FC2ブログ

落ち葉

落ち葉

201811-f.jpg
本日の1曲/Eva Cassidy - Autumn Leaves




落ちてくる落ち葉とそのてにをは



落ち葉して空へ近づきたい欅



落ち葉踏むいつも何かを恐れてる



落ち葉して地層の眠りまた深く


まめなほうではないから、裏庭には落ち葉がうず高く堆積してしまう。

掃くと言ったって、分厚い高さになっているから、骨の折れることこの上ないし、中には特大みみずだのなんだの、得体のしれないものがけっこういるから、わざと老眼鏡はかけないでやる。

はっきりと見えなければ、ショックの度合は少なくて済むというものだ。

様々な形の落葉樹の葉が、ただただ落ちるにまかせる季節である。

こんな風に、流れてゆく日々の中の人の喜怒哀楽も、たいしてなすすべもなく、ただ時の中にひらひらと落下して行くような気がする。

いくつの悲しみや憤りが、解決するというわけでもなく、ただ堆積してゆき、いくつの喜びや夢がささやかに湧き上がっては自然消滅していったことだろう。

それらが理に適った解決を見たわけでもなく、なにか大きな成果に結びついたわけでもなく、ただひたすらに、カレンダーの月日は流れ、一枚づつの落ち葉のように、その日その日の心が落下していっただけだった。

そしてやがては朽ちて、地に帰り、硬く引き締まった地層となり、堅牢な眠りの中へゆっくりと入ってゆく。



その眠りは、さぞかし深いことだろう。








応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村










101811-k.jpg



山茶花や走り始めている月日



枯木立誰かの名前を呼んでいる



柊の太陽へ向かっている刺


柊を植えた。

裏庭のひどく古ぼけた塀を隠すために、生垣ほどではなく、1メートルに1本づつくらいに、まだ60センチくらいの柊の苗を植えていった。

普通の柊ではなく、「サニーフォスター」とかいう名前の、新しい葉が黄色になる種類の柊で、その黄色は花の少ない今の時期に、ぱっと光が張り付いているような、小さな驚きをプレゼントしてくれた。

それにしても、刺は痛かった。
軍手が無ければ、どうにも手におえない。
それでもその黄色の葉の眩しさは何か神聖で、その刺までも輝いているような気がした。

前回のブログで、2年前に大きな問題を抱えていて、などと書いたが、今はもしかしたらもっと大きな問題を抱えていた。

しかし今度は言うなれば外部との闘いだ。自分たちでは手に負えなく、専門家の力も借りなければならない。
戦いは無いに越したことはないが、家業がかかっているから、どうにかするしかない。

刺だらけの、黄金色に輝く葉を持つ柊を植えながら、私はどこかに少し力を貰っているような気がした。

戦うために言葉を磨こう。
そういう時も、人生にはある、そう思った。







冬に入る女ばかりの喫煙所

コンビニの前で、女性ばかり数人が煙草を吸っている。
若い人もいたが、中高年の女性がダウンコートのまま、立ち煙草をしているのは、何かいい感じだった。
煙草と男性というのは何の面白みも無いし、若い女性もまた同じ。
ちょっと生活に疲れている中高年の女性が、コート姿で煙草を吸っているのが、なんとも 味わいがあった。
しかしこれが室内で、だらしない格好で座ったまんま、世間話でもしながら吸っている煙草だったら、格好悪いことこの上ない。
あくまでも外套を着て、凛として、立って吸っているから、いいのかもしれない。

仕事帰りなのか、これから帰った家では、またすぐに家事が待っているだろう。
現代の女は一日中フル営業なのだ。

ひとときの空白なのかもしれない。

コンビニの前には、欅の枯れ枝が伸び伸びと夜の闇に向かって広がっている。
その枝には、冬が近づいて硬質になってきた月が、引っかっている。

女達は黙々と煙草を吸っていた。




許すのにかかる時間や冬林檎



沈黙が集まっている冬の月






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村


スポンサーサイト

オリオン

オリオン

201811-d.jpg
本日の1曲/Larry Carlton - Fingerprints




オリオンや闇一枚を率いたり



オリオンや正論少し傾きぬ



オリオンや開けっ放しの風の門






二年前の今頃、大きな問題を抱えていた私は、ラリー・カールトンのこの曲(本日の1曲)をひどく気に入っていて、一日に何度も聞いていた。

問題がいかようにも進展せずに停滞したままなのが、せっかちな自分には一番応えるのだった。
少しでもどのようにでも、何か進展さえして問題に風穴があいてくれば、わずかながらにでも視界がきいて来れば、精神衛生は保たれるというものだ。

