向日葵・夏アラモード3

向日葵

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向日葵に立ち塞がれて海見えず



向日葵やみるみる濃くなる我の影



向日葵の蜂は蕊より生まれしか



向日葵と一本道の孤独かな

その向日葵に会ったのは、もう夕方に近い時刻だった。
暑い日で、西日がまたそれに輪をかけていて、すぐ目の周りに汗が溜まり、歩いていても頻繁にそれを拭わなければ気持ちが悪かった。

向日葵は正直言って特別好きな花ではなかった。
それは、広告関係という仕事柄もあるのだと思う。
なんといっても、「元気な夏」の季節感を出すのに、向日葵の画像はいやというほど、使われる。
すると現実の向日葵ではなく、イメージが先行し、向日葵は「元気いっぱいで、明るく、楽しい、陽気で単純な花」のような先入観念ができてしまうのだ。
それであんまり、食指が動かないというか、これと言ってどうでもいい花、という距離感のようなものを持っていた。

ところが、線路脇の土手に、不意に人の如く立ち現れたその向日葵は、なんともちょっと向日葵離れしていた。
広告界でよく見る写真のような、はち切れるような生き生きした向日葵ではなく、小さめの控え目な花、背丈も私と同じくらい、茎も細め、強烈な日差しに耐えて、葉にはたくさん傷やら痛みやらがあり、言うなれば「草食系の」「傷を持った
」「やや顔色の悪い」「ちょっとやつれた向日葵なのだった。

しかしそこはさすがに向日葵。
ちょっとやつれていても、「傷を持ったまま」立ち上がって、何一つ繕おうとしない潔い迫力が、ある。

それはいわゆる「逞しさ」でもなく、「力強さ」でもない。

向日葵らしかろうがらしくなかろうが知ったこっちゃない、「私は私」ということを意識さえしていない、ただ自分のままにすっくと立って、咲いている。
少なからず疲れてはいるが、そういう自分というものから、寸分たりとも動いていない、そういう静かな迫力。

そんな無防備な美しさに、私は立ち止まり、しばし歩を進めることがためらわれた。

花というより、私は誰か人と邂逅したような気持ちだった。







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夏アラモード3


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シェルターの如く炎暑に家を出ず



夕立ちて人の繋がり立ち消える



大輪の赤いダリアに出口なし



日日草植えて何かを忘れたし



緑陰を出てまた普段の時間へと



空いた口塞がらぬ時夏の月



万緑や熟睡すれば四肢重く



寄り添いて月を隠せり夏木立



空蝉を夕焼けの色透りゆく



親の前親の後へと浴衣の子

幼い女の子たちが浴衣を着て歩いているのを見ると、私には、どう見ても金魚にしか見えないのだ。
今夜は近所の公園で盆踊りをやっているので、浴衣姿の子供を連れたファミリーがそこかしこに歩いている。

金魚といえば、だいたい赤や黒と相場は決まっているから、彼女たちが金魚に見えるというのは、色のせいではない。どうしたって、ピンクや、白地にピンクの柄物の浴衣が優勢なのだから。
すると、どっしり歩いている親の前へ後へと、先へ行ったり遅れてみたり、ゆらゆらひらひらしている、あの浮遊感が、「金魚」なる所以、ということなのだろう。
折から夕風が心地よく吹いていて、浴衣の袂は滑らかに風の中を泳いでいる。

女の子たちは、どんなに幼い子でも、きっとどこかで知っている。
いつもと違う、可愛らしい格好をさせてもらっていること。
それを自分も気に入っていて、大満足していること。

だから、足が浮き立ってしまって、小走りになったり、歌を歌いながら皆に遅れたり、気もそぞろなのである。

そんな親子連れを見ながら、ああ、女の子がいたら、楽しかったかな、と思った途端だった。

私の前を、一人の男の子と、お母さんが足早に過ぎ去った。
私の目は、その親子に釘付けになった。

男の子は、甚平の上下。
ジーンズのような色の暗めの紺地に、黄土色やカーキの蜻蛉柄で、とても男の子らしい。

そして母親の方はと見れば、同じ色柄の生地の、浴衣を着ているではないか。
小学校低学年くらいか、おそらくこういうペアルックをしてくれるのは、今年、来年くらいが限界かもしれない。

