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芍薬

芍薬

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本日の1曲/How Do You Keep the Music Playing - Simone Kopmajer 



芍薬に雷鳴少し近づきぬ



芍薬を剪らむためらうこと多く



芍薬や後ろの正面夕闇に



芍薬に小さき羽虫が迷い込み


森鴎外は長女の茉莉を溺愛していて、茉莉の方もそれは同じで、彼女のエッセイを読むと、それはもう濃密なものであったようだ。

親子の愛情というよりは、立派なプラトニック・ラブで、茉莉によれば父は「最初の恋人」なのだと言う。

「家中何処でも父を見つけると、私は直ぐに行って飛びつき、膝に乗った。父の膝の上にいる時私は、大きな樫の木の下にいるような思いに浸されるのであった。樫の木は大きく深々とした枝を広げていて、私を包んで呉れていた。又葉陰には細かな、匂いのいい花つけていて、さやさやと鳴り、揺籃のように私を揺するので、あった。」

またこうも書く。
「地面に躅んで小石を拾っていて、ふと顔を上げると、少し離れたベンチにいる彼は黙って微笑を浮べ、二、三度肯くようにした。砂糖のないチョコレエトのような苦みのある微笑である。
それが「傍へこい」という合図である。男からああいう表情で、「傍へこい」という合図をされたら、どんなだろう。」

そうとう熱烈なものである。
他にも、父親の容姿や立ち居振る舞いについての描写は、宝石のような褒め言葉で、随所に散りばめられている。

私は森鴎外には全く興味が無かったので、鴎外の写真なぞを、どこぞの教科書か何かで見たかもしれないが、全く覚えていなかったから、娘にここまで言わせるのは、相当美男子であったのだろうと何となく思っていた。

しかし、いや、そうでもないのかもしれない、森茉莉の眼だけにだけにこういう風に、素晴らしいフランス映画の男優のように映っていたのかもしれない、という気持ちも何処かに二割くらいは、あった。

果たして、一昨日、駅のホームに貼ってある文学散歩コースのポスターを見ていて、正岡子規だの太宰治だのに混ざって、森鴎外の写真が載っていて、つくづく見たのは、初めてだった。

「やっぱりなぁー」

私は微笑んだ。
鴎外の写真を見ると、そのひとは茉莉の言うほどの美男子ではなく、もう少し普通のおじさんだった。
凛々しいといえば凛々しいが、やや頬骨の高く、日本的な切れ長な目、お洒落だったらしいが、もしお洒落でなかったら、農家のおじさんのような恰好だって、似合わなくはなさそうな、日本では割とよくあるタイプの顔立ちだった。
(ウワー!天国の茉莉さん、ゴメンナサイ!)

少なくともアンニュイな石膏像のように彫の深い漱石には負けている。

でも、そこが森茉莉という文筆家の価値なのだろうと、私は思う。
もし鴎外が茉莉の描写そのままなフランス映画の美丈夫のようだったら、これはもう面白くもなんともないのだ。

いいように嘘を描くとか、でっち上げを書くとか、全くそんな意味ではない。

彼女にとって、父の鴎外は、生涯どんな男も敵わない、ただ一人の「永遠の男性」だったのだろう。

はたから見てどうであろうと、自分の思いを何よりも大切にして、自分というものに距離を置かず、夏の花がぐいぐいと茎を伸ばして天真爛漫な大きな花を咲かせるように、彼女は生きていたのだと思う。

そういう客観的なものと主観的なものの間のギャップみたいなものを感じさせてこそ、文筆家としての価値もあるのではないだろうか。

森茉莉だって、はたから見れば、「ただの変わったおばさん」だったかもしれない。
実家も婚家もお金持ちで生粋のお嬢様育ち、結婚しても炊事もあまりしないで済むような生活をしてきて、しかし一転して離婚してからは小さなアパートでの一人暮らし。

しかし彼女の中に、どれほど本当の意味での精神の贅沢さが蓄えられていたか。
生活が激変しても、彼女の中の、自分にしか見えないものだけを、どんなものより優先して生活していた、そのことは書いたものを読めば、分かる。

