カンナ

カンナ

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本日の1曲/Larry Carlton SILKY SMOOTH


血縁の濃き眼差しやカンナ咲く



カンナ咲き遠く生れる原野かな



潮騒に背いて佇ちぬカンナかな



赤カンナ僧の黒衣の触れゆきぬ








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夏木立誰も誰かを守りたく



物語どこまで続く夏木立



虹立ちぬこの曲の始まるところ



息子とは返事せぬもの蝸牛



口紅を塗って炎暑に呑まれゆく



策を練る眼では金魚を追いながら



言ったことすぐ翻し金魚かな



象走る夢を見ていた夏の月



まだ聞かぬ蝉の声待っている部屋



雨に死者暑に雪に死者地球かな


もう数年前のことになるが、電車でPTA時代の顔見知りに会って、「暑いですねー!」ということになった。
「扇風機5台フル回転ですよ」と私が言った。むろんそれですまなければ、クーラーも使うけれども、とりあえず、回せるだけのものは回すのだ。

すると、相手は「扇風機?」と言ったなり、不思議そうな遠い眼差しになってしまった。
そしてしばらく間をおいて、「扇風機、そういえば家の扇風機、どこにしまいこんじゃったのかしら。確かに一台あるにはあったんだけれども」と言う。
そうかあ、PTAったって、世代が違う。私より10歳は若いだろう。
5月、6月の暑さのしょっぱなの頃、すでにもう「暑い」即「クーラー」と言う生活が普通なのかもしれない。

「なんか暑いわね」「ピッ‥‥」

扇風機なるものは納戸の片隅に忘れ去られていても、何も不自由を感じない生活もあるのかと、内心驚いた。

そうかと思えば郊外の一軒家に住む友人は、風通しも良いのだろう、一階、二階、全部で9台の扇風機を使っているが、クーラーを殆ど使用せずに夏を過ごして行けると言う。

最も、住まいの温度というものは、千差万別。
立地条件、建物の設計の違い、周りに木があるかないか、何階なのか、様々な条件で同じ地域とは思えぬほどの温度差が出てくるから、こればかりは同一線上で語ることはできない。

家の場合、大いに役立っているのは、5台のうちの1台、リビングに置いた、羽根を回す円い部分が直径50センチくらいはある、大型扇風機だ。
こういう大型扇風機は、倉庫などで使用するゴツイものも多いのだが、ひとつだけ、まずまずリビングにおいても違和感のない、白い、スマートなデザインのものを見つけたのだ。
旅館などの風呂場にあるのは、またもう少し大きいような気はするが、とりあえずこれは物凄く役に立っている。
むろんこれがあればクーラーいりません、などどいう生易しい場所ではない。

だが、5月の暑い日や、6月の蒸す日、この大型扇風機でリビング全体の空気を動かすと、クーラーは使わずとも過ごせる。
7月になってからも、クーラーを使用した日のほうが、使用しなかった日より少ない。
風が抜ける日は、何とか使わずに居られるのだ。

3階建ての3階、つまりは最上階だから、建物全体の熱気もこもれば、2か所あるベランダも少し大きめなので、そこへ照り返す日差しの量は半端ではない。
そのベランダに、以前は葦簀を張っていた。
普通の横に長いベランダではなく、横幅は狭く、奥に深いベランダなのだ。
ただ単に葦簀を立てかけるのではなく、僅かに出ている庇のようなものから、ベランダの突先に固定してある物干し竿まで、殆ど水平に、要所要所を縛り付けてあったのだ。
もっと前には、それ程細かく固定はしていなかったのだが、大風のたんびに竜の如くのたうち回り、うるさいことこの上ないので、しっかりと沢山の場所を固定したらば、今度はそのままの態勢で、台風などが来ると、バラバラに分解してしまうのだった。

それを片付けて、また新たに同じことをしても、またおなじ結果となるのであきらめて、今度はよくホームセンターに売られている、サンシェードの、遮光の布のようなものを使うことにした。

