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本日の1曲/Sunday Song - Richie Beirach (Piano solo)


満月やバスの乗客我のみに



名月やつま先立ちでゆく時間



路地深く静かに月に追われゆく







月の光というものは、どんなに烈しく煌々と輝いていたとしても、静かである。

そこにとても惹かれるというか、引っかかるというか、とにかく素通りできないのだ。

その静けさには、太陽の持つ問答無用な暴力的でさえある生命力も無ければ、人口の光源の、嫌にのっぺりした平坦な無表情も
持ち合わせが無い

夜空にいきなり金属を貼り付けたかと思うほど、鋭い光を放っている時でも、その光の底の方には静かに覚醒している何かがあって、それはひんやりしたさざ波のように、私の身心の最下層へと沈殿してゆく。

月の下に、全てが眠っている、わけではない。

大多数が眠っているとしても、夜勤の医師や看護婦やガードマンや、受験生だの不眠症の人々だの、病のためになかなか眠れない人々もいて、夜行性の動物もいるし、眠るもの達と眠らぬもの達すべての上に、月が昇る。

月はこれらの物と一体になっていながら、完全に孤高だ。

月の光の先端は、例えば鐘の音の最後の、消える間際の幽かな余韻のように、無の中へ、限りなく沁みとおるように、消えてゆく。

どこまでも遮るものの無い、静かな光。

こんな風に、自分の心を、余すところなく最後まで素直に見ることができたらと、そんなことを考える。

世の中は理不尽で満杯だし、身の回りには理由も無く足を引っ張って来る、厄介な昆虫のような連中がいくらでもいる。

感情はいくらあっても足りず、いたずらにそれに長い間深入りすれば、心ばかりか肉体も蝕まれてしまう。
感情は直ぐにざわめきたち、想像力はそれに点火し、ああでもないこうでもないと思い悩む。

するとだんだんと自分の感情を堰き止めるようになり、しかし堰き止めれば、それは必ず、深瀬や渦や、しこりやたんこぶのような物を生むのが感情というものだから、却って心の病や体の病や、突然の周囲との衝突を生むような気がする。

かように面倒かつ複雑な感情との付き合いというものが、人には、ある。


月の光の遮るものの無い、且つどこまでも静かな光を見ていると、いつでも「覚醒」と言う言葉が浮かんでくる。

己の心に対して、あんな風にすみやかでいられたら、率直でいられたら、もう少し静かな気持ちでいられるのではないか、そんなことを思うのだ。








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爽やかや次にやること決めていず



天高し草へ踏み出す一歩かな



秋の暮襖の奥にまた襖



鶏頭に嫉妬されている二人



流星や誰かを忘れていく途中



秋天に巨きクレーン届かずに



コスモスやいつまでも心を決めず







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鱗雲

鱗雲

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本日の1曲/Bill Evans Trio - I Loves You, Porgy



鱗雲無形となってゆく体



忘却の大群流れ鱗雲



鱗雲行けるとこまで行ってみる






見上げると、空一面に光が攪拌されたような、細かな鱗雲が広がっている。

空と言うものが、こんなにも広々としたものだということを、普段はすっかりと忘れ去っている。

「鱗雲」あるいは「鰯雲」、どちらにするかはその時の句の気分や響きで、こっちでなければ、と言う時もあれば、どっちに変えてもそんなに大差は無いという時もある。

鱗雲を眺めていると、自分が一枚の皮膚だけになってしまったような気持ちになって来る。
何処までも伸びる透明な一枚のラップのような。

そして鱗雲がそれとなく囁いて来るのは、「忘却のすすめ」である。

最もこれは、鱗雲に鍵ったことではなく、「秋の海」なんかも、おんなじである。

だが「秋の海」は、もっと乱暴で、ぶっきらぼうで、「囁く」なんて優しさはあまり持ち合わせていない。

それは遠い祖先の背中のように、ソッポを向いていながら、愛想の無い無遠慮な波で、「忘却のすすめ」を投げつけてくる。

それに比べると、鱗雲は親切である。
あくまでも、見るものの身に沿うように、流れ、静かに形を変えながら、しばしの間、私たちを緩やかな放心の中に泳がせてくれる。
その「放心」は、子供の頃には嫌と言うほど味わっていたものなのだけれど。


「忘却」とは「考えないこと」あるいは「考え過ぎないこと」だ。

私達は一日中、思考のベルトコンベアの上に乗っかっているように、何かを考え、選択することの繰り返しで生きている。
無論考え無しで生きていたらば、仕事も健康も何もかも、維持していくことは不可能だ。

しかしこれは自動化されやすい。
リセットすることがむつかしくなってしまうことが頻繁にある。

そんな時、鱗雲は私の心を捕まえて、静かに放し飼いにしてくれる。

端から端まで、そこにあるのは「静かな今」だけで、それも緩やかに蠢いて、ひとつのところにいないのだ。







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虫の声夜の輪郭を辿る



虫の声眠る地層の最上階



湯に髪が広がりゆきぬ虫の闇



コスモスや視線俄かに錯乱す



コスモスや青空少し遠すぎる



短調の唄の短き林檎かな



梨食へば夜の公園静まりぬ






林檎、梨、葡萄など秋の果物は大好きな私であるが、その美味に浸りながらも、ふと、秋の果実は、どこか寂しさのある味のような気がする時がある。

美味しいのに変わりはないのだが、たとえば音楽にも長調の旋律と短調の旋律があって、どちらが良いと言うことではなく、素晴らしい音楽は、どちらの調であったとしても素晴らしいように。

言うなれば、秋の果実の味覚には、、短調の素敵なメロディの持っているような、しんとした、幽かな寂しさのようなものが、どこかにあるような気がするのである。

それは秋の澄み切った大気の持っている、涼やかな透明感と同じ響きを持っている。

どこか寂しい、でも美しい。

「色無き風」という季語があるけれど、初めて知った時には、「なんじゃこれ?」と思ったものであるが、ある時、そうか、この秋の大気や風の、「透明感」のことを言いたかったのかも、そう思った。

そうした中で実る果実は、やはりその透明な淡い寂しさを、どこかに孕んでいるいるのかもしれない。






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檸檬

檸檬

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本日の1曲/Janis Ian - Jesse




一灯の如く灯りし檸檬かな



人の意に沿ってはおれず檸檬かな



檸檬ひとつ企てひとつ胸の内



檸檬齧って白き帆となる真昼かな









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最近買った本で、とても気に入っているものがある。

それは俳句の本でも、デザインの本でもなく、「ベニシアのハーブ便り」という、京都、大原で古民家暮らしをしている、イギリスの貴族出身の女性の自然の中での暮らしぶりを、沢山の写真やエッセイとともに綴ったものだ。

ベニシア・スタンリー・スミス、TVなどでご存知の方も多いと思う。
ブームを巻き起こしたと言ってもいいのではないか、本やDVDの人気も凄いが、ついに映画まで出来てしまったし。(2013)

私も、何かの雑誌で、彼女がイギリスの貴族階級の生まれであることは知っていたが、写真やエッセイを読んで驚いたのが、本当に「お城」と呼ぶしかないような所に住み、門番小屋まで行くのには、自分専用の馬で行く、という、何かの物語で読んだような生活そのままなのだった。

しかし彼女の母親は、短気で情熱的な性格だったようで、「恋をするたびに結婚した」というから、大変なものである。4回結婚している。
結婚していようが、子供が沢山いようが、独身の時と同じようなスタンスで恋をした人のようである。

そのたんびに、幼い子供たちははやくに実の父とは離れ離れになり、義理の父親に、やっとなついて来た頃に、また離別して、新たな父親を迎えなくてはならない。
うーん、これは大変だ。陰でこそこそ不倫することに比べたら、いいのか、どうなのか、でも子供たちにとっては、大変気を使う生活だったのではないだろうか。

そんな中で、1960年代に、カウンターカルチャーの只中で青春を迎えたベニシアは、貴族社会でこのまま配偶者を待つ生活への疑問、本当に自分のしたいことは何なのか、暗中模索する。

そして家出同然でインドへ自分探しの旅に出て、そののちに日本にたどり着く。
日本では、英語学校を経営し、二度結婚をして、四人の子供をもうけ、現在に至っているのである。

登山家でカメラマンでもある現在の夫とふたりで、京都大原の古民家を時間をかけて改造し、修復し、庭をつくり、沢山のハーブを育てて、それを生活のあらゆるシーンで役立てる。
沢山のハーブ料理のレシピから、ハーブから作る、石鹸、シャンプー、塗り薬、まで、作り方が紹介されていて、随所に夫が日本語に翻訳したというエッセイが、またそれらを一層興味深いものにしている。
そして京都大原の、奥深い自然の営みの美しい写真が、見るものを魅了してしまう。

