を捕まえたのだ。

これこそ「旬」というものだ。
春の、最初の一行目。

「女房を質に入れても初鰹」なんて古い諺がある。
ホントに女房を人質にしたのかとか、あれは女房の着物を質に入れるという意味だとか、あれこそジョーク!だとか、色々尾鰭は付くけれど、旬の物の素晴らしさは、何としても体験してほしいものだ、ということだろう。

「春光」は鰹と違って、「ただ」であるから、これをたっぷりと享受しない手はない。

とは言えこれも、「いいなぁ、春だなぁ、」などど、言っているうちに、あっという間に慣れてしまうのだ。
毎日ベランダで洗濯物を干すうちに、多忙で均一な時間の中で、最初の感激の大きさは、どんどん色褪せてしまうのだ。
お風呂に入って、「あー、いいお湯!」という、あの最初の酩酊が、じきに終わってしまうように。

だが、四季というものがあるからこそ、こういう様々な変化による喜びが訪れる。
そういうところから、俳句や季語も生まれるべくして生まれて来たのだろう。
常夏の島だったら、出てこない文芸形態なのではないだろうか。

巨人のように堅牢だった今年の寒波のあとには、ひとしお嬉しい、春の訪れである。

いつまでも、生暖かい春の大気の中を、背泳ぎで、ゆったりと泳いでいきたいような、そんな心持ちでいる。







春の闇とめどなくユングの話

最近本を読んでなかった。
時間が無いといえば無いのだから、当たり前なのだが、決していいことではないのだ。

「自分」というものが、なんというか、更新されなくなるのだ。

「自分」などといったって、それは沢山の「自分で無いもの」の混入と、その並べ替えでできている。
おでんの汁だって、ほおっておけば煮詰まってしまったりするのを、水を足したり、新たな具を足すことによって、新鮮で尚且つ深みのある味を保っているのだと思う。

「本を読まない」「外出しない」というのは、更新されない自分をほおっておくということだから、当然自分というものは、煮詰まってくる。だから忙しいというのは、決して褒められたことではない。

この時は、正しく言えば、「ユング」の著書ではなく、「ユング派の心理学者」である河合隼雄の「心の読書教室」という本を読み返したのだが、「河合隼雄」の「こころの読書教室」なんてのは字数からしたっておよそ俳句にはならないから、「ユングの話」ということに短縮した。本の内容からしても、ユングの心理学の原理の上に、河合の見解を乗せてゆく内容だから、違ってはいないと思う。

夕飯が済んで、しばし休憩と思ってソファに近づくと、整理の途中だったすぐ横の本棚から、一冊の文庫本が私の前に落ちてきて、それがたまたまこの本だったのだ。ウーン、何だか実にユング関係の本にふさわしい登場の仕方だなあ。
偶然から必然が顔を出す。

本の内容は、臨床心理学者の著者が、様々な小説や物語に、人間の心や無意識というものがいかに如実に反映されているか、というような講演の内容で、山田太一や村上春樹、遠藤周作、ヘッセ・カミュなど、また様々な世界の児童文学などと、ユング心理学との照らし合わせが論じられている。
そして、このような観点からのそれらの読書のすすめ、そんな内容になっている。

その中の言葉で、非常にリアルに響いて来たのが、

自分に近い周辺にあるもの、つまり自分の知っている身の回りの人や、場所的に近いことろにある人及び物、などがまずあり、その外側に、今現在の自分からは見えない、自覚できない、人や物や事件、知らない人々などがあり、(たとえば、今この時、隣の町で交通事故が起きていても、自分はまだそのことを知らない。)
そしてそのもっと外側には、違う国やらなにやらあって、戦争をしていたり、平和だったり、洪水が起きたり,旱魃が起きたり、なんだりかんだりしている。

そして一人の人間の内部の、つまり心の中も、このように空間的な広がりがあって、自分の知っている、自分に親しい自分から、顔だけは知っているような人や、知らない人、自覚していない事件のような段階の自分、さらにはもっと外側に、広大な外国のような未知の場所がある、というのである。