片方は短い庇に固定し、もう片方をベランダの手すりに固定してしまうと、斜めに空間を塞いで、風をかなり遮ってしまうので、色々と工夫して、やはり物干竿の方に固定し、水平に近い感じに布を張り、風の行き来をスムーズにした。そのかわり、大風の時にどうなるかわからないので、庇側の固定も5つくらいに増やし、物干し竿側も、工夫して、取れないように固定する。
飛んで行かぬよう、布の庇側と物干し竿側の両側を頑丈な紐で、結び合わせる。
むろん物干し竿自体も吹っ飛ばぬよう、色々と手は尽くしてある。

これが完成すると、だいぶ温度が違った。エアコンの効き方が違うようだった。
葦簀の遮光量よりすぐれているようだ。

何と言っても、葦簀がばらばらになってしまった後、何もつけていない時は凄かった。
「暑い」と思うより先に、「気持ちが悪い」という感じだったのだ。

それでも、風の無い日はお手上げだ。
しょうがなく、クーラーを稼働する。

クーラーを使った日に、気を付けているのは、夕方に温度が下がったのに、気づかないでいることも結構多い、ということだ。
5時になったら、止めてみる。ベランダに出てみる。
夜中までどうにも暑い日もあるが、まだ夕方からは楽になる日も多い。こういう時に、閉め切っているから気が付かず、クーラーをつけっぱなしということも多い。


地球の気温が上昇すれば、海面からの水分蒸発が活発になり、豪雨や豪雪も増えてゆくと言う。
世界の色々なところで「史上最高の被害」と言われるようなハリケーンも起きている。

ノルウェーの首都オスロでは、自家用車利用が減らないために、公共の場の駐車場を排除するという過激な政策が実現に向けて動き出したそうだ。

スイスの企業とアイスランドの企業が協同で開始し始めた二酸化炭素回収プログラムは、大量の二酸化炭素を地下に送り込み、石に替える技術だと言う。

米大学では、二酸化炭素をエタノールに変える方法が、偶然発見されたとのことだ。

世界中で様々な研究や取り組みがなされている。

間に合うのだろうか。
間に合ってほしい。

それにしても便利な世の中になった。ネットの通販だ。クリックひとつで、最速次の日に、欲しいものが手元にやってくる。
しかし宅配便の取扱個数は、年々増加する一方で、2006年には約30億個だったものが、2016年には、役40億個になってしまっているという。
このままのペースで取扱件数が増加すると、自家用車の使用を減らすどころではない。
何か対策はないのだろうか。

せめて再配達をしなくて済むように、全て時間指定ができるようになるといいかもしれない。
でももっと画期的な対策は無いものだろうか。
たとえば軽いものだったら、コンビニなど自宅以外で受け取った場合、エコポイントのようなものがついて、若い人が喜ぶような、なにか「いいもの」と交換できるとか、送料が半額になるとか。駄目かなあ。

それから、根本的な問題だと思うのが、日本の現代の集合住宅は、つくづく風土に合っていない設計のものが多い。

「風が通る」設計になっている集合住宅はとても少ない。
とにかく部屋数を取るために、解放部が一つの方角だけの住居も多い。
これでは、クーラーを使わずに居られるわけもない。
その一つの方角の解放部さえ、防犯上夜寝る時はは閉めてしまうのだから、夜通しクーラー稼働しなくては、病気になってしまうだろう。つまり現代の日本の集合住宅は、クーラーをフルに使用することを前提として作られているのだ。

この辺を、どうにか改善していってほしいものだ。
「風が抜ける設計」これを集合住宅を設計する時の、必須条件にする方法はないのだろうか。

それから、空気が流通できるように、ブラインドのようになっているシャッター、こういうものを、集合住宅を作る際にとり付けるべき必須のものにする、あるいは取り付け費用に補助金を出すなどなど。

ああ、でもこれは一般の個人住宅でもヘルプしてほしいなあ。

ソーラーシステムなんぞ、いくら補助金を出すと言ったって、庶民にはあまり関係のない話になってしまう。
もっと現実的かつ一般的な部分にこそ、サポートが欲しい。

しかし、一介の主婦がこんなことを色々と考えたって、何になるわけでもない。
身内の者に言ったとて、一笑に付されて終わり。

それでも、考えずにはいられない。
祈らずには、いられない。


間に合うのだろうか。

間に合ってほしい。



(西日本豪雨は死者200人にのぼり、今なお安否不明多数だとのことです。
被害に合われた方、大切な方を亡くされた方、心よりお見舞い申し上げます)









