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白粉花・夏アラモード2

白粉花

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夕風はすこしづつ来る白粉花



白粉花路地に入れば歩を緩め



オーデコロン空に揮発す白粉花



行き止まる言葉白粉花密生す



白粉花わたしの中にある空き地

空き地というのは、私が子供の頃は町中でも結構あった。
それぞれに名前がつけられていたりして、「今日は『アマゾン
で待ち合わせ」などと言っていたものだ。
昨今はあまり見かけない。
時たま売地などで見かけるのだが、土がむき出しになっているのを見ると、無性に懐かしく、気持ちがいい。
づかづかと入って行って、わーっと掘り返したくなるのは、幼少時の砂場のノスタルジーなのだろうか。
しかしこの季節になれば、どんな空き地でも、背の高い生命力旺盛な夏草の坩堝となり、人が気軽に入るのも、ちょっと難しい。

俳句を作るとき、いつも色々と頭を悩ませ、今現在と、たぶん今までの生涯全部の時間を使って、様々なイメージの情報網を手繰り寄せては作るのだが、(それにしては出来てくる句がなんか単純。)
色んな情報やら情感をお供えもののようにたくさん並べても、そこから後は、その後ろの高い塀の向こうの空き地で、そのシステムが不可視の状態のまま作られて、「ぽろっ」と出てくるまであとは待つのみ、というなにか「神頼み」とどこか似ている状態で作る。
というか、こういう風にしかできない。

無論推敲とか手直しとかはする。
でも大体決まった状態の原型は、必ずそのぽっかりと空いた、すべての情報から遮断された空き地にいったん投げ込まないと、出てこないのだ。

空き地に投げ込む以前に出来る時もあるのだが、どうもこれがおいしくない。
生煮えなんである。

でも空き地が作るからには、空き地任せで、こちらでコントロールできない。
ぽろっと3分で出てくるときもあれば、2時間待ってたって、うんでもすんでも無い時もある。
でも待つしかない。
だから私には、何人か集まってする吟行などというのは、無理だと思う。

不思議なものだ。コントロール出来ないところで、生産されて出てくるのだ。
何故コントロールされているところからは、生煮えのものしか出てこないのか。
どう考えても不思議なのだ。

だからいつも、私は俳句を作っていることに、自信が持てない。
俳句の良し悪しの問題ではなく、「私は俳句を作っています」と、胸を張って言えないような、感じがある。
だって、空き地が作っていて、それは歩いていたら上から落ちてくる柿の木の柿のようなものだから、作られる瞬間については、自分が精魂込めた記憶がないからだ。

お供え物を並べて、ずーっと考えていても、考えている同じその場所からは、言葉は出てこない。
裏の空き地から、突然、ぽろっと、出てくる。

だから、自分が作っている感じが半分くらいしか、実感がないから、なにか自信が持てないのだ。



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夏アラモード2

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扇風機羽を透かして人を見る



夏の夜意識はすぐに底抜ける



短命なホースの虹や日日草



峯雲や去年のサンダル草臥れて



峯雲や一難去ればまた一難



夏草や必死で逃げる夢の中

必死で、夏草の生い茂る草地を逃げていた。
何から逃げているのか、定かではないのに、定かではないということが、余計に恐ろしいのだった。
それは影のようだった。
誰かの影のようだった。
それは「善い人」の影のようだった。
「善い人」の影は、普通の人の影よりも、黒くて、暗かった。
そして「善い人」の影は、それぞれの「善い人」から遊離して、すぐに沢山の影が、合体して、ひとつの巨大な影に変質していくのだ。

今逃げているのは、その巨大な、ひとつになった「善い人たち」の影からなのだった。

その影は私を追い込んでいた。
みるみるうちに、私はその巨大な影に追いつかれてしまった。
おまけにふと前方を見ると、大きな湖があり、その岸辺が迫っているではないか。
絶体絶命。
後方を振り返ると、巨大な影の、濡れた硯のようなおそろしい漆黒の闇が、私を一飲みにしてしまおうと、せりあがって、いる。

