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本日の1曲/Eliane Elias - That's All



風ひと吹き千の蓮の葉裏返り



水の星覆ってゆきぬ蓮かな



人形のやうな軽さで蓮の花



蓮の下魚ゐて虫ゐて蛙ゐて


千葉公園へ大賀蓮が咲いているのを見に行った。
三百本咲いているということだったが、まだ満開というほどではない。蕾もたくさんある。

だが蓮の葉の大きいこと、逞しいこと、植物というより動物めいていて、肩のあたりでわさわさと揺れていると、自分が何か小さな生き物のようななったような気がして、その非日常的な感じが、やけに嬉しい。

人が多かったせいもあるだろう。
蓮の花は神秘的というより、「不思議可愛い」という雰囲気。

お昼のバラエティ番組のような快活な音楽を大きな音で流していたのは、どうかなあ。
ちょっとなあ。
別にアジアンな音楽で無くてもいいし、崇高な音楽でなくてもいいから、せめてゆったりしたテンポの音楽にしてもらいたいものだ。

蓮が少し途切れている池に、鴨が三羽、泳いでいたが、柴犬を連れていたおばさんが池のほとりに座り込むと、一斉に寄って来た。
池の縁とはいえ、30センチくらいの低い垣根で囲ってあるから、おばさんはその外側に座り込んでいるのだが、やおらポケットから何か取り出すと、手にのせて、鴨たちに食べさせ始めた。

犬は鴨の方を見ようともせず、悪いことは全くしないで、大人しくおばさんの仕事が終わるのを待っている。

覗き込むと、おばさんの手には、ぎっしりと茶色い豆のようなものが入っている。

「それ、何ですか」と訊くと、

「猫の餌!」と機嫌の悪そうな声が返って来る。

「あー、キャット・フード、食べるんですかあー!」と言うと、

「何にも食べさしてもらってないんだよ!」とほとんど怒ったような声。
見れば三羽の鴨は、右から左から、我先にとおばさんの手にせわしなく首を突っ込み、大変な餌の競い合いだ。

「ほらねっ!お腹へってるだろ!」おばさんはプンプンしている。

こういう人は、きっとこのキャットフードを持って歩いてるに違いない。
その辺の公園や空き地に出没する野良猫たちにも、きっとこうして配給しているのだろう。

そうかと思えば、あちらから歩いて来るおじさんは(いや、おじさんなんていったって、きっと私より十歳くらい若いのかも。)

色んな人を捕まえて、喋りたくてたまらないらしく、何やかにやとまくし立てている。

私が蓮の写真をスマホで撮っていると、「おー、いい写真、とれましたかぁー」と寄って来た。
なんかイタリア人みたいなアクセントだなあ。

「いーえ、写真下手だから」というと、

「写真なんか、ドンドン撮ればドンドンうまくなりますよー!
いいですねー、蓮一杯でねー、
私はね、長く中国にいたんですよー、いいですよー、中国!」

悪い人ではなさそうだけど、思いっきり飛ぶ話についていけず、写真を撮るのに夢中なふり。
まだ喋っていたけれど、諦めてベンチの方へ行って、次の二人連れのおばさんたちに話かけ始めた。

するといきなり、「ガオオオー」
突然至近距離で巨人の鼾のような声が。

「何今の?」とびっくりしている人に、連れが「あれだよあれ、がまがえる!」と言っている。

多分、最近色んなところで、騒音公害になっているという、「牛蛙」という大きな蛙だと思う。
いつぞや早朝にここの蓮を見に来た時、あちこち「ゴオオオオー」「ガオオオー」という声ばかりで凄くうるさく、まるで牧場のようだったことを思い出した。

蓮の下には、色んな生き物がいる。池の中には鯉もいるし、鴨もいれば、亀もいれば、蛙も居る。
肥沃な湿地で、沢山の蓮の葉に守られるようにして、様々な生き物が棲息しているのだろう。

小さな赤ちゃんを連れている若い夫婦もいた。
奥さんが一生懸命、赤ちゃんを蓮の葉の上に持ち上げて、蓮の葉に乗っているように、写真を撮って、と夫にせかしている。
いい塩梅に、めくれかけた蓮の葉を、赤ちゃんの柔らかな手が掴んだ。