この本が、何故こんなに気に入ったのか、私は考えた。

そもそも私が最近ハーブに興味を持ったのは、自分と家族の血圧などの体調のために、放任していた料理の塩分をコントロールしようと思ったところから始まる。
単に塩分を減らした料理の、美味しく無い事このうえなし、それでハーブを使ったら、シンプルな味付けでも、美味しいものができるのではないかという、そんな目論見からだった。

だがこの本は、単なるハーブの栽培法の本ではなく、単なるハーブ料理のレシピ本でもなく、単なるエッセイでもなく、単なる写真集でもないところが、大いに私の気に入った。

これらの要素のどれが欠けても、これほど面白くはならなかったのではないだろうか。



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自前で育てたハーブをふんだんに使った、彼女の料理のレシピは、謂わば彼女の人生の結果であり、彼女の作っている様々な手作りのハーブの生活用品も、彼女の選んできた自分の道の、一つ一つの結果なのだ。
大原に住んですぐに、自分の家から出てゆく生活排水が、用水路を通って、やがては鴨川へ垂れ流しされていることを知った彼女は、合成洗剤を使うのをやめ、自分でローズマリーの食器用洗剤を作ってしまう。
彼女の持っている、言葉で組み立てられた理屈ではない、思想のようなもの、それがライフスタイルへとスムーズに何の矛盾も無く、受け継がれている。

いわば人生でやっていることが、統一が取れている、というのかな。
そういうところに、凄く魅力を感じたのだ。

それに比べて、自分の生活は一体、なんなんだ!って思ってしまう。

一言でいうと、「雑然と、分裂し、混乱している」のだ!

料理はそれほど好きな方ではない。
だからこそ、色々レシピを追いかけたり、新たなことをやってみないと、気が上がらない。
一言でいえば「義務感に追いかけられつつ、やっている」ので、毎日のことなのに、楽しくないのである。

まあ、仕事の時はもう、PCに向いている頭を、後ろに向けた途端に、やるべき家事が待っている、というような生活なので、すさんでくるのは無理もないかもしれないが。

また部屋を見渡せば、それはまあ、デザインを仕事にしているのだから、少しはインテリアってものにもこだわりはある。
しかし!中途半端なのである!
あるいは、それはまさしく、ただの「インテリア」なのである。

古民家に住みたいとは思わないし、彼女とは趣味が全然ちがうけれども、彼女の選ぶ物の一つ一つに、矛盾の無い、丁寧に、本気に、物を選んだ結果を見ることができる。
彼女がやっているのは、ひとつのホーム・デコレーションなどではなく、彼女の「生き方」を「物」に照射して選び抜いた結果なのだ、と思う。

自分の家の物を見渡せば、物一つ選ぶときに、「妥協」しているところが、ありありと見えてくる。
「とことん気に入っているわけではないんだけど」「まあいいか」
「こんな感じを狙ってるんです」「でもとりあえず今はこれでいいです」みたいな声が、何処からともなく聞こえてくるのだ。だからそれはいつまでも「物」以上の物ではない。

気に入ったものが無ければ、作ればいいのだ。

そこまでせずに、中途半端なものの中で、お茶を濁しながら、この年まで暮らしてきた自分。

まるでサイズの合わない靴下や手袋を文句を言いながら使用しているような自分。
私にとって、「生活」は「創造」ではなかった。
少しばかりでもデザインの仕事をしたり、また、俳句を詠んだりという、そういうことばかりが「創造」で、「生活」は面倒くさく、私ではない私がやっているかのような気持ちで暮らしていた。

「生活」の中に「自分らしさ」を、全く生かしてこなかったような気がする。
忙しさを理由に、生活に能率しか追及してこなかったのだ。

彼女のように、田舎暮らしができる運命ではないとしても、学ぶことは沢山ある。
「生活」を「創造」に変えていく楽しみを、彼女は教えてくれるのだ。

ローズマリーの食器用洗剤かあ、ラベンダーと重層のクレンザー!