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七月アラモード

七月アラモード

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本日の1曲/Eva Cassidy - The Water is Wide



七月の太陽水に増えゆきぬ



七夕や星の釦の掛け違い



夏帽置く隣に誰かいる如く



夏帽のゴム紐の伸びていた頃



悔恨を遠ざけていて百日紅



脈略の無き風の道百日紅



昼寝して戻る宇宙のこぼれ種



金魚草ソナチネゆっくり分解す



金魚草街を泳ぎぬ付け睫毛




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夏の雨生きとし生けるもの濁し



夏の雨我の思いを逃げ切れず



去る者は追わぬ涼しさ百合の花



聖堂の沈思黙考百合の花



蜜豆や核心をずれてゆく話



月見草どこかで誰かが眠らない


        
月見草離れて月ののぼりゆく


「月見草」というのは、正しくは白い花で、朝方に萎むとピンクに変わるという、清純な感じの可愛らしい花だ。
それを知ったのも、それ程前ではないし、自分の見てきて、俳句に読んできた月見草は、「オオマツヨイグサ」であることも分かっているのだが、やはり「月見草」という言葉から、句をイメージしたい気持ちがある。

それはまあ、自分の身の回りに白い本物の月見草が無く、まず一度も見たことがないことと、何と言っても、あの大待宵草の、月のひかりを隅々まで浸み込ませたような、やや淡い黄色のせいには違いない。
ちなみに自分の持っている歳時記には、「月見草」とあり、その下に同義の言葉として、大待宵草とある。

実家の向かいの空き地には、夕暮れ時に、沢山の月見草が咲いた。
それは家から見ると、東の方角なので、出たばかりの大きな月が丁度月見草たちの上へ、祀り上げられるかのように現れる。
夕闇がまだ暗くなり切っていないので、月はまだ煌々と輝いてはいず、のっぺりとした黄色の色彩が勝っている、そんな時間の光景だ。

だから光沢感の無い、マットな感じの黄色が、月見草の黄色の調子と同質で、月見草はさながら月の子供達のようだった。

しかし、街中なので、月見草の空き地と大きな月の間に存在しているのは、ビル群や大きなクレーンや、マンションなどの暗い立方体たちなのだけれど、それはそれでまた、不思議な神秘的な風景になっていた。

思えば思春期の間、自分は「月」というものに非常にこだわりがあった。

「月」あるいは「月のような球体」を含んでいる絵画にとても愛着があった。
自分でもちょっとシュールな油絵を描いていたりしたのだが、大抵キャンバスのどこかに、月が存在していた。
むろん今だって、月は好きだ。
でもあの頃の、物凄く求心的なストイックな憧れにはついてゆけない。(笑)


若い時、一時私とは対照的な性格の女の子と親しくしていたことがある。
頭が良く、何につけ積極的で、恋はどんどん自分から探すようなタイプだった。

彼女は、ハードカバーの重たい文学書を抱えて、超ミニのスカートで電車に乗る。
電車の中で本を広げ、彼女が小説の中から気に入っている箇所を隣の私に読み上げる時、

周りを憚らぬ充実した陶酔があって、そういう所が、少なからぬ人を魅了してしまうのだった。

殆どの若者の中には、芯にグラグラしている空洞のようなものがあるのではないだろうか。

そんな心許なさが、彼女にはほとんどないのだった。
他の若者と同じく、わけの無い絶望のようなものはあるし、悲しみも哀しみも持っていた。
しかし空洞のようなものはなかった。

やがて彼女は自分に合った仕事を見つけ、どんどん周りの者より先に、大人になった。

いつまでも自分の道を決められずに、ウロウロとしていた自分とは、もう付き合っても面白くなかったのではないだろうか。そのころから私達はあまり会わくなった。
そんな最後の頃だったのだと思う。

