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秋澄む

秋澄む

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本日の1曲/フジ子・ヘミング~愛の夢



我のみと歩いてをりぬ秋澄めり



秋澄めり水平線で止まる空



小窓から見える小窓や秋澄みぬ



秋澄めば垂直に落ちてくるピアノ







秋もたけなわとなり、大気は涼しさだけではなく、しんとした透明感を帯びてきて、外をあるけばその澄み切った空気が四肢に纏わりついて、身も心も引き締まってくるようだ。

同じような温度でも、春先とはまるで感覚が違う。
きめの細かい肌のような大気が、何かと過剰になっていたこころの絡まりを、静かに整理してくれるような気がする。

そして、家族がいてもいなくても、友人がいてもいなくても、愛する人がいてもいなくても、世界にただ一つの存在である自分にすっとリンクして、自分の原型に戻るような、そんな瞬間が、秋にはある。

それは動物的な感覚かもしれないし、もっともっと原初的な、土や岩石の持っている、遠い記憶のようなものかもしれない。
だだっ広い大地と、筒抜ける空との間に、森閑と存在している鉱物の太古の記憶。

秋になると色んなものが、上から下へ落下するような、内へ内へと沈み込むようなニュアンスを放ちはじめる。
春夏の外へ外へと弾けていくような感じと正反対の雰囲気だ。

こんな時には、突然ピアノの音に触れたくなる。
きっと、それはピアノが打楽器であるということと関係があるのかもしれない。

打楽器だから、上から下へ、ポーン、と鍵盤を「押す」のである。
素直に鍵盤を押されたピアノの音は、落下してくる大粒の雨垂れのように、どこにも無駄な引っかかりがない、純粋な音だ。
その滴は、そのままの動きで、気持ち良い重みとともに心に落下してゆく。

たとえばエリック・サティのジムノペディがいいかもしれない。

あの曲の持っている透明感は、「秋澄む」という季語に、ぴったりだ。

でもYou Tubeで検索しても、いい感じの弾き手のものが見つからない。
ウロウロしているうちに、フジコ・ヘミングの「愛の夢」に出会って、そして、感動した。

フジコ・ヘミングの「愛の夢」は大人の音だった。
大きな、堅牢な孤独をしっかりと持ち合わせた、大人の「愛の夢」だった。

その音は、しっかりと自分の中に降りてゆく、確実に降りてゆく、でもその底にあるものは、もう自他の区別の無いような、大きなエネルギーの塊のようなものなのだ。


ところで話は大きく変わるけれども、樹木希林が亡くなって、彼女と内田裕也の40年にも及ぶ別居婚がまた話題になって、何かと取り沙汰されている。

芸能界には、全く興味はないけれど、樹木希林については、昔から時々雑誌のインタビューなどで、なかなか面白い人だなあ、と思っていた。

彼女の娘にしてみれば、「どうしてこんな無意味な婚姻関係を続けるのか」といつも不満を持っていたようだが、

人間というのは、全くもって、複雑な生き物だ。

一筋縄では、とてもいくものではない。

美しいだけの、暖かいだけの「愛」などというものは、「乙女の祈り」みたいなものだ。
それは架空の御伽噺でしかない。
愛があれば憎しみも悲しみも顕現してくるのが人間だ。

しっかりと堅牢な「自己」を持ち合わせている者は、決して心のごまかしができない。
悲しみや失望をごまかすことができないのだ。
残念なことに、人というものは、言葉を尽くせば誰も彼もわかり合えるような生易しいものではない。

だったら、どんな形を取ったって、いいではないか。

40年もの間、距離を置きながらも交流し、
とうとう離別することはなかった、それは「自分」というものをごまかすことのできなかった者が、また「愛」もごまかすことができなかった、

どちらかを優先すれば、どちらかを半端な形で犠牲にすることになる、それができずに、にっちもさっちもいかなかった。
だから両方を生かしたままに、できるような形で、やってみた。