はい、パチリ。


その時大きなひと吹きの風のかたまりが、通り過ぎた。

今日咲いているだけで花が三百というからには、葉となれば千枚くらいは軽くあるだろう。
もっと、もっとあるだろう。

その大きく分厚い蓮の葉が、象の耳のように、ゆったりと風に裏返ってゆく。

手前から奥へ向かって、順々に、ゆっくりとめくれあがっては、また戻る。

蓮の葉の海が波立つ、その鷹揚で優雅な、大きな野生の動物のような、動き。

それは実に素晴らしい、眺めるに値する光景だった。








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六月の水に畳まれている日暮



六月のエレベーターにひとりかな



六月や夢の真白き根が太る


六月は明け易いせいだろうか。

眠りが遠浅の海岸のようにうっすらとしていて、何かと目が覚める。

ひっきりなしにあんまり意味の無さそうな夢をみていて、それが砂浜の残留物のように、意識に残っている。

変な夢だった。
でも非常に印象に残っていて、なにか大事なことを言っているような、いないような。
そんな夢がよくある。

今日はいつも行くブックカフェの入っている百貨店の夢だった。
一階の、化粧品売り場のカウンターの売り場で、きれいなお姉さんが、黒っぽいスーツに身を固めて、私に何か説明していた。

実際に売っているのは、化粧品ではないようだった。
何だかよくわからないけど、指輪だの、コーヒーカップだの、なぜかスマホの新機種だの、統一性の無い物が、ひとつのカウンターで売られていた。

説明を受けながら、私は必死で何かを探していた。
何を探していたのか覚えてないけれど、やけに急いでいた。

するときれいな売り子さんが、
「実はね」と言って、「これはお売りできないんですが」と言って、

カウンターの内側に、私を招き入れた。
中に入るや否や、私はびっくり仰天した。

カウンターの内側の、いろんな抽斗やら本立てのような空間には、
南瓜ほどもある大きな球根だの、土に植わったままのほうれん草ぐらいの丈の花の苗だの、クロワッサンほどの大きさの蝉の抜け殻などが、ぎっしりと置いてあったのだ。

そしてカウンターの中の、扉の付いた小さな開き戸をお姉さんが開けると、そこからどっと水が出てきて、ますますびっくりして、目が覚めた。







でで虫や遠くのものを遠いまま



物音も立てず一週梅雨深し



息つめて紙切ってゐる梅雨深し



梔子香池の輪郭が溶ける



五月闇扉開ければまた扉



涙腺を伝わってくる梅雨の星




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緑蔭2

緑蔭

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本日の1曲/Ennio Morricone - The Mission - Yo -Yo Ma



緑蔭やすべてひとつに物の影



緑蔭に記憶のテニスボールかな



緑蔭に紛れず白いシャツ来たる



太陽の残像逃げる緑蔭に


「緑蔭」という言葉からふっと連想するのは「オーケストラ」とか「交響楽」とかいう言葉だ。
自分はクラッシックも聞くけれど、「交響曲第何番」とかいうのは、ほとんど聞かない。
バイオリン、チェロ、ピアノ、たまにフルートとか、器楽曲で、「ソロ」のものが一番しっくり来る。

「交響曲第何番」という手合いは、今の私にはエネルギーの密度が高すぎて、あるいは曲の体積が大きすぎて、台風のように「バーン!」と来られたりされたら、「それでは失礼します」と言って、くるっと後ろを向いて、家に帰ってしまうだろう。

あの大河のようなエネルギーの塊に、入ってしまえばさぞかし気持ちがいいのだろう。
でも私は、遠慮しておきます。
多分ああいう曲を聴くには、圧倒的に基礎体力が足りないのだと思う。

話は逸れたが、緑蔭のオーケストラは、主に「交響曲第何番」の第二楽章のような、ゆったりとした曲を演奏しているのではないだろうか。
沢山の木や草花が絡み合って風を抱いている「緑蔭」は、やはり沢山の数の楽器が重層を成しているオーケストラを思わせる。

時々パッと木漏れ日が射して、囀りが飛び交ったりするのは、管楽器の音。
緩やかな風を順々に抱いている樹々の枝は、大小様々な弦楽器。

それにしても、この頃すっかりCDを聴かなくなった。

何で音楽を聴いているかというと、PCで、主にYouTubeで聴いているのだ。iTunesから聞いている時もある。
数年前に、音楽関係の仕事をしている知り合いが、白い鳥の卵のような(色は他にもブラックがあったようだが)スピーカーを私に勧めた。あの頃、阿川泰子が宣伝に出ていた。
Olasonicというメーカーのもの。

このスピーカーをPCに繫いだら、なかなかの「音」なのである!

