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師走・極月

師走・極月

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今日の1曲/Blue Mitchell Quartet - I'll Close My Eyes




交差点師走とともに流れゆく



極月のシンクの水の速さかな



解散のあと肩寒き師走かな



極月やコンセントいつでも足らず



似たような喜怒哀楽を経て師走



電車窓我は年取る師走なり



極月の月に眠りは水平線



ビル街の青空矩形極月へ



ATMの列に我足す師走かな



極月の雑居ビルの如き我かも

師走・極月、同じ12月の名称であっても、随分と印象が違う言葉である。
どちらにしても「弥生」だの「水無月」だの「葉月」だのと並べたら、あまり美的とは言えない。

強いて言えば、極月の方が、凄まじいような、怖いようなギラっとした美しさはあるかもしれない。

「師走」と言うとやっぱり、お坊さんが走っている姿を連想してしまう。
いや、もちろんもとはと言えばこのイメージは正しいのだ。

しかし昨今お坊さんが走ると言えば、駐車禁止のせいで、どちらかと言えば、お盆だのお彼岸だ。
その頃には、そこかしこの路地で走るお坊さんに遭遇する。
だからどうも現代のお坊さんが走るというイメージは、時候が混乱してしまうのだ。


だから混乱を招く「走るお坊さん」の執拗な幻影を丁重に払いのけながら、もっと他の「師走」のイメージをリサーチするのであるが、どうにもこうにも、普段見ないようにしている、時の流れの深い淵を、覗かざるを得ない時期である。

12月の始まりをまたぐや否や、周り中の大人が呟く。
まるで靴を脱ぐように、手袋をはめるように、コートを着るように、お茶を飲むように、

「速いですねー!」。

隣の奥さんも、久しぶりに電話した友人も、保険の外交員も、内科の先生も、看護婦さんも、水道屋さんも。

「そんなことないですけどね」なんて言う大人には、いまだかつてお会いしたことはない。

大人になるということは、身に染みて時の流れを、その速さを感じるということなのか。
なんだかちょっと寂しいなあ。人類皆浦島太郎ということろか。

浦島太郎は竜宮城で遊んでいたのであるが、大人は皆働いている。

経済的な意味だけでなく、労働という身体的な意味だけでもなく、現代人は意識そのものが、休みなく働いているような気がする。

昔に比べたら、情報量は天文学的に増えたのだろう。
それだから却って、何一つ選択するのにも、何が一番ベターなのか、何が一番より良いのか、絶えずアンテナを張って、小さな選択を繰り返しながら、一日を過ごしているのではないだろうか。

そしてその意識の動きが癖になり、絶えず二者択一のような精神状態で、意識がいつもフル回転しっぱなしになっているのかもしれない。

あれやこれやと、まさに思惑の雑居ビルの如き大人の一日。

子供の頃の時間は無限と限りなくシンクロしていた。
ありとあらゆるところに、無限がぽっかりと、泉のようにその口を開けていた。

落ちてくる雨垂れが、水溜まりに広がっては消えるのををじっと見つめている時、
線香花火の最後の火の玉の震えをじっと見つめている時、
そして冬の引き締まった冷たい匂いを、肺の奥まで真っ直ぐに吸い込んだ時。

無為に過ごしていた子供時分にあのような素晴らしいご褒美をもらっていたのに、
これほど一生懸命生きている大人がそういう喜びからどうにも遠のいてしまうのは、なんだかつまらない。
それなら大人も無為に生きろって?いや、それじゃあ食べていけないから。

子供時代というのは、母親の胎内から脱出していても、巨きな自然の胎内には、まだ抱かれたままなのかもしれない。

俳句を作るということは、その巨大な万象の胎内に、何かと連絡を取ろうとしているような、そんな様な気がするのだ。


雑居ビルの出口を探して。









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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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