これは私の言葉に置き換えてしまっているから、表現は違うのだけれど、おおよそこんな感じであると思う。

そしてまた、この広大な世界に生きている様々な人、物、事が、一人の人間の成長や変化に、実に複雑に絡み合って、影響し合って、一人の人間が生かされている、というのである。
それは確かに、その通りであって、人ひとりが生きていくには、沢山の人や色々な社会の働きが、無限に関わって成り立っているのだと思う。

さらにまた、こうした外界の関係のありようは、一人の人間の中の心や無意識のありようと、微妙にシンクロしている、という。

そして一人の人間の心の中も、よく知っているものから、多少知っている物、殆ど自覚できないもの、大きな未知のもの、まで様々に広がっているものだから、よく知っている物とよくわからないものとの緩衝が、うまくゆかないと、心に色々と支障をきたす、というものだ。

なるほどなあ、と思う。

自分の事なんか、自分が一番知ってるわい、なんて思っていても、それがそうでもないですよ、という話。

この本は、講演形式のせいもあると思うのだけれど、「これはこういうことなんです」と数式の並列のようにはなっていなくて、比喩がまた比喩をかぶっていたり、疑問を展開していくと新たな疑問の入れ子状態になっていたりで、前に読んだ時には、どうもすっきりこなかった。

何年かたって、ポロリと私の前に落ちてきて、拾って読んだら、少しわかって来た。

自分の内界もまた、春の闇のように、見通しのきかない、無限の奥行を持っている。

自分の中も、自分の外も、くんずほぐれつしているジグソーパズルのように全体として機能しているもので、あらゆるものが、あらゆるものの生成に、お互い影響し合っている、ということ。

とめどなく広がってゆく、大きな、話だ。
始まりが無くて、そして終わりも無くて、いたるところに中心があるような、宇宙的なスケールの話だと、私は思った。








シクラメン放し飼いになっている情熱



シクラメン硝子に映っている女



言いたかった言葉積もれば雪崩かな



遠窓に人影ありて春めきぬ



面倒と思うこと増え桃の花



春の雨眼鏡で受ける一粒目






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桃の花

桃の花

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今日の1曲  Keith Jarrett - Paint My Heart Red


桃の花少女一日空想す



桃咲いてしばらくぶりに使う皿



桃の花御伽噺に黒き影



目覚めれば橋が落ちてく桃の中



炊飯器白煙上げて桃の花



春の雨洗ってをりぬ幸不幸



パンジーや少年少女の恋忙し



春嵐女であることむずかしき



日月に雛の沈黙揺るがざり



三月が古ぼけたカーテンを捨てる



春の闇言葉どこから生まれ出ず



物の芽の諳んじている時間かな

ベランダの鉢に植えてある雪柳の固い枝に、ついに柔らかな芽が出始めた。
この間確かめたときには、まだ何も見当たらなかったのに。
小手毬 の方はと見ると、出ている出ている、でもこちらはまだもっと小さな、よく目を凝らさなければわからないほどの、微かなものだ。

「物の芽」、何故こうしたものに、年とともに年々惹かれるようになるのだろうか。
若い頃から、花は好きだったけれど、こういう微細なものには、あまり気がいかなかったなあ。

おそらく私が芽の中に見ているのは、緩やかな「時間」の流れなのだ。

今眼前にある物の芽の視覚だけではなく、それが無生物さながらな針金のように固い、あの枝から奇跡のように生まれてくること。
その針金のような枝さえも、去年の夏には豊かな葉を茂らせていたこと。
そして長く厳しい寒波の冬を経て、今再び柔らかい、可愛らしい芽を出していること。

「物の芽」が象徴しているものは、「時間」だ。
生きとし生けるものがすべて身を任せている、大河のような、時間の流れ。
「時間」が流れゆくこと、循環することを、何かと意識するようになったのは、自分もまた、若くはなくなって、沢山の時間を内部を流れてきたからなのかもしれない。

