紫陽花・梅雨

紫陽花


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紫陽花や遠き雷鳴振り返る



紫陽花に重き封書の届く午後



紫陽花や未明の宙へ鳥生れ



紫陽花や時間の川の底を見る



紫陽花や第三巻まで読み終わる



紫陽花の青の奈落を見てをりぬ

見ても見ても見飽きない花に、紫陽花がある。昨今はピンクも人気だが、やはり昔からあるブルー系に心は動く。
何故だろうと考えるにつけ、こちらの心模様を、くまなく映し出しているような色だからではないだろうかと、思い当たる。
この写真の紫陽花は割合シンプルなブルーの濃淡だが、もっと様々に細やかな、水色から青、青紫を通って紫、ピンクまで七変化するような、移ろいやすい心をそのまま鏡に映したような細やかな色の紫陽花が、大好きである。

でもシンプルな青の濃淡のものも、その青の深さは梅雨の深さと相まって、慌ただしい毎日の営みの中で、水平に移動してばかりの心に、じっと一点の深みへと降りていくことを教えてくれているかのようで、心に残る。

私はグラフィック・デザインをやっているせいか、「好きな色」というのは、あまりはっきりしていないと思っている。
ありとあらゆる色が好きだし、重要なのは、「色の組み合わせ」であって、いうなれば、「嫌いな組み合わせの色」と、「好きな組み合わせの色」があるのだと思っている。

私達は子供時代に学校で、「12色」あるいは「24色」の色鉛筆など使い、いたって単純な「赤、橙、黄、黄緑、緑~」などの色名を教わるが、そのせいもあって、本当は無限にある、それぞれの色の内包するトーンや、明るさ、鮮やかさや鈍さ、などのリアルな色の差に無意識になりがちなのである。

「赤」って言ったって、一体どれほどたくさんの「赤」があるか。
抽象的な「赤」という言語に、ひとくくりにされて、皆騙されてしまうのだ。
「赤」なんて嫌い、服でも似合わない、なんて思っていても、実は「赤」の裾野は広い。
黄を含んだオレンジ系の赤、朱、茶系を帯びた煉瓦色、グレイッシュな抑えた赤はおしゃれだし、ボルドー系の紫を含んだ様々な赤は、年齢を重ねていても、しっくり来る。

昔からある和の色名は、却ってこういった微妙な色味の違いを表して、とても細やかだったようだ。
「赤」は「明け」が語源の日本最古の色名だが、その周辺には、「赤紅」(あかべに)「蘇芳色」(すおういろ・ボルドー系)「紅」(くれない・マゼンタ系)「朱色」「真紅」「紅柿色」「紅葉色」「濃紅葉色」「茜色」「緋色」など、様々な色名がある。

時代とともにすたれていった、植物染料や着物文化とともに、こういう和の色名もいつの間にか耳にしなくなってしまったが、「色」というと12色を思い浮かべるような短絡的な子供時代の習慣は、細やかな日本の自然や文化から、何か大事なディティールを削ぎ取ってしまう、そんな気がしてならない。

話を戻して、自分は、本当に色々な色が好きなんだけれど、依怙贔屓で、どれか一色って、あまりないつもりだったんだけれど、

クローゼットを開けると、「???」。意識してみると、黒、茶、グレーなど無彩色の服以外は、全て、これも青、あれも青。それも青系統の小花プリント。紺色のボトムスも多い。

それから、持って歩く文房具。
ペンケースはスケルトンのブルー、メモ帳の表紙もブルー、ファイルも水色、ボールペンも水色。名刺入れもブルー。・・・・!

思えばアクセサリーも、小さなペンダントトップの石の色はすべてブルー系。
ブレスレットのビーズや模造石も、皆ブルーではないか!ここまでとは自分も意識していなかった。

うーん、負けました。「私の好きな色は青」なんて、言語に組み立てるのは、何故かいまいち気が進まないのに、私の身の回りにあるものは、「青」系統の色のものばかりなのだった。

これでは夢遊病者のように呆然と、いつまでも紫陽花の前で立ち尽くしてしまうのも、ま、無理のない話というものだ。








梅雨  


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青梅雨・・・旺盛に育つ草木の青々とした清涼感を感じさせる梅雨模様。    荒梅雨・・・暴風雨やしけのように、荒れてしまう梅雨の日。


青梅雨やゼリーに匙を深く刺し



荒梅雨や傘あちこちに傾けて



青梅雨やまだ来ぬ返事待っている



青梅雨の猫が素早く渡る道



青梅雨の雨を逝くひと送るひと



梅雨晴れ間ひとつ魂放たれし

同じ敷地内に住む身内がひとり、急に亡くなった。
夫の肉親で、夫とは色々な意味で絆の深い関係だったので、その悲しみは一通りではないし、まだ始まったばかりだ。

ひとの心は、究極的には、自分以外のものにどうこうすることはできないのだと思う。
こんな時、義理の立場のものは、肉親のように直截な悲しみを持たない。
しかし、その分、平常心で、普段通りのご飯を作り、洗濯をし、風呂をたて、非日常的な心を、なるべく日常的な生活でそっと包んであげることが可能なのだと思う。

そして、話を間近な心の場所で聞いてあげたい。
私達人間は、「想像力」というものを持っている。

自分にとって直截な悲しみではなくとも、「想像力」のエレベーターに乗って、相手の心の間近にまで、降りていけるのだ。
自分が大事な肉親を失った時のこと、また、これから先に起こるであろう、同様な事態について想像してみれば、今自分にとっては直截的なものでなくとも、相手の悲嘆の間近まで行って、話を聞くことができるのだと思う。

大事な人を亡くした時の俳句は、本当にたくさんある。
私が最近接した中で、最も印象に残ったのは、正木ゆう子の第5句集「羽羽 haha」から、彼女が母を亡くした時の句である。

けふ母を死なさむ春日上りけり

大切な人が亡くなってしまっても、また同じ春の太陽が上り、また同じ地球の一日が始まる。
自分にとっては大きな喪失であっても、巨大な自然の流れの中では微小な変化でしかない。
そんな当たり前なことが、納得できないような、しかし何があっても上って来る太陽を恃みにもしているような、複雑な心持ちなのだと思う。


尋常の死も命がけ春疾風

逆説的であるが、まさにそうだろうと思う、リアルな句だ。誰にとっても、「死」は「命がけ」なのだ。


もうどこも痛まぬ躰花に置く

大事な人が亡くなった時から、残された者達の悲しみは始まる。
場合によっては、その前から、心配で心苦しい思いを抱えている人もたくさんいるだろう。

しかし、人が亡くなった時には、すでにその人は様々な苦痛から、解放されている。
もう、その人は、楽になって、自由なのだ。

そうは言っても、離別の悲しみは深いし、死は人の未来の共有できたであろう時間も奪ってしまう。

しかしこの一句を、心のどこかに、お守りのように、そっと忍ばしておいてほしいのだ。
今この時、亡き人はもう解放されている、この句はさりげなくそのことに、気づかせてくれる。

いつかきっと、この句の種から、花が咲くことを、私は信じたい。






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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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