とはいえ、本当のオーディオ・マニアが聞くようなものとはちょっとスケールが違うものだと思う。
低音がビンビン来なくてはだめ、というようなジャンルのスピーカーではない。

でも直径10センチくらい、高さ15センチくらいのコンパクトな、場所を取らないスピーカーにしては、なかなかの音である!お値段も、1万円そこそこだったから、コスパ優秀。

形ははっきり言って気に食わない。
別に、白鳥の卵とかじゃなくて、フツーの立方体でいいんだけどなー。
これがモニターやデスクトップの、とっかかりのな直方体の只中に、ででん、と左右に立っていると、収まり悪い事極まりない。

でも、まあ、この音ならそこは目を瞑る。このスピーカーをPCにつけたらば、こっちの方が良くなってしまって。

音楽が自分だけの趣味ならば、主婦の分際で大きな本格的なオーディオセットなど買うわけにわゆかぬ。
だからといって、安かろうなミニ・コンポのどんより曇った音だったら、こっちの方が全然イイ、という選択だ。

そして、きつくなってきた老眼でCDを物色して、やっと引っ張り出し、ジャケットから出して、プレーヤーに入れて、聞き終わったらまた出して、ジャケットに入れてしまって、という一連の行動が、忙しい毎日の中で、「やってられんわい!」てなことになって来る。

こうして主婦は音楽から遠ざかる!
という感じ、だったのである!数年前までは。

それがこの白鳥の卵のような不思議な形のスピーカをPCに繫いでからというものの、縦横無尽にジャンルを超えて音楽を好きなよーに楽しむことが、億劫でなくなった。

仕事をしながら、ブログを書きながら、通販で買い物をしながら、気軽に音楽を楽しめるようになった。

息子などは、これまた音のいい、無線のイヤホンを持ち歩いて家で聴いているが、私はどうも家では特に、イヤホンという物がうっとうしくて、駄目である。やや大きい音が好きなので、昔使っていて少し聴力も落ちた感じがして、やめた。
音楽は、空気のように、そこいらへんに、「漂っていて」ほしいのだ。

ただ、そのアーチストのメジャーな一部分の曲しか見つからない場合も多いし、あくまでも曲単位で、それが入っているCDの全体像などはわからない。(時にはCD丸ごとアップされているものもあるが)

そういう時は、iTunesの音楽サービスだ。ここでじっくりと曲の入っているCDを調べて、聞きこむ。
つまり、音楽を探すのはYouTube、調べたり、聞きこんだりするのはiTunes。

こういう感じが自分にはピッタリくる。

だから私は非常に長い音楽ブランクがあったのだ。
生活に追われていると、CDというメディアだけで、新しい音楽、或いは自分の知らない古い音楽も含めて、ミュージックライフをどんどん更新して行くのは、どうにも無理がある。
同じものばかり繰り返して聴いていると、自分自身もなんだかいかにもマンネリ化してくるようで、重い。
良い音のスピーカーをPCに繫ぐだけで、色んな楽しみ方ができるようになった。

こうしてまた私は、めでたく音楽のある暮らしに復活したのである。



音楽は道行く人の、緑蔭のようなものだと思う。

そこへ一歩踏み込めば、ふっと体中が弛緩するような、自分の色んな思いをその中へ、逃がせるような。





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梔子香濃密な時間の停止



梔子や呼吸が深くなる夕べ



明け易し洗われている言葉たち



明け易し透明な蝶となる瞼



明け易し留まるもののひとつ無く



物語の魔法が溶ける明け易し



サクランボ大き男の手で掴み


「若き日を食らふが如しさくらんぼ」林翔

全くだと思う。
あの、皮のちょっと突っ張った感じ、それを歯で破った時の、最初の酸っぱさと、後からじわっと混ざって来る甘さ。
青春を一瞬で追体験するような、味覚。

ぼんやりと曇った頭が、隅々まで覚醒するような、美味しさである。



硝子器に水滴付いてサクランボ



紫陽花や答えの出ないままにゐる



青という色の重さや紫陽花咲く



前行く人次第に遠く五月闇












すみませーん!