その本を抱えてデパートの本屋から出て、エレベーターを降りてゆく時、つくづく、何かこういう生活が、大切なものの代償として、あてがわれているような、そんな気持ちになった。

デパートには、いかにも何もかもありそうであるが、本当に欲しいものは、きっとありはしない。

時間経過が刻まれた家具も、ペンキの剥げかかった具合が何とも可愛らしい箪笥も、使い心地の良くなったタオルも、生きている香り高いハーブも、心地よい秋風も、流れてゆく雲の形の千変万化も、

そう、ホントに今の私が欲しいものは、売っていないのだ。












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野良猫の怯え幽かに秋の風



秋の風ひと数えてる大通り



秋の風我の背丈を計りゆく



少女期に似てくる還暦蓼の花



水澄みて忘れられなきこと多く



水澄みて等身大の我映る









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九月

九月

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本日の1曲/Pat Metheny with Charlie Haden - Cinema Paradiso




九月来る影を探している光



ひと流る方へ雲流れ九月かな



九月かな皆で歩いているひとり









九月が来ていることを人はなかなか気付かない。

何故ってそれは九月というものが透明だから。

夏に戻ってしまったような日や、台風や、色んな目立った役者が出たり入ったりするものだから、それらの間に挟まれて、ちらりちらりと背景が貌を出すように、静かに透明な九月が、確かに来ているのだけれど。

真夏の夥しい光の海が少し遠のく。
いつの間にか、色濃くなってくる影が、光を捕まえて、深くしてゆく。

西日の射している雑踏がステンドグラスのように輝いて来る時、やっと九月がその輪郭を露わにし始める。

日が落ちて、果実のような夜が深まる。
人々の見ている少し疲れた夢から、行き場の無くなった人影が、そっと抜き取られる。

九月の巨大な船が影たちを乗せて出発する。
船は大きな神殿に到着する。
何も祭られていない神殿。
影たちはそこに到着する。

神殿には無限に続くかと思うような数の柱があり、

祭壇からは筒抜けて向こうが見えている。
向こうは、眩暈がするほどの数の星たちの散乱する、深海のような宇宙があるばかり。

無言で横たわっている銀河。 星々の気が遠くなるような距離。

九月という神殿。








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爽やかや雲は静かに衝突す



平均台の上の林檎の若さかな



カーテンの裾綻びぬ虫の声



口紅を買って戻れば残暑かな



猜疑心月の表を磨きをり



朝顔や子供の欠伸やはらかき



物語始めるように葡萄食ふ








葡萄が好きかそうでもないかは、単に味だけの問題ではないらしい。
私の身の回りの男性は、葡萄をあまり有り難がらない。
「食べるのが面倒くさい」と言うのである。

まあ、蜜柑でさえ面倒くさがる手合いだから、葡萄となればもっと細かい。よほど堪忍袋の緒が切れるのだろうか。

息子も、昔は大好きだった葡萄が、大人になった今は「食べるのが面倒だ」とのたまう。

私なぞは、生粋の面倒くさがり屋にもかかわらず、あの葡萄の一粒一粒から迸り出る、熟成した秋の夜そのもののようなあの味、あの味覚を味わいたいがために、手は自動的に、小まめに、勝手に動いてゆくというものである。

ことさらに意志を使わずとも、きれいさっぱりと無くなってしまうのだから、こんなに楽なことはないのだけれど。
よほど食い意地が張っているということなのだろうか。

普段はものぐさなくせに、現金なものであるが、この手の自動運動というものは、どこかで身に覚えがある。

ああ、あれだ。

何と言うのか忘れたが、壊れ物を梱包する時に、緩衝材として入っている、ビニールの、空気で膨らませた豆みたいなやつが、プチプチと並んでいる、あれ。
宅配便に入っていると、荷物を取り出すのもそこそこに、いつの間にか手が、勝手に動き出しているのであるから困ったものだ。
息子が呆れた顔で見ている。

何はともあれ、葡萄のような味わい深い果実を、面倒だからの一言でスルーしてしまうなんて、こんな勿体ない話はない。

では葡萄が、桃や林檎のように、大きな一粒の果実だったら、美味しいだろうか。

うーん、うーん、いかがなものだろう。
桃のようにジューシーで、美味しいか?

いやどうも、あんまりなあ。

葡萄の美味しさは、噛んだ皮から迸り出る、あのフレッシュな動きと無縁では無いような気がするのだ。

一つ一つの美味しい部屋を訪ねるような、

秋の楽しみ。






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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