鉄紺と言われるような、色味を抑えた紺地に、黄土色やカーキの蜻蛉柄の女物の浴衣なぞ、そもそも私の発想に無かったし、男の子と母親が浴衣を揃いにするという発想も無かった。

しかし二人並んでいると、これが実に粋で格好良かった。

母親の、今風の少年っぽい、ショートとセミロングの間くらいの茶髪。男の子と揃いの、カジュアルな浴衣。
周り中の金魚や鯛のひらひらの中で、二人はダントツに目立ち、颯爽と歩いていた。

そうか、
「女の子がいれば・・・」なんて、古いなあ!

今の若い人は、ものの楽しみ方を知っている、私はそう思った。
自分の条件に負けているようでは、駄目なのだ!








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百日紅・風鈴・炎天など

百日紅


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今日の風底をついたり百日紅



硝子器に空の散らばる百日紅



百日紅髪は真昼へ伸びてゆく



百日紅星を揺らして睡り来る



百日紅何に追われている日暮れ



百日紅ほんとの気持ちいくつある

百日紅ほどに、こちらの気持ちを様々に映して千変万化する表情を見せる花はなかなか無い。
それは、風に棲んでいるような、その花の柔らかさがその所以かもしれないと思う。

微風の時、百日紅は笑みこぼれるかのように優しいし、こちらの気分が良い時も、しかり。
ところが、強風の日、折から身辺に心が騒ぐようなことがあった時には、この花は揺れるだけ揺れて惜しまぬから、見ている方も、ざわざわと気持ちが掻き立てられてしまう。

それにしても、若い頃には、「本当の気持ち」というのは、ひとつなのだと思っていた。
思っていただけで、実は事実は違っていたのだろうけれど、強引に自分の心を結論に結び付けてゆく元気や無知があったから、そんなものだと思っていた。

しかし、還暦も目の前という今になって、ひとの「本当の気持ち」というのは、決してひとつではなく、決してひとつではないことだけが、だたひとつの「真実」なのだという、ややこしいことが、見えてくる。

どの自分に自分をシフトさせて生きてゆくのか。

どれが一番いい道なのかなんて、それは誰にも分らない。




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風鈴・炎天など


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風鈴の音は新しき空ひらく



風鈴鳴り思案出だしに戻りをり



炎天のところどころを人歩く



炎天や瓦に太陽ひとつづつ



惑星のどこが溶けても熱帯夜



ゆふぐれてトマト真ん中奔放に



月見草愛また不死身にはあらず



月見草終電早く終わる町



世間話抜けて涼しき道となり



雷鳴や喜怒哀楽の雲厚く



絵日記の間が開く頃の西瓜かな     (西瓜は一応秋の季語ですが、昨日食べて気分だったので)



私が子供の頃の夏休みは、宿題の分量が半端ではなかった。
各科目ほとんどあったような気がする。漢字練習、計算問題、理科の観察、工作、自由研究、家庭科の手芸、読書感想文、絵日記etc。

最も暑さも今ほどではなかったのだから、そこのところの事情は違うが。
記憶の中では、絵日記に今日の気温32度などと書き込みながら、「今日は今までで一番、暑かったです」
などと記していた覚えがあるのだ。
少なくとも、35度だの、36度などという数字は書いた覚えは、無い。

ああ、でも今の子供は、「塾」ってものがあるから、学校の宿題が無いからって、のんびりしてられるわけでなないんだ。気の毒だなあ。

夏休みの初めの頃は、ひたすら良い。
計画だけは膨大だ。地球を一回りすることだって、できそうな、気分。
しかし中盤辺りからどんどん怪しくなってきて、後半、着々と夏休みが最後に近づいてくると、頭の片隅に、溜まっている宿題の守護霊が、その不気味な姿を現し始める。

そんな頃に、よく西瓜を食べたような。
白いページばかりの絵日記。一週間でどうする、自由研究。家庭科は、確か刺繍のテーブル・クロス!

