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椿・落椿

椿・落椿

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今日の1曲/Eva Cassidy - Blue Skies


満月に見下ろされている椿



緞帳の重たき舞台椿咲く



椿踏む柔らかく闇割れていく



気を病めば一斉に椿が増える



落ちていることも知らずに椿かな




落ちた姿も散々詠まれている椿だけれども、中でも特に印象に残っているのが、この句である。

「椿落つ今日の心の隙間かな」 井上閑子

30年も前のことになるが、俳句を始めたばかりの頃、鍵和田袖子先生の句会に1年ほど行っていた。
その時、助手の講師をしていらしたのが、井上先生だった。

こんなにミニマムな詩形式の中にも、様々なスタイルのようなものがある。
たった数個の言葉で構成される詩の宇宙。その言葉達の、距離、角度、繋がり方は千差万別で、言葉の間に、大きな跳躍があったり、飛翔があったり、あるいは無かったり。
でもどんなスタイルでやるかが問題なのではない、と思っている。
どんなスタイルで詠んだとしても、いいものはいいし、つまらないものはつまらない。

井上先生のこの句は、どこにも突飛な距離間は無い。
平坦な道をいつもの歩幅で歩いていく言葉達。
それなのに、すーっと日常が非日常に繋がっている。

「ギリシャ悲劇終へし愁思の靴へ雨」
「園枯れてより物思ふ裸婦塑像」
これらの句にも、同様の、日常と非日常のきめ細やかな同居があり、その滑らかさに、感嘆する。




菜の花や懐かしい話へ傾く



菜の花の灯りて駅はまだ先に



結び目の解けぬ心を春の風



春雷やわが体内の遠き場所



さくら散るくしゃみをすればなお散りぬ



塀の猫落ちそで落ちず春の昼

猫は塀の上が大好きだ。地面の上に比べたら、圧倒的に危険が少ないからだろう。ブロック塀の上に、こんもりと座っていて、麗かな春の光を存分に楽しんでいるのが、家の窓から見えている。
そのうちに、うとうととしているのだろう。
微かにふらついているかなと思ったら、ぐらっとくる。あっ、危ない、と思っても、そこは動物の鋭敏な運動神経、鮮やかに態勢を持ち直し、何事も無かったかのように、またこんもりと、座っている。
あの猫たちは、飼い猫ではないのだけれど、2件くらいの家で、定期的に餌を貰っている。何処か外で寝ているからには、さぞかしこの暖かさが、嬉しいことだろう。



我守る如柔らかき春の雨

駅から出たら、柔らかな針のように細い雨が降っていた。天気予報では、曇りだったから、傘を持たずに出たのに。
雨に濡れるのは大嫌いなんだけど、本降りではないし、仕方ないから、歩き出した。
しかし春の雨は、他の季節のどんな雨とも違っていた。
控えめで、物柔らかで、優しかった。
家までの7,8分、濡れているのに、私は何かに守られているような気持ちで、春の雨とともに夜道を帰宅した。



春満月ネオンの上に豊満に

繁華街の交差点で、東の夜空から出たばかりの満月が、度肝を抜くような大きさだった。
ぬっと、重たそうに出ている満月の下には、せせこましい安っぽい色の細かなネオンたちが犇めいていた。
そこへ大親分のように、どっかりと全き円の満月が居座って、瑞々しい淡い金色に輝いている。
さぞかし人間の作った玩具のような光達とは格が違うだろうと思いきや、さすが満月、太っ腹である。
下界に散らばる様々な色のネオン達を一斉に取りまとめて、どしんと大きな円を書き加えることによって、カンディンスキーの抽象画のような一枚の絵に、仕立て上げていた。



春昼のソナチネ宙を降りて来ず

どこの家からかはわからないが、滑らかなピアノの音が聞こえてくる。
ソナチネだ。自分もやった曲で、懐かしい。私と違って、かなり上手だ。
それはコロコロと春の暖かな空気の中を玉のように転がって、決して落下してこない。

こういう曲の対局にあるのが、例えばベートーベンの月光ソナタだ。
鬱と言えば乱暴だけれど、下手な演奏だったらそういう感じかもしれない。
上手な演奏ならば、えもいわれぬ神秘的な、瞑想的な、まさに「月光」の味わいだ。

自分は半ば自己流とはいえ、長年ピアノをいじっていたのに、たいして上達もせずに、譜面を見ないで弾けるものは、今となってはたったの2曲。
クラッシックならこの月光ソナタの第一楽章だけ。ジャズならば「ミスティ」だけ。
本当にこの2曲だけというのが情けない。いや、それさえも、この頃、ふっつりと弾いてる最中に頭が白紙になることがあって、恐ろしい。

しかしこの月光ソナタは、第一楽章だけならば、込み入った速弾き?部分がないので、ある程度弾ける人なら、難易度は高くない。いや、単に弾くことができる、というほどの意味だけれども。
だから素人の大人がたっぷりと感情移入して弾くには、格好の曲だと思うのだけれど。

ある日私が久しぶりにこの曲を弾いている時のことだ。
ご存知のように、「タタタ、タタタ」というゆっくりした三連符の和音が少しづつ色合いを変えてゆく。

それはまさに、月光が湖のさざ波に煌めいては柔らかく割れてゆく、その表情が刻々と変わっていくような、美しい和音の変化だ。その微妙な移り変わりに身を任せて、すっかり没頭して弾いていた、その時。

なんと窓の外から聞こえてきたのは、この辺に時々来ている、豆腐屋の笛の音!
この頃またこうして昔のように、小さな車で住宅街を売って歩く豆腐屋が復活しているのだ。

まさか、(キーはFでいくとなると)「ファソラーソファ、ファソラソファ、ソー」とはやらないまでも、調子っぱずれな玩具めいた音で、「ファァァァー、ソー、ファァァァー、ソー」と傍若無人な音で続けている。

これには参った。
全く違う世界が一同に犇めいて、組んず解れずつしている、これこそ「世界」の真実の在り様というものだ。
だがそのギャップは時には笑ってしまうほどに激しいのだ。
ベートーベンの月光ソナタと豆腐屋の笛が同一空間に同時に聞こえてしまう可笑しさ。

しかしだからと言って、中途で止める訳にはゆかない。
生ピアノというものは、望まなくとも、近所に聞こえてしまうもの。途中で止めたら、いかにも豆腐屋の笛に敗北したようではないか。
いや、実際には誰もそんなこと気にも留めないであろうに、そういう状態の只中では、自意識が異常に硬直してしまい、私は意地になって、最後まで月光ソナタを弾き続けた。
弾き続けるしか、無かったのである。

しかし弾き終わってみると、目一杯居心地の悪い、捉えどころのない無重力な沈黙が、辺りを埋め尽くしていたのだった。


(すみません、ソナチネアルバムはモーツァルトの曲は2曲だけで、あとはクーラウ、クレメンティ、ハイドン、ベートーベン、シューベルトなど複数の作曲家の曲を集めたものです。モーツァルトのものが多いと勘違いしていました。文は訂正しましたが、その前に読んだ方、ごめんなさい。)



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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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