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七月アラモード

七月アラモード

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本日の1曲/Eva Cassidy - The Water is Wide



七月の太陽水に増えゆきぬ



七夕や星の釦の掛け違い



夏帽置く隣に誰かいる如く



夏帽のゴム紐の伸びていた頃



悔恨を遠ざけていて百日紅



脈略の無き風の道百日紅



昼寝して戻る宇宙のこぼれ種



金魚草ソナチネゆっくり分解す



金魚草街を泳ぎぬ付け睫毛




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夏の雨生きとし生けるもの濁し



夏の雨我の思いを逃げ切れず



去る者は追わぬ涼しさ百合の花



聖堂の沈思黙考百合の花



蜜豆や核心をずれてゆく話



月見草どこかで誰かが眠らない


        
月見草離れて月ののぼりゆく


「月見草」というのは、正しくは白い花で、朝方に萎むとピンクに変わるという、清純な感じの可愛らしい花だ。
それを知ったのも、それ程前ではないし、自分の見てきて、俳句に読んできた月見草は、「オオマツヨイグサ」であることも分かっているのだが、やはり「月見草」という言葉から、句をイメージしたい気持ちがある。

それはまあ、自分の身の回りに白い本物の月見草が無く、まず一度も見たことがないことと、何と言っても、あの大待宵草の、月のひかりを隅々まで浸み込ませたような、やや淡い黄色のせいには違いない。
ちなみに自分の持っている歳時記には、「月見草」とあり、その下に同義の言葉として、大待宵草とある。

実家の向かいの空き地には、夕暮れ時に、沢山の月見草が咲いた。
それは家から見ると、東の方角なので、出たばかりの大きな月が丁度月見草たちの上へ、祀り上げられるかのように現れる。
夕闇がまだ暗くなり切っていないので、月はまだ煌々と輝いてはいず、のっぺりとした黄色の色彩が勝っている、そんな時間の光景だ。

だから光沢感の無い、マットな感じの黄色が、月見草の黄色の調子と同質で、月見草はさながら月の子供達のようだった。

しかし、街中なので、月見草の空き地と大きな月の間に存在しているのは、ビル群や大きなクレーンや、マンションなどの暗い立方体たちなのだけれど、それはそれでまた、不思議な神秘的な風景になっていた。

思えば思春期の間、自分は「月」というものに非常にこだわりがあった。

「月」あるいは「月のような球体」を含んでいる絵画にとても愛着があった。
自分でもちょっとシュールな油絵を描いていたりしたのだが、大抵キャンバスのどこかに、月が存在していた。
むろん今だって、月は好きだ。
でもあの頃の、物凄く求心的なストイックな憧れにはついてゆけない。(笑)


若い時、一時私とは対照的な性格の女の子と親しくしていたことがある。
頭が良く、何につけ積極的で、恋はどんどん自分から探すようなタイプだった。

彼女は、ハードカバーの重たい文学書を抱えて、超ミニのスカートで電車に乗る。
電車の中で本を広げ、彼女が小説の中から気に入っている箇所を隣の私に読み上げる時、

周りを憚らぬ充実した陶酔があって、そういう所が、少なからぬ人を魅了してしまうのだった。

殆どの若者の中には、芯にグラグラしている空洞のようなものがあるのではないだろうか。

そんな心許なさが、彼女にはほとんどないのだった。
他の若者と同じく、わけの無い絶望のようなものはあるし、悲しみも哀しみも持っていた。
しかし空洞のようなものはなかった。

やがて彼女は自分に合った仕事を見つけ、どんどん周りの者より先に、大人になった。

いつまでも自分の道を決められずに、ウロウロとしていた自分とは、もう付き合っても面白くなかったのではないだろうか。そのころから私達はあまり会わくなった。
そんな最後の頃だったのだと思う。

二人でどこかで呑んでいて、何故か「月」の話になっていた。何処をどう辿って「月」が話題の主役になっていたのか思い出せない。彼女はSFも好きだったし、宇宙の科学的な話も好きだったから、「月」に対するアプローチの仕方も、単に芸術的な方向しか持たない私とは、また違っていたのだろう。

彼女がいきなり私に尋ねた。「月と太陽、どっちが好き?」
「月」と私は答えた。

すると彼女は言った。
「月は自分では輝けない」

その言葉が何か深いところまで落ちていったのを覚えている。
だが若かったから、その質問自体の幼さには、まだ気づいていなかった。



それから何十年もたった。
私達はあれ以来、一度も会うことはなかった。

40代、50代、怒涛のように、色々な事が私の身の上に起こった。
全てが、予想外というか、自分の漠然とした航海図にはなかったものだった。

しかし様々ないわば理不尽が、梃になった。

私は猛烈に勉強し、私の持っている能力をささやかな一つの仕事として実らせることができた。
仕事が忙しい時もあれば、ふっつりと切れてしまうこともある。
彼女から見たら、一笑に付すような小規模なものかもしれない。

それは小さな夢の小さな実現だが、私にはそれで十分だ。

私は彼女のように、光り輝くような自信なぞ、幾つになろうとついには持つことはできなかった。
自分の人生をどんどん新しい世界に切り開いて行くような、積極性も持っていない。
周りを憚らず詩の朗読ができるような、堅牢なマイ・ペースも持ち合わせていない。

でもただ一つわかったことは、
私を本当に幸福にするものは、私が元から持っているものなのだ、ということだ。

私らしく生きていけば、そこから新たな枝は生えてくる。
人は他の誰かになる必要なんかない。

私の他に、誰も私を生きてなんかくれないのだ。







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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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