花水木・風光る

われ先に光へとどかむ花水木

花水木というのは、白い花とピンク色のものとでは、えらくまた雰囲気が違う。
梅、と普通にいえばたぶん人は白い花をまず思い浮かべるだろうし、白梅、紅梅などという呼び分けもできる。
木蓮はどうか。紫のものと、白のものと、ぱっと先に思い浮かべるのは互角な勝負か、やや白が優勢かもしれない。こちらも紫木蓮、白蓮、などと呼び分けられる。
だが花水木は困ったものである。
花水木、という季語でどちらの色の花かは判別できないとなると、季語以外の内容の雰囲気で、どちらなのかを推測するしかない。中には両方の色でも通用する句もあるだろう。
ピンクの花のほうも、晴れやかで素晴らしいとは思うが、私は白い花水木の花がとりわけ好きであるから、ここに書いたものはすべてが白い花の花水木の句だ。

この句は、どちらの色のものでも通用しないわけではないが、やっぱり白い花水木の花の、光の反射の強烈さをイメージしながら作ったので、白でゆきたい。
光に向かって、一途に押し合うように咲いていて、その光を貪って日々白さを新たにしていくような。
その花のきっぱりとしたまばゆさ。



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学生服まだ身に余り花水木

自宅のそばに中学校があるので、新中学生も時々家の前の道を通る。
男の子は特に、思いっきり大きめの学生服を着ている。こればかりは仕方ない。育ち盛りだから大きいものを買っておかないと、あっという間につんつるてん、になってしまうのだから。

それにしても、着ている子供は動きにくそうな感じで、ちょっと気の毒だ。
顔もまだ幼くて、不必要に大きな学生服が、その幼さをやけに強調してしまうから。



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花水木明晰に空へ答える



月ひとつ中空にあり花水木



夢から覚める花水木風に浮く







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カンバスにピンクの無あり四月尽

ひょんなことから知り合った絵描きさんが展覧会をしているので見に行った。
興味があったのは、その展覧会のコンセプトで、彼が20代の若い頃から、70歳の今日に至るまでの作品の変化を、代表作を展示して辿る、というものだ。
20代の頃の油絵は雪山の中の風景の具象画。雪景色といっても、雪は白くなく、泥が混ざったようなグレーである。
どこにもきれいに描こうという意志は無い。何かにおもねっているようなところは微塵もなく、ずっしりととただそこにあるのは絵と言うより、自然そのものだ。雪の重たさや、厳しさ、寒さ、力強さ。生きているような沼の碧。

一転して、その後の銅版画や木版画は、小さな面積の中で、非常に繊細でデリケートな印象。
心象風景のような一本の木をさまざまなバリエーションの色合いで連作されたり。
抽象の版画も素晴らしかった。私はこの辺に一番心惹かれた。小さな空間の中で、様々な図形と色が自律神経をもっているかのように構成されている。しかししっくりと落ち着いていて、モダンなのだけれど、調和の取れた室内楽のような味わいがある。

そのあとに、一連の「鉄錆版画」が、ユニークで現代の先鋭的な作品として、製作されてゆくのだが、なぜか今回の展示には割愛されてる。後で、いただいた小冊子の中で、それを見る。

さて、次に一番心にひっかかってきたのは、NO7Sakuraと題された淡い桜色の小さな木版画である。
見ると、一見アブストラクトのようでもあり、しかしよく見れば桜の枝のようなものも見えてくるような、抽象とか具象とかそんなものさえ超えたような版画である。
さくらの「印象だけ」が眩しく抽出されたような、そんな感じがする。

その版画に添えられていた文章はこうだ。
「東京の桜の名所を見て歩いているうちに、桜の木も、暗い部分も、全部桜色に見えてきた。人間は桜の花を見ていて、その他を見ないはずなのだ。」
 
そして今回の展示の最後の作品として出会ったのが、襖2枚分くらいの淡いピンクのアブストラクトの絵画。
遠目に見ると、薄紅色の無地っぽく見えるが、そばで見れば、大ぶりな筆の跡が見える、薄い桜色で塗りこめただけの、大きな空間。

そして彼は言う。「これは無なんです」  「仏教的な、そういう無なんです」
私はどうも腑に落ちなかった。
ずうずうしくも、私は言う。「無って、ピンクでしょうかー?」

「では何色だと思いますか」
「うーん、無彩色というか、無に色ってついてないんじゃないでしょうか」

「それはさみしい」
そのあと「無」についていくつか問答したあと、彼は言った。

「これは さくらなんですよ」
ああ、とやっと私は腑に落ちた。
私の心にひっかかっていたあの桜の版画がこういう風に展開してきたのか。

「でも桜って、無じゃないですよね。 じゃあ、桜と無のあいだにあるような、桜が化けて出たようなものが、この大きな絵なんでしょうか」
と聞くと、彼は「そうです、そんなようなものです」と頷いた。
私の言葉は非常に大雑把なものだ。彼はこちらの言語に合わせて翻訳でもするかのように答えてくれたのだと思う。

しかし思えば桜ほど無に近いところに咲く花はないかも知れない。

私のようなどっぷりと俗に組み込まれて生きている者でも、桜を詠んだ俳句には、その周辺に、小さな無のからんでいるものがいくつあもる。

宅配のトラック無人夕桜

午睡から覚めし空白さくらかな

夕桜テニスコートに誰も居ず

からっぽのカップをのぞく朝桜

天と地の間合に咲いてさくらかな


帰ってから、いただいた小冊子を見た。
略歴には、長年他のお仕事をしながらただひたすらに描き続けてきたこと、統合失調症になられてご苦労されたこと、タイ、カンボジア、東アジアを旅されたこと、ご両親やお姉さんを次々介護されたこと、ご自身も膝を悪くされて障碍者登録されたことなどが書かれていた。
2015年にはフランス・パリのカルーゼル・デュ・ルーブル美術館に作品が展示されている。

これらの経験全てが、あの最後の展示作品、「薄紅色の無」に繋がっているのだ。私はそう思った。
彼が選び取った「表現行為も意味を持たない」、そういう「無」、それはきっと、彼のそういった日常の苦しみや歓びの深く大きく絡み合った根の上に、探し当て、育ち、花咲いたひとつの「答え」なのだろう。

それは今日初めて彼の絵を見た私などには、とうてい想像しきれるものではない。
私にわかるのは、微かな、その輪郭程度のものでしかない。

4月も終わろうとしているこの日、私は淡いピンクの、大きな「無」に出会ったのだ。






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風光る可も不可も無き地方都市



風光るまたひとりジョガーに追い越され



風光る水平線を隠す街





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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。 また、当ブログ内に埋め込んでいた音楽配信動画のうち、違法にアップされたものは削除いたしましたが、公認されているものも色々ありましたので、再度少しづつ載せていきたいと思います。ジャズ・ロック・クラッシック、ジャンルは問いませんが、心に沁みるアコースティックなものをコラボ。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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