西瓜の果肉はなんというか、密度がゆるくて、スカスカしている。
キウイーや桃みたいに、ねっとりしていなくて、凄く食べやすく、そのスカスカした夏を、子供達はたちまちに荒らして食べつくす。踏み込みやすい甘いジャングル。

西瓜を食べると、今でも何ていうか、アクティブな気持ちが蘇るのだ。
ちょっと、小さなスポーツを、した感じ。




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白粉花・夏アラモード2

白粉花

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夕風はすこしづつ来る白粉花



白粉花路地に入れば歩を緩め



オーデコロン空に揮発す白粉花



行き止まる言葉白粉花密生す



白粉花わたしの中にある空き地

空き地というのは、私が子供の頃は町中でも結構あった。
それぞれに名前がつけられていたりして、「今日は『アマゾン
で待ち合わせ」などと言っていたものだ。
昨今はあまり見かけない。
時たま売地などで見かけるのだが、土がむき出しになっているのを見ると、無性に懐かしく、気持ちがいい。
づかづかと入って行って、わーっと掘り返したくなるのは、幼少時の砂場のノスタルジーなのだろうか。
しかしこの季節になれば、どんな空き地でも、背の高い生命力旺盛な夏草の坩堝となり、人が気軽に入るのも、ちょっと難しい。

俳句を作るとき、いつも色々と頭を悩ませ、今現在と、たぶん今までの生涯全部の時間を使って、様々なイメージの情報網を手繰り寄せては作るのだが、(それにしては出来てくる句がなんか単純。)
色んな情報やら情感をお供えもののようにたくさん並べても、そこから後は、その後ろの高い塀の向こうの空き地で、そのシステムが不可視の状態のまま作られて、「ぽろっ」と出てくるまであとは待つのみ、というなにか「神頼み」とどこか似ている状態で作る。
というか、こういう風にしかできない。

無論推敲とか手直しとかはする。
でも大体決まった状態の原型は、必ずそのぽっかりと空いた、すべての情報から遮断された空き地にいったん投げ込まないと、出てこないのだ。

空き地に投げ込む以前に出来る時もあるのだが、どうもこれがおいしくない。
生煮えなんである。

でも空き地が作るからには、空き地任せで、こちらでコントロールできない。
ぽろっと3分で出てくるときもあれば、2時間待ってたって、うんでもすんでも無い時もある。
でも待つしかない。
だから私には、何人か集まってする吟行などというのは、無理だと思う。

不思議なものだ。コントロール出来ないところで、生産されて出てくるのだ。
何故コントロールされているところからは、生煮えのものしか出てこないのか。
どう考えても不思議なのだ。

だからいつも、私は俳句を作っていることに、自信が持てない。
俳句の良し悪しの問題ではなく、「私は俳句を作っています」と、胸を張って言えないような、感じがある。
だって、空き地が作っていて、それは歩いていたら上から落ちてくる柿の木の柿のようなものだから、作られる瞬間については、自分が精魂込めた記憶がないからだ。

お供え物を並べて、ずーっと考えていても、考えている同じその場所からは、言葉は出てこない。
裏の空き地から、突然、ぽろっと、出てくる。

だから、自分が作っている感じが半分くらいしか、実感がないから、なにか自信が持てないのだ。



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夏アラモード2

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扇風機羽を透かして人を見る



夏の夜意識はすぐに底抜ける



短命なホースの虹や日日草



峯雲や去年のサンダル草臥れて



峯雲や一難去ればまた一難



夏草や必死で逃げる夢の中

必死で、夏草の生い茂る草地を逃げていた。
何から逃げているのか、定かではないのに、定かではないということが、余計に恐ろしいのだった。
それは影のようだった。
誰かの影のようだった。
それは「善い人」の影のようだった。
「善い人」の影は、普通の人の影よりも、黒くて、暗かった。
そして「善い人」の影は、それぞれの「善い人」から遊離して、すぐに沢山の影が、合体して、ひとつの巨大な影に変質していくのだ。

