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春アラモード1

春アラモード1

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本日の1曲/タイースの瞑想曲 葉加瀬太郎


春の夜のどこかにありぬメリー・ゴーランド



雛あられあたりさわりのない話



啓蟄やあれもこれもやるつもり



啓蟄やコンビニ前は人で混み



春光にじっとしている記憶の背



春光を吸ってタオルの乾きけり

洗濯物を干しにベランダに出ると、まさに春が来ていた。
眩暈がするような明るい陽の光によってそう感じたのだけれども、ぐっと底上げされてきた温度や、風の柔らかさや、何の匂いとは特定できないけれど、ああ、春の匂い、と身に覚えのあるような匂い、そういったものが一丸となって、私を捕まえたのだ。

これこそ「旬」というものだ。
春の、最初の一行目。

「女房を質に入れても初鰹」なんて古い諺がある。
ホントに女房を人質にしたのかとか、あれは女房の着物を質に入れるという意味だとか、あれこそジョーク!だとか、色々尾鰭は付くけれど、旬の物の素晴らしさは、何としても体験してほしいものだ、ということだろう。

「春光」は鰹と違って、「ただ」であるから、これをたっぷりと享受しない手はない。

とは言えこれも、「いいなぁ、春だなぁ、」などど、言っているうちに、あっという間に慣れてしまうのだ。
毎日ベランダで洗濯物を干すうちに、多忙で均一な時間の中で、最初の感激の大きさは、どんどん色褪せてしまうのだ。
お風呂に入って、「あー、いいお湯!」という、あの最初の酩酊が、じきに終わってしまうように。

だが、四季というものがあるからこそ、こういう様々な変化による喜びが訪れる。
そういうところから、俳句や季語も生まれるべくして生まれて来たのだろう。
常夏の島だったら、出てこない文芸形態なのではないだろうか。

巨人のように堅牢だった今年の寒波のあとには、ひとしお嬉しい、春の訪れである。

いつまでも、生暖かい春の大気の中を、背泳ぎで、ゆったりと泳いでいきたいような、そんな心持ちでいる。







春の闇とめどなくユングの話

最近本を読んでなかった。
時間が無いといえば無いのだから、当たり前なのだが、決していいことではないのだ。

「自分」というものが、なんというか、更新されなくなるのだ。

「自分」などといったって、それは沢山の「自分で無いもの」の混入と、その並べ替えでできている。
おでんの汁だって、ほおっておけば煮詰まってしまったりするのを、水を足したり、新たな具を足すことによって、新鮮で尚且つ深みのある味を保っているのだと思う。

「本を読まない」「外出しない」というのは、更新されない自分をほおっておくということだから、当然自分というものは、煮詰まってくる。だから忙しいというのは、決して褒められたことではない。

この時は、正しく言えば、「ユング」の著書ではなく、「ユング派の心理学者」である河合隼雄の「心の読書教室」という本を読み返したのだが、「河合隼雄」の「こころの読書教室」なんてのは字数からしたっておよそ俳句にはならないから、「ユングの話」ということに短縮した。本の内容からしても、ユングの心理学の原理の上に、河合の見解を乗せてゆく内容だから、違ってはいないと思う。

夕飯が済んで、しばし休憩と思ってソファに近づくと、整理の途中だったすぐ横の本棚から、一冊の文庫本が私の前に落ちてきて、それがたまたまこの本だったのだ。ウーン、何だか実にユング関係の本にふさわしい登場の仕方だなあ。
偶然から必然が顔を出す。

本の内容は、臨床心理学者の著者が、様々な小説や物語に、人間の心や無意識というものがいかに如実に反映されているか、というような講演の内容で、山田太一や村上春樹、遠藤周作、ヘッセ・カミュなど、また様々な世界の児童文学などと、ユング心理学との照らし合わせが論じられている。
そして、このような観点からのそれらの読書のすすめ、そんな内容になっている。

その中の言葉で、非常にリアルに響いて来たのが、

自分に近い周辺にあるもの、つまり自分の知っている身の回りの人や、場所的に近いことろにある人及び物、などがまずあり、その外側に、今現在の自分からは見えない、自覚できない、人や物や事件、知らない人々などがあり、(たとえば、今この時、隣の町で交通事故が起きていても、自分はまだそのことを知らない。)
そしてそのもっと外側には、違う国やらなにやらあって、戦争をしていたり、平和だったり、洪水が起きたり,旱魃が起きたり、なんだりかんだりしている。

そして一人の人間の内部の、つまり心の中も、このように空間的な広がりがあって、自分の知っている、自分に親しい自分から、顔だけは知っているような人や、知らない人、自覚していない事件のような段階の自分、さらにはもっと外側に、広大な外国のような未知の場所がある、というのである。

これは私の言葉に置き換えてしまっているから、表現は違うのだけれど、おおよそこんな感じであると思う。

そしてまた、この広大な世界に生きている様々な人、物、事が、一人の人間の成長や変化に、実に複雑に絡み合って、影響し合って、一人の人間が生かされている、というのである。
それは確かに、その通りであって、人ひとりが生きていくには、沢山の人や色々な社会の働きが、無限に関わって成り立っているのだと思う。

さらにまた、こうした外界の関係のありようは、一人の人間の中の心や無意識のありようと、微妙にシンクロしている、という。

そして一人の人間の心の中も、よく知っているものから、多少知っている物、殆ど自覚できないもの、大きな未知のもの、まで様々に広がっているものだから、よく知っている物とよくわからないものとの緩衝が、うまくゆかないと、心に色々と支障をきたす、というものだ。

なるほどなあ、と思う。

自分の事なんか、自分が一番知ってるわい、なんて思っていても、それがそうでもないですよ、という話。

この本は、講演形式のせいもあると思うのだけれど、「これはこういうことなんです」と数式の並列のようにはなっていなくて、比喩がまた比喩をかぶっていたり、疑問を展開していくと新たな疑問の入れ子状態になっていたりで、前に読んだ時には、どうもすっきりこなかった。

何年かたって、ポロリと私の前に落ちてきて、拾って読んだら、少しわかって来た。

自分の内界もまた、春の闇のように、見通しのきかない、無限の奥行を持っている。

自分の中も、自分の外も、くんずほぐれつしているジグソーパズルのように全体として機能しているもので、あらゆるものが、あらゆるものの生成に、お互い影響し合っている、ということ。

とめどなく広がってゆく、大きな、話だ。
始まりが無くて、そして終わりも無くて、いたるところに中心があるような、宇宙的なスケールの話だと、私は思った。








シクラメン放し飼いになっている情熱



シクラメン硝子に映っている女



言いたかった言葉積もれば雪崩かな



遠窓に人影ありて春めきぬ



面倒と思うこと増え桃の花



春の雨眼鏡で受ける一粒目






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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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