それこそが本当の才能というものだ。
それは文筆の才能とか、絵の才能とか、そういうものではなく、自らの思いを他の何より大事にしてゆく、自分というものからはずれていかない、そういう才能である。

彼女の若い頃の着物姿の写真を見ると、(なにせ15歳で婚約しているのだ)

羽子板の押絵のように、白くふっくらした面持ちの、芍薬さながらな、美少女であった。







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サングラスちょっと地球の裏へ行く



サングラス外して今夜のおかず買う



噴水の同じことしている月日



噴水の隠してをりぬ昼の月



鉄棒の上に月ある緑夜かな



単線の列車発車す緑の夜


友人と食事をして、あまりよく知らない駅から電車に乗ったら、それ程郊外というわけでもないのに、上りも下りも同じホームで、単線なのだった。
下り電車が来て、暫く待つと、上り電車が来たので、乗り込んだ。
将来は複線化する予定らしく、向かい側にはちゃんともう一つホームがあるのだが、とりあえず今は単線の営業らしい。

ここのところ、仕事が短納期で重なった。終わった!と思っても急ぎの修正依頼が来ることも多い。印刷屋へカラーチップを指定したりする仕事もある。家事の合間合間に仕事を分割して、どうにか時間を確保する。
そこへもってきて、もう一つ重要な役目があって、そちらの方のことが延び延びになっていたのを、大急ぎで色々と手配しなくてはならない。
そんなに時に限って、怪しかったスマホがはいよいよ寿命となり、急遽買い替えに。
ブログの更新も遅れ、家事も最小限で部屋は埃だらけ。

でも一番埃だらけなのは、何と言ったって頭の中である。

実際に忙しいといえばもちろんそうなんだろうけど、還暦目前ともなれば、要は自分の「処理能力」が昔とは全く違うから、余計に頭が混乱して、忙しいと感じるのだ。

昔の自分は、複線の線路のように、何かをしながら、何気に別の事を考えていても、別段不都合はなかった。
もちろんそれは時と場合によるけれど。

しかし今の自分はそうはいかない。
ひとつことに夢中になっている時に、次の事を思いついてしまうと、そっちへ行ってしまって、前にしていたことを忘れてしまったりするのだから! もうー!

いわば頭が単線になっていて、ひとつのことしかいっぺんに処理できず、そこへもってきてあれも、これもとやらねばならぬことが複数のしかかってくると、昔のように、スムーズにより分けたり、同時進行させたりが困難なのだ。

うまく交通処理が立ち行かないと、これは大変。正面衝突だ。

寝る前に、一時間でいいから、本を読みたいなあ。
これで随分と、心にゆとりができる。
そんな今の私には、20分くらいで読める短めのエッセイが何よりの慰めだ。
それを一篇読んでから寝床へ行くのと行かないのでは、一日の印象に雲泥の差がつく。

だんだんと単線の自分に慣れて、単線の交通処理に、もっと長けていかなければならない。





熱帯魚魅惑の尻尾掴みをり



熱帯魚一瞥して去る女



まだ雨を抱いて睡りぬライラック



回想へ傾いていくライラック






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初夏アラモード

初夏アラモード


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本日の1曲/五嶋みどり 「愛の挨拶 op.12」(エルガー)


はつなつの風の帆となり思案せず



はつなつの風へ追憶逃がしをり


私の中で、俳句に二通りあって、ひとつは自分の実感をそのままに近い形で残しておきたいと思うものと、もうひとつは、言葉の方で、言葉同士が組み立ててくれて、私の感じたものを、置き換えてもらう方法。
言葉の力に任せるパーセンテージが多い、と言ったらよいか。

「はつなつ」と言えば、どうしても今の私にとっては「風」が必須項目となる。
だが俳句の言葉の世界での「はつなつ」と「風」の距離感は、どうしてもありがちで、陳腐な取り合わせになってしまいがちだ。

でも今回は、どうしても自分の実感をとどめておきたいので、「はつなつ」と「風」の取り合わせたものを、しかも二つ、詠みたいと思った。

若い頃は、「初夏」と言えば「光」だった。
5月というものは、光の箱だと思っていた。

この頃は、どうしたわけかやけに「風」に気持ちがいく。
春先の冷たい風が一段落して、生温かな、どんな小さな不快感もない風になってきて、初夏の風ともなれば、それは黙って聞いていたい音楽ほどに、身心に心地よいものになってくる。