今逃げているのは、その巨大な、ひとつになった「善い人たち」の影からなのだった。

その影は私を追い込んでいた。
みるみるうちに、私はその巨大な影に追いつかれてしまった。
おまけにふと前方を見ると、大きな湖があり、その岸辺が迫っているではないか。
絶体絶命。
後方を振り返ると、巨大な影の、濡れた硯のようなおそろしい漆黒の闇が、私を一飲みにしてしまおうと、せりあがって、いる。

「わあ、どうしよう」
気が付くと、湖の岸辺に、いつの間にか、一隻の小さな白いボートがゆらゆらと揺蕩っている。
考えている暇はなかった。
私はすぐに、その船に飛び乗った。
オールを力の限り思いっきり掻いて、何とかボートは岸辺から離れていった。
黒い巨大な影は、草地の端で、悔しそうに、馬のような声で、いなないた。

「あああ、助かった。」
私は取り合えずほっとして、その湖の美しさに気が付いた。
湖の色は、「緑青」と言われるような、水色と緑の間のような、得も言われぬ美しい、色だった。
空を見上げてみると、真っ青な夏空に、子供の頃絵日記に描いたような、白い、陰影の深い、入道雲がむくむくと浮かんでいた。

「なんて美しいんだろう」
私は感激して、深呼吸した。

しかし、ふと下を見ると、なんということだ。
一生懸命に漕いでいるのに、ボートに少し水が溜まってきている。
「えーっ!」
じっと見ていると、その水は増えている。浸水しているのだ。
「困った、どうしよう」
周りを見渡すと、もうどこにも岸辺が無かった。遥か彼方、東の方に、遠く岸辺が見えたが、とてもあそこまでは持たない。

気が付くと、ボートの中の先端に、ぼんやりと薄墨色の人影のようなものが見える。
人影に目を凝らしていると、その薄墨色は、だんだんと濃くなり、だんだんと輪郭を持ち、さっきの巨大な影の、墨のような漆黒に、近づいて来る。

「誰なの」
墨色の人影は答えない。
見ると、その人影はボートにいつの間にか付いていた、舵のようなものを手に取って、操縦しているではないか。
その操縦のせいで、どんどんボートは水面から、下がっているのだ。
これでは、ボートもろとも、湖に飲まれてしまう。

私は後方で、力の限りオールを掻いた。
しかし無駄だった。掻いても掻いても、ボートは沈んでゆく。
ついに私はオールを放りだし、その人影に飛び掛かった。
「やめてよ!」
「やめてよ、ボートが沈んじゃう!」

しかし飛び掛かってみると、柔らかいように見えていた漆黒の影は、固い、石のようなものに、なっていた。
驚いた私は、その黒い石を思い切り叩いた。

びくともしない。
叩いても、押しても、引いても、何をしてもびくともしない。
これは闇ではない。
石、なのだ。何の影響も受けない、石なのだ。ひとの言葉も、ひとの力も、その石には、何の影響も与えることができない。

石の人影は、もう操縦さえしていない。
しかし石なので、その重さゆえに、ボートはあっという間に浸水してゆく。

「ああー!」
私はまだその真っ黒い石を、叩き続ける。しかし・・






ハンカチの如疲れゐし身を広ぐ



どこよりの磁力でひらく月見草



月ひとつ葭簀の川を渡りゆく


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ここ数日は散々なことが続いて、疲れ切っていたが、ひとつ良いことがあった。
多忙で夕飯の準備ができなくて、弁当を買ってきてほしいと頼んだら、今年仕事に就いたばかりの息子が、先月の私の誕生日に何もしなかったからと言って、寿司折をぶら下げて帰宅したのだ。