またやってしまいました、書きかけブログの手違いアップ!
へんてこりんな書きかけの「緑蔭」をご覧になってしまった方々、どうぞ黒板消しでその記憶を掻き消してください。

また、書きかけブログに嬉しいコメントを早々と下さった、桃香さん、あなたがコメントくださらなかったら、まだ気が付いてなかったかもしれません。ありがとうございました。

それでは、こういうことが又あるやもしれませんが、どうぞ一笑に付されて、懲りずにお付き合いくださいませ。






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噴水

噴水

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本日の1曲/辻井伸行 ラ・カンパネラ


噴水の水の一本吹かれをり



噴水や終わりなければ始まりも



噴水や秩序立っている情熱



噴水や未完の月日のオーケストラ



噴水止めば置きどころ無きこころ





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梅雨に入る手紙の返事出さぬまま



梅雨に入る郵便夫の濡れている無言



雨垂れの軒を離れず夢も見ず



青葉風閉じた瞼の中までも



女形のような首筋花菖蒲



花菖蒲色動かせぬ景色かな



ジギタリス落ちてくる夕陽のシャンデリア



鐘の音のこだまが返るジギタリス


ジギタリスという、何だか豪華絢爛でちょっと毒々しい感じの花の名の、和名が「狐の手袋」だと知ったのは、つい最近のことなのだ。

拍子抜けしてしまうというか、花の様子を見れば、なるほどとは思うけれども、随分とイメージに落差がある。
小さな鐘をたくさん集めて、典雅な塔にしたような花の形だけれども、あの袋型の花に狐の手がすっぽり入る様を視覚的に想像してしまうと…可愛いけど笑ってしまう。
でもやっぱり、「狐」というところに一抹の怪しさがあるというわけなのか。

「ジギタリス」ならば俳句になるけれども、「狐の手袋」ではちょっとなあ…。興が湧かないなあ。(笑)
俳句って日本語で作っているのに、なんか色々と複雑な事情もあるんだ。

ジギタリスは実際にかなり毒を持っている植物で、でもイングリッシュガーデン風のこんもりとした緑の植え込みの中に、美しい塔のようにスクッと咲いている姿は憧れだ。

それにしても植物の正式な名前というのは、メジャーなものでなければとても覚えにくい。

自分は今までは仮初のガーデナーだった。
3階の自宅のベランダでは、大きめの植木鉢がいくつもあり、それなりのものが植わっているのだが、水こそやるけれどもという程度の仮初ぶりで、肥料なんかやらないし、剪定なんてしないし、切り戻すなんて、咲いてる花が可哀想とか、雑草と共存しているのもナチュラルとか、すっかり螺旋が伸び切って、菜の花のごとく伸び切ってしまった葉牡丹を、寄せ植えから抜き難く、そのままうっちゃってあるとか。

このようなことをしていると、一見花を憐れんでいるようであるが、徒長してどんどん格好悪くなり、花付きもわるくなり、最初の美しさはあっという間に失われるので、自分もどことなく白けてくる。

そうなるともう水やりも義務感となり、命あるものなのだからなんて言いつつ、寄せ植えを作ったばかりの瑞々しい感動からは遠く、植えてしまった成り行き上、何の情熱も無く花を育てているのだ。

それでも季節が変われば、枯れてしまった花を引き抜き、また色々と配色を考えて、新たな季節の花を植える。
だがあとは、おおよそ似たり寄ったりの事を繰り返していた。

今回必要があって、一階のいわばちょっと公的なスペースに、植栽をすることになった。

畳一畳半くらいのスペースではあるが、すべてコンクリートだったところに、わざわざ穴を開けてもらって本物の土が顔をのぞかせている、貴重なスペースだ。
その前は土の部分は無かったので、大きめのコンテナと、いくつかのハンギングで花を育てていただけだった。
しかし…穴を開けてもらってから、かれこれ三年くらいは立ってしまったような。
この悠長さがホントに家らしい。もうー。

だが建物の間に挟まれているから、日照は全然ないわけではないが、限られた時間のみ。
風通しも悪そうだし、環境がいいとはとても言えない。

花と言っても、日照がはかばかしく無ければ難しい。
低木や宿根草のうち、常緑のもので、際立った色の違うものを集めて、言わばカラーリーフの、リーフガーデン風にするしかないだろう。