若い時には、生きのいい、「今現在」にしか興味は無かった。

今は、柿の木一本にしても、青空に喰い込んでゆくようなビビットな朱色の実が終わり、枯れ枝の間合いから星を見ているうちに、やがて芽が出て、初夏には目も眩むような若草色の「柿若葉」となる。
そうしたものの全体としての存在に、気がいくようになった、とでも言ったらいいのだろうか。

だが大きな時の流れは一つの発見であるが、また一つの喪失でもある。
いや、長く緩慢な喪失を実感することによって、その価値を発見してゆくということなのかもしれない。

去年の丁度、今頃だ。
病院の帰りに、タクシーに乗った。

珍しく、物柔らかな、話好きの運転手だったのだが、私が乗り込むとまず、「今日は寒さが大分やわらぎましたねえ、」と、話しかけてきた。
「ホントですね。今日は暖かい」と私が言うと、

「あーりがたいですねえー」と言うのだが、その言葉の抑揚に、私は何かはっとした。
本当にしみじみとした実感がこもっていたからだ。

言葉の抑揚というものには、大まかに分けて二通りある。
演劇的な、演出めいた抑揚と、あまりにも実感があるために、いやがおうにもついてしまう、抑揚だ。

「寒い、寒いって言ってるうちにね、」運転手が言う。
「困った、困った、嫌だねえ、って言ってるうちに、あったかく、なって来るんですよ、少しづつねえ。」

車は坂道を急降下し、そして緩やかにまた上り坂を進む。

「それが、人生なんですよ」

おっ、こう来たか。
でも、とにかく何だかわけのわからない説得力がある。

そして再び言う。
「あーりがたいです、ほんと」

だが、もしここで会話が終わってしまったら、なんてことはないのだ。

寒かった、辛抱した、春が来た、目出度し目出度し、ありがたし、
それは人生の縄のある場所からある場所の、ひとつの切り口でしかない。
数多のドラマや映画の台本のように、編集された、人生の中のひとつのシーンなのだ。

ところがこの運転手は、また続けた。

「それでねぇ、あったかくなって、ああ、ありがたい、ありがたい、なんて言ってるうちにね」
「またああ、暑い、暑い、困った、困った、って、なっちゃうんですよねー!」

私はなんだかほっとした。真実が立ち上がって来たからだ。
それでいて、この運転手には、そのことを揶揄しているような調子は、全くなかった。

困っちゃうけど、それが人生。でも今は、ホントに春が来ることが、しみじみ嬉しい。
そういう、真実味のある、等身大の、話し方だったのだ。

ある時思い出して、もしかしたら、あの運転手は何か大病を患っていたのかもしれない、そんな気がした。
そして回復して、運転手の仕事をしていたのではないか。

何の根拠も無いと言えば無いのだが、あの「あーりがたいですねぇ、」という一言の、最初の一筋の春風のような、あたたかな抑揚が、ふと、そんなことを想像させたのかもしれない。








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白梅・紅梅

白梅

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今日のBGM/ドビュッシー「夢」羽田健太郎


白梅に我の裸眼を洗いをり



日蔭れば半音下がる梅の白



白梅や未来も過去もしろきはな



白梅や誰を信じて生きるべく



白梅と繋がっている昼の月



白梅を曲がれば知らぬ道に出る

近所に、素晴らしい白梅の大木のあるお宅があり、毎年その梅を見てから、梅の句を作ることにしていたのだが、尋常でない寒さのせいか、まだその梅が咲いていない。
仕方なくいつもはゆかぬ街の方角に、梅を探して散策に行く。

この辺は少しは通ったことがあるのだが、路地によっては、まだまだ知らぬ小道も多い。
おお、あの辺に何か光が集まっているような…と思って近寄れば、ありました、白梅一本と紅梅一本づつ。
日当たりや風の回りなどの環境の条件の違いか、木の種類などの違いもあるのか、ここの梅は今まさに満開。

