夏立ちぬ・聖五月・花茨

聖五月数多のひかり踏んでゆく



いきいきと爪切る音も夏立ちぬ



日向より帰し闇みどり立夏かな

すっかり陽射しの強くなったベランダで色々仕事をして部屋に戻ると、暫くの間、視界は濃い緑の闇に塗りつぶされていて、何も見えなかった。
そういえば子供のころ、この現象がとても面白くて、わざと日向と家の中を行ったり来たりした覚えがある。
しかしそれでなくともあの時代の家の中は雑然と暗く、古い卓袱台や箪笥がひしめき合っていて、特に奥の台所は暗かった。
現代の明るいリビングダイニングからは想像もつかない暗い台所で、祖母が鰹節をかいたり、糠味噌をかき回したりしているのを、そばにしゃがみ込んで、放心したようにじっと眺めていた。
考えてみれば、昭和30年代のことであるから、大人たち、特に祖父や祖母はまだまだ時代の大きな苦労を引き摺っていたことだろう。日当たりの悪い小さな家で、大人たちは黙々と働いていた。
でもまだどんな人生の目的も責任もない子供たちは、いたって呑気に毎日の生活に満足しているのだった。
家の奥のいっとう暗い台所でさえ、そこにはそこの安らぎがあった。
外の日向にはあらゆる楽しみと冒険があり、日陰の家の中には安心できる薄暗さがあった。
子供たちは戸外での健康的な遊びに飽きると、大きな木陰のような仄暗い家に帰って来て、気の向いた場所に忽ち自分の居場所を決め込んでは、拾って来た小石や硝子の丸くなったかけらを眺めたり、きりもない空想の翼を大きく広げたりしていたのだ。


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立夏かなやるべきことを一つづつ

大人になると、やるべきことは不思議なくらいいくらでもある。
しかし、この頃、とみにやるべき事を後回しにする傾向がある。その元を辿れば、何をやるにも億劫という年相応の症状が悪化しているということで、いくらでも言い訳は立つのだが、なにせ元々も、そういう傾向がある性格だから、相乗効果も甚だしい。
美容院に行って、髪を切り、染め、パーマを少しかける。
うん、そう決心したのは確か去年の年の暮れ。
そして速いもので、今や季語は立夏である。これはまずい。
まあ、美容院って嫌いなのである。
歳を取ると色々な事情から、新たな美容院を開拓する気力が無くなってくる。色々な事情って何かって?髪質を知り抜いているとか、髪型の好みを把握しているとか、トイレの近い事を了解していて作業の途中でも嫌がらないとか、そういところがモノを言うのだ。
だから、その他の担当さんとの不一致については、私は目をつぶることに決めているのだ。
どんな不一致かというと、これまた珍しいくらいに、話をしていて「通じない」、反りが「合わない」、タイミングが「ずれる」、まるででこぼこ道を歩くような会話になってしまうのだ。

こういう人も珍しい。「空気が読めない」とかよく言うけれど、そういう事なのか、いやいややっぱり組み合わせというものなのか。
これを言えば大抵笑うだろうというところでは、むっつりと大真面目に返答が返ってくる、そして割合シリアスな話にさしかかってくると、いきなり大声で笑い出す。時によってはいたく傷ついたりしてしまうのに、全く気がつかない。
面白みのある話題には説教じみた答えが返ってくるし、つまらない話は長々と独演調で聞かされる羽目になってしまう。
このリアクションの以外さは、めったに体験できるものではない。
しかし彼女のいる店内で、他の人に担当を変わっってもらうような勇気は私にはない。

他にも、あー!出さなくてはいけなかった、郵便物!
深夜ミニストップで切手を買おうと思ったら、ほとんど毎日出ずっぱりの店長らしき人が、世にも悲しそうな顔で、「すいません、無いんです。買いに行っている時間が、無いんです。」と視線を合わせずに言うではないか。
ここにも過酷な労働状況の犠牲になっている人がひとり。
それでは明日、自分で郵便局へ行こう、そう思ったのだが、明日には明日の風が吹いてしまって、それからかれこれ3日経過!

こんな調子であれこれと、銀行へ行って、お金をおろして、布団を干して、図書館に本を返却し、会社に先月のデザイン料の請求書を出し、医者に薬をもらいに行き、パソコンの不具合の原因をネットで探り、買って来たままポット苗の状態で置いてあるペチュニアを植えてやり、今夜のおかずを考え、全てが終わったら俳句を捻り、ブログを書き、・・・・!

まるで台所の排水管のように、やるべき事が集積して詰り、私の頭の中は一挙に混乱する。

こんな時、どうするか。
私は決心する。ああ、また「演劇部」をやらなくちゃ。

自分の中に滞る、やるべき事をテキパキとこなすキャラクターがいないとすれば、もう女優になったつもりで、次々に諸事を冷静にこなして行く人間を、「演じる」しかないのである。

これは意外に使える手である。
演じているつもりが案外その気になっていく。

最も想像しにくいほど、異様にかけ離れたキャラクターは無理があるだろう。そこは範囲というものがあろう。
でも考えてみれば、結婚して妻となる、仕事で色々な役割りにつく、今までに経験のない様々な事の、はじめの一歩を踏み出す時、人はどこかでこういう方法を、無意識の内に少し使っているのではないだろうか。




何取りに来たか忘れて風光る



サイダーや生きのいい過去立ちのぼる





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花茨ひとかたまりの風抱いて



花茨少女の未来あまりある



花茨家路を行けば影長く




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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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