そういうことなのではないのかと思う。

秋の夜空にしんみりと輝いている星座のように、距離を置きながらも、いや置いたからこそ、その形は遂には崩れなかった。


そういうことなのだろうなあ、と、身につまされて、思うのである。






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萩咲くや記憶のほつれている夕べ



秋晴れて缶コーヒーは空っぽに



我が額月の額に向き合いぬ



秋の暮前行く人の背に扉



速達や秋夕焼けに追われゐる



思案切りも無く木犀香膨らみぬ




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コメント

こんばんは

「我のみと歩いてをりぬ秋澄めり」

ネコヤナギさんの句は、人として一人であること、一人で立っていることの矜持が感じられる句が多いですね。この句もそうですが、今回は樹木希林さんのことを書かれたエッセイにそれを感じました。

他の句は、矢張り感性が鋭いなと思います。ピアノの句はエッセイに書かれているので余計なことは書きませんが、最近、わたしも作句した秋の草木の句から。

「萩咲くや記憶のほつれている夕べ」

夕方になって一日の疲れが出る頃感じる混沌とした感じを「記憶のほつれている夕べ」と表現されたのかとも思いますが、萩の花が風で乱れている様子とシンクロしているようにみえます。

「思案切りも無く木犀香膨らみぬ」

わたしは、金木犀の香をかたまっていると感じましたが、ネコヤナギさんは膨らむと捕らえられたのですね。思案も際限となく膨らんでくるのでしょう。

ジムノペディ、この時期に聴くのは最高でしょうね。

Re: こんばんは

こんばんわ。桃香さん。

秋になると、思い出すんです。
なんて言うか、「孤独」でも「孤立」でもちょっとぴったりとこない。
自分が一本の木になって、西からの光線をバーッと浴びて、光と影にくっきりと染め分けられて立ってるような、そんな感じを(笑)
あるいは石になってごろっと存在してて、やっぱり光と影に塗り分けられてる。

「静謐」っていうか、あらゆる生活の夾雑物を取り去った、自分の存在感の原型みたいな感覚を、思い出すときがあるんです。
ほんの一時ですね。すぐまたメリー・ゴーランドみたいなやることだらけの生活にもどるのですが。

「萩」は実家のそばにありましたね。
階段になっている公道の部分で、上からいい具合に、萩の花がすーっと枝垂れているんです。

その階段を行き来すると、萩が上から、のれんのように揺れているわけです。光に透けて。
またその萩の「影」の端正なこと、この上なし。
緻密に描かれた細密画のように、綺麗な影を見て、うっとりしていたのを思い出します。

今身の回りに、萩はあまりありません。
考えてみると、私は30年も前の萩の花を、いまだに俳句に詠む時に思い出しているのです。われながら呆れます。

仕事も忙しかったのですが、他にも難問が至近距離に接近し、ここのところ疲れ果てていました。
人間てやらなくてはならないこと、考えなくてはならないことがびっしりと詰まっていると、「目的」しか見なくなってしまうんですね。
気が付くと、なーんにも、見ずに、暮らしているのです。


そんな時、俳句は「シャベル」なんです。
このシャベルが、そんな乾いた土を掘って、遠い過去の柔らかい土を掘りあててくれるみたいです。

申し訳ありません

「秋高し」の句をアップしました。2句目に「秋高し歩いて行けるところまで」と詠んだのをアップしたのですが、この句、ネコヤナギっさんの句とほぼ同じであることに気が付きました。

確かめてみると自分でもよい句だと思い、それをコメントしているのですね。いやにすっきりと詠めたなと自分でも気持ちよかったのですが、頭のどこかにその句のイメージが残っていたのだと思います。決して意図的ではありません。

急いで他の句に差し替えましたが、半日近く人目にさらされていたのかと思うと恥ずかしくてたまりません。ネコヤナギさんには申し訳ないことをしました。本当にすみません。

Re: 申し訳ありません

大丈夫ですよー。心配なさらないでください。

非常に良くあることなんです。
イメージというのは、深層心理に入って来るものなので、
自分のイメージか、人のイメージなのかの区別がつかないときって、
本当によくあります。

私なども、うーん、これって、どこかで誰かが詠んでなかったか、
どうにも心許ない時が、あります。

おまけにこの頃大分脳味噌の密度が荒くなってきたので、
昔自分で詠んだものに近いものを作ってしまう時もありますよー(笑)

わざわざコメント下さり、ありがとうございます。
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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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