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ブログお休みいたします。

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いつもご訪問いただき、ありがとうございます。
色々な事情で、少しの間ブログお休みすることになりました。

なるべく早くに再開するつもりでおります。
また皆様のご訪問を心よりお待ちしております。

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本日の1曲/Vocalise / 本田美奈子



大聖堂となりゆく寒の夜空かな



終列車寒より発ちて寒に着く


「寒い」と言う言葉では、足りなくなってきたなと思う頃、「寒」と呼ばれる時候になる。

「寒い」と言う言葉には、北風が入っている。
だが、まだ全体としては柔らかさを持っている。

「寒」という頃になると、たとえ風が無くとも、一歩外へ出れば、身が引き締まるような冷たさで、その感触は流動的な気体というよりは、限りなく固体に近づいてゆく、密度の高さのようなものを持っている。

それはまさしく「寒」という、厳しい、とっかかりの無い、金属的な言葉の発音に相応しい。

ここへ強風など吹いた日には、人は天から吊り下げられた干物のようにひらひらと、なすすべも無くただひたすらに目的地にへ向かって歩くのみである。

気を抜けば、命にかかわってくる大自然の営み。

寒の夜に外を歩けば、大地も、凍り付いたような建物も、夜空も、皆巨大な一つの同じ諧調を響かせている。

それは見たことも無い、大きなカテドラルさながらに聳え立ち、耳をすませば風の中に、途切れ途切れのレクエムが、幽かに聞こえてくるような気がするのだ。







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途中まで言いかけてやめ雪催



寒林にふと魂の並ぶ時



冬灯長い別離のような愛



閉じ込めた言葉残りて冬の蔦


若い時から俳句を齧っていたが、若い時分には、主に春と夏に作句していた。
どうも秋や冬の季語に、感情移入できなかったのである。

季節全体としての秋の透明感や、冬の硬質な美しさは好きだったのに、ひとつひとつの秋冬の季語に対して、さあ、これで俳句を作ろう、という気持ちが湧いてこなかった。

結社にでも属していれば、そんなことも言ってはいられないが、気の向くままに詠んでいたので、その気にならない時には作らなかったのだ。

春ともなれば泉のように花や若葉が溢れ、夏には生い茂る森林や沸き立つ雲に気持ちを押されて、自然に俳句を詠みたい欲求が湧いて来た。

それはまた自分もまだ若く、そういう旺盛な、夏草のような過剰な生命力に、すんなりと同調するような年頃だったからなのだろう。

「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」という、人生を季節になぞらえた言葉もあるけれど、考えてみると確かに、自分の心に響いて来る季節の中の諸々の現象や植物などは、自分の年齢にある程度呼応しているような気がする。

そうは言っても、春や夏の生命力に満ち溢れたものが、晩年には心に響かないというわけではないが、そういうものを内包しつつ、秋や冬の静かな、慎ましい生命の端々に、新たに心惹かれるようになった、というのが正確だろう。

冬の季語の中でも、「寒月」「凍星」「冬木立」「寒茜」「冬オリオン」「寒晴」などの、硬質な煌めきを持ったものは前から好きだったけれども、このところ、「冬蔦」「冬灯」「冬菊」「枯園」「冬服」「冬紅葉」などのような季語の持つ、

厳しい季節の中の、小さな生命や小さな営みの持っている、ささやかな光、のようなものに、心を惹かれるようになってきた。

それはそういうものたちが、小さく、慎ましいから惹かれる、というわけではない。

それらの、冬の只中で懸命に小さな命を保っているものが、実は大きな時の流れを孕んでいて、枯れてしまっているものも、凍てついてしまっているものも、また旺盛な命の充溢を経過した、自然の流れの記憶をしっかりと抱いているように、見えるからである。

いや、そういうことが見えるように、自分が年を取ってきた、ということなのだろう。

厳冬の中で必死に生きているような小さな生命や、それに匹敵するような人生の中の諸事もまた、これから再び春の光の只中へ、返り咲くこともあるだろう。
たとえそうでなかったとしても、命に満ち溢れていた時もあったのだという、時間の記憶は消えることは無い。

