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向日葵

 向日葵

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本日の1曲/Stacey Kent - So Nice



ひと夏を立ち尽くしたり向日葵は



向日葵の細部を蟻が迷走す



向日葵や海を忘れている年月



向日葵の一呼吸が大きくて





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家中の闇繫がりぬ蚊遣香



右向いて左向いて寝る蚊遣香



ひらがなのような細かき蚊が浮きぬ



グラジオラス爪伸びている真昼かな



アイスコーヒーはやひと月を掻き回し



言いたいこと言わずに帰る葛餅や


葛餅は時たま無性に食べたくなる菓子だ。
でも、その味覚と言えば、決して派手ではなく、黒蜜ときな粉の味なのだと言ってしまえば、もう身も蓋も無い。
だがそのお決まりの黒蜜ときな粉の味が、あのもったりとした大して味の無い、いわば食感だけのような餅に伸ばされて、ちょうどよく、自分の好みの甘さに都合をつけながら、食べられるところが、いいところなのかもしれない。
この手の日本の菓子は皆そうだ。
白玉もそうだし、葛切りもそうだし、本体自体は、大して味の無い、もちっとしたり、つるつるしたりしているところだけが取り柄の、正体不明ののっぺらぼうのようなものだ。

そこへ餡子だの蜜だのを適量かけて、やっと完成するわけだ。

しかし葛餅だって、安くない。結構なお値段で、これはちょっとした洋菓子だって買える値段だから、悩む。
洋菓子の味は、密度が高い。凝りに凝っていて、ケーキだって、ムースだって、一口目から最後の一口まで、迷うことなくせっせと手が動いて、あっという間に食べ尽くしてしまう。

何と言うか、隙の無い、味なのである。

かたや日本のこうした菓子は、どこかにうすぼんやり間の抜けたところのある、味だ。
役者も餡子に蜜にきな粉と、決まりきっていたりする。

しかしこのような猛暑が続いていたりすると、洋菓子よりもこういうものを食べたくなるから不思議だ。

同じ冷たいと言っても、端から端までしっかりとフルーティーな、均等な甘さのゼリーやムースよりも、何処かが甘くて、何処かが味のしない、不揃いなリズムの味覚を持つ葛餅や白玉が食べたくなる。

なにか「余白」のようなものが欲しくなる季節なのではないだろうか。

考えてみれば、日本の文化ほど「余白」を生かしているものも少ない。

年齢を重ねるにつれ、「日本画」というものがとても好きになってきたのだが、これは単に故郷帰りのような感覚ではない。
デザインをやっていると、しみじみ「余白」というものの大切さ、重大さが分かって来るからだ。

何かをデザインしようとすると、あれも入れなくてはならない、これも入れなくてはならない、あの色も、この色も使いたい、あの写真も、この写真もいいから使いたい、とにかく、ものを入れる、持ってくる、そういう発想で始まってしまう。
「減らす」「削る」「選ぶ」というのが、とても難しいのである。

この辺は、私も、前の作品なら前の作品ほど、欲張って作っているのが、後から見ると如実にわかる。
色数が多すぎる、要素を割愛していない、タイトル文字をついつい目立たせ過ぎて、雰囲気が壊れている、などなど、数え上げればきりも無い、てんこ盛りを何とかかんとか整理して、出来上がっている物が多い。