外を歩いていても、家の中の窓辺で座っていても、それは同じだ。

そしてその心地よい初夏の風の香りの中には、色々な記憶のかけらや、追憶の尻尾が混ざっていて、瞬時になにか遠い過去の断片が、水を得た水中花のように、生き生きと蘇ってくる時がある。

波が様々な漂着物を砂浜に寄せ来るように、風が私に記憶を打ち寄せる。

それは長いストーリーを持たない。断片的で、それなのに強靭だ。記憶の地層の深いところにあるのに、いざ立ち上って来ると昨日のことのように鮮明である。

こんな「はつなつ」の風の吹いている日に外へ出たら、黙って歩くしかない。家に帰ってきたら、黙って窓辺に座っているしかない。

誰かと口をきいたり、何か思案したり胸算用したりすると、全てがたちどころに消え失せてしまう。

まるで御伽噺の魔法が溶けるみたいにね。





新緑や若さの中にある空洞



薔薇咲ける家の主をついぞ見ず



薔薇咲いて我も細胞分裂す



彫像の深き沈黙薔薇溢れ





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木漏れ日に白き封書を訝しむ



木漏れ日やすべてあるべき場所にあり


木漏れ日というものは、理屈抜きに平和なものだと思う。
木漏れ日に包まれている時には、いつも満たされた気持ちだった。
過去形だ。

全てあるべき場所に、あるべきものがある、
そんな平和な気持ちの記憶、
でもあれはいったい、いつの事だったのだろう。

もしかしたら子供の頃。
もしかしたら思春期の頃。

そんなに素晴らしかったのだろうか。
子供の頃は。若い頃は。

いやいややはり子供は子供なりに、宿題はあるわ、嫌いな算数や体育はあるし、嫌な男の子はいたし、怖い先生もいたし、思春期にはすべてのものが馬鹿らしかったし、大人の社会に何の関心もなかったし、コンプレックスの塊でいつも自信が無かったし、不満の巣窟だったのだ。

ならばなぜあんなに平和な木漏れ日を見ていたのだろう。

私はいつも途上にいた。いつでもどこでも何処かへ行く途上にいた。
私はいつも何かしら欠けている存在だった。
いつでも階段の途中を歩いていた。
でもそのことに何の憤りもなかったのだ。
いつも等身大だった。

私はきっと、どんな自分とも平和だったのだ。


少し前に、本屋で立ち読みをしていて、田口久人という人の、「そのままでいい」という本を手に取った。
数ページをめくっているだけで、我にもなく自動的に涙腺がゆるんできたので、慌てて本を閉じて行ってしまおうとした。

その時、蝶々のように閉じかけている本の頁から、一行の言葉が飛び出してきた。

ある詩の最後の一文。(ちょっと違う表現だったかもしれないけど)


本当の自分は探してもどこにもいない
それは今のあなただから






モニターに葦簀の空が映りをり



ここにいていいのだろうか青嵐



青嵐夢で何かを言い放つ



この夜にいくつの孤独緑の夜



十薬に聞いて驚く秘密かな



十薬の静かな視線の中にいる



まだわれのかたちしている薄暑かな


春や初夏の気持ちの良い日には、自分の身体と外界が一体になっている。
柔らかな風。心地よい解放感。我と外界の境界線が曖昧になる。

でもハンカチをバッグからちょくちょく取り出すようになってくると、その幸福な一体感から抜け出して、なにかと自分の肉体を意識するようになってくる。
うっすらと汗ばむ体。薄暑の街と冷房の室内を出たり入ったりして、上着を着たり脱いだり、忙しい。
また自分の身体をありありと意識するようになってくる。

しかし、まだこの頃が華というものだ。

本格的な暑さになってしまうと、暑さはすでに、我のかたち、どころではなくなるのだ。






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薔薇

薔薇

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本日の1曲/Eliane Elias - My Cherie Amour



こころ今薔薇の一輪の重さかな



やはらかき薔薇やはらかき雨纏ふ



家々の鍵まだ開かず薔薇咲きぬ



薔薇咲かむ薔薇の数だけ夜明けかな



良いお妃悪いお妃薔薇咲きぬ



大抵の女性は、良いお妃が7人と悪いお妃が3人くらいだと、自分の事を考えている。

それが大体健康的な自己イメージというものだろう。
自分もまたしかり。

だが、過酷な居場所にいると、そんな生易しいイメージで周りは自分を考えてはくれない。

なにがどうしようと、真実は曲げて伝えられ、否定的なイメージが誇大に強調して歪んだ形で伝えられ、何かのはずみでそれがこちらに伝わってしまった時、驚きのあまり開いた口が塞がらないような、そんな過酷な環境で生活してきた。(笑)
ナイーブな良いお妃たちにはとても過酷な環境だ。

だが、あまりにもそんなことが続くと、だんだん「いい人」をやっていることが徹底的に馬鹿らしくなってくる。
「悪いお妃」になってしまった方が、もといなってしまったふりをした方が、よーっぽど楽ではないか。
そう、悪いお妃8人と、良いお妃2人くらいの比率。

「還暦」も近づいて来るし、今までにかつて無いような目標を立てるのも、一興である。

お気に入りのブックカフェに、先日持ち込んだ本のタイトル「いい人をやめれば楽になる」
どっかで聞いたようなタイトル。この手の本は、多いのだ。

30分ばかり、ふんふんと読んだ。
読んだ本の返却場所に返して、また新たな本を取りに行こうとしたら、私の置いたその本のすぐそばに、同じ本が無造作に置かれていた。
人気があるのだろう。

うーん、皆さん、あまりいいお妃をやりすぎると、疲労困憊してしまいますよ。





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スニーカー踵踏みたき初夏となり



姫女苑夕べひとりの影長く



振り向けば万緑振り向かずとも



万緑や不眠広がる樹のかたち


久しぶりに、不眠症になった。
夜中に何度も目覚める割には、その間、正体不明に寝ていられたのに、ここのところ、そのリズムがすっかり乱れてしまった。

深夜、朝4時頃まで、仕事や、仕事の無い時は仕事の仕込み。あとはブログ書く日もある。
仕込みというのは、自主制作で、ポートフォリオのための、云わば見本作品の制作というところか。

うちの親などは、そういうことを深夜していると、「お金にもならないのに」と言うけれど、日々絵を描いていない画家などいないし、日々踊りの鍛錬をしない舞踏家などいないし、技術、芸術というのはそういうもので、そういうものなしにデザイナーなんて言えない。(最も、売れっ子デザイナーだったら、そんなことしてる暇はないけど)

PC作業を終えるや、どっと布団に雪崩込み、そのままとっぷりと眠っていたのに、この頃そうはいかなくなった。

神経、体、ともに限界的に疲れて、あー今日もてんこ盛りの一日だった、と思いつつ、重たい自分をやっと布団まで連れて行き、「さー、寝るぞぉー!」と錨のように寝床に潜り込む。
その時は、後頭部がすでに眠気でどんよりと湿っている。
その眠気に呼応して、当然の如く眠りの大波が自分を連れてゆくのを待っているのに、「ん?」気が付くと何度も何度も、意識の浜辺にまた打ち返されて、ひとりさみしく覚醒の砂の上に残される。

いや、またつぎの眠気の大波が来れば、今度はすっかり連れてってもらえるさ。
などと思いきや、また同じことの繰り返し。

だんだん意識が、夜明けの水銀灯のように冴え冴えとしてきて、眠くて眠りそうな自分と、眠れなくなって焦っている自分との、両方の自分の少し上の方へ、「ぽ」っと、飛び出してしまうのだ。

眠気の大波が来る、あー、眠れそう、眠れそう、とか言ってるとまた浜辺にもどされる。その一部始終をちょっと高いところから監視するようになってしまったら、ああ、もういけない。