二人でどこかで呑んでいて、何故か「月」の話になっていた。何処をどう辿って「月」が話題の主役になっていたのか思い出せない。彼女はSFも好きだったし、宇宙の科学的な話も好きだったから、「月」に対するアプローチの仕方も、単に芸術的な方向しか持たない私とは、また違っていたのだろう。

彼女がいきなり私に尋ねた。「月と太陽、どっちが好き?」
「月」と私は答えた。

すると彼女は言った。
「月は自分では輝けない」

その言葉が何か深いところまで落ちていったのを覚えている。
だが若かったから、その質問自体の幼さには、まだ気づいていなかった。



それから何十年もたった。
私達はあれ以来、一度も会うことはなかった。

40代、50代、怒涛のように、色々な事が私の身の上に起こった。
全てが、予想外というか、自分の漠然とした航海図にはなかったものだった。

しかし様々ないわば理不尽が、梃になった。

私は猛烈に勉強し、私の持っている能力をささやかな一つの仕事として実らせることができた。
仕事が忙しい時もあれば、ふっつりと切れてしまうこともある。
彼女から見たら、一笑に付すような小規模なものかもしれない。

それは小さな夢の小さな実現だが、私にはそれで十分だ。

私は彼女のように、光り輝くような自信なぞ、幾つになろうとついには持つことはできなかった。
自分の人生をどんどん新しい世界に切り開いて行くような、積極性も持っていない。
周りを憚らず詩の朗読ができるような、堅牢なマイ・ペースも持ち合わせていない。

でもただ一つわかったことは、
私を本当に幸福にするものは、私が元から持っているものなのだ、ということだ。

私らしく生きていけば、そこから新たな枝は生えてくる。
人は他の誰かになる必要なんかない。

私の他に、誰も私を生きてなんかくれないのだ。







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白粉花

白粉花

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本日の1曲/Simone Kopmajer - "Don't Let Me Be Lonely Tonight"



夕月の置き忘らるる白粉花



白粉花や路地を俯瞰している雲



白粉花や床屋の看板色褪せて



白粉花や空のどこかに甘い水



白粉花の紅浮きて裏切られ


幼なじみと言えども色々で、トラブルメーカーのような女の子が一人いた。
A子ちゃんは、すぐ近所に住んでいる三人兄弟の末っ子で、女の子だけれども運動神経抜群で、気が強く、気に入らないことがあれば、すぐに怒り出し、つつがなく遂行されていたままごとなどはは、一瞬にして木っ端微塵になってしまうのだった。

どんな子との組み合わせで遊んでいても、彼女が来るとそうなるまでは時間の問題だった。
「入れてー」といってずかずかと強引に入って来るので、入れないわけにはゆかぬ。

最初こそ、その日のままごとのルールに何とか従っているものの、15分も経過すれば雲行きが怪しくなり、堂々とルールを破り、ずるい事をするのに異議申し立てをした途端、わーっと怒りだして、ままごとの道具やら花の種やらをぐちゃぐちゃにすると、
ぱっと立ち上がって、駿馬のように、鮮やかに逃げてしまうのだ。

「A子ちゃんって…ひどい。」
年下の子はいつも泣かされた。

どこにでもいる、こういう女の子。活発で、素早くて、ずるくて、逃げ足が速くて。

子供の社会だって結構過酷だ。
裏切りなどは日常茶飯事。

彼女ほどではなくとも、子供というのは大人が考えているほど純真なんかではない。
なんたって、大人の雛形で、大人のように調教されていないのだから。

かけ引きもあれば、裏切りもあれば、だまし合いもあれば、策略もある…なんでもありなのだ。

あれは今から10年くらい前、とあるカフェで彼女らしき人に偶然行き合わせた。
私から3メートルくらい先の席に、彼女はひとりで腰かけて、ランチを取っていた。
私からは良く見える席だが、彼女の方からは、やや振り向かないとこちらは見えないし、私には全然気が付かないようだった。

あれから一体何年たったのだろう。

あれからほどなく、私たちは引っ越してしまったから、
優に40年は経っている!

