薄暑・日傘・薔薇

ウィンドにウィンド映る薄暑かな



薄暑光道間違えて引き返す



薄暑光覗けば逃げる水の我




20175d.jpg




白日傘眠らせておく記憶かな



日傘たたみて鳥抱えゆく如く



相触れし日傘に世間話棲む







薔薇咲けばゆっくり話す電話かな

昔から不思議で、不満に思っていることがある。
何故花が咲く時に、肉眼でその動きを確認することができないのだろうか、ということだ。
もちろん花に限らず、植物の全て、青々とした草も、雲に届きたがっているような木々の枝々も、五月ともなれば、嫌が応にも大きく伸びる。
にもかかわらず、その動きは、決して人間の肉眼では見えないのだ。
人間も含めて、動物の動きは速い。その脳の活動も、神経の動きも、全てはスピーディーだ。だが植物の動きというのは、ゆったりと、目に見えないほどの遅々たる速度で、しかし確実に変化し、成長している。
そしてまた、哺乳類である人の中にも、そういう植物的な、原始的な部分がしっかりと残っていていて、そういうものが私たちの底辺をなしているのではないだろうか。
ただ、あまりにも効率の良さだけを追求してゆく生活の中で、普段はめったに意識されなくなっているのだと思う。
例えば病気になると、どんなに意識が頑張って速く回復しようと思っても、薄皮を剥ぐようにという例えがあるように、一進一退の遅々たる変化でしか、なかなか回復してゆかない。
心も同じようなものだ。
感情と心というのは、微妙に違うものだと思う。
感情というのは、動物的な意識に、1番近いところで発生している。
しかし、心というのは、その下の層の無意識に少し近いところに、ひそかな密林のように、びっしりと生い茂っているようなものではないか。
感情は、弱いものから激しいものまで、様々に発生しては台風の如く成長し、時間の流れとともに、速やかに変化しては、消えてゆく。
しかし、より深いところにある心というものに、落とし込まれ、吸収されてしまったものは、やすやすとはコントロールできなくなってしまう。
意識の上では解消したと思っていることでも、例えば同じ問題で、余りにも何度も何度も傷ついていたら、心の深いところで、確実に何かが形成されてしまうだろう。

だが、長い時間をかけて育んでいくような親密な関係もまた、こういう場所で育つのには違いない。

きっと人の心というものは、誰にも動かすことはできない。
当の本人さえもが、安易に操作できるようなものではなくなってくるからだ。





20175k.jpg




薔薇咲きぬひとつひとつの城となり



薔薇咲いて視線逸らさぬ女優かな

女優というとイメージするのは、古い外国の映画女優達で、古すぎて名前を出すのはやめた方がいいかも、と思うのでいちいち名前を出さないが、何故か「女優というのは視線を逸らさない」というイメージがある。
ラブシーンになっても、小さな火事のような熱い眼差しで、その視線はひとたび相手を捕まえると、寸分たりともそこから逸れることはない。
あんな眼差しで見られたら、男性でなくとも、ひとたまりもなく催眠術かなにかにかかってしまうだろう。
でも考えてみれば、女優に限らず外国の人はオープンな感情表現をするから、公園などで見かける堂々としたキスシーンなどのことを思えば、映画に限らず恋人同士の間では、ああいう視線というのは、ごく当たり前のことなのかもしれない。
かたや日本人は、ここぞという時には視線を合わせない方法に傾く。大昔の大名行列しかり、高貴なものは下々は見ることさえ許されないような文化の上に乗っかって来たからなのか、視線を合わせるイコール無礼、という感覚を持っている。
身体的な動作だけではない。言葉の使い方も、それに則していて、なんとか「NO」と言わずに、「NO」であることを分かってもらうために、四苦八苦する。
なんとか「愛している」と言わずに、「愛している」のだと分かってもらうために、四苦八苦している!
つくづく遠回りの文化なのだ。ずいぶんと無駄な労力を使う国民性だと思う。

先日とあるデパートのエレベーターで、途中から乗って来た若いカップルが、どうやら喧嘩の真っ最中らしかった。
日本人ではない。大方韓国の人ではないかと思う。二人ともスラリと長身で、抜群にプロポーションが良く、ファッションもバッチリ決めている、が、その決め方は日本人の感覚ではない。少し違っている。
さすがにエレベーターに乗って来た時から、言葉は呑み込んでいる。ストップがかかっている。
しかし、その表情たるや、二人が喧嘩をしていることを、微塵も周りの世界に対して、「恥」などとは思っていない。
喧嘩真っ最中であることを丸出しのその視線は、お互いを発止と捉えて、絡み合って、見事に五分五分で動かない。
エレベーターに乗っている全員が、エレベーターの扉の方を向いているのに、彼らだけは、その真っ只中で、それぞれ腕組みをし、お互いの顔を穴のあくほど見つめ合っているのだ。

私はこのカップルが、本当に羨ましかった。
ここまでいくと、国民性云々を超えている。
ああいうビクともしない視線を交わせるのは、余程お互いの間に、信頼がなくてはできない。
信頼があるから、お互いの中にある怒りの感情に、どんな翳りもないのである。

これはなまじなキスシーンなんぞより、中々に当てられた。





一斉にに咲いても薔薇の孤高かな



薔薇咲きぬ歓喜も憂いも皆咲きぬ


「バラ色の人生」という言葉がある。
また、化粧品のシリーズなどで、薔薇を香料やイメージに使うと、決まって「幸せな〜」とかいうフレーズが頭にくっつく。
兎角薔薇と幸せは、世間ではセットになっているらしい。

しかし私の中では、薔薇は「幸せ」というイメージとは、少しかけ離れている。
もちろん何色の薔薇かということもあるだろう。ピンクや薄いオレンジなどは、そういうイメージに結びつきやすい。
だが、薔薇というのは、花びらが非常に多い花だ。
一つの花のボリュームが大きくて、重そうで、気怠い雰囲気を持っている。
「憂愁」という言葉がこれほど似合う花もない。
そして沢山咲いていたとしても、孤高である。
一つ一つの花が、完結した世界、ひとつの城のようである。

少なくとも幸せしか知らないような、そんな子供っぽい花には見えないのである。








ランキング始めました。
応援お願いします。

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村


スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR