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秋アラモード

秋アラモード

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本日の1曲/Adriano del Sal, Guitarist



木犀香柔らかに溜まっている時間



木犀香最上階まで停止せず



秋夕焼け誰でも知ってる歌の節



難題をほぐす方法残る虫



黄落や眠る女の瞼開く









ここのところ、仕事が忙しかった。

クライアントのイメージと噛み合わず一からの直しになったり、自分の中でもイメージが固まらずに、作るもの作るもの、没にせざるを得ず、使わずに済む時間をどっさり使わなければならなかった。

イメージと言うのは、オリンピックの聖火台のようなもので、ランナーはひたすらそれ目指して、一歩一歩進まなくてはならない。
もしこのイメージが、不確かな心許ないものだったり、場所がはっきりしていなかったらどうにもならない。
ところが、そういうことも間々あるのであり、今一つどうしてもイメージが膨らまないということはあるのである。

資料不足や、使える色の限定、使えるデザインの限定、クライアントの注文、などとの間で、膨らんでいたイメージが次々使用不可能になり、どんどんイメージが狭く貧困になっていくと、こういうことがおこりやすい。

イメージというものは、不思議なものである。

「今、ここ」にはないものなのだ。
要するに、現在にとってはまだ「非現実」なのだ。

しかしその「非現実」が、漠然としたものからはっきりとしたものに、赤々と燃えてくると、全てのものが動き出す。

動き出すとは言っても、決してスムーズに行くものではない。
置いてみた石を、「イメージ」という光に向かって、「そこではない」「ここでもない」「押してもダメなら引いてみな」のくりかえしで、ひたすらに「コツコツ」とした膨大な「試行錯誤」のくり返し、それがデザインという仕事なのだと思う。

物の位置が一ミリ右か左かで、印象は全く変わる。
色のトーン、明るさ暗さ、鮮やかさ、鈍さ、これらのものも、ほんのわずかな差で、全体のバランスまでが変わって来る。

デザインの仕事をしていると、いつも浮かんでくる言葉は、「丸腰」と言う言葉だ。

いくらデザインの理論や色彩学を学んでいたとしても、いざ始めてみると、全ては遠い絵に描いた餅、のようになってしまう。
いやもちろん、基礎的な理論は知っていた方がいい。
しかしそれは、webコーディングのように、知っていれば即役立つような代物ではない。

全ては、現在という一枚の白紙の中で、どういう一歩を踏み出したか、それでは次はどういう一歩が展開できるのか、ということだけが頼りの世界で、こういった色の取り合わせがいいとか、黄金分割の構成がいいとか、そういうこととは違う次元で物事が運んでいくことになるのだ。

言ってみればマニュアルの無き世界が突如始まり、「こんなはずではなかった」「なんでこーなるの!」「おかしいなー」という、自分の感覚だけが頼りの、サバイバルのような世界に突入してしまうのだ。

マニュアル無き世界で、どう自分の感覚を信じてゆくか。
いつも「原点」戻ることを余儀なくされる、そういう仕事なのだと思う。

「人生」って言葉は好きでは無いけれど、これはどう考えても、「人生」そのものだという気がする。
自分なりに色々学んだり、準備したり、想像したり、若い時には随分と「絵に描いた餅」についてさらに念入りに考察したものだ。

しかしその後の事を思うと、いつもいつもその「絵に描いた餅」は役に立った試しがなかった。
世界は不条理のジャングルのようなもので、自分の家庭や身の回りでさえが、そうだった。

「絵に描いた餅」、「理想」「あるべきかたち」、こういうものはことごとく眼前から消えていった。

日々ただひたすらに、今起きていることから、できる最善の「次に展開する一歩」を積み重ねていっただけだった。
他にどうすることができただろうか。
「絵に
描いた餅」はただの「絵に描いた餅」なのである。

目前にあるのはただ、今現在と、そこから派生する、「次の一歩」それのみなのだ。

だが、「絵に
描いた餅」は消滅してしまったとしても、そうやって進んだ自分なりの一歩一歩の遥かな先方には、
きっと「聖火台」のようなものがあるのではないかと、思う時がある。

