芍薬

芍薬

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本日の1曲/How Do You Keep the Music Playing - Simone Kopmajer 



芍薬に雷鳴少し近づきぬ



芍薬を剪らむためらうこと多く



芍薬や後ろの正面夕闇に



芍薬に小さき羽虫が迷い込み


森鴎外は長女の茉莉を溺愛していて、茉莉の方もそれは同じで、彼女のエッセイを読むと、それはもう濃密なものであったようだ。

親子の愛情というよりは、立派なプラトニック・ラブで、茉莉によれば父は「最初の恋人」なのだと言う。

「家中何処でも父を見つけると、私は直ぐに行って飛びつき、膝に乗った。父の膝の上にいる時私は、大きな樫の木の下にいるような思いに浸されるのであった。樫の木は大きく深々とした枝を広げていて、私を包んで呉れていた。又葉陰には細かな、匂いのいい花つけていて、さやさやと鳴り、揺籃のように私を揺するので、あった。」

またこうも書く。
「地面に躅んで小石を拾っていて、ふと顔を上げると、少し離れたベンチにいる彼は黙って微笑を浮べ、二、三度肯くようにした。砂糖のないチョコレエトのような苦みのある微笑である。
それが「傍へこい」という合図である。男からああいう表情で、「傍へこい」という合図をされたら、どんなだろう。」

そうとう熱烈なものである。
他にも、父親の容姿や立ち居振る舞いについての描写は、宝石のような褒め言葉で、随所に散りばめられている。

私は森鴎外には全く興味が無かったので、鴎外の写真なぞを、どこぞの教科書か何かで見たかもしれないが、全く覚えていなかったから、娘にここまで言わせるのは、相当美男子であったのだろうと何となく思っていた。

しかし、いや、そうでもないのかもしれない、森茉莉の眼だけにだけにこういう風に、素晴らしいフランス映画の男優のように映っていたのかもしれない、という気持ちも何処かに二割くらいは、あった。

果たして、一昨日、駅のホームに貼ってある文学散歩コースのポスターを見ていて、正岡子規だの太宰治だのに混ざって、森鴎外の写真が載っていて、つくづく見たのは、初めてだった。

「やっぱりなぁー」

私は微笑んだ。
鴎外の写真を見ると、そのひとは茉莉の言うほどの美男子ではなく、もう少し普通のおじさんだった。
凛々しいといえば凛々しいが、やや頬骨の高く、日本的な切れ長な目、お洒落だったらしいが、もしお洒落でなかったら、農家のおじさんのような恰好だって、似合わなくはなさそうな、日本では割とよくあるタイプの顔立ちだった。
(ウワー!天国の茉莉さん、ゴメンナサイ!)

少なくともアンニュイな石膏像のように彫の深い漱石には負けている。

でも、そこが森茉莉という文筆家の価値なのだろうと、私は思う。
もし鴎外が茉莉の描写そのままなフランス映画の美丈夫のようだったら、これはもう面白くもなんともないのだ。

いいように嘘を描くとか、でっち上げを書くとか、全くそんな意味ではない。

彼女にとって、父の鴎外は、生涯どんな男も敵わない、ただ一人の「永遠の男性」だったのだろう。

はたから見てどうであろうと、自分の思いを何よりも大切にして、自分というものに距離を置かず、夏の花がぐいぐいと茎を伸ばして天真爛漫な大きな花を咲かせるように、彼女は生きていたのだと思う。

そういう客観的なものと主観的なものの間のギャップみたいなものを感じさせてこそ、文筆家としての価値もあるのではないだろうか。

森茉莉だって、はたから見れば、「ただの変わったおばさん」だったかもしれない。
実家も婚家もお金持ちで生粋のお嬢様育ち、結婚しても炊事もあまりしないで済むような生活をしてきて、しかし一転して離婚してからは小さなアパートでの一人暮らし。

しかし彼女の中に、どれほど本当の意味での精神の贅沢さが蓄えられていたか。
生活が激変しても、彼女の中の、自分にしか見えないものだけを、どんなものより優先して生活していた、そのことは書いたものを読めば、分かる。

それこそが本当の才能というものだ。
それは文筆の才能とか、絵の才能とか、そういうものではなく、自らの思いを他の何より大事にしてゆく、自分というものからはずれていかない、そういう才能である。

彼女の若い頃の着物姿の写真を見ると、(なにせ15歳で婚約しているのだ)

羽子板の押絵のように、白くふっくらした面持ちの、芍薬さながらな、美少女であった。







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サングラスちょっと地球の裏へ行く



サングラス外して今夜のおかず買う



噴水の同じことしている月日



噴水の隠してをりぬ昼の月



鉄棒の上に月ある緑夜かな



単線の列車発車す緑の夜


友人と食事をして、あまりよく知らない駅から電車に乗ったら、それ程郊外というわけでもないのに、上りも下りも同じホームで、単線なのだった。
下り電車が来て、暫く待つと、上り電車が来たので、乗り込んだ。
将来は複線化する予定らしく、向かい側にはちゃんともう一つホームがあるのだが、とりあえず今は単線の営業らしい。

ここのところ、仕事が短納期で重なった。終わった!と思っても急ぎの修正依頼が来ることも多い。印刷屋へカラーチップを指定したりする仕事もある。家事の合間合間に仕事を分割して、どうにか時間を確保する。
そこへもってきて、もう一つ重要な役目があって、そちらの方のことが延び延びになっていたのを、大急ぎで色々と手配しなくてはならない。
そんなに時に限って、怪しかったスマホがはいよいよ寿命となり、急遽買い替えに。
ブログの更新も遅れ、家事も最小限で部屋は埃だらけ。

でも一番埃だらけなのは、何と言ったって頭の中である。

実際に忙しいといえばもちろんそうなんだろうけど、還暦目前ともなれば、要は自分の「処理能力」が昔とは全く違うから、余計に頭が混乱して、忙しいと感じるのだ。

昔の自分は、複線の線路のように、何かをしながら、何気に別の事を考えていても、別段不都合はなかった。
もちろんそれは時と場合によるけれど。

しかし今の自分はそうはいかない。
ひとつことに夢中になっている時に、次の事を思いついてしまうと、そっちへ行ってしまって、前にしていたことを忘れてしまったりするのだから! もうー!

いわば頭が単線になっていて、ひとつのことしかいっぺんに処理できず、そこへもってきてあれも、これもとやらねばならぬことが複数のしかかってくると、昔のように、スムーズにより分けたり、同時進行させたりが困難なのだ。

うまく交通処理が立ち行かないと、これは大変。正面衝突だ。

寝る前に、一時間でいいから、本を読みたいなあ。
これで随分と、心にゆとりができる。
そんな今の私には、20分くらいで読める短めのエッセイが何よりの慰めだ。
それを一篇読んでから寝床へ行くのと行かないのでは、一日の印象に雲泥の差がつく。

だんだんと単線の自分に慣れて、単線の交通処理に、もっと長けていかなければならない。





熱帯魚魅惑の尻尾掴みをり



熱帯魚一瞥して去る女



まだ雨を抱いて睡りぬライラック



回想へ傾いていくライラック






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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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