不眠のメリー・ゴーランドだ。

原因はわかっている。
この間、この調子で珍しく一晩中一睡もできなかったのだが、そういう日に、起こるのだ。持病の、心臓の頻拍発作が。
こいつは、ストレスが限界を越した時と、睡眠が足らない時のどちらかで起きて、起きたら150前後の頻脈がノン・ストップで続くので、救急へ行くしかない。
しかし先日は、様々な薬を点滴してもなかなか止まらず、4時間くらいの間、その脈のままだったのだ。

あの恐怖から、「寝なくちゃ」モードになって、この「○○しなくちゃ」というのが、諸悪の根源なのである。

だけど考えてみれば、胃だの腸だの、「もっと速く動いて」とか「止まってて」とか、コントロールしようったって、無理である。
それと同じに、寝ようとコントロールしたところで、寝られるわけではない。

じゃあ、そうやって腹をくくればいいだろうって、それができるくらいなら、もとから不眠症なんかならない。

自分の脳で起きる現象なのに、「眠り」というのは、「彼方」のものなのである。
内臓の動きも眠りも、自分の頭でコントロールすることはできない。
自然界の大きな力が人間にコントロールできないように、人間自身の中にも大自然のミニチュアのような部分があって、そういったものをいいように操縦はできないのだと、よくよく思い知らされる。

それで、だからどうする?
もう少し、ちゃらんぽらんに、なる。あるいは、自分というものに、一歩、遅れる。
私の場合、これが一番いいかなあ。
うまく言えないんだけど、自分の思いや感情は止めようと思ってもなかなか止まらないから、一歩遅れて、グズグズついていくような、うやむやな感じ。
あとは、首や肩に目一杯、インドメタシンの塗り薬を塗って、火照りまくる体に注意を向ける。意識から目をそらす。

そんな今日この頃。  さあ、寝る時間だ。  今日はどうかなー。

眠りのメリー・ゴーランド。






白菖蒲風が素足で走り去る



白菖蒲記憶明るく途切れをり



宅配の中身分からず若葉光



針の如一機飛び出す柿若葉



迷い無き視線と会いぬ柿若葉



虫歩く悲しき頁木下闇



やすらかに我の影解く木下闇






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立夏・夏立ちぬ

立夏・夏立ちぬ

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本日の1曲/We re all alone ・ Boz Scaggs


改札を風も抜けたり立夏かな



早瀬の如人は流れて立夏かな



夏来る立ち眩みにもある山頂



考えても仕方ないこと夏立ちぬ



人の眼に光溜まりて夏立ちぬ



それぞれに抜けてきた日々青嵐



久しぶりに昔の友人に会った。

自分も含めてそれぞれ様々な問題を抱えていたり、精神的にヘビーな仕事をしていたり、病気をしょい込んだり、なんていうか、あんまり身軽なものはいないというか。
でも随分長い間音信不通だったり、今だって皆忙しいから、そうそう頻繁に会ってなんかいられない。「仲間」なんていう分厚い関係でもないし、たまたま、ある時期を居合わせただけなんだけど。

それでもやっぱり、ジグソーパズルのように、時を越えてどこかのパーツを誰かが構成していて、いつの間にかそれは1枚の空のように繋がっている。
なんだかんだ言いつつ、あちらこちらでさざ波のように連動していて、遠くからの動きでも、揺れは小さくなりながらも、ゆらゆらと伝わって来る。

友人というのは不思議なものだ。

賢明な人間なんか一人もいないし、皆何かしら後悔の荷物をしっかりと持っていたりして、それなのに、沢山の言葉にできないことを、それとなく教えてくれる。

私達は赤の他人のやることから、あんまりしみじみ学んだりはしない。

友人というのは、近しいけれども、微妙な距離があって、自分とは結構考えも違っていて、そういう座標にいるからこそ、そうと知らないうちに色々なことを学んだり、影響し合ったりできるのかもしれない。