彼に贈り物をもらったのは、彼が小学校一年生の時以来だ。
一年生の秋に、私にお土産だと言って、一枚の紅葉を大事に握りしめて、帰って来たのだ。

嬉しかったなあ。
その時の句は、

手の中の折れし紅葉や子が帰る

です。よろしかったら、そのページもご覧ください。 2002年、10月

いつも冗談で、「そろそろ私の誕生日だなあーー!」などと、口先だけでは言っていたけど、まさか本当に貰える日が来るとは、考えていなかった。

割りばしを割った時、ちょっとお寿司がぼやけた。

照れ臭いから横を向くと、ベランダの上の方に張ってある葭簀の向こうに、月が見えた。
葭簀に少しずつ遮られ、川のさざ波にゆらゆら割れる月みたいに、私の頭の動きに沿って、揺れていた。








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百合・七夕

百合


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山百合や目に一粒の雨入り



百合の前静かに呼吸整える



百合咲いてその大きさに驚きぬ



百合咲けば一本の川流れ始める



百合の奥廊下続いて扉あり


百合の花といっても、色々ある。
花言葉も、調べたら、百合の種類によって、それぞれ違ったものがある。そりゃそうだ、こんなにイメージが違うんだから、そうでなきゃ不自然。

上の写真は山百合
花弁に斑があって、黄色い筋もある。
花言葉は、「荘厳」

山百合の日に透き月に透ける宮  飯島晴子 
山百合にねむれる馬や靄の中  飯田蛇笏
山百合のいつせいに咲く坂の町  庄中健吉 



花弁が真っ白なものは、鉄砲百合カサブランカ。普通に「百合」と言ったり、「白百合」といえば、この辺だと思う。
鉄砲百合は西洋の妖精のラッパのように、花が細長い。
花言葉は、「純潔」「甘美」「威厳」

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カサブランカは純白でも、大輪で豪華。ピンクもある。鉄砲百合と間違えやすいが、開花して時間が経つと、鉄砲百合よりも、花弁が外側に大きく反って、広がるのが特徴。
花言葉は、「威厳」「純潔」「高貴」

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鉄砲百合と花言葉のイメージはダブっている。
これらの俳句は、百合の種類は不明だが、「鉄砲百合」か「カサブランカ」の純白の、どちらかであってほしいと私が勝手に考えた、「いい!と思う百合の句」

巨き百合なり冷房の中心に  西東三鬼
百合開く絵皿の中にある異国  有馬朗人
百合匂ふ暗き方へと向き睡る  岡本眸
ハンカチの汚るるやうに百合了る 真保喜代子
思考又途切れて百合の香の中に 稲畑汀子
百合咲いて星の運行確かなり 林昭太郎


鬼百合というのは、山百合のように斑があるが、燃え立つように鮮やかなオレンジ色の、百合。ピンクのものもある。
ああいうのに、人気の無い山の中でいきなり出っくわしたら、さぞかしどきっとするであろう。
鬼百合というのは、なるほどというネーミング。英名はタイガー・リリー。勇ましいわけだ。
花言葉は、「賢者」「富と誇り」 ふーん、確かにフツーではないから。花弁がそっくり返っているせいか、プライド高そうな感じもする。
それから、「華麗」「愉快」「陽気」というものも。白百合とは随分とかけ離れたイメージ。

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谷住みの鬼百合の朱のあざやかに 細見綾子 
マリアカラスを聴く瓶の鬼百合と  片山タケ子
鬼百合のこれみよがしの蕊の反り  鷹羽狩行





笹百合というのは、本州の中部地方より西に分布している、淡いピンクの可憐な百合で、山地などに多く生息する。葉が笹の葉に似ているから、笹百合なのだとか。べたっとしたピンクではなく、ほんのりと淡いピンクで、美しい。
花言葉は、「清浄」「上品」これはもう、そのもの。