しかし窓の無い部屋にいるような状態で、とっかかりのない白い壁にいつまでも四方を囲まれていては、自分の根っこが腐乱してくる。

そんな日々、深夜生ゴミを出しに行く時通る崖ぞいの道の、大きく視界が開けて剥き出しになっている夜空に、いつもオリオン座が定位置を占めていた。

オリオン座だけでなく、そこから唐突に広がっていく夜空の
巨大な空間が、自分の鬱屈を瞬間的に洗ってくれるような気がしていた。

そしてその崖っぷちで、いつもオリオンと闇とセットになっていたのは、縦横無尽にのたうち回っている突風だった。
大蛇さながらに力強い突風は、小さな人間の都合などお構いなしだった。

これが一月や二月だったらたまらない。
しかし冬の最初の頁がめくられたばかりのような時期の風は、まだ身をまかせるのにそれほどの苦痛は無かった。

突風はオリオンの矩形の中を抜けてくるように思われた。

その度にオリオンは異様に煌めいた。

オリオンが煌めけば、風もまた新たに生まれてくる。

そして風が生まれれば、またオリオンが輝いた。

その光景には、ラリー.・カールトンのこの曲が、ひどく似合っていた。
突風のそのしぶとい厚みに、この曲の厚みが、ぴたりと合っていた。

オリオン座の硬質な煌めきと、真っ逆さまに落ちてゆくような夜空の闇の深さと、奔放な突風と、自分の中で勝手に自動再生されてくるこの曲が、

私の中では同じ一つもののように、がんじがらめに輝いていた。






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村




201811-e.jpg




秋灯を消せば部屋も我も消え



短日の丁寧に歩いている石段



記憶の隅をまさぐっている夜霧



濃紅葉遠い悲鳴が消えてゆく



深秋の化石となっている言葉



枯木立交錯してゆく我と空



立冬や小さき船が滑り出す











俳句というのは、自律神経で作るような気がしている。

何故って、自分の思うようにできないからである。

なんだかんだ言っても、エッセイというものは、普通の体性神経を使って書けるものではないだろうか。
どんな状態であっても、書きだせばなんとか書いていくことができる。

ところが俳句はそうはいかない。
くしゃみをしろと言われてできる者はいない。(もっとも、くしゃみのふり、と言うなら話は別だけど)
ひゃっくりをしようと思ってできる者もいない。

俳句は詠もうと思って詠むには違いないけれど、どちらかといえば、くしゃみやひゃっくりの仲間だという気がする。

とにかく普通の文章を書く筋肉では、俳句は作れない。
それを賜るまで、待っていなくてはならないのだ。

だから、何て言うか、まずまず体調の整っている時でないと、俳句も青ざめているような気がする。
生きが悪いのだ。

エッセイはちょっと無理しても普通に書ける。

でも俳句は、無理すると落っこちて腐りかけている柿のようなものに、なってしまったりするのである。






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村




薄紅葉

薄紅葉

201811-a.jpg

本日の1曲/フジ子・ヘミング~ため息(リスト)


薄紅葉人とのあはひ皆遠く



薄紅葉子の思考回路透けて見え



一瞬に日差しが戻る薄紅葉



吐く息のいまだ見えずに薄紅葉






植物と言うものは、見た目も性質も千差万別で、そこのところは人間も同じといえばそうなのだが、いざ育ててみればこれがなかなか一筋縄では行かない。

手をかけていても、どうもひ弱でついには枯れてしまうものもあれば、、放置していてもどんどん育つものもあるが、しかしそれだけに放任していたら他のものを牽制してしまうので、今度は積極的に刈り取らなければならないものもある。

枝垂れてくるもの、直立するもの、放射状に広がるもの、常緑のもの、秋に葉を落とすもの、花の咲くもの咲かぬもの。
緑と一口に言ったって、濃い緑、青みがかった緑、黄緑、灰色っぽい緑、とトーンは色々であるし、銅葉と呼ばれる赤紫や赤茶系統のものもあるし、これら様々な少しづつ違う色目のものが、一緒にあるからこその、景と言うものが生まれる。

同じような色味や形態の植物ばかりでは、変化がつかずに、面白みが出ない。
最も、わざと同じ種類を幾何学的に模様のように植栽する場合は別であるが、その場合も、背景と前景の植物は、対照的な色や形態にしないとメリハリが出ない。

長年植物とは関わっていたけれど、植えっぱなしという感じで、本腰を入れていたわけではない。
今も、多忙のため、丁寧なことは全くしていないけれども、以前より進歩しているとは思う。

今年は初めて「挿し木」というものを試みた。

その時期に生まれているからだろうか、紫陽花はとても好きな花である。
これを増やしたくて、マニュアルを見ながら、小さな植木鉢に葉を植え付けておいた。
三つ挿していたもののうち、一つはだめになったのだが、二つは無事に根付いたようである。