「わあ、どうしよう」
気が付くと、湖の岸辺に、いつの間にか、一隻の小さな白いボートがゆらゆらと揺蕩っている。
考えている暇はなかった。
私はすぐに、その船に飛び乗った。
オールを力の限り思いっきり掻いて、何とかボートは岸辺から離れていった。
黒い巨大な影は、草地の端で、悔しそうに、馬のような声で、いなないた。

「あああ、助かった。」
私は取り合えずほっとして、その湖の美しさに気が付いた。
湖の色は、「緑青」と言われるような、水色と緑の間のような、得も言われぬ美しい、色だった。
空を見上げてみると、真っ青な夏空に、子供の頃絵日記に描いたような、白い、陰影の深い、入道雲がむくむくと浮かんでいた。

「なんて美しいんだろう」
私は感激して、深呼吸した。

しかし、ふと下を見ると、なんということだ。
一生懸命に漕いでいるのに、ボートに少し水が溜まってきている。
「えーっ!」
じっと見ていると、その水は増えている。浸水しているのだ。
「困った、どうしよう」
周りを見渡すと、もうどこにも岸辺が無かった。遥か彼方、東の方に、遠く岸辺が見えたが、とてもあそこまでは持たない。

気が付くと、ボートの中の先端に、ぼんやりと薄墨色の人影のようなものが見える。
人影に目を凝らしていると、その薄墨色は、だんだんと濃くなり、だんだんと輪郭を持ち、さっきの巨大な影の、墨のような漆黒に、近づいて来る。

「誰なの」
墨色の人影は答えない。
見ると、その人影はボートにいつの間にか付いていた、舵のようなものを手に取って、操縦しているではないか。
その操縦のせいで、どんどんボートは水面から、下がっているのだ。
これでは、ボートもろとも、湖に飲まれてしまう。

私は後方で、力の限りオールを掻いた。
しかし無駄だった。掻いても掻いても、ボートは沈んでゆく。
ついに私はオールを放りだし、その人影に飛び掛かった。
「やめてよ!」
「やめてよ、ボートが沈んじゃう!」

しかし飛び掛かってみると、柔らかいように見えていた漆黒の影は、固い、石のようなものに、なっていた。
驚いた私は、その黒い石を思い切り叩いた。

びくともしない。
叩いても、押しても、引いても、何をしてもびくともしない。
これは闇ではない。
石、なのだ。何の影響も受けない、石なのだ。ひとの言葉も、ひとの力も、その石には、何の影響も与えることができない。

石の人影は、もう操縦さえしていない。
しかし石なので、その重さゆえに、ボートはあっという間に浸水してゆく。

「ああー!」
私はまだその真っ黒い石を、叩き続ける。しかし・・






ハンカチの如疲れゐし身を広ぐ



どこよりの磁力でひらく月見草



月ひとつ葭簀の川を渡りゆく


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ここ数日は散々なことが続いて、疲れ切っていたが、ひとつ良いことがあった。
多忙で夕飯の準備ができなくて、弁当を買ってきてほしいと頼んだら、今年仕事に就いたばかりの息子が、先月の私の誕生日に何もしなかったからと言って、寿司折をぶら下げて帰宅したのだ。

彼に贈り物をもらったのは、彼が小学校一年生の時以来だ。
一年生の秋に、私にお土産だと言って、一枚の紅葉を大事に握りしめて、帰って来たのだ。

嬉しかったなあ。
その時の句は、

手の中の折れし紅葉や子が帰る

です。よろしかったら、そのページもご覧ください。 2002年、10月

いつも冗談で、「そろそろ私の誕生日だなあーー!」などと、口先だけでは言っていたけど、まさか本当に貰える日が来るとは、考えていなかった。

割りばしを割った時、ちょっとお寿司がぼやけた。

照れ臭いから横を向くと、ベランダの上の方に張ってある葭簀の向こうに、月が見えた。
葭簀に少しずつ遮られ、川のさざ波にゆらゆら割れる月みたいに、私の頭の動きに沿って、揺れていた。








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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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