その辺の路地に溢れるように咲いていた白粉花の種をあつめて、ままごとのお茶碗に入れて、そうして遊んでいた、あの少女の頃から。

それなのに、私には彼女だということが、すぐにわかるのが不思議だった。
幼馴なじみとは、こうしたものなのだろうか。

彼女は、とても美しくなっていた。
考えてみると、子供の頃の彼女は、美少女とかいうタイプではなかったが、目鼻立ちは、整っていたのかもしれない。
すっきりした顔立ちだったが、何せ悪い事ばかりしているので、イメージの悪さが顔立ちの良さを完全に消していた。切れ長の目は意地悪そうな吊り目に見えて、すっきりしていた輪郭は、ずるがしこい狐のようにやせ細って見えた。

だが、私がびっくりしたのは、彼女が美しくなっていたことではなく、彼女の雰囲気が、全く別人のようになってしまっていたことなのだ。

なんていうか、繊細で、内気そうな、儚げな。

幼い頃の、生き生きと負けん気だったA子ちゃんの雰囲気は微塵も無く、そこにいたのは女らしく、気遅れがちな、そう、最も彼女のイメージからかけ離れていた、「臆病そう」な空気をしょっていたのだ!

ひとりでランチを取っているその時の、ちょっと不安げな感じ、周りを何とつかず見ている気後れがちな眼差し、パンやコーヒーカップを持つ時の、繊細な手の動き。

そこには、指の先から足の先まで俊敏な負けん気に溢れていた、あのA子ちゃんの魂のようなものは、全く感じられなかった。

どんな人生が彼女にあったのか、それはわからない。
あるいは、単に成長したと言うだけの事なのかもしれない。
単に成長するということだって、それは大変なことなのだ。

成長するということは、哀しみの川をいくつも渡るということだ。

自分が哀しんだ事の無い人間が、人の哀しみを想像できるわけもない。


けれども、私はどことなく拍子抜けしていて、どことなく寂しかった。

あんなに嫌いだったA子ちゃん。
仲良くできるのは、15分を切ったことがなかった、A子ちゃん。
皆の遊んでいたままごとの茣蓙を引っ張って、ひっくり返してあっという間に逃げてしまったA子ちゃん。

つむじ風のようにスピーディーで、中性的だったA子ちゃん。


2足す2は3だよ、と言われたような、納得できない感じを心のどこかに持ったまま、

私はそっとA子ちゃんを残して、そのカフェを出た。










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サルビアや駅への流れに混じり行く



サルビアに僅かな夕焼け憔悴す



堰き止めているあれこれを梅雨の月



魂即生身となりぬ炎天や



炎天の人の背中に飽きてをり



枇杷の種昔話を蓄える



枇杷の実や子供幾たび寝返りす



退屈というは懐かしアイスコーヒー



掌はやわらかきもの合歓の花



一瞬の睡りの深さ合歓の花






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本日の1曲/Eliane Elias - That's All



風ひと吹き千の蓮の葉裏返り



水の星覆ってゆきぬ蓮かな



人形のやうな軽さで蓮の花



蓮の下魚ゐて虫ゐて蛙ゐて


千葉公園へ大賀蓮が咲いているのを見に行った。
三百本咲いているということだったが、まだ満開というほどではない。蕾もたくさんある。

だが蓮の葉の大きいこと、逞しいこと、植物というより動物めいていて、肩のあたりでわさわさと揺れていると、自分が何か小さな生き物のようななったような気がして、その非日常的な感じが、やけに嬉しい。

人が多かったせいもあるだろう。
蓮の花は神秘的というより、「不思議可愛い」という雰囲気。

お昼のバラエティ番組のような快活な音楽を大きな音で流していたのは、どうかなあ。
ちょっとなあ。
別にアジアンな音楽で無くてもいいし、崇高な音楽でなくてもいいから、せめてゆったりしたテンポの音楽にしてもらいたいものだ。

蓮が少し途切れている池に、鴨が三羽、泳いでいたが、柴犬を連れていたおばさんが池のほとりに座り込むと、一斉に寄って来た。
池の縁とはいえ、30センチくらいの低い垣根で囲ってあるから、おばさんはその外側に座り込んでいるのだが、やおらポケットから何か取り出すと、手にのせて、鴨たちに食べさせ始めた。