この小さな植木鉢を見るたびに、密かに微量の「ワクワク感」がうごめく。
この感じ、根底にあるほのかな「してやったり」感は、「ポケットの中にはビスケットがひとつ」、という、小さなころに耳タコになるくらい散々聞かされた歌の歌詞とシンクロしている。

「ポケットの中にはビスケットがひとつ、もひとつたたけばビスケットはふたつ」
「もひとつたたくとビスケットはみっつ、たたいてみるたびビスケットはふえる」
「そんな不思議なポケットがほしい、そんな不思議なポケットがほしい」♪

この歌詞のような、ささやかな「してやったり」感と、切ったヒトデがそこからまた再生してゆくような生命への驚きがミックスして、「挿し木」は私の趣味の戸棚の奥の方に確固たる位置を占めることとなった。

「オリヅルラン」などは、放射状に伸びた葉の合間から、ひょいひょいと子株を先端につけた茎がどんどん出てくるから、これを取ってどこかに植え付ければ、丈夫なので植えたそばからすくすくと育つ。
それで気が付くとあっちもこっちもオリヅルランだらけになって、どんどん放射状にみどりの噴水のような葉が増えてゆく様は、ちょっとしたかくし芸でも披露しているような嬉しさがある。

植えて一番役立っているのは、ハーブの「ローズマリー」で、以前にも書いた、ベネシア・スタンリー・スミスの書籍によりすっかりハーブに魅了された私は、手始めにローズマリー・バジル・ラベンダーなどを植え付けた。

ローズマリーは様々な料理を美味しくし、そのままちぎって香りを嗅ぐと、「なんだこれ」というほど癖のある、強い香りで、「いい香り」からはかけ離れているのに、多すぎないように気を付けて、他のハーブなどとも合わせると、料理のグレードが一気に上がるのには、本当に驚いた。

特に「秋刀魚の塩焼き」のような和風の料理も、劇的に美味しくしてくれるのは意外だった。
塩をした秋刀魚の胴体に包丁でちょいちょいと斜めの切込みを数か所いれて、ニンニクの薄切りを挟み込む。後は適当に、ちぎったローズマリーをうまく胴体の上に置いて、グリルで焼く。
裏返すときに、乗せたものは大体落ちてしまうけど、あまり気にせず。
こうして焼いた秋刀魚は生臭さが取れてめっぽう美味しく、醤油などかけてしまうとその風味が損なわれるので、何もかけない。

晴れた日に植物が陽の光に透けているのを見ていると、様々な問題に満ちた生活のうっとおしい瘡蓋のようなものが、ふっと取れるように思う時がある。
一時的かもしれないが、こういう時間こそが大切だ。
それは理論や理屈による解放ではない。
理屈抜きに、光へ向かって傍若無人に伸びてゆく緑というものの力が、伝染してくるのだ。

そして千差万別な植物のように、人もまた千差万別だ。

単純な者、繊細な者、力の強い者、頭の良い者、積極的な者、受動的な者、行動的な者、内向的な者。

ピンからキリまで様々な性質の者がひしめいていて、自分とよく似たような者は、これがなかなか、いそうでいない。少し似ている者には出会うのだけれど、やっぱり部分的な相似にとどまっている。

「頭の良い者」と一口に言ったって、皆「頭の良さ」を生かせる部分が違っている。
「数字」を使う時に頭の良さを発揮する者と、「言葉」を使う時に頭の良さを発揮する者は、結構正反対の性格だったりする。
また観念的な理論の組み立てや、芸術的な面では素晴らしい力を発揮することができても、実生活での現実的な采配は不得意、という者もいる。
誰でも、「好きなこと」、「やるのが億劫でないこと」をしている時には、普段気付かないような「気配り」や「計算」が本能的にできて、にわかに「優秀」になるのではないだろうか。

だから、人間が皆違っているということ、これは本当に素晴らしい事なのだと思う。
あるシーンで「優秀」なものが、あるシーンでまるで役に立たない、ということは良くあることだ。

人はきっと、誰でも誰かのために、何かができるように、出来ているのではないだろうか。

自然というものは、皆違っている。
そしてそれは、自然という物自体の、知恵なのかもしれない、と、そんな風にも思うのだ。







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村






201811-b.jpg


秋雨の丁寧に縫っている無言



白菊やひとの祈願が密集す



秋晴れの古い箪笥に住む祖先



潔癖な月に問いただされている



秋薔薇に巧妙に隠れている悔恨



秋の星奇数ばかりが集まりぬ
 



応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村


お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

ブロとも一覧

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR