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師走・極月

師走・極月
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本日の1曲/Rick Braun - Nightwalk



また師走また交差点に立っていて



二三人男追い越し師走かな



極月の真上に月の磁石かな



電話切る言葉探している師走



「師走」というものがもし動物だったら、どんなだろう。
それは間違いなく巨大で、そして灰色なのではないか。

それでは「象」のようではないかって、
いやいや「象」のようにはゆっくり歩かないだろう。

もう少しさっさと歩くだろう。
だからと言って、ピューマだのカモシカのように敏捷では無いような気がする。

師走というものは確かに早瀬のように、あれよあれよという間にいってしまうものなのだけれども、
何と言うか、巨大で重たい灰色の追い風の塊のように、背後から人をぐーっと押してくる。

ぐーっと押されて、他へ飛び出そうったって、もう今年は残り僅かで、何処にも逃げようがないものだから、
仕方なくその 大きな追い風に乗っかってしまうしかない。

師走の大きな灰色の背中に乗っかってしまって、あれこれと忙しくしている他にないのだ。

そうすれば、師走と一緒に、自分もワーッと流されて、新しい年に流れつくというものだ。

「師走」のようなものには下手に抵抗しない方がいい。

「師走」と一緒に、流れて行ってしまった方がいい。

背中に乗って、まんまと新しい年に、行ってしまった方がいい。








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ひと呼吸すれば山茶花ひとつ咲く



寒林に深く入日の迷い込む



水平に運ぶケーキやクリスマス



人の縁少し動きぬ冬星座



晩年に計画ひとつ冬茜



この眠り続いていきぬ枯野へと


以前、冬に初めて旅をして、枯野というものの美しさに心底驚いた。

街育ちの自分には、行く人がいつまでも見えているような、そんなだだっ広い空間というもの自体が、そもそもカルチャーショックだった。

枯野には、取り付く島のようなものが無い。

頭の周りをブンブンとうるさく飛び回っている蠅のような、言葉や意識の絶え間ない企てや選別が、無い。

言ってみれば、ひとの心の下層に広がっている、無意識というものが、風景として表象されたような、そんな茫漠とした郷愁に満ちている。

そう、それは何か、沢山のものを、忘れている。
沢山の生きる為の仕業や目論見を、キレイさっぱりと、忘れている。

余計なことを忘れているということが、こんなにも力強く、人にとって根源的なのことなのだということもまた、普段の生活の中では意識されずに通り過ぎてしまうのだ。

この感じは、海にも、似ている。

人があまり訪れなくなった、秋の海の、少しふてくされたような投げやりな波。
茫漠とした海。

茫漠としているものは、全て人の後頭部に臍の緒のようなもので繋がっているのではないか。

だだっ広い眠りへ人が小さな意識の小舟を逃す時、それは枯野へと、あるいは秋の海へと、真っ直ぐに繋がっていくような、そんな気がする。





末枯野何か忘れてきし思ひ   中村苑子


枯野なる心の内を旅すれば   司修


日と月の絶えずめぐれる枯野かな   林周平


蓄音機針は枯野におりてゆく  あざ蓉子


手鏡の中の枯野を見てをりぬ   穂坂日出子


満天の枯野の星のみなうごく  松本浮木


枯野明るし抽象の鳥生んで  秋尾敏








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2018年も残りあと僅かとなりました。
今年も皆さんが訪問してくださり、また応援してくださったおかげでとても心の支えとなりました。

新たな年が皆さんにとって、世界にとって、良い年となりますように。






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冬ア・ラ・モード


冬ア・ラ・モード

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本日の1曲/Pat Metheny and Toots Thielemans - Always And Forever 1992.wmv



点滴の如く夜過ぎ毛糸編む


編み物は好きだ。

というより、うかうかと始めてしまったら止められないのだ。

若い時分は、お酒を飲みだしたらこうだった。
今?今は殆ど飲まない。たまには飲むけれど、分量はいけない。もう体があんまり受け付けない。

今の私には、編み物の方がお酒よりも魅力的だ。

何故なのだろうとふと考えた。

情報社会と言われる現代、自分もちょっと細切れの時間ができれば、自動的にタブレットを手繰り寄せている。
しかし何をしているかと言えば、言ってみれば情報集めだ。

ありとあらゆる分野の情報。デザイン、俳句、買い物、ガーデニング、病院、求人、ニュースにレシピに法律。
それはもちろん便利に違いなく、玉石混合なのだから気を付けなければならないとしても、思いついたらすぐに調べがつくのだから、ありがたい時代と言えば確かにありがたいのだ。

しかし・・・それでなくても私の生活は、「・・・するつもり」の皮算用でいっぱいで、情報と空想と仮想の蜘蛛の巣のようなものが、頭の中のそこいらじゅうに張り巡らされている。
しかし実際に実現されている物事に比べて、計画されている物事や、実行を検討されている物事の方が、圧倒的に多すぎる!