それはものの良し悪しや、何が立派かなんてこととは全く無関係な聖火台だ。
煌々と火が輝いてるとは限らない。
朧げな光かもしれない、弱々しく消える寸前のような時もあるかもしれない。

でもそこには、やっぱり何かがあるような気がする。


それはきっと、「自分自身」のようなものではないかと、私は思うのである。






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満月や人のからだの水動く



秋雨が過ぎた時間を撫でている



彫像の怒り確かに天高し



唐突な言葉投げ出している柘榴



ひとの影また生き生きと秋晴れぬ



少し身を離れて浮きぬ愁思かな







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秋の暮

秋の暮

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本日の1曲/STACEY KENT || What A Wonderful World


秋の暮闇に重りがついている



秋の暮テレビをつけて外出す



玄関の靴についてる秋の暮








秋の暮に底はあるだろうか。

私はあると思うのだ。

とっぷりと暮れてゆくその闇の重たさ、その先にあるのは奈落のような夜なのだが、その奈落には、柔らかな底があるような気がするのである。

肌を刺すような冷気の冬の暮とは違って、まだ肌になじむ温度のせいかもしれない。

その柔らかな闇は、人影と溶け合う。
どこかに寂しさはあるのだけれど、人をあたたかく包み込むような、受け入れてくれるような夕闇なのである。

秋の暮の道を歩いていて、その次の角を曲がると、うっかり幼い頃に住んでいた町に、迷い込んでしまうかもしれない。

舗装された道はまだまだ少なく、ゆるやかに起伏した坂道や、血管のようにややこしい路地が入り組んだ、土の匂いのする道。

そして門のそばに大きな榎の木のある、木造の小さな家。
ここは私の生家なのだ。
榎の木の幹には、大きな穴が開いている。
ここには色んなものを入れて遊んだものだ。

ここもまた、とっぷりと秋の暮の真っ只中だ。

窓から見えるのは、つけっぱなしの白黒テレビ。
テレビだけがついていて、人気は全くない。人っ子ひとりいないのだ。

門の鍵も玄関の鍵も開いているのに、誰も居ない。

それは何故かって、それは過ぎ去った「時間」の中だから。

もう誰も住むことのできない「時間」だから。

それでも私の中のどこかにいつでも沈殿している「家」。
秋の暮の、濃い闇に混ざって、どこからともなく浮上してくる、懐かしい町のゆるやかな面影。

蝉の抜け殻のように、人っ子ひとりいないのだけれども、

妙に生暖かい、時間の止まっている、「町」。









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白菊や思い出せないひとの顔



晴々と白菊に嘘見抜かれる



白菊や静かに侵食される月



柿の実になつかしきもの皆化ける



柿深く沈めり空の青き肉



食べ尽くす林檎の中のしじまかな










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秋澄む

秋澄む

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本日の1曲/フジ子・ヘミング~愛の夢



我のみと歩いてをりぬ秋澄めり



秋澄めり水平線で止まる空



小窓から見える小窓や秋澄みぬ



秋澄めば垂直に落ちてくるピアノ







秋もたけなわとなり、大気は涼しさだけではなく、しんとした透明感を帯びてきて、外をあるけばその澄み切った空気が四肢に纏わりついて、身も心も引き締まってくるようだ。

同じような温度でも、春先とはまるで感覚が違う。
きめの細かい肌のような大気が、何かと過剰になっていたこころの絡まりを、静かに整理してくれるような気がする。

そして、家族がいてもいなくても、友人がいてもいなくても、愛する人がいてもいなくても、世界にただ一つの存在である自分にすっとリンクして、自分の原型に戻るような、そんな瞬間が、秋にはある。

それは動物的な感覚かもしれないし、もっともっと原初的な、土や岩石の持っている、遠い記憶のようなものかもしれない。
だだっ広い大地と、筒抜ける空との間に、森閑と存在している鉱物の太古の記憶。

秋になると色んなものが、上から下へ落下するような、内へ内へと沈み込むようなニュアンスを放ちはじめる。
春夏の外へ外へと弾けていくような感じと正反対の雰囲気だ。

こんな時には、突然ピアノの音に触れたくなる。
きっと、それはピアノが打楽器であるということと関係があるのかもしれない。

打楽器だから、上から下へ、ポーン、と鍵盤を「押す」のである。
素直に鍵盤を押されたピアノの音は、落下してくる大粒の雨垂れのように、どこにも無駄な引っかかりがない、純粋な音だ。
その滴は、そのままの動きで、気持ち良い重みとともに心に落下してゆく。

たとえばエリック・サティのジムノペディがいいかもしれない。

あの曲の持っている透明感は、「秋澄む」という季語に、ぴったりだ。

でもYou Tubeで検索しても、いい感じの弾き手のものが見つからない。
ウロウロしているうちに、フジコ・ヘミングの「愛の夢」に出会って、そして、感動した。

フジコ・ヘミングの「愛の夢」は大人の音だった。
大きな、堅牢な孤独をしっかりと持ち合わせた、大人の「愛の夢」だった。

その音は、しっかりと自分の中に降りてゆく、確実に降りてゆく、でもその底にあるものは、もう自他の区別の無いような、大きなエネルギーの塊のようなものなのだ。


ところで話は大きく変わるけれども、樹木希林が亡くなって、彼女と内田裕也の40年にも及ぶ別居婚がまた話題になって、何かと取り沙汰されている。

芸能界には、全く興味はないけれど、樹木希林については、昔から時々雑誌のインタビューなどで、なかなか面白い人だなあ、と思っていた。

彼女の娘にしてみれば、「どうしてこんな無意味な婚姻関係を続けるのか」といつも不満を持っていたようだが、

人間というのは、全くもって、複雑な生き物だ。

一筋縄では、とてもいくものではない。

美しいだけの、暖かいだけの「愛」などというものは、「乙女の祈り」みたいなものだ。
それは架空の御伽噺でしかない。
愛があれば憎しみも悲しみも顕現してくるのが人間だ。

しっかりと堅牢な「自己」を持ち合わせている者は、決して心のごまかしができない。
悲しみや失望をごまかすことができないのだ。
残念なことに、人というものは、言葉を尽くせば誰も彼もわかり合えるような生易しいものではない。

だったら、どんな形を取ったって、いいではないか。

40年もの間、距離を置きながらも交流し、
とうとう離別することはなかった、それは「自分」というものをごまかすことのできなかった者が、また「愛」もごまかすことができなかった、

どちらかを優先すれば、どちらかを半端な形で犠牲にすることになる、それができずに、にっちもさっちもいかなかった。
だから両方を生かしたままに、できるような形で、やってみた。

そういうことなのではないのかと思う。

秋の夜空にしんみりと輝いている星座のように、距離を置きながらも、いや置いたからこそ、その形は遂には崩れなかった。


そういうことなのだろうなあ、と、身につまされて、思うのである。






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萩咲くや記憶のほつれている夕べ



秋晴れて缶コーヒーは空っぽに



我が額月の額に向き合いぬ



秋の暮前行く人の背に扉



速達や秋夕焼けに追われゐる



思案切りも無く木犀香膨らみぬ




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秋の句

秋の句

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本日の1曲/Stacey Kent - Gentle Rain


仕事が詰まって、今週は俳句やエッセイを書く時間が全く取れませんでした。
訪問してくださった方ありがとうございます。
よろしければ私の好きな秋の句で、ひととき秋に浸ってください。





水音の一端にふれいわし雲  金田咲子 



ストローを深く折りたる秋の暮  金田咲子



流木の記憶の果てのいわし雲  秋尾敏



望郷や秋刀魚は青き水平線  秋尾敏



秋の暮撫でて目鼻のありにけり  鳴門奈々



顔の上に鳥の影さす秋彼岸  鳴門奈々



超えられぬ川がいくつも曼殊沙華  椿文恵



鶏頭の中の一本兜太かな  大竹照子



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芒挿す光年といふ美しき距離  奥坂まや



水の上を愁思の影の過ぎゆけり  山﨑百花



蜩や加速続ける定型詩  田中亜美



レコードのノイズふつくら星月夜  田中亜美



蜩よ森の表面張力よ  照井翠



一声を発し銀漢跳び越える   近 恵



コスモスの暗がりに足入れている   近 恵



遠くまで行く秋風とすこし行く  矢島渚男



星がおちないおちないとおもう秋の宿  金子兜太






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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