笹百合の一輪を得て宮を去る 塩川雄三
笹百合を手に舞ふ乙女神の森  中野京子

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また、俳句で時々「姥百合」というのも出てくるんだけれど、一体どんなものかと思っていら、関東以西の山地や森林に多くみられる、ユリの仲間(ユリ属)とは分けて「ウバユリ属」に分類される花だった。
なんというか、百合が、ぱっと開き切らずに少し萎れたような、そんな雰囲気の花で、女としては、何となく、失礼しちゃうわって感じ。
花言葉は、「威厳」「無垢」そう、威厳はないわけではない、でも飾らぬ感じだから「無垢」なのね。
(姥百合の写真は手に入りませんでした。)

姥百合や背筋きりりとただす友 梅田秀子
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七夕の髪解く風のはやさかな



光年と我の一年星祭



七夕や叶わぬ夢は見なくなり



七夕や素足で月日跨ぎをり



七夕や人と人との間に銀河


七夕伝説というのは、色々タイプがあるらしいが、もっとも一般的なのは、天帝(天の神)の自慢の娘の、機織りの素晴らしく上手な「織姫」と、その結婚相手の勤勉な牛飼いの「彦星」が、いざ結婚したら、仲が良すぎて、きちんと働かなくなってしまった、という話のようだ。
ふたりともそれは熱心に自分の仕事に熱中していたのに、結婚したら二人で遊んでばかりいて、それを苦々しく思った天帝が、さんざん忠告したが、聞き入れなかった。
そこで怒った天帝は、天の川を作って二人を会えないように隔ててしまった。
ところがあまりにも織姫の嘆きが激しかったため、可哀想になった天帝が、1年に1度、7月7日に二人が会えるようにしてやった、というものだ。

そして7月7日というのは、琴座のなかの「織姫」(ベガ)という星と、鷲座の中の「彦星」(アルタイル)が一年を通して、最も光り輝く日、ということらしい。
 
しかしややこしいのは、「七夕」は「秋」の季語なのである。

何故秋かというと、昔の暦、太陰暦の7月7日は、今の暦、太陰暦の8月なので、(日にちはその年によって違う)太陽暦が日本で使われるようになる前は、「七夕祭り」は、今でいえば8月の行事だったからだという。
「太陽暦」というのは、太陽の運行を基盤に作られているが、「太陰暦」というのは、月の満ち欠けを基準に作られている。
この辺は細かい話は複雑になってくるので省くが、そもそもお盆の前の準備や、美しい機を織って神様への捧げものにしたり、税として納めたりする風習とこの伝説がドッキングして、こういう「七夕祭り」というものに発展していったらしい。

その太陰暦の7月7日を、太陽暦の7月7日にそのまんま置き換えたために、まだ梅雨空だったりして素晴らしく美しいベガとアルタイルを見ることが、難しい、なんてことが起こるのだという。

「正月」もしかり。
「新春」とか、「初春のお慶びを申し上げます」なんて、厳寒の最中に何故年賀状に書くのか、昔から不思議だったが、太陰暦の正月は、2月初旬だったのだから、暖かい地域では梅もチラホラ咲いているというもの。

「五月雨」もしかり。
5月に降る雨かと思いきや、太陰暦の5月とは現在の太陽暦の6月なので、すなわち「梅雨の雨」のこと。
あーややこしい。

だから、様々な日本の行事や文化が、太陰暦を基準に行われてきたので、太陽暦をそのまま持ってきて、色々な混乱が起きた、ということなのだ。

そうかー、そんな事情を知りもせず、幼稚園の頃からさんざん短冊にお願いを書いて、笹に結わえて、「たーなばーた、さーらさら」、と7月7日に歌ってきたのか。なんていうか、日本人って素直だなあ。
だって、それはそれで7月のイベントとして、心に染み付いちゃってるもの。
今さら8月に「さーさのは、さーらさら」ってわけにもねえ。
でも、夜空を見上げてベガとアルタイルの、星のウォッチングをするには、その頃を意識していてもいいかも。

