罌粟の花・明易し・六月


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罌粟咲きて女の意地はやはらかき

杉田久女の句で、「張りとほす女の意地や藍ゆかた」 がある。藍ゆかたとは、藍染めで染めた浴衣地のことだ。
そういえば最近はピンクやクリーム色などの、思いっきりカラフルな浴衣が若い人には流行りのようである。
あれはあれで可愛いのかもしれないが、浴衣特有の、見た目の涼しさというものが無い。
それから粋な歯切れ良さもない。ちょっと残念である。
自分は14歳のころ、白地に藍の模様の浴衣が好きだったが、18歳くらいになると、やはり藍色に白の模様のほうが、ダントツに大人っぽくて素敵だと思った。

糊をきかせてばりっとした藍浴衣と、女の意地を並べるとなると、久女は結構まっしぐらな性格だったのではないだろうか。
若いころ、田辺聖子著の 「花衣(はなごろも)ぬぐやまつわる…―わが愛の杉田久女」 を読んで感銘したが、久女は、夫と不仲であり、家庭的には円満とは言えなかったようだ。

だが、ばりっとした藍浴衣のように、真っ直ぐにに女の意地を守るというのは、相当周りとの摩擦が大きくなる。

そこでだんだん、女が自分の心意気を守るとなると、それはやんはりと屈折して、派手に外界に発散しない分、体内の奥深くにしんしんと沈殿するようになる。
それに年月の力が加わったりすると、そういうものは、びくともしなくなったりするのである。

罌粟の花は本当に柔らかい。薄い紙のように、風にもみくちゃになる。
でも私はこの花に、はかなさを感じない。

ふわふわと浮遊しているようでいて、そこには確かに、誰にも動かせぬ凛とした女の心、のようなもの、がある。





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罌粟咲いて油絵の如雲ゆきぬ



蟻のせしまま罌粟風に吹かれをり



罌粟の花レム睡眠に沈没す



罌粟の花風に揉まれて遠ざかる









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明易し潮引くように夜が消え



いつか来た場所に居る夢明易し



ただ一語見つからぬまま明け易し

たった17文字の中のことなのに、その中の一語が見つからずに悶々と時が経ってしまうことが、ある。
こんなにも小さな世界なのに、否、小さな世界だからこそ、最小限の言葉で思いのたけを納める、というのがむつかしい。
時には短歌が羨ましい。
こーんなにスペースがあるの?いいなあ。まるでワンルームと2DKくらいの違いはあるなあ。
状況説明ができるのね!自分の気持ちも説明できるし、なんて自由なんだろう。

散文詩にいたってはもう豪邸か。
何をどれくらい、どう書こうが、何の縛りもないんだから、飲みたいだけ飲んで、食べたいだけ食べて、眠りたいだけ眠れる。

じゃあなんで俳句をやってるのかって?
それは今年の1月にも書いたのだが、一度に「主にひとつのこと」しか(多重的ではあるが)詠めないということが、「今、ここ、に意識を集中して生きる」という哲学を、自ずから含んでいるユニークな詩の形式、と思ったからなんである。

それから、俳句の中の語句、特に季語が、少ない字数の中だけに、その内容が象徴的になる、そういうところが、面白い。

つまり、「海」といった時、短歌の中だったら、どんな海なのかとか、どこの海なのかとか、色々とその「海」についての描写がある程度可能である。散文詩や小説にいたっては、どうとでも好きなだけ説明も描写も修飾も可能だ。
しかし、俳句の「海」といったら、それはもう厳しいものだ。
「海」についての修飾をちょっとでもしたら、もう他の要素がきつきつになってくるのだ。

そうするともう、「海」丸投げ、ってことも非常によくあるわけで。

ただの「海」!

このただの「海」という言葉ひとつを目にしたとき、人は一体どんな「海」を目に浮かべるのか。

それは日本海側と太平洋側の人では、当然そのイメージに大きな隔たりがあるだろう。
あるいは北海道の人と、沖縄の人でも。
また、視覚的なイメージより、波の音などの聴覚や、潮の匂いなどのような嗅覚のほうが、先に来る人もいるだろう。
それから、具体的な海、というものから、抽象的な、「海」という概念まで、様々な段階でそのイメージは揺れ動く。

そうなると、俳句の中では、語句、特にイメージの中心となる季語は、「海」という語から万人が引き出してくる「その人にとっての、海」というものを、呼び起こして来ることが容易だ、ということになる。

俳句の中の例えば「海」は、他の詩形式や小説の中の「海」よりも、読む人の中の、原風景の「海」を呼び出しやすい、そういう特徴を持っていると思うのだ。

つまり、書き手の描写を許さないスペース事情が、読み手の想像の自由を広げる。
読む人がそこに、自分にとってのイメージや原風景を当てはめて、味わいやすい、そんな風通しのいい詩形なのではないだろうか。











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六月や硝子の食器拭いてをり



六月の密かに動く昼の星



六月に吹く風少し重くなる

六月は好きな月である。
といっても、中旬になり梅雨ともなれば、やはりそれなりに気は重い。
それまでの束の間の初夏は、とても貴重だ。

爽やかで短い初夏だが、六月に入ると、心持ち風が重みを増すような気がする。
それはきっと、5月よりも蒸し暑くなってきて、空気中に水蒸気が多くなってくるからかもしれない。

そして新緑、新樹、若葉、青葉、これらの季語のなかでも、「青葉」が一番ぴったり来る時期だ。

この季語たちの、色のトーンの微妙な違いを考えると、面白い。
一番優しい、淡いトーンに感じるのが、「新樹」だ。多分発音のせいもあるだろう。
やや淡い、白の混ざったような、優しいパステルトーンの緑色を想像する。

つぎに、「若葉」。 これはもう、ビビットで生きのいい「黄緑」だ。
そして「新緑」は、この「若葉」と「新樹」の中間くらいのイメージだ。

さて「青葉」となると、字面の通り、「青みがかった」緑、を感じる。
少し青緑、つまり、いわゆる「緑青(ろくしょう)」系の色合いをもう少し鮮やかにした感じである。
若葉がもう少し落ち着いてきて、でもやはりまだ柔らかな色、とでも言うべきか。

四月下旬から、五月、六月と季節が移り、木々たちの色合いのトーンも、少しづつ移ろっていく。
そして梅雨に思う存分水分を吸収し、濃い緑の、堂々たる「夏木立」へと変貌していくのだろう。







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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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