「会えたなー!」と嬉しさに浸って、しばし立ち止まって、梅を見る。

しかし、何なのだ。
随分と、人気の無い、摩訶不思議なお宅である。
庭が、これでもかというほどに鬱蒼としている。すべての植物が枯れ放題か伸び放題のどちらかで、その庭をぐるりと回ってみると、何と庭の真ん中辺に、大きな倒木というか、途中からめきっと裂けて裂けた幹がぶらんと垂れて、地に投げ出されたままになっているではないか。
雷でも落ちたのか、それとも老木が何か病気かなにかになって、そういう有様になっているのかわからないが、こんなものを庭にそのままにしておくなんて、中々不思議なお家だなあと、ちょっと興味が湧いたりして。

空き家というほどには荒れていないのだけれど、どこにも人の気配というか、人の仕業の後が無いというか。
それなのに、門の近くの梅の木の、生き生きとしていることこの上無いのが不思議なのである。
白梅も、光が空へ登っていくようだし、紅梅も、若い娘のように晴々と咲いているではないか。

まるで、この家の主は、この梅達でもあるかのようである。


梅林やこの世にすこし声を出す  あざ蓉子

数ある梅の句の中で、特に、特に、好きなものがこの句である。
声を出しているのは何なのかはっきりとはわからないが、梅林というからには、この世のものならぬ、静かな煌めきの坩堝であろう。
この世のものの梅林が、この世のものならぬ何かと、呼応しているのである。

この世のものでないとなれば、「死」の世界のものかといえばそれも違うような気がする。
それは「生」の世界のものでもなく、「死」の世界のものでもない。
何だかよくわからない、そういうものを超越している大きな、永遠のようなもの。

そんなものが梅林ほどの大きさで、すこしこの世に声を出している。
私には、そんな風に感じられるのだ。
あるいは、解釈らしきものを何もしないで、ただ音楽のように、バーン、と受け止めても、どちらにしても結果は同じだ、という感じがする。

この句を思い出しながら、二本の梅の木が主に成り代わっているのかもしれない、この家の門の角を曲がると、一度も通ったことの無い、見知らぬ道が続いている。

ただそれだけのことなのだが、何だか珍しく未知のものへと心が動いた。
梅の花の力もあったのかもしれない。

どうもこの年になると、柔軟な魂でなくなるというか、自分の常備している感情を通低音にして、ものを見る癖がついてしまっている。
習慣になっている物や事へ、選択は落ち着いてしまうし、それは感情に関しても同じことが起きている。
だから、見ているものがいつも似ている。
自分のここ10年かその辺りの、色々なことが度重なるうちに習慣のようになってしまった、心の傾きかたの、癖のようなもの。

その感情はそれはそれで自分の真実なのだから、そこから逃げようとすれば必ず追われる。
でもいたずらに癖になってしまうことは、よくよく認識しておかなくてはならない。

無くて七癖どころではないのだ。
人の心は、CDのように何度もかけている感情が住み着いてしまう。

だがこんなに身近な街にでさえ、まだ見知らぬ道があるのだ。

自分の知らないことも、見ようとさえすれば無限にある。
未だ見ぬ大陸のように、まだ知らない自分もいるし、まだ知らない人々もいるし。

暖かさにはまだほど遠い寒さの中に、先駆けて咲いている春の予言のような、梅の花。


始まるのは春ばかりではない。

新しいものが、古いものを癒すだろう。古い悲しみはあるがままに放置しておくしかない。
新しいものに無感覚でいては事態は変わらないのだ。

少しでもそんな風に思えたことは、久しぶりのことだった。







紅梅

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紅梅を通り過ぎる子ら声きらきら



紅梅が咲けば夕暮れいそがない



紅梅に買い物袋二つ三つ



紅梅が遠くの空も間近にす



紅梅の中を尼僧の歩みをり



紅梅や走れどバスに間に合わず






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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