いかにコンテンツの数を整理するのが難しいか。
色数を思い切って減らし、シンプルで尚且つ華やかにするのは、やはり年期というものが必要だ。

そういうことを意識するようになってから、日本画というものに新たに出会って、わたしは 驚愕した。

この「余白」。
「余白」の饒舌。
「余白」というものに支えられている風景・花・人・鳥。

日本には、昔から優れた「デザイン感覚」が存在していたのだと、言わざるを得ない。

それにしても、光陰矢の如し、人生の「余白」が嫌と言うほどあった頃は遥かな昔となり、残る「余白」は一体どれほどのものかかと訝しむ年齢となってきた。

まだまだ問題もやるべきことも山積みで、「よはく」などと、言ってる場合か、という気持ちもあるし、現にその通りなのである。

しかし生命体としての残る「余白」が少なくなって来るならば、その「生命」が包まれている余白もまた、何かしらあるような気もするのである。

でもそれが何であるのかは、知るすべもない。

それでも何かしら、あるような気だけは、するのである。




雲の峰ペダル踏んでも遠いまま



心太嘆いてばかりの電話かな



サイダーを飲んで天地の入れ替わる



水中花そろそろ何処かに帰りたき




蝉の声三角定規の頂点に






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夕焼け

夕焼け


20187n.jpg本日の1曲/Carpenters "This Masquerade"


入り組んだ筋書きの映画夕焼けぬ



夕焼けを一段づつ降りてくる邂逅



嫉妬心隠して喋り夕焼ける



夕焼けて誰かの背中見て帰る

今日も暑かったけれども、風がかなりあったので、隣の町までウォーキングがてら夕飯の買い物に行った。
縦横無尽に風が吹いているとは言え、15分も歩けばもう服は体に張り付いている。
帰るなり、大急ぎで風呂をたてて、入ってしまう今日この頃。

家まであと7,8分のところに、踏切があって、今日もそこで足止めされたが、隣に母親と小さな子供3人が、立っていた。一番小さな子は、3才くらい。次は4,5才。両方男の子。お母さんの右手と左手は、それぞれその子達と繋がれている。
一番上はもう小学校2年くらいかな。女の子で、活発そうだ。オレンジ色のワンピースを着て、ヘアバンドをしている。
お母さんは、白とブルーグレーのストライプの、涼しそうな袖なしの夏のワンピースで、フレアーが旗のように夕風に泳いでいる。

電車はまだ駅に停車中で、通勤帰りの人々が疲れ切った顔でバラバラと降りて来た。
電車の後ろ側は夕焼けの鮮やかな緋色のグラデーションが、そろそろ下火になってきている時刻だ。

お母さんは、3歳くらいの男の子の手を、しっかりと握りしめながら、主にその子に、言い聞かせるように、言い出した
「電車はね、とーっても危ないんだよ。
さわったら、死んじゃうんだからね。  死んじゃうと、もう、誰にも会えないんだよ。」

真ん中の年頃の男の子が言った。
「誰にも会えなくなっちゃうの?」

お母さんは言う。
「そうだよぉー、パパにも、ママにも、おばあちゃにも、おじいちゃんにも、だあれにも会えなくなっちゃうんだよ」
「ひとりぼっちに、なっちゃうんだよ」

お母さんは、3人全員に言い聞かせているようでもあり、しかし顔は、一番小さな子にしっかりと向いたまま、目もぴたりと幼い男の子をだけを見つめている。

一番年端の行かないものに、電車の危険を何とかして伝えたいのだろう。

その時轟音とともに、電車が発車した。
全身にに重たい、分厚い振動がずっしりと響いて来る。

電車の窓の、眩し過ぎる大きな白い光の矩形が、何度も待っている人々の上を通過した。

やっと踏切が開いて、その親子連れも、私も、歩きだした。

その時、一番年嵩の女の子が、皆の方へ向いてきびきびと言った。

「でもママー、死んだらさ、ひいおばあちゃんには、会えるんだよねっ!」

お母さんは絶句していた。「‥‥‥」


子供って、本当に面白い。







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夜間飛行星に触れゆく涼しさや


いつもこの道を帰宅する時は、だいたいは8時半頃なのだが、飛行機の爆音がするのでふと目を上げると、決まった空路を、また夜間飛行のカラフルな灯が通過して行く。
なんだか蜜豆のような色だ、といつも思う。

それはここのところ、決まって同じ星の下を、通ってゆく。
あの星は、何と言う星だろう、調べてみよう、と思いつつ、帰宅すれば怒涛のように日常に呑まれて、そのままになってしまう。

