立春・春立つ

立春・春立つ

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秒針の音かるくなり春立ちぬ



春立ちぬ気軽にひとを呼び止めて



無防備なこの世のものや春立ちぬ



立春の人のまなざし浅くなり



春立ちぬ遠く列車が走りだす



立春の猫の背にあるひかり濃く



立春やひととひととは噛み合わず

ここ数年、聴く音楽が変わって来た。

ジャンルは「クラッシック」「ジャズ」「ロック・ポップス」などなんでもありなんだけど、乱暴に言ってしまえば、「静かな音楽」になって来た。
「静かな音楽」と言っても、今はやりの「作業用BGM」みたいなものではなく、隅々まで魂の行き渡っているようなナイーブなものでなくて食指は動かない。 
たとえば 
Eva Cassidy - Songbird

アップテンポのものももちろん聴くけど、エネルギーがむき出しで巨大な火の玉になっているようなものでなく、ガラスの立方体の中に、熱い花火が上がっているのを閉じ込めたような、そんな感じの音楽。(笑)
たとえば、 Ron Carter - The Shadow Of Your Smile
モダン・ジャズの中では、こういう耽美的というか、シックなのが好き。

あと今よく聴くのは1970年代ロック・ポップスのカバー・バージョン。
カバーと言っても、原曲の良さが無くなったような、中身のスカスカなスポンジケーキに砂糖をまぶした、みたいなのは、願い下げだ。
一番素晴らしいのは無論オリジナルとしても、そのシンガーが昔愛聴した曲を、歳月を重ねて良くも悪くも色々な経験をした後で、今ならこう歌う、そんな情感の濃い、完熟しているカバー曲が好きなのだ。
たとえば 
How deep is your love - Simone Kopmajer

クラッシックの場合は、ものによりけりだけど、交響曲はほとんど聴かない。
「ダダダダーン!」と来るような衝撃は、今の生活では別にいらないのだ。
だからといって、ああいう音楽がつまらないとか、ゼーンゼン、そんなことは思っていない。
ああいう大きなエネルギーの空間の中にすっかり入って、一緒に流れるのはそれはそれで大変なカタルシスだろう。
でも今、私の生活ではいらない。今の自分の感情のレベルとか、疲労のレベルとか(笑)「波長」みたいなものにスッと入ってきてくれる音楽が必要なのだ。薬局で今の自分に合った薬を処方してもらうように。
今気に入ってるのはこれ。 
神尾真由子「瞑想曲 op.42-1」 (なつかしい土地の想い出) チャイコフスキー

あらゆる音楽を隅から隅までリサーチしてる時間なんかとてもじゃないけど無いし、
年齢や体質が変わるのと同じように、好みの音楽が変わるのは、ごく自然なことだと思う。
エネルギーが炸裂しているような音楽に「おおっ!凄い!」と立ち止まることもある。息をのむこともある。でも今は、深入りせずに通り過ぎる。

以前のブログにも書いた、馴染みの「ロック・バー」に久しぶりに顔を出した。
前には「和光のとんかつ」持参で行ったなにがしを書いたが、今度は「恵方巻」を持っての来店。近くのスーパーが店を閉めて、こういうものを買いたければ、隣町まで歩くか、反対の駅まで電車でゆくか。今日は電車でゆく方を選び、ついでにそのスーパーの目前にあるその店にふらりと立ち寄る。うちの夕飯は10時すぎなのだ。

カウンターの客が私だけになって、何気に音楽の話が始まった。
前述したような、今自分が聴いている音楽のタイプを、マスターに説明しようと、話し始めた。
マスターは店は一応「ロックの店」ということだが、幅広く色んなジャンルを聴いている。

しかし「静かな音楽」と言った途端に、もう「あー、駄目駄目そんなの」みたいな運びになった。
どう説明したらわかるかなあ。
「うるさいのはもうダメなんだよね」、「例えばフリー・ジャズとかは聞かない」と私が言ったら、頭ごなしに「あー、そうやって選り好みしてちゃダメなんだよ!なんだって聞かなきゃダメなんだよ!ミュージシャンに失礼だよ!」
そりゃ正論だ。でもそれはそれ。こちらはこちらの物を見る角度ってもんがある。
それにロック全てを聞いてなくたって、ジャズ全てを聴いてなくたって、クラシック全てを聴いてなくたって、自分なりのアプローチで全てのジャンルから、選りすぐりのものを掘り出すようなやり方だってある。

私が言ってるのは、オーネット・コールマンとかコルトレーンとかセシル・テイラーとかが試みたような、アバンギャルドとか、アナーキーと呼ばれるような、凄い混沌とした音。でもそれだって、この人たちのやったことのほんの一部だし。「この人は聴く・聴かない」というのではない。どんなミュージシャンだって、色んなアプローチで色んな曲を演奏する。

理屈でなく、感覚だ。誰が、ではなく、そのアルバム、その曲で聴きたいかどうかは変わる。

だから感覚的に、聴かないのは、あらゆる原色のペンキを一挙にぶちまけた、混沌の塊が炸裂したような音。
抽象的な音がダメってんじゃなく、諧調を感じる、バランスの取れた抽象は好きなのだ。
これは絵画の好みでも一緒だ。
あとはこれでもかというような圧力を感じる無秩序な音。そういうのは聴かない。聴きたくない。スルーする。
この「聴かない」ってのが腹が立つらしく、向こうは興奮してくる。待て待て、向こうがつばを飛ばしてるからって、こっちも乗ったら、マズイ。