完全な葉物ばかりでは味気ないから、宿根草の地上部だけが冬に無くなるような花物を二、三種類入れよう。

そこからは本やPCに首ったけで、低木や宿根草の性質や姿を調べまくった。

だが困るのは、今調べた花のその名を、頁を移動すると、もう覚えていないことだった。
それは洋名(学名)なのだけれど、マホニアコンフィーサだとか、ヒペリカム・ヒデコートだとか、グミ・ギルドエッジとか…。舌を噛むような名前ばかり。
画像検索して、色んな植栽後の姿を見ようと、検索欄に名前を打ち込もうとすると、頭が空白に。

しょうがなくてコピペして事を運んだが、マホニアコンフィーサは、和名だと細葉柊南天、グミ・ギルドエッジはナワシログミ、ヒペリカム・ヒデコートに至っては、金糸梅。
「金糸梅」?
なーんだ、それってこの花なんですね、というどこかで聞いた覚えのある名前ばかり。

そしてやっと植える植物が決まり、発注し、半分くらいはは植え付けも終わった。

しかし植木鉢ガーデニングしか経験のない自分には、本物の土を相手にするのは、頭で考えていたこととは随分違って、大いに骨が折れた。
大体が、長年コンクリートの下になっていたのだから、土は堅く硬直していて、その上にいい土を乗せるにしても、まずその下の土から少しは改善しなくてはならなかった。

男手を借りるべきところは借りて、まず土と格闘した。
植えるにしても、地面の高さというのが、膝の悪い自分には、結構難儀な高さだった。
膝をつくわけにもゆかず、変てこな中腰でやったので、次の朝の膝は悲惨だった。

そもそもシンボルツリーなるものを植えるはずだったのだが、余りにも燐家に近く、大抵の木の枝はにべも無く燐家に侵入してしまうだろうというので、諦めて、諦めたまま放ってあったのだ。

コニファーなら枝が横へ張らないが、突然立ち枯れてしまうことがあるので、シンボルツリーにはどうかなあ、と躊躇していた。
シンボルツリーというのは、枯れるとどうもいい感じがしない。

しかし人間、諦めたら諦めたでまた、違う理想を見つけなければならない。
でなければ小さな空き地はいつまでも無残に空っぽなままだ。

そこで考えたのは、大きなシンボルツリーは諦めて、人目を高みに誘う、洋風の街灯風のソーラーライトを立てること。
そしてその両脇に、片方はあまり大きくならないコニファーを、もう片方には明るい黄色の斑入りのグミ・ギルドエッジの低木を。
コニファー一本きりのシンボルツリーでなければ、たとえた立ち枯れても、気分が違う。気軽に変えられる。

その両隣には、斑入りの繊細な葉を持つアベリアを、少し低めに剪定しながらこんもりさせてみよう。
そして前景の足元は、カラーリーフで埋める。
モクビャッコウ、ロニセラ、ヒューケラ、アジュガ、ヤブラン、そんなところか。

間に、アナベルという紫陽花に似た白い花を入れ、手前には紫のサルビアを少し。
グミ・ギルドエッジの斑の黄色がかなり強いので、花壇全体の色は黄色、白、ブルー、紫系統でまとめたい。
ヒューケラの赤紫までで抑えて、赤やピンクの花は出来れば避けたい。

街灯風のソーラーライトは成功だった。
写真を見ただけの、ネット通販だったから、実物は安っぽいだろうかと警戒したが、そうでもなかった。
両側に植栽すると、ほれぼれするような風情があった。
縁は煉瓦だが、モルタルを使わなくてよい、今流行りのブロックのように組み立てられる煉瓦。
煉瓦とライトの相性が良かったのかもしれない。

土や木の苗達と格闘し、その未来の姿を思いつつ植栽を半ば終える頃には、私はもう仮初ガーデナーであることをやめる決心をしていた。

ここに植えたもの達は、低木とはいえ成長は早いから、もし剪定も満足にせずに放置したら、たちまち酷いことになるだろう。あっという間にジャングル化して、通る人たちの邪魔になるだけなのだ。それでは何もやる意味がない。

剪定し、肥料も施し、水も切らさぬよう、毎日様子を見に降りてこよう。

インテリアを色々と工夫するのが好きだった。この頃はまあ、おざなりと言えばそうなんだけど。
手織りも好きだった。不器用だけど、不器用なりにできるし、縦糸と横糸の混ざった時の予想できない色のハーモニーには、心を奪われた。だが、車でないと、織機を運べないので、今は訳あって、止めざるをえなくなった。