星の下をくぐっていくのだけれど、私から見ると星に触っていくように見えて、その一瞬はこの、四肢にべったりと纏わりついて来るようなしつこい暑さを、ほんのひと時、忘れさせてくれる。

それは、暗いボール箱に、針で穴を開けたくらいの、本当に小さな一瞬だ。

それなのに、その一瞬のようなものたちが、厳しい夏の身心の疲労を、僅かなりとも、和らげてくれるのだ。



石膏像の黙滑らかに青葡萄



諳んじていた数式は夏銀河



平行線を辿る言い分百日紅



炎昼の扉ばかりのひとの家



ダリア咲くワルツの遠心力で咲く



曼荼羅の時間緻密にダリアかな



言葉より金魚は速し夕暮れぬ



忘れたり思い出したり扇かな




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カンナ

カンナ

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本日の1曲/Larry Carlton SILKY SMOOTH


血縁の濃き眼差しやカンナ咲く



カンナ咲き遠く生れる原野かな



潮騒に背いて佇ちぬカンナかな



赤カンナ僧の黒衣の触れゆきぬ








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夏木立誰も誰かを守りたく



物語どこまで続く夏木立



虹立ちぬこの曲の始まるところ



息子とは返事せぬもの蝸牛



口紅を塗って炎暑に呑まれゆく



策を練る眼では金魚を追いながら



言ったことすぐ翻し金魚かな



象走る夢を見ていた夏の月



まだ聞かぬ蝉の声待っている部屋



雨に死者暑に雪に死者地球かな


もう数年前のことになるが、電車でPTA時代の顔見知りに会って、「暑いですねー!」ということになった。
「扇風機5台フル回転ですよ」と私が言った。むろんそれですまなければ、クーラーも使うけれども、とりあえず、回せるだけのものは回すのだ。

すると、相手は「扇風機?」と言ったなり、不思議そうな遠い眼差しになってしまった。
そしてしばらく間をおいて、「扇風機、そういえば家の扇風機、どこにしまいこんじゃったのかしら。確かに一台あるにはあったんだけれども」と言う。
そうかあ、PTAったって、世代が違う。私より10歳は若いだろう。
5月、6月の暑さのしょっぱなの頃、すでにもう「暑い」即「クーラー」と言う生活が普通なのかもしれない。

「なんか暑いわね」「ピッ‥‥」

扇風機なるものは納戸の片隅に忘れ去られていても、何も不自由を感じない生活もあるのかと、内心驚いた。

そうかと思えば郊外の一軒家に住む友人は、風通しも良いのだろう、一階、二階、全部で9台の扇風機を使っているが、クーラーを殆ど使用せずに夏を過ごして行けると言う。

最も、住まいの温度というものは、千差万別。
立地条件、建物の設計の違い、周りに木があるかないか、何階なのか、様々な条件で同じ地域とは思えぬほどの温度差が出てくるから、こればかりは同一線上で語ることはできない。

家の場合、大いに役立っているのは、5台のうちの1台、リビングに置いた、羽根を回す円い部分が直径50センチくらいはある、大型扇風機だ。
こういう大型扇風機は、倉庫などで使用するゴツイものも多いのだが、ひとつだけ、まずまずリビングにおいても違和感のない、白い、スマートなデザインのものを見つけたのだ。
旅館などの風呂場にあるのは、またもう少し大きいような気はするが、とりあえずこれは物凄く役に立っている。
むろんこれがあればクーラーいりません、などどいう生易しい場所ではない。

だが、5月の暑い日や、6月の蒸す日、この大型扇風機でリビング全体の空気を動かすと、クーラーは使わずとも過ごせる。
7月になってからも、クーラーを使用した日のほうが、使用しなかった日より少ない。
風が抜ける日は、何とか使わずに居られるのだ。