小さな冬の季語達に心惹かれるようになったのは、それらが春や夏や秋の、記憶や未来を内包していることが、見えるような年頃になったから、

そんなことなのかもしれない、とこの頃思うのだ。






時雨るやおんなじことをしてる日々



手袋をして少し違う誰かに



約束を破らずにいて冬の菊



呼びかけに応ふもの無く寒晴れぬ







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冬青空

冬青空

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本日の1曲/Dominic Miller – Water (from the album Silent Light)


頂点といふ奈落あり冬青空



高所恐怖症である。
高所恐怖症というのは普通高いところから、下を見ると怖いのであるが、冬の真っ青な青空も、本気で見上げると、ちょっと怖い。

その無限を感じさせる高みは、また奈落の底へ落下するような不思議な方向の錯乱を催す。

雲一つないような冬青空は、高さや深さも存分に持っていて、それだのに面積も無限なので、まともに見つめると、自分の位置感覚がいかにも心許ない。

眼がくらむような青い無言。

有無を言わせぬ、潔癖な青である。

久しぶりに会った友人と、「じゃあね、またね」と言って別れる。
別れて、数歩歩き出す。
その時ふいに冬の青空を見上げる。

その青の、孤高に、ひと時肺まで染まる。

そして私はまた自分の足元を見る。
その時何か迷いのようなものが、あの青に吸い取られている。

私は思う。人には人の、自分には自分の、全く違う道があるのだ。

そして再び歩き始める。






冬青空見えない星を持っている



冬青空歯医者の椅子の刻一刻



冬青空人とは違う道を行く







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葉牡丹や午後は時間の吹き溜まり



結い上げし髪の重さや初鴉



木枯らしや語り手だけが舞っている



レントゲン骨響き合う寒の月



水仙香鼻孔の奥の社かな



亡き人の夢に語らず寒椿



夢に時々、私にとっては、母親代わりだった亡くなった祖母が出てくる。

大抵は、その場所はがらんとした何処かの家だ。子供の頃育った家や、結婚する直前まで住んでいた家や、また何処かの池のほとりの、知らない家だったりするのだが、いつも祖母は無言である。

そえういえばしばらく前に見た夢では、祖母は私が住んでいるということになっている、見知らぬ家の屋根に上って、壊れかけていた屋根を直していた。少し雨が降っていたようだ。瓦屋根の色は青かった。

今回の場所は、結婚する直前まで住んでいた実家で、私はそこに住んでいて、今そこから「引っ越す」ことになっているのだった。
しかし2階建てで部屋も6部屋あり、そこにある全ての荷物を、一日で何とか片付けなければならないのだ。

誰かが数人、手伝いに来ていたが、ガヤガヤしていたと思ったら、程なく煙のように消えてしまった。
それは兄弟や母親のようだった。

祖母は絶えず無言で、ずっと私を手伝ってくれた。
だが私は突然気が付いた。「いくらなんだって、こんな大量の荷物を、一日で片付けようって方が、無理なんじゃない?」
私は直ぐに、その作業が済むと思っていたようなのだ。

それでも祖母は無言で手伝った。
私はしばらくして、また言った。
「ここにいるのも、今日で最後なんだね。もっとよく、外の景色を見ておこう」
祖母は始終無言で、表情もあまりないのだが、やっぱり根気よく手伝ってくれているのだった。

夢はそこで終わり、わたしは何か胸がいっぱいで、目が覚めた。

一族で商売をしていた私の婚家では、様々な問題が起こり、関わっていた私も否応無く巻き込まれてゆき、職住一緒だった主人の身内とはいざこざになり、家庭の外部も内部も絶えず何かでもめていて、本当に長い間、心の安らげる場所は無かった。

そんな中で方向転換した私は、デザインを仕事にすることだけを、唯一の自分の拠り所として無我夢中で毎日を送り、春夏秋冬、表面的には、何とか維持してきた家庭。

しかし深層心理の深みで私が住んでいたのは、夢に出てくる、無人の実家だったのかもしれない。
行き場の無い心が、いつも住んでいたのは、子供の頃いた家や、見知らぬ場所の小さな家、独身時代の最後を送っていた家、だったのかもしれない。