それにしてもこの伝説を聞くと、思うんだけど、これって、「新婚さん」の話でしょ。

この二人、ほおっておいたって、2,3年すればもう、ひとりでに「銀河」がどこからともなく現れて来るってもんでは、ないだろうか。
そしてしっかり2人とも、また自分の仕事に熱中して、キャリア・アップを図っていくってもんでは、ないだろうか。

そのうち喧嘩も多くなり、心配した天帝が、1年に1度だけは、「もっと、仲良くしろー!」なんて、無理やり二人をデートさせる、なんてほうが、現実的だなあ。

否、真実はもしかして、天帝が、新婚の二人があまりにもラブラブなので大いに嫉妬して、銀河を作ってしまったのでは?
父親って、そういうの、ありがちなんじゃないか。

どちらにしても、この年になってみれば、人と人との間には、必ず銀河のようなものがある、と思う。
それは男女の仲にかかわらず、どんな関係であっても、同じことだと思う。

長らく一緒にいても、あるいは肉親であっても、近い仲なら近いほど、深い銀河かもしれない。
ある時は無くなってしまったように見えていても、これはおいそれと消えるものではない。

きっと銀河は無くならない。
だから、必要とあらば、橋を架けるしか、ない。 そう思う。







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立葵・夏アラモード

立葵


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立葵空がうしろへ退きぬ



ペディキュアを塗って出かける立葵



立葵遠くの海が濃くなりぬ



立葵女王何人夜の庭



立葵うしろに列車すれ違う



夢の駅いくつ通過し立葵

立葵というのは、あっぱれ、と言いたくなるような、花である。
何があっぱれなのかよくわからないが、とにかくそんな感じなんである。

派手と言えば派手なのだが、その派手さは、「キンキラキン」系ではないし、薔薇や牡丹や百合のような「ゴージャス&上品」系でもない。
それなのに「派手」。ゴージャスと両立しない「派手」というのは、割合珍しい。
「絹」の服ではなく、「木綿」の服、でも「派手」。

気取りのないきっぱりとした性格の、おおらかで、大きな口を開けて笑い、でも怒ると一途な、そんな背の高い女性。そばに一人くらいはいそうである。髪の色は黒。

なぜか立葵は、線路脇や駅によく植えてある。
だから何かというと、「列車」にイメージが結びついてしまう。

山の麓の単線の駅などにも、どっさり咲いていた光景が、目に焼き付いている。

ところで列車といえば、「列車で、なんだかわけのわからない町を、行ったり、来たりする夢」を、私は非常によく見るのだ。

列車に乗って、移動している夢は、何か状況を打破したいような、あるいは新たな状態にまだ慣れない、というような、
過渡期に見るという話を何かで読んだことがある。

うーん、そんなこと言ったら、この20年間くらいは、「
過渡期」の連続だったような状況だった。
問題の連続だった。解決なんかつく前に、次々問題が覆いかぶさってきた。

でもそれは私ばかりではないが。友人のうち、3分の2くらいは、何かしら大きな問題を抱えている。

また、私は特にこの1年の間、「ゴミ屋敷のようになった家の前にいる」夢も、よく見た。
見知らぬ家が、廃墟のようになっていて、部屋の中は7分目くらいまで、ガラクタやゴミで埋まっているのを、前に立って、見ているのだ。
基本的な人間関係の悩みを、諦めて、放っておいた時に、よく見た。
その問題は、なかなか進展しなかった。進展のしようがなかった。私はどうしたものか、途方に暮れていた。

最後の方には、ついに自分がゴミ屋敷のゴミに埋まってしまっていて、なかなか出られない、そういう怖い夢を見た。何となく、私はこのままではまずいと直感した。折良く相手から話し合うことを提案してきたので、もう一度、私は関係の回復を試みることにした。
その問題は、解決し切ったわけではない。まだその途上であるが、行動は起こした。
すると、ゴミ屋敷の夢は見なくなった。