3階建ての3階、つまりは最上階だから、建物全体の熱気もこもれば、2か所あるベランダも少し大きめなので、そこへ照り返す日差しの量は半端ではない。
そのベランダに、以前は葦簀を張っていた。
普通の横に長いベランダではなく、横幅は狭く、奥に深いベランダなのだ。
ただ単に葦簀を立てかけるのではなく、僅かに出ている庇のようなものから、ベランダの突先に固定してある物干し竿まで、殆ど水平に、要所要所を縛り付けてあったのだ。
もっと前には、それ程細かく固定はしていなかったのだが、大風のたんびに竜の如くのたうち回り、うるさいことこの上ないので、しっかりと沢山の場所を固定したらば、今度はそのままの態勢で、台風などが来ると、バラバラに分解してしまうのだった。

それを片付けて、また新たに同じことをしても、またおなじ結果となるのであきらめて、今度はよくホームセンターに売られている、サンシェードの、遮光の布のようなものを使うことにした。

片方は短い庇に固定し、もう片方をベランダの手すりに固定してしまうと、斜めに空間を塞いで、風をかなり遮ってしまうので、色々と工夫して、やはり物干竿の方に固定し、水平に近い感じに布を張り、風の行き来をスムーズにした。そのかわり、大風の時にどうなるかわからないので、庇側の固定も5つくらいに増やし、物干し竿側も、工夫して、取れないように固定する。
飛んで行かぬよう、布の庇側と物干し竿側の両側を頑丈な紐で、結び合わせる。
むろん物干し竿自体も吹っ飛ばぬよう、色々と手は尽くしてある。

これが完成すると、だいぶ温度が違った。エアコンの効き方が違うようだった。
葦簀の遮光量よりすぐれているようだ。

何と言っても、葦簀がばらばらになってしまった後、何もつけていない時は凄かった。
「暑い」と思うより先に、「気持ちが悪い」という感じだったのだ。

それでも、風の無い日はお手上げだ。
しょうがなく、クーラーを稼働する。

クーラーを使った日に、気を付けているのは、夕方に温度が下がったのに、気づかないでいることも結構多い、ということだ。
5時になったら、止めてみる。ベランダに出てみる。
夜中までどうにも暑い日もあるが、まだ夕方からは楽になる日も多い。こういう時に、閉め切っているから気が付かず、クーラーをつけっぱなしということも多い。


地球の気温が上昇すれば、海面からの水分蒸発が活発になり、豪雨や豪雪も増えてゆくと言う。
世界の色々なところで「史上最高の被害」と言われるようなハリケーンも起きている。

ノルウェーの首都オスロでは、自家用車利用が減らないために、公共の場の駐車場を排除するという過激な政策が実現に向けて動き出したそうだ。

スイスの企業とアイスランドの企業が協同で開始し始めた二酸化炭素回収プログラムは、大量の二酸化炭素を地下に送り込み、石に替える技術だと言う。

米大学では、二酸化炭素をエタノールに変える方法が、偶然発見されたとのことだ。

世界中で様々な研究や取り組みがなされている。

間に合うのだろうか。
間に合ってほしい。

それにしても便利な世の中になった。ネットの通販だ。クリックひとつで、最速次の日に、欲しいものが手元にやってくる。
しかし宅配便の取扱個数は、年々増加する一方で、2006年には約30億個だったものが、2016年には、役40億個になってしまっているという。
このままのペースで取扱件数が増加すると、自家用車の使用を減らすどころではない。
何か対策はないのだろうか。

せめて再配達をしなくて済むように、全て時間指定ができるようになるといいかもしれない。
でももっと画期的な対策は無いものだろうか。
たとえば軽いものだったら、コンビニなど自宅以外で受け取った場合、エコポイントのようなものがついて、若い人が喜ぶような、なにか「いいもの」と交換できるとか、送料が半額になるとか。駄目かなあ。

それから、根本的な問題だと思うのが、日本の現代の集合住宅は、つくづく風土に合っていない設計のものが多い。

「風が通る」設計になっている集合住宅はとても少ない。
とにかく部屋数を取るために、解放部が一つの方角だけの住居も多い。
これでは、クーラーを使わずに居られるわけもない。
その一つの方角の解放部さえ、防犯上夜寝る時はは閉めてしまうのだから、夜通しクーラー稼働しなくては、病気になってしまうだろう。つまり現代の日本の集合住宅は、クーラーをフルに使用することを前提として作られているのだ。

この辺を、どうにか改善していってほしいものだ。
「風が抜ける設計」これを集合住宅を設計する時の、必須条件にする方法はないのだろうか。

それから、空気が流通できるように、ブラインドのようになっているシャッター、こういうものを、集合住宅を作る際にとり付けるべき必須のものにする、あるいは取り付け費用に補助金を出すなどなど。

ああ、でもこれは一般の個人住宅でもヘルプしてほしいなあ。

ソーラーシステムなんぞ、いくら補助金を出すと言ったって、庶民にはあまり関係のない話になってしまう。
もっと現実的かつ一般的な部分にこそ、サポートが欲しい。

しかし、一介の主婦がこんなことを色々と考えたって、何になるわけでもない。
身内の者に言ったとて、一笑に付されて終わり。

それでも、考えずにはいられない。
祈らずには、いられない。


間に合うのだろうか。

間に合ってほしい。



(西日本豪雨は死者200人にのぼり、今なお安否不明多数だとのことです。
被害に合われた方、大切な方を亡くされた方、心よりお見舞い申し上げます)









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七月アラモード

七月アラモード

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本日の1曲/Eva Cassidy - The Water is Wide



七月の太陽水に増えゆきぬ



七夕や星の釦の掛け違い



夏帽置く隣に誰かいる如く



夏帽のゴム紐の伸びていた頃



悔恨を遠ざけていて百日紅



脈略の無き風の道百日紅



昼寝して戻る宇宙のこぼれ種



金魚草ソナチネゆっくり分解す



金魚草街を泳ぎぬ付け睫毛




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夏の雨生きとし生けるもの濁し



夏の雨我の思いを逃げ切れず



去る者は追わぬ涼しさ百合の花



聖堂の沈思黙考百合の花



蜜豆や核心をずれてゆく話



月見草どこかで誰かが眠らない


        
月見草離れて月ののぼりゆく


「月見草」というのは、正しくは白い花で、朝方に萎むとピンクに変わるという、清純な感じの可愛らしい花だ。
それを知ったのも、それ程前ではないし、自分の見てきて、俳句に読んできた月見草は、「オオマツヨイグサ」であることも分かっているのだが、やはり「月見草」という言葉から、句をイメージしたい気持ちがある。

それはまあ、自分の身の回りに白い本物の月見草が無く、まず一度も見たことがないことと、何と言っても、あの大待宵草の、月のひかりを隅々まで浸み込ませたような、やや淡い黄色のせいには違いない。
ちなみに自分の持っている歳時記には、「月見草」とあり、その下に同義の言葉として、大待宵草とある。

実家の向かいの空き地には、夕暮れ時に、沢山の月見草が咲いた。
それは家から見ると、東の方角なので、出たばかりの大きな月が丁度月見草たちの上へ、祀り上げられるかのように現れる。
夕闇がまだ暗くなり切っていないので、月はまだ煌々と輝いてはいず、のっぺりとした黄色の色彩が勝っている、そんな時間の光景だ。

だから光沢感の無い、マットな感じの黄色が、月見草の黄色の調子と同質で、月見草はさながら月の子供達のようだった。

しかし、街中なので、月見草の空き地と大きな月の間に存在しているのは、ビル群や大きなクレーンや、マンションなどの暗い立方体たちなのだけれど、それはそれでまた、不思議な神秘的な風景になっていた。

思えば思春期の間、自分は「月」というものに非常にこだわりがあった。

「月」あるいは「月のような球体」を含んでいる絵画にとても愛着があった。
自分でもちょっとシュールな油絵を描いていたりしたのだが、大抵キャンバスのどこかに、月が存在していた。
むろん今だって、月は好きだ。
でもあの頃の、物凄く求心的なストイックな憧れにはついてゆけない。(笑)


