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枯木立・寒林

枯木立・寒林

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今日の1曲・Chris Botti - Ave Maria


寒林にあるべく星を探しをり



話まだ続いてゆきぬ枯木立



裸木のむこふは宇宙あるばかり



黙々と人走りゆく枯木立



天心に月いただきぬ枯木立



寒林を抜ける魂のみとなり



枯木立我といふ振り出しに戻る



寒林に一人目覚める夢の中

何と寂しい夢だろう。

しかし夢の中で、目覚めるのだから、それはきっと何かが心のバック・グラウンドで始まっているのかもしれない。

「想像力」という言葉は、なんだか偉そうで、あまり好きではない。
英語は苦手なのだが、「imagination」と言う方が、ずっとぴったりくる。
imagination」の発音の最後の方には、羽が生えている。
真っ白い羽だ。
これが、あちらこちらに飛んでいったり、帰ってきたりするからこそ、人と人とが理解し合えるし、なにか「新しいもの」が創造されてゆくのだと思う。

目の前にあるもののどれ一つをとっても、この「
imagination」無しに登場してきたものはない。

人間の「こうだったらいいな」「ああだったらいいな」という思い付き、羽の生えた「imagination」から、今はまだ無い物が新たに考え出される。
電話、ボールペン、タブレット、キャンドル、加湿器、電気スタンド、インターホン、スリッパ!
部屋の中のどれ一つとして、「
imagination」なしに生み出されたものは無い。

「物」は「心」から生まれてくる。 もっともこれは人間の作った「もの」に限られるけれど。

しかし「
imagination」は両刃の剣のようなもので、厄介な時もある。
これが豊かであるが故に、人は必要以上に苦しんだり、悲しんだりすることもある。
適量でなければ、毒になって体を蝕むのは、薬と一緒だ。

そして、俳句もまた、「
imagination」の翼が大きく広がって作られる「詩」の一種だ。

色々と頭を捻って作っているつもりなのだが、そういう「意識」の世界ではなく、最終的には「無意識」の世界から、壁を越えて、ポーン、とやって来るものだと思う。

実際、後から読んで、何処からやって来たのあんたは?みたいな句の方が絶対良くて、凝りに凝り、考えに考えたものはあまりよくないのだ。(全く推敲しないとか、そういうことではないんだけれど)
だからと言って、いつもポンポンというわけにはいかない。絶対に。
ウーン、ウーンと苦悶しているうちに、気まぐれな神様みたいなものが、「ほれ、苦しんでいるご褒美じゃ!」みたいな感じで、唐突に投げてよこすのだ。

それにしても、以前の自分の句を読んでいて、背筋が寒くなることがある。

それを書いた時の自分の状況、もちろんその状況を隠さずにストレートに詠んでいるものもあるのだが、そうではなく、ただ単純な光景を詠んでいたり、ただ心象風景のようなとりとめのないものを詠んでいたりするつもりのものが、後に俄か精神分析医のような目で読めば、あれもこれも表現しているのは、空ではなく、木ではなく、自分なのだ。

例えば2017年の2月。
わたしはある事情によって、家族と離れて暮らしていた。
何度か諦めていた人間関係の綻びを修復しようと試みた。
けれどもまた同じ結果、失望の中へ逆戻りして、悶々とした気持ちで毎日を送っていた。


立春の底に沈んでいる鏡

立春のひかり傷つく大通り

春寒の前行く人に距離空けて

春寒の実を結ばない空となり

言葉へと落ちぬこころも春寒し

最初の二つは、「立春」という時期の、光ばかりキラキラと立ってきて、寒さは冬のまま、あの痛々しいような感じを詠んだだけだったのだが、そういう角度から見たら、いかにも不安定な自分の状態そのものだった。

そして春寒の夕暮れの路地を、前の人になるべく追いつかぬよう、歩いていたある日の自分を詠んだだけだったのだが、人というもの全体に距離を置きたかった、その時の気持ちが、そういったシーンをチョイスさせたのだ、ということが後からわかる。

「実を結ばない空」と言う表現も、晴れなかった、寒々しい春寒の曇り空の、屈折した感じを表現したつもりだったのだが、人間関係の修復が実らなかった失望が、バックグラウンドにあってこそこの表現を選んだのではないか。

最後の「言葉へと落ちぬこころも春寒し」は、まだまだ寒い初春、ぐんぐん若葉が育つようには言葉も出ない、俳句もやすやす出てこない、そんな悴んだような春寒の不自由な感じを詠んだつもりだったが、これこそは言葉に表現できないような、重たい気持ちを抱えて春寒の只中にいた、そのことの証明以外の何物でもなかったように思えてくる。

「比喩」ということの多重性。外界のものを表現しているつもりが、そうと知らずに内界のものを表現しているのだ。
そしてそこにこそ、俳句がそれを詠む本人をそうと知らずにどこかで癒してくれる、その秘密があるのではないだろうか。

私達は、自分がマイナスな状況にある時、それをストレートに表現することは、なかなか抵抗があって、できない。そういう自分を直視するのが嫌なのだ。なるたけやり過ごしていこうとする。しかし身の回りの森羅万象を表現している時には、そういう防衛線を張ってはいない。

そしていつの間にか、自他の境界線がぼやけた状態の中で、私は私の深層心理を表現し、そのことによって、自分の中の何処かが、少し治癒し、回復していたのではないだろうか。

この一年、色々な問題が犇めいた年だった。人間関係だけではなく、もっと根本的な問題も口を開けてきた。

「俳句が私を支えた」なんて、割り切った言葉にすると、何かが違う。
意識の上で、そんな風にはあんまり思えないのだ。
それほど「力」のあるもののような気はしない。

しかし、俳句を書き続けていくことが、心の広大なバック・グラウンドで、そうと知らずに大気のように私をそっと包み、背後から自分を押していてくれたのではないか。

ぐるりと四季を巡り、混迷の中にいた私をとりあえず、前に、前に、そっと押してくれて、ふっと気付けば今があるような、そんな感じがするのである。






専門書買えば重たき冬の空



冬薔薇鏡の中にしか棲めず



寒菊の花弁冷たく迷い無く



寒菊のわかり合えずに束ねられ



唇が切れている冬夕焼け



冬の朝遠くに数式ある如く








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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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