でも夢は、現在の自分の状況を予言したり、「こうするべき」と決めつけるようなものでは、ないという。

ただ、昼間覚醒時の意識の状態があまり一方に傾いて凝り固まってしまった時に、そういう自分をほぐすために、「こういう風に思っている自分もいる」ということを、無意識の方から、教えてくれるものなのだ、と。

そして今の自分の本当の状態というものを、総合的に示唆してくれる、ということらしい。
(この辺のことは、大好きな心理学者、河合隼雄から学んだことである)

大事なのは、その夢を見て、自分がどんな風に感じたか、どんなふうに思ったか、それが大切なのだと言う。

立葵の土手の後ろを、今日も列車が通る。
沢山の人を乗せて、沢山の思いを、乗せて。 立葵の後ろで、列車がすれ違う。











夏 ア・ラ・モード


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七月のネオン静かに水を割る



冷蔵庫音色々に不眠かな



万緑の風に圧されるビル一群



掟無き万緑となり地平線



噴水の音も疲れる夕暮れは



ハンカチの手品のように齢取りぬ



花合歓や悩める時はそばにいる



ひらがなの煙上がりて蚊遣香



蚊遣火を焚けば親しき闇となる

蚊取り線香というのは、蚊をやり過ごすだけではなく、言ってみれば日本古来のアロマ・セラピーでもあるのではないだろうか。
最近は、蚊取り線香以外に、色々化学的に蚊を殺すものも様々出回っているが、よくよく調べると、あまり体にいいものではないらしいので、結局のところ、これに戻ってしまうのだ。
最も蚊取り線香だって、人体に無害ではないらしいが、まだこちらの方がましなのではと、それ程根拠があるわけでもなく、慣れたものに戻ってしまう。

私はやはり「金鳥」派だ。
夫は「アース」派。息子はさんざん泊まった実家でも使っていたので、やはり「金鳥」派。
この辺は、その時その時の現在形の好みだけでなく、幼少期に長々と体験してきた嗅覚の記憶がものを言うのだろう。

この頃は気象異常で4月に蚊が出たりするから、変な時期から引っ張り出して使っているが、いつも初めて蚊取り線香を使った時は、少なからず感動する。

「落ち着く~」というのが、決まり文句だ。

蚊を撃退してくれるだけではない。
現代人の脳裡に浮かんでいる、「あれをしなくちゃ」「これをしなくちゃ」「ああすればよかったかな」「こうすればいいのかな」などなど、切りもない「より良き生活のための欲望」つまり「現在からの果てしなき逸脱」、そんな心持ちも、しばしの間、撃退してくれる。

また、隅々まで蛍光灯に照らし出されている生活は、気持ちまで、あれこれとかしましくコントロールするようになりがちな気がする。

北欧の人々は、夕暮れになると、窓辺のキャンドルをうまく使って、生活に潤いやリズムを作り出しているようだが、見習いたいものだ。どうも日本人というのは、勤勉過ぎるというか、遊び心があまり無い。
自分も、スタンド(照明器具)が好きで、リビングには小さなものが3つくらい、棚やチェストの上に置いてある、あるのだがー!
こういうものをうまく使って、メインの蛍光灯を消して食事をしたり、寛いだりすれば、どれだけ良い雰囲気になるであろう、それなのに。
すいません、やっぱりわーっと夕飯作って、わーっと食べて、わーっと洗って、点けてないなあ、スタンド。
形ばかり西欧のものを入れても、習慣がついてこないんだなー。もう。

そんな明るすぎる生活の中で、蚊取り線香を使っているのだが、これが本当に威力を発揮するのは、電気を消して、闇の中に香りが浮遊している、そんな状態の時だ。

この香りの中では、闇がすっかり喜ばしいものになる。
ふくよかで、深々と落ち着いて、その柔らかな懐に私達を休ませてくれる。

全てがあるべきところにある。闇も、自分も、「今」という時も。












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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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