若い時、一時私とは対照的な性格の女の子と親しくしていたことがある。
頭が良く、何につけ積極的で、恋はどんどん自分から探すようなタイプだった。

彼女は、ハードカバーの重たい文学書を抱えて、超ミニのスカートで電車に乗る。
電車の中で本を広げ、彼女が小説の中から気に入っている箇所を隣の私に読み上げる時、

周りを憚らぬ充実した陶酔があって、そういう所が、少なからぬ人を魅了してしまうのだった。

殆どの若者の中には、芯にグラグラしている空洞のようなものがあるのではないだろうか。

そんな心許なさが、彼女にはほとんどないのだった。
他の若者と同じく、わけの無い絶望のようなものはあるし、悲しみも哀しみも持っていた。
しかし空洞のようなものはなかった。

やがて彼女は自分に合った仕事を見つけ、どんどん周りの者より先に、大人になった。

いつまでも自分の道を決められずに、ウロウロとしていた自分とは、もう付き合っても面白くなかったのではないだろうか。そのころから私達はあまり会わくなった。
そんな最後の頃だったのだと思う。

二人でどこかで呑んでいて、何故か「月」の話になっていた。何処をどう辿って「月」が話題の主役になっていたのか思い出せない。彼女はSFも好きだったし、宇宙の科学的な話も好きだったから、「月」に対するアプローチの仕方も、単に芸術的な方向しか持たない私とは、また違っていたのだろう。

彼女がいきなり私に尋ねた。「月と太陽、どっちが好き?」
「月」と私は答えた。

すると彼女は言った。
「月は自分では輝けない」

その言葉が何か深いところまで落ちていったのを覚えている。
だが若かったから、その質問自体の幼さには、まだ気づいていなかった。



それから何十年もたった。
私達はあれ以来、一度も会うことはなかった。

40代、50代、怒涛のように、色々な事が私の身の上に起こった。
全てが、予想外というか、自分の漠然とした航海図にはなかったものだった。

しかし様々ないわば理不尽が、梃になった。

私は猛烈に勉強し、私の持っている能力をささやかな一つの仕事として実らせることができた。
仕事が忙しい時もあれば、ふっつりと切れてしまうこともある。
彼女から見たら、一笑に付すような小規模なものかもしれない。

それは小さな夢の小さな実現だが、私にはそれで十分だ。

私は彼女のように、光り輝くような自信なぞ、幾つになろうとついには持つことはできなかった。
自分の人生をどんどん新しい世界に切り開いて行くような、積極性も持っていない。
周りを憚らず詩の朗読ができるような、堅牢なマイ・ペースも持ち合わせていない。

でもただ一つわかったことは、
私を本当に幸福にするものは、私が元から持っているものなのだ、ということだ。

私らしく生きていけば、そこから新たな枝は生えてくる。
人は他の誰かになる必要なんかない。

私の他に、誰も私を生きてなんかくれないのだ。







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白粉花

白粉花

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本日の1曲/Simone Kopmajer - "Don't Let Me Be Lonely Tonight"



夕月の置き忘らるる白粉花



白粉花や路地を俯瞰している雲



白粉花や床屋の看板色褪せて



白粉花や空のどこかに甘い水



白粉花の紅浮きて裏切られ


幼なじみと言えども色々で、トラブルメーカーのような女の子が一人いた。
A子ちゃんは、すぐ近所に住んでいる三人兄弟の末っ子で、女の子だけれども運動神経抜群で、気が強く、気に入らないことがあれば、すぐに怒り出し、つつがなく遂行されていたままごとなどはは、一瞬にして木っ端微塵になってしまうのだった。

どんな子との組み合わせで遊んでいても、彼女が来るとそうなるまでは時間の問題だった。
「入れてー」といってずかずかと強引に入って来るので、入れないわけにはゆかぬ。

最初こそ、その日のままごとのルールに何とか従っているものの、15分も経過すれば雲行きが怪しくなり、堂々とルールを破り、ずるい事をするのに異議申し立てをした途端、わーっと怒りだして、ままごとの道具やら花の種やらをぐちゃぐちゃにすると、
ぱっと立ち上がって、駿馬のように、鮮やかに逃げてしまうのだ。