犬は鴨の方を見ようともせず、悪いことは全くしないで、大人しくおばさんの仕事が終わるのを待っている。

覗き込むと、おばさんの手には、ぎっしりと茶色い豆のようなものが入っている。

「それ、何ですか」と訊くと、

「猫の餌!」と機嫌の悪そうな声が返って来る。

「あー、キャット・フード、食べるんですかあー!」と言うと、

「何にも食べさしてもらってないんだよ!」とほとんど怒ったような声。
見れば三羽の鴨は、右から左から、我先にとおばさんの手にせわしなく首を突っ込み、大変な餌の競い合いだ。

「ほらねっ!お腹へってるだろ!」おばさんはプンプンしている。

こういう人は、きっとこのキャットフードを持って歩いてるに違いない。
その辺の公園や空き地に出没する野良猫たちにも、きっとこうして配給しているのだろう。

そうかと思えば、あちらから歩いて来るおじさんは(いや、おじさんなんていったって、きっと私より十歳くらい若いのかも。)

色んな人を捕まえて、喋りたくてたまらないらしく、何やかにやとまくし立てている。

私が蓮の写真をスマホで撮っていると、「おー、いい写真、とれましたかぁー」と寄って来た。
なんかイタリア人みたいなアクセントだなあ。

「いーえ、写真下手だから」というと、

「写真なんか、ドンドン撮ればドンドンうまくなりますよー!
いいですねー、蓮一杯でねー、
私はね、長く中国にいたんですよー、いいですよー、中国!」

悪い人ではなさそうだけど、思いっきり飛ぶ話についていけず、写真を撮るのに夢中なふり。
まだ喋っていたけれど、諦めてベンチの方へ行って、次の二人連れのおばさんたちに話かけ始めた。

するといきなり、「ガオオオー」
突然至近距離で巨人の鼾のような声が。

「何今の?」とびっくりしている人に、連れが「あれだよあれ、がまがえる!」と言っている。

多分、最近色んなところで、騒音公害になっているという、「牛蛙」という大きな蛙だと思う。
いつぞや早朝にここの蓮を見に来た時、あちこち「ゴオオオオー」「ガオオオー」という声ばかりで凄くうるさく、まるで牧場のようだったことを思い出した。

蓮の下には、色んな生き物がいる。池の中には鯉もいるし、鴨もいれば、亀もいれば、蛙も居る。
肥沃な湿地で、沢山の蓮の葉に守られるようにして、様々な生き物が棲息しているのだろう。

小さな赤ちゃんを連れている若い夫婦もいた。
奥さんが一生懸命、赤ちゃんを蓮の葉の上に持ち上げて、蓮の葉に乗っているように、写真を撮って、と夫にせかしている。
いい塩梅に、めくれかけた蓮の葉を、赤ちゃんの柔らかな手が掴んだ。

はい、パチリ。


その時大きなひと吹きの風のかたまりが、通り過ぎた。

今日咲いているだけで花が三百というからには、葉となれば千枚くらいは軽くあるだろう。
もっと、もっとあるだろう。

その大きく分厚い蓮の葉が、象の耳のように、ゆったりと風に裏返ってゆく。

手前から奥へ向かって、順々に、ゆっくりとめくれあがっては、また戻る。

蓮の葉の海が波立つ、その鷹揚で優雅な、大きな野生の動物のような、動き。

それは実に素晴らしい、眺めるに値する光景だった。








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六月の水に畳まれている日暮



六月のエレベーターにひとりかな



六月や夢の真白き根が太る


六月は明け易いせいだろうか。

眠りが遠浅の海岸のようにうっすらとしていて、何かと目が覚める。

ひっきりなしにあんまり意味の無さそうな夢をみていて、それが砂浜の残留物のように、意識に残っている。

変な夢だった。
でも非常に印象に残っていて、なにか大事なことを言っているような、いないような。
そんな夢がよくある。

今日はいつも行くブックカフェの入っている百貨店の夢だった。
一階の、化粧品売り場のカウンターの売り場で、きれいなお姉さんが、黒っぽいスーツに身を固めて、私に何か説明していた。

実際に売っているのは、化粧品ではないようだった。
何だかよくわからないけど、指輪だの、コーヒーカップだの、なぜかスマホの新機種だの、統一性の無い物が、ひとつのカウンターで売られていた。

説明を受けながら、私は必死で何かを探していた。
何を探していたのか覚えてないけれど、やけに急いでいた。

するときれいな売り子さんが、
「実はね」と言って、「これはお売りできないんですが」と言って、

カウンターの内側に、私を招き入れた。
中に入るや否や、私はびっくり仰天した。

カウンターの内側の、いろんな抽斗やら本立てのような空間には、
南瓜ほどもある大きな球根だの、土に植わったままのほうれん草ぐらいの丈の花の苗だの、クロワッサンほどの大きさの蝉の抜け殻などが、ぎっしりと置いてあったのだ。

そしてカウンターの中の、扉の付いた小さな開き戸をお姉さんが開けると、そこからどっと水が出てきて、ますますびっくりして、目が覚めた。







でで虫や遠くのものを遠いまま



物音も立てず一週梅雨深し



息つめて紙切ってゐる梅雨深し



梔子香池の輪郭が溶ける



五月闇扉開ければまた扉



涙腺を伝わってくる梅雨の星




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緑蔭2

緑蔭

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本日の1曲/Ennio Morricone - The Mission - Yo -Yo Ma



緑蔭やすべてひとつに物の影



緑蔭に記憶のテニスボールかな



緑蔭に紛れず白いシャツ来たる



太陽の残像逃げる緑蔭に


「緑蔭」という言葉からふっと連想するのは「オーケストラ」とか「交響楽」とかいう言葉だ。
自分はクラッシックも聞くけれど、「交響曲第何番」とかいうのは、ほとんど聞かない。
バイオリン、チェロ、ピアノ、たまにフルートとか、器楽曲で、「ソロ」のものが一番しっくり来る。

「交響曲第何番」という手合いは、今の私にはエネルギーの密度が高すぎて、あるいは曲の体積が大きすぎて、台風のように「バーン!」と来られたりされたら、「それでは失礼します」と言って、くるっと後ろを向いて、家に帰ってしまうだろう。

あの大河のようなエネルギーの塊に、入ってしまえばさぞかし気持ちがいいのだろう。
でも私は、遠慮しておきます。
多分ああいう曲を聴くには、圧倒的に基礎体力が足りないのだと思う。

話は逸れたが、緑蔭のオーケストラは、主に「交響曲第何番」の第二楽章のような、ゆったりとした曲を演奏しているのではないだろうか。
沢山の木や草花が絡み合って風を抱いている「緑蔭」は、やはり沢山の数の楽器が重層を成しているオーケストラを思わせる。

時々パッと木漏れ日が射して、囀りが飛び交ったりするのは、管楽器の音。
緩やかな風を順々に抱いている樹々の枝は、大小様々な弦楽器。

それにしても、この頃すっかりCDを聴かなくなった。

何で音楽を聴いているかというと、PCで、主にYouTubeで聴いているのだ。iTunesから聞いている時もある。
数年前に、音楽関係の仕事をしている知り合いが、白い鳥の卵のような(色は他にもブラックがあったようだが)スピーカーを私に勧めた。あの頃、阿川泰子が宣伝に出ていた。
Olasonicというメーカーのもの。

このスピーカーをPCに繫いだら、なかなかの「音」なのである!

とはいえ、本当のオーディオ・マニアが聞くようなものとはちょっとスケールが違うものだと思う。
低音がビンビン来なくてはだめ、というようなジャンルのスピーカーではない。

でも直径10センチくらい、高さ15センチくらいのコンパクトな、場所を取らないスピーカーにしては、なかなかの音である!お値段も、1万円そこそこだったから、コスパ優秀。

形ははっきり言って気に食わない。
別に、白鳥の卵とかじゃなくて、フツーの立方体でいいんだけどなー。
これがモニターやデスクトップの、とっかかりのな直方体の只中に、ででん、と左右に立っていると、収まり悪い事極まりない。

でも、まあ、この音ならそこは目を瞑る。このスピーカーをPCにつけたらば、こっちの方が良くなってしまって。

音楽が自分だけの趣味ならば、主婦の分際で大きな本格的なオーディオセットなど買うわけにわゆかぬ。
だからといって、安かろうなミニ・コンポのどんより曇った音だったら、こっちの方が全然イイ、という選択だ。

そして、きつくなってきた老眼でCDを物色して、やっと引っ張り出し、ジャケットから出して、プレーヤーに入れて、聞き終わったらまた出して、ジャケットに入れてしまって、という一連の行動が、忙しい毎日の中で、「やってられんわい!」てなことになって来る。

こうして主婦は音楽から遠ざかる!
という感じ、だったのである!数年前までは。

それがこの白鳥の卵のような不思議な形のスピーカをPCに繫いでからというものの、縦横無尽にジャンルを超えて音楽を好きなよーに楽しむことが、億劫でなくなった。

仕事をしながら、ブログを書きながら、通販で買い物をしながら、気軽に音楽を楽しめるようになった。

息子などは、これまた音のいい、無線のイヤホンを持ち歩いて家で聴いているが、私はどうも家では特に、イヤホンという物がうっとうしくて、駄目である。やや大きい音が好きなので、昔使っていて少し聴力も落ちた感じがして、やめた。
音楽は、空気のように、そこいらへんに、「漂っていて」ほしいのだ。

ただ、そのアーチストのメジャーな一部分の曲しか見つからない場合も多いし、あくまでも曲単位で、それが入っているCDの全体像などはわからない。(時にはCD丸ごとアップされているものもあるが)

そういう時は、iTunesの音楽サービスだ。ここでじっくりと曲の入っているCDを調べて、聞きこむ。
つまり、音楽を探すのはYouTube、調べたり、聞きこんだりするのはiTunes。

こういう感じが自分にはピッタリくる。

だから私は非常に長い音楽ブランクがあったのだ。
生活に追われていると、CDというメディアだけで、新しい音楽、或いは自分の知らない古い音楽も含めて、ミュージックライフをどんどん更新して行くのは、どうにも無理がある。
同じものばかり繰り返して聴いていると、自分自身もなんだかいかにもマンネリ化してくるようで、重い。
良い音のスピーカーをPCに繫ぐだけで、色んな楽しみ方ができるようになった。

こうしてまた私は、めでたく音楽のある暮らしに復活したのである。



音楽は道行く人の、緑蔭のようなものだと思う。

そこへ一歩踏み込めば、ふっと体中が弛緩するような、自分の色んな思いをその中へ、逃がせるような。





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梔子香濃密な時間の停止



梔子や呼吸が深くなる夕べ



明け易し洗われている言葉たち



明け易し透明な蝶となる瞼



明け易し留まるもののひとつ無く



物語の魔法が溶ける明け易し



サクランボ大き男の手で掴み


「若き日を食らふが如しさくらんぼ」林翔

全くだと思う。
あの、皮のちょっと突っ張った感じ、それを歯で破った時の、最初の酸っぱさと、後からじわっと混ざって来る甘さ。
青春を一瞬で追体験するような、味覚。

ぼんやりと曇った頭が、隅々まで覚醒するような、美味しさである。



硝子器に水滴付いてサクランボ



紫陽花や答えの出ないままにゐる



青という色の重さや紫陽花咲く



前行く人次第に遠く五月闇












すみませーん!

またやってしまいました、書きかけブログの手違いアップ!
へんてこりんな書きかけの「緑蔭」をご覧になってしまった方々、どうぞ黒板消しでその記憶を掻き消してください。

また、書きかけブログに嬉しいコメントを早々と下さった、桃香さん、あなたがコメントくださらなかったら、まだ気が付いてなかったかもしれません。ありがとうございました。

それでは、こういうことが又あるやもしれませんが、どうぞ一笑に付されて、懲りずにお付き合いくださいませ。






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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