ことほど左様に情報過多の時代をそのまんま生きている私にとって、そのアンバランスは、慢性的な「小さな不満感」を生み出していることは間違いない。

「あれもしたい」「これもしたい」「こういうものを作りたい」

しかし・・・実現されていることのいかばかりのものであろうか。

物事というのはやはりバランスが肝心なのだろう。

巨大な雲のような仮想空間に比べて、実現されていることが、猫の額のような分量だったとしたら、慢性的な欲求不満になっても、それは無理の無い事だ。


そこへいくと、編み物というものは、言わば小さな「意志」がひと目ひと目間髪を置かずに実行されて、即「現実」となって目の前に流れ出てくる。

そして、一本の「糸」=「線」だったものが、段数を重ねて「面」となり、その「面」を剥ぎ合わせれば「立体」となってくる。

つまり「こうしたい」と頭で考えたことが、即実行されて、間を置かずに眼前に現実として表れて来る、
その速やかな「意志の達成感」が延々と続いてゆくことによって、編んでいる人はいつの間にか心が落ち着いて来る、

私には、そんな風に思えてならない。

考えてばかりの現代人。情報を照らし合わせて、吟味し、何がベストなのかひっきりなしに考察し、計画し、ああでもない、こうでもないと言っているうちに一週間は飛ぶように過ぎる。

そんな生活の只中で、ふと編み物を始めると、

質の違った時間が流れ始めるのだ。

「即成仏してゆく小さな意志の連続」

それが前のめりになりがちな私の心を落ち着かせてくれる。


そして、夜の時間の一粒一粒が、本当はゆっくりと緻密に過ぎていくことに、今更のように気付かせてくれるのだ。





血縁の死後も脈々冬林檎



荒星や地磁気ゆっくり歪みゆく



冬薔薇疑い深くなっている



歩道橋渡り切るまでは冬日









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冬木立まだ ・ どこかにこころざし



石像の影踏みしめて冬青空



寒風や仮面がみんな裏返る



マフラーと社交辞令に巻かれゆく



寒鴉記憶の中にある空白








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冬の句

冬の句  

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本日の1曲/Larry Carlton Crying hands



寒昴たれも誰かのただひとり      照井翠



荒星のはなれ離れの故山かな    恩田 侑布子



男来て出口を訊けり大枯野    恩田 侑布子



足音の石となりゆく寒さかな     山崎百花



凍蝶に五百羅漢の膝ひとつ    山崎百花



冬の月となりの席が空いている     田中朋子



雪催いすぐに視線を逸らされる    田中朋子






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踏み出して原点となる霜柱     秋尾  敏



寒林の言葉だろうか月昇る    秋尾  敏



秒針に冬の重さが少しづつ     秋尾  敏



寒の梅紅茶の細く注がれぬ    柏柳明子



寝転べば金管楽器となる寒夜    柏柳明子 



女の声尖り枯野を呼び覚ます   秦夕美









玄関前の山茶花が咲き出すと、時間が早送りになるようだ。

それはいかにも、せわしなく咲いては散る山茶花の舞踏さながらなリズム感に、ぴったりと来る。

冬が来るということは、同時に年が行く、ということで、良くも悪くも色々な事のあった今年という一区切りが、何か大きな時間の流れにぐるぐるとくるまれて、坂道を転がり出してゆくのである。