そして、こうした人の無意識に近いところでは、亡くなった人もまた、生きているものと共に居られるものなのではないだろうか。
祖母はそれとなく、私を見守っていてくれたような気がするのだ。

屋根を直していた、雨風に当たらぬように。
家というのは、ひとの心の表象なのかもしれない。そんな風に、思い当たる。

そして今、現実の上では、色々なことが変わりつつあった。
新たな大問題は起きてはいるが、それ以外の事態はどうやら好転しているのかもしれなかった。
それで夢の中の自分も、いよいよここから立ち去ろうとしているのだろう。

だが、良い方へ変わっていくと信じたい、信じたいのだけれども、余りに今まで失望が度重なったので、信じること自体が怖くてどこか二の足を踏んでいる。

「いくらなんだって、こんな大量の荷物を、一日で片付けようって方が、無理なんじゃない?」
夢の中の自分の台詞は、後で考えれば、恐ろしいほど、言い得て妙だった。
長い間の失望は、すぐには片付けることはできないのだ。

外の景色を名残惜しむ自分。
長く自分の深層心理が住んでいた場所を立ち去ろうとして、それでも少し躊躇している自分。
そこで終わってしまう夢。
どこまでも自分を手伝ってくれていた祖母。


人の深層心理の中では、こんな風に亡くなったものが生きている物のそばにいて、それとなく、無言で、後押ししてくれている、

そんなこともあるのかもしれない、そう、思うのだ。







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破魔弓

破魔弓
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本日の1曲/David Fray, Schubert: Moment Musicaux N°3



破魔弓を持てば涼しき額かな


神がどういうものなのか、誰も本当の事は知らない。

神に対する定義は人それぞれで、その大いなる代数に、色々な条件が盛り込まれる。
お国柄、お人柄、思想、体験、習慣、直感、感性、

しかし変わらぬものは、人の「願い」だ。

人の「祈り」だ。


どんなに人が願っても、世界の何処かでは戦いが無くならず、

3.11のような悲惨な天災も防ぐことはできず、

自分の身の回りからでさえ、様々な悲しいことを排除することはできない。


それでも人の「祈り」は後をたたない。
人の「祈り」は春が近づくと後から後から湧いて来るものの芽のように、誰にも止めることはできないのだ。


結婚式でさえ人前式で挙げた無神論者の知人が、
しかし車のお払いには行く。

そんな「割り切れなさ」こそが、生きるということなのではないだろうか。


「青嵐神社があったので拝む」池田澄子

こんな風な感覚が、現代の私達の大多数の「普通の感覚」ではないだろうか。

新年と言えば神社に行き、お盆と言えば仏教のしきたりで行い、クリスマスと言っては贈り物をする。

それは「雛祭り」や「子供の日」と同感覚の、「行事」なのである。

「軽い」と言えば「軽い」のかもしれない。
しかし根底にあるものは、皆同じものなのではないだろうか。

人々の「願い」、人々の「祈り」、

今年も息災でいられますよう、魂が平穏でありますよう、子供たちが幸せで、すくすくと育ちますよう、世界が平和でありますよう、

人力の及ばぬ大きな「未知数」の前に立ち尽くして、ただ一心に「祈る」。


破魔弓を持つと、その白さが、額の周りをこころなしか明るく、涼しくするようだ。

その白さは、未知の色であり、また人々の「祈り」の色でもあるのだろう。






破魔弓に空の面積広がりぬ



破魔矢持つ我の何処かにいる少年



破魔弓の月を真上に帰る道






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焚き上げの前の無言や初詣

初詣に行くと、いつもお焚き上げの前で、無言になる。
連れがいても、決まって暫く無言になる。

ぱちぱちと火の爆ぜる音と、体に伝わって来る何とも懐かしい暖かさに身をまかせて、
しばしその無言に浸かり切る。


そういえば、現代の生活の中では火を扱う機会も随分と限られてきた。
自分が小学校低学年の頃は、まだ教室では薪ストーブだったし、家は石油ストーブもあったけれど、祖母は練炭火鉢を使っていた。