マスターの場合は、昔は好きな音楽とそうでもないものとあったのが、ある時「全ての音楽」が素晴らしく、どんな音楽でも聴こう!と開眼したことがあったんだと言う。それは前から聞いていた話で、いい話だな、と思っていた。でも「マスターズ・ストーリー」は滔々と述べるのに、「私のストーリー」には耳を貸そうともしない。
誰にだって、同じようなマイ音楽ストーリーがあるんじゃないの。
マスターの言わんとするところは分かっているし、全ての音楽、そのミュージシャンの存在を丸ごと聴くというのは、最も正統的な音楽の聴き方だ。
でも私の聴き方は違う。自分のその時その時に必要な音楽を探していく。若い時に聴いていたものが今も必要とは限らないし、若い時に全然関心の無かった音楽が今とてもぴったり来たりする、そのことに忠実なだけ。
どちらもありなんじゃないの、と言いたいだけなんだよね。

「だからね、静かな音楽ってのは、静かなだけじゃなくて…」
( 静かで、魂が震えるような、音楽なんだよ!)と、私が言おうとする。
それなのに、「だからね、静かな音楽」のあたりまでしか言わせない。

その辺まで言うと、「ダメダメ!」「違うの!」と途中で横やりを入れてきて、その後を言わせない。

ここからはもうどんどん、ずれてゆく。
何がずれてゆくかって、音楽の話では無くなって来る。だんだん腹が立ってくるのは、音楽的な意見の違いなんかではない。そんなの違って当たり前だ。

そうではなく、人の話を頭一つ分くらいしか聞こうとせずに、ひたすら自分の意見だけを押し付けようとする、この態度!
相手には「言わせない」というやり方だ。何か言おうとすると遮って、とにかく話を続けさせない。
特に相手が女だとこうなるようだ。
こういうの、大嫌いなんだよね。

少なからずむかむかしてきて、「マスター、も少し人の話を、後の方まで聞きなさいよ!」
と言っても、全然聞く耳持たない。

「俺はね、全ての音楽を聴いてんの!とにかくもう、全て!」なんて教祖さながらに言ってる。嘘に決まってる。
だってマスターからクラッシックの音楽の話を聴いたことはない。
「へー、じゃあマスターはクラッシックも聴くんだ?」と言ったら、

「聞くよ!すべての音楽を聴いてる、聴いてない音楽なんかない!」「マーラーだってなんだって聴いてるよ!」

「じゃあ誰のマーラーが好きなの?」「好きな指揮者は?好きな演奏家は?」と言ったら、一人の名前も出てきはしない。「ほらねー!」と言っても、「とにかく俺は聴いてない音楽なんかないんだ!」だって。

あげくに、「静かな音楽なんてもんは、音楽なんかじゃない、そんなの、音楽聞く必要なんかないだろう、そんなんが良けりゃ、川のせせらぎでも聞いてろよ!音楽聞く必要なんかないんだよ!」と吐き捨てるように言うではないか。

それを聞いた途端、突然私の頭の上の「蓋」みたいなものが、ポカっと取れた。
そう、熱いいお茶の入った湯飲み茶碗の蓋とか、なんかそういうものが、ポカっと。

私はマスターに向かって、言った。

「いーかげんに、人の話を最後まで聞けって言ってるでしょー!」
「静かな音楽音楽って、その後があるのっ!」
「いいっ?静かで、しかも魂が震えるような音楽って言おうとしてるんだよっ!」

「いーや!さっきそうは言わなかっただろう!」
「言おうとしてるのに、あんたが聞こうとしなかったんでしょーがっ!」

そして最終的に、マスターを睨みつけて、あろうことか

「この頑固ジジイー!」と言っていたのである。

凄い。 言いながら、(これを言ってるのは一体誰なんだ?)と思った。
人様にこんな言葉を投げたのは生れて初めてだ。人生初のことはまだまだ起きるんだなあ。

そしてレジでお金を払いながら、
「マスター、その石頭、どぉーにかしなさいよっ!」

「もう来んわ!」と何故か関西弁の捨て台詞を残して、思いっきり店のドアを閉めたのであった。


ああ…「春が立つ」はずだったのが、一字違いで、「腹が立つ」に…。

仕方ない。あれも立春なら、これもまた立春。 
我慢がきかなかったのもまた、春が故かもしれない。
色んなものの種も、地面の中でむくむくと動き出してるに違いない。

そういえば今日は、寒くなかったなあ。







寒明けのみずのはやさで夢をみる



春隣すっかり約束忘れゐて



チェロの音に洞窟ありぬ二月かな



薄氷優しい言葉割れてゆく



寒菊やメトロノームに狂いなし



人の縁遠くなりつつ余寒かな



束ねをり髪と記憶とヒヤシンス



春を待つ駅で電車を待ちながら






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コメント

No title

戦中生れ、戦後育ちの者には、若い人の感性が羨ましい。オルガンを習いたくても琴しかならわせてもらえず、それも兄や姉の学費がかさむようになると止めさられた。知識はないのですが、紹介される音楽を楽しんでいます。

そして私も 「この頑固爺!」と叫んでみたい。

Re: No title

コメントありがとうございます!
嬉しいなあ。紹介している音楽は、正直言って聞いてくださる方はあまりいないと思っていました。
皆さん、急いでいらっしゃるから。ひとりでも聞いてくださっている方がいると思うと、励みになります。

しかし我ながらあんな言葉を人に吐くとは…自分の中に新大陸発見のような驚きです。
自分を呆れつつも、妙に風通しが良くなったような、すっきり感は否めないのでした。(笑)

taracyannのお気持ちお察しします。書いてない言葉も、なんとなく見えるような気がします。

No title

大変ですね。
「この頑固ジジイー!」と言うなんて。

Re: No title

コメントありがとうございます。
そうです。大変なことです。
しかも相手は70歳。こちらは今年還暦ですから、ギャグにはなりませんね。(笑)
こちらは頑固婆です。(笑)
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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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