けじめのつけられたこともあれば、どうにも中途のまんま課題を持ち越すものもたくさんあり、その中にはいくつかの抜き差しならぬ問題もある。

しかし急には進展しない物事も、小さな一歩は既に踏み出しているではないか。
様々な問題も、まずは解決への小さな一歩からすべてが始まる。

去年の今頃と、すべてが微妙に違っている。
何一つ、同じものは無い。

去年の大きな問題は、袋小路に嵌っていた。
その袋小路は寧ろ心地いいもので、私にとっては休息のようであり、できることならそのままいたかった。

しかしもっと大きな問題が起きて、その袋小路に穴を開けてしまったのだ。
私は袋小路から、否応なく流されて、外へ出なくてはならなくなった。

これから一体どんな方向へ行けるのか、とんとわかったものではない。

しかし、何か事態が行き詰まって、にっちもさっちも行かない時、しばらくすると、外から大きな風が吹いてきて、自分の意志ではなく、思わぬ方向へ物事が動くのは、結構良くあることだと思う。

自分だけでできることなど、本当に限られている。
そんな風に思う時がある。

どんなに考え尽くしても、万全を尽くそうとしても、駄目な時は駄目である。
それがひょんなことから、思わぬ方へ怒涛のように否応無く流されてしまう時がある。

すると結果的に、自分ではとても行けそうに無い場所まで、行き着いていたりすることもあるのだ。

ああ、まるでルイス・キャロルの不思議の国のアリスみたいだ。
いや還暦でアリスはないか。

最近、人も入れぬほどぼうぼうだった裏庭の、絡み合い、虫に食われていた木をいくつも伐採した。
荒地のような瓦礫や根っこだらけの痩せた土地を今まさに、少しづつ耕し、様々な植物の苗を植えこんでいる。

目を閉じて、想像してみる。
この小さな苗達が、やがてふくよかな緑となる日のことを。
蔦は伸び、低木はこんもりと茂り、雪柳や紫陽花やクリスマス・ローズの花が咲いた時のことを。

全ては変わる。そうと分からぬくらいに少しづつ。
食べたり、眠ったり、怒ったり、喜んだりしている間に。
芽吹いては育ち、咲いては散り、実っては枯れる。

そしてまた今年も、山茶花のダンス。

まだ鮮やかな、そして生温かいような無数の花びらをそっと踏みながら、散る山茶花と同じリズムで日々が転がり出しているのを感じる。

昼となく、夜となく、曇り日も、冬晴れの日も、


今しばらくは、山茶花の、ダンス。






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牡丹鍋みんなに帰る闇のあり    大木あまり



眼も口も裂けめの寒の夕焼けかな    大木あまり



除夜の空鐘音あまた飲み重る    澁谷 道



こがらしをピアノ売りたる部屋にきく    澁谷 道



肉買いに出て真向に吹雪山    金田咲子



冬青空明日をはるかとおもふとき    金田咲子     
 





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冬に入る

冬に入る

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本日の1曲/Vicente Amigo - Roma (Videoclip)


ビルの影抜けてまた影冬に入る



冬に入る大きなものを追いかけて



冬に入る巨船の如く熟睡す


「冬に入る」、好きな季語だ。

「春が来た」という。「夏は来ぬ」と言う。「秋」はどうだろう。「秋が来た」というのは、あまり聞かない。
「秋となる」「秋になった」などの方が自然な気がするのは何故だろう。

「春」や「夏」というのは、生き生きといかにも能動的な季節だ。
それは「やって来る」のに相応しい。

「秋」というものは静かで、そんなにどんどんやって来るような雰囲気ではない。

「冬」というのは、更に静謐で、大きく、生物の活動は緩慢になり、冬眠する動物もいれば、落葉する樹々もある。

しかし人間だけは変わらずあくせくと働いている。
冬眠するわけにもいかないし。

でも何処かに、大きな沈黙のような、冬の気分、というものを感じている。

冬という季節は、無言の季節だ。
何を問いかけてみても、無言の背中を見せるだけ。

冬眠する動物。地上部が枯れて根はしっかりと息づいている植物たち。

その沈黙は、新たな季節へ向かって、密かに力を蓄える、理に適った休息なのだろう。

「冬に入る」というのは、まことに言い得て妙な表現なのだと思う。



冬は、大きな沈黙の港のようだ。

私達は、船となり、ひとり、またひとりその沈黙の中に入ってゆく。

そしてまた沢山の言葉の港も、ひとつの、大きな沈黙なのではないだろうか。







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山茶花や振り向けばもう姿なく



山茶花散る普通列車が加速する



山茶花は後ろ髪から散ってゆく



このままの距離が一番冬茜



冬紅葉己がこころを遠巻きに



コート着て一人となりて安心す



冬満月湯上りの素足で歩く



本当のことは言わずに毛玉取る






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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