ガーデニングは生き物が相手だ。
どんなに忙しかろうが、疲れていようが、水をやらなければだめになってしまうし、思うようにならないこともどんどん出てくるだろう。
でも生き物が相手だからこそ、他の事では味わえない、どっしりした充実感を貰えるのだと思う。

それから、否が応にも一種の肉体労働だから、そこで何かが、ストップする。
抱えている問題、日々の中の小さな欲求不満。
色んな脳味噌の中の雑音が、一時的にストップしてくれる。

風と光と植物。   あとは何もない。

そういっては身も蓋もないけれども、グッド・デザインの家具も、巧緻な細工の工芸品も、


生きているものの美しさには、適わない。






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紫陽花

紫陽花

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本日の1曲/Eva Cassidy - Imagine


紫陽花に人の眠りのまだ重く




紫陽花や雨が雨の韻を踏む



紫陽花に乾ききらない髪束ね



朝刊に雨の匂いや紫陽花咲く



紫陽花や水の中にある廃市



紫陽花や夜から朝へ境無し



「夜」と「朝」とでは雲泥の違いだ。
でも、これほどにまでに違うものが、本当には境界線の無い、ひとつのものだ。

未明というそのあわいの時間の美しさを、そのまま花の色にしたような紫陽花。

言葉は色々なものを切り取る鋭利な道具だ。
鋤や鍬、シャベルや熊手やナイフや包丁や鋏やアイロンのように、
それは私達が私達であるために必要不可欠な道具。

コップ一つさえなければ、水を飲むことさえできない。そんな風に。

でも夜と朝は本当はひとつづきのものなのだ。

「愛」と「憎悪」、「成功」と「衰退」、「不安」と「希望」、「生」と「死」。

それから「言葉」と、そして「言葉でないもの」も。

絶えず揺れている、その「あわい」、
そこに浮遊している不確かなもの達を掬い取ろうとしている、

それが詩というものなのかもしれない、そんな風に思う。








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ガーベラや窓に映っている青空



ガーベラや非常階段降りる夢



未来から来たかもしれず雨蛙



雨蛙いつからそこに長電話



万緑の戦っている千里かな



ハンカチほどの海見えてくる車窓



決めかねていること多く走り梅雨



大輪の薔薇日向から日蔭へと



薔薇散りぬ考え事をしてる間に



この薔薇は素晴らしい大輪の、大事な薔薇。大切に咲かせた薔薇。
そうは思っていても、何かに夢中になっているうち、ふとした弾みで散ってしまう。

この人は大切な人、他の誰かとは決して交換できはしない。
どんなにそう信じていても、いつの間にかひとつづつ言葉が通じなくなり、ある時反対の方向へ向かう電車に乗ってしまうことはあるのだ。
信頼のシーソーが動かなくなる。
それは片方が地面に沈んだままだ。

大きな無機質な擦れ違いの回転ドアが、ひっきりなしにばたついていく。
鋼でできている蝶のように、それは頑丈だ。

頑丈な無理解の通路。
届かなかった叫びが煙草の吸殻さながらうず高く積っている。

コーヒーを飲んでいる間に友人が病気になる。
洗濯物を干している間に誰かが離婚する。
恋人と会っている間に、一人で亡くなってしまった祖母。
テレビドラマを見ている間に、いなくなって帰ってこなかった猫。

現実は不格好で、いきなりストーリーが途切れる。
理不尽なアスファルトで覆われている。
一つの宇宙は他の宇宙からの死角になっていて、
決してクロスしない時もある。
小説やドラマのように、充実した結末が来る前に、
ふとした弾みで何かの間違いのように
中断される筋書き。 掻き消されてしまう台詞。

だから、急がねばならない、

何を?

急いでどうしろというのだろう。

洗濯機のドラムがグルグル回る。
私の回りで世界がグルグル回る。

私だけが止まっている。
私だけが静止している。

私まで、回ってどうする。
虫に食われて空っぽになっていた自分を
探しに行くこと。陽に当てること。

他にどんな方法があるというのだろう。

私から遅れず。
私から先走らず。


今のままで。 あるがままで。


今日という日。








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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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