「A子ちゃんって…ひどい。」
年下の子はいつも泣かされた。

どこにでもいる、こういう女の子。活発で、素早くて、ずるくて、逃げ足が速くて。

子供の社会だって結構過酷だ。
裏切りなどは日常茶飯事。

彼女ほどではなくとも、子供というのは大人が考えているほど純真なんかではない。
なんたって、大人の雛形で、大人のように調教されていないのだから。

かけ引きもあれば、裏切りもあれば、だまし合いもあれば、策略もある…なんでもありなのだ。

あれは今から10年くらい前、とあるカフェで彼女らしき人に偶然行き合わせた。
私から3メートルくらい先の席に、彼女はひとりで腰かけて、ランチを取っていた。
私からは良く見える席だが、彼女の方からは、やや振り向かないとこちらは見えないし、私には全然気が付かないようだった。

あれから一体何年たったのだろう。

あれからほどなく、私たちは引っ越してしまったから、
優に40年は経っている!

その辺の路地に溢れるように咲いていた白粉花の種をあつめて、ままごとのお茶碗に入れて、そうして遊んでいた、あの少女の頃から。

それなのに、私には彼女だということが、すぐにわかるのが不思議だった。
幼馴なじみとは、こうしたものなのだろうか。

彼女は、とても美しくなっていた。
考えてみると、子供の頃の彼女は、美少女とかいうタイプではなかったが、目鼻立ちは、整っていたのかもしれない。
すっきりした顔立ちだったが、何せ悪い事ばかりしているので、イメージの悪さが顔立ちの良さを完全に消していた。切れ長の目は意地悪そうな吊り目に見えて、すっきりしていた輪郭は、ずるがしこい狐のようにやせ細って見えた。

だが、私がびっくりしたのは、彼女が美しくなっていたことではなく、彼女の雰囲気が、全く別人のようになってしまっていたことなのだ。

なんていうか、繊細で、内気そうな、儚げな。

幼い頃の、生き生きと負けん気だったA子ちゃんの雰囲気は微塵も無く、そこにいたのは女らしく、気遅れがちな、そう、最も彼女のイメージからかけ離れていた、「臆病そう」な空気をしょっていたのだ!

ひとりでランチを取っているその時の、ちょっと不安げな感じ、周りを何とつかず見ている気後れがちな眼差し、パンやコーヒーカップを持つ時の、繊細な手の動き。

そこには、指の先から足の先まで俊敏な負けん気に溢れていた、あのA子ちゃんの魂のようなものは、全く感じられなかった。

どんな人生が彼女にあったのか、それはわからない。
あるいは、単に成長したと言うだけの事なのかもしれない。
単に成長するということだって、それは大変なことなのだ。

成長するということは、哀しみの川をいくつも渡るということだ。

自分が哀しんだ事の無い人間が、人の哀しみを想像できるわけもない。


けれども、私はどことなく拍子抜けしていて、どことなく寂しかった。

あんなに嫌いだったA子ちゃん。
仲良くできるのは、15分を切ったことがなかった、A子ちゃん。
皆の遊んでいたままごとの茣蓙を引っ張って、ひっくり返してあっという間に逃げてしまったA子ちゃん。

つむじ風のようにスピーディーで、中性的だったA子ちゃん。


2足す2は3だよ、と言われたような、納得できない感じを心のどこかに持ったまま、

私はそっとA子ちゃんを残して、そのカフェを出た。










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サルビアや駅への流れに混じり行く



サルビアに僅かな夕焼け憔悴す



堰き止めているあれこれを梅雨の月



魂即生身となりぬ炎天や



炎天の人の背中に飽きてをり



枇杷の種昔話を蓄える



枇杷の実や子供幾たび寝返りす



退屈というは懐かしアイスコーヒー



掌はやわらかきもの合歓の花



一瞬の睡りの深さ合歓の花






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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