久しぶりに見た「火」の前を、私はなかなか立ち去り難かった。

「火」というものは、隅々まで動詞で出来ている、と思う。

めらめらと燃え立っている炎も、小さく爆ぜている火の粉も、赤々と火照っている埋火も、すべてが動詞でできていて、ひと時も静止していない。


「火」は過去も未来も持っていない。

ただ「今現在」を、ひたすらに、赴くままに生きているのだ。





幾千の視線束ねている初日



去年今年温室効果ガスの中



寒菊に沈黙の彫り込まれた夜



洗うべきものの多さや寒の月



冬の雲慣れてゆかねばならぬ事



女客笑えば山茶花また散りぬ







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新年明けましておめでとうございます。
 
本年もまたどうぞよろしくお願いいたします。



師走・極月

師走・極月
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本日の1曲/Rick Braun - Nightwalk



また師走また交差点に立っていて



二三人男追い越し師走かな



極月の真上に月の磁石かな



電話切る言葉探している師走



「師走」というものがもし動物だったら、どんなだろう。
それは間違いなく巨大で、そして灰色なのではないか。

それでは「象」のようではないかって、
いやいや「象」のようにはゆっくり歩かないだろう。

もう少しさっさと歩くだろう。
だからと言って、ピューマだのカモシカのように敏捷では無いような気がする。

師走というものは確かに早瀬のように、あれよあれよという間にいってしまうものなのだけれども、
何と言うか、巨大で重たい灰色の追い風の塊のように、背後から人をぐーっと押してくる。

ぐーっと押されて、他へ飛び出そうったって、もう今年は残り僅かで、何処にも逃げようがないものだから、
仕方なくその 大きな追い風に乗っかってしまうしかない。

師走の大きな灰色の背中に乗っかってしまって、あれこれと忙しくしている他にないのだ。

そうすれば、師走と一緒に、自分もワーッと流されて、新しい年に流れつくというものだ。

「師走」のようなものには下手に抵抗しない方がいい。

「師走」と一緒に、流れて行ってしまった方がいい。

背中に乗って、まんまと新しい年に、行ってしまった方がいい。








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ひと呼吸すれば山茶花ひとつ咲く



寒林に深く入日の迷い込む



水平に運ぶケーキやクリスマス



人の縁少し動きぬ冬星座



晩年に計画ひとつ冬茜



この眠り続いていきぬ枯野へと


以前、冬に初めて旅をして、枯野というものの美しさに心底驚いた。

街育ちの自分には、行く人がいつまでも見えているような、そんなだだっ広い空間というもの自体が、そもそもカルチャーショックだった。

枯野には、取り付く島のようなものが無い。

頭の周りをブンブンとうるさく飛び回っている蠅のような、言葉や意識の絶え間ない企てや選別が、無い。

言ってみれば、ひとの心の下層に広がっている、無意識というものが、風景として表象されたような、そんな茫漠とした郷愁に満ちている。

そう、それは何か、沢山のものを、忘れている。
沢山の生きる為の仕業や目論見を、キレイさっぱりと、忘れている。

余計なことを忘れているということが、こんなにも力強く、人にとって根源的なのことなのだということもまた、普段の生活の中では意識されずに通り過ぎてしまうのだ。

この感じは、海にも、似ている。

人があまり訪れなくなった、秋の海の、少しふてくされたような投げやりな波。
茫漠とした海。

茫漠としているものは、全て人の後頭部に臍の緒のようなもので繋がっているのではないか。

だだっ広い眠りへ人が小さな意識の小舟を逃す時、それは枯野へと、あるいは秋の海へと、真っ直ぐに繋がっていくような、そんな気がする。





末枯野何か忘れてきし思ひ   中村苑子


枯野なる心の内を旅すれば   司修


日と月の絶えずめぐれる枯野かな   林周平


蓄音機針は枯野におりてゆく  あざ蓉子


手鏡の中の枯野を見てをりぬ   穂坂日出子


満天の枯野の星のみなうごく  松本浮木


枯野明るし抽象の鳥生んで  秋尾敏








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2018年も残りあと僅かとなりました。
今年も皆さんが訪問してくださり、また応援してくださったおかげでとても心の支えとなりました。

新たな年が皆さんにとって、世界にとって、良い年となりますように。






お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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