だから、人数は多くないし、時たましか会えないけど、いてよかったなあ。







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鉄線花秘めていたことあかるみに



万緑の臍の緒大地に繋がりぬ



水溜まり踏めば浅くて花茨



花茨少女の恋の多面体



花茨過去へと繋がりさうな路地



新緑を右へ左へ鳥の声



モノレールより新緑がブロッコリーほど


鷹羽狩行の「摩天楼より新緑がパセリほど」のもじりであるが、我が町のモノレールは、上から吊るタイプで、そう、ビルの4.5階くらいの高さだろうか。

大好きな大きな公園の上を、やや傾きながら行くとき、高所恐怖症の自分は、怖いような嬉しいような、微妙に際どい心理状態なのであるが、それを隠して連れの友人と喋っている。

もしこれが摩天楼から、パセリほどの新緑を見ていたとしたら、もういけない。
足がすくんで、上半身だけのような感覚になって、見ていられないだろう。

だが新緑が、パセリほどではなく、ブロッコリーほどの大きさに見える程度の高さならば、微妙な「はざま」で、薄汗をかきながらも、なんとか「わー、綺麗」とか言っていられるのである。

少なくとも、鳥の視線で、新緑真っ盛りの大きな公園を上から見下ろすことができるのだ。
こんなシュチエーションはめったにないのだから。

新緑は、ブロッコリーのように、膨張して、押し合いへし合いしている。
そして風が、見えない巨人のように、傍若無人に、その木々を踏み分けてゆく。

まさに、「聖五月」である。




彫像を風が洗いぬ聖五月



愁いより大きなひかり聖五月



葉桜や昼肯い夜を肯い



葉桜や硝子細工を陽が通る








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すみません。間違ってブログ書いてる途中でアップすることになってしまい、その記事タイトルを消すやり方が良く分からなかったので、ご迷惑おかけしました。
今月はこれから短納期の仕事が重なってしまい、更新が遅れぎみになるかもしれないですー。よろしくお願いします。



躑躅/若葉


躑躅


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本日の1曲/Bonnie Raitt - Storm Warning


躑躅咲く全ての記憶掻き消して



高層ビルに棲みつく風や躑躅咲く



噴水の飛沫届きぬ躑躅かな



躑躅咲く月夜に伸びてゆく睫毛



躑躅咲く恋の結末皆似たり




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若葉

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若葉楽し風に搔き乱されゐても



すみやかに地平線へ若葉反乱す



やすやすとひと裏切りて若葉かな



熟睡し五指も伸びむと若葉の夜



額の絵の硝子に若葉静かなり



若葉燃ゆ閉じていた目を開くとき


去年5月のブログで、若葉の事を書いた。
樹はいいなあ、齢を取っていっても、毎年つやつやの若葉が茂って、人間もこうだったらどんなにいいかって。
外で知り合いに会って、「あら、お久しぶり、今年はまたご立派で美しい若葉でございますこと」なーんて言ったりして、その頃になると、体の不調も一旦リセットされて、だったらいいななどと、アホなこと書いていたんだけれど。
先日それを読み返していて、こう思った。

せめて、今年は自分なりに若葉を作ったらどうなんだ。

例えば、加速度で新しい事をするのが億劫になってきている。

ちょっと油断していると、「面倒モード」が蔓延するのだが、どんな面倒って、「時間がかかって大変だから」とか、「手間がかかって大変だから」とかって感じの面倒よりも、「どうやるのか調べるのが面倒」とか、「違うやり方でやるのが、何となく抵抗がある」って感じの面倒の方が、圧倒的に多い。

特に自分でも「怖い」と思うのが、「違うやり方でやるのが、何となく抵抗がある」ってパターンだ。
これこそ齢を取ったことの、まごうことなき証明なのではないだろうか。
逆に言えば、こういう感じがあまりない人は、齢を取っていても、若々しいのだと思う。

「普段やっているやり方でしか何かをやりたくない」というのは、行動パターンが自動化されてしまっているということだ。変化がなければ、速く終わる。
この「速く終わる」というのも、そもそもの元凶なのだ。
現代人は忙しい。「何事も速く終わらせたい」。能率最優先だったら、物事のやり方を変化させることや、観察や柔軟な対応は二の次になる。
そして同じことばっかり、さっさとやっているうちに、あっという間に齢を取ってしまうのだ。

しかし物事を速く終わらせたら、満足な日々を送れるだろうか。
そうは思えない。自分の事なのだけれども、能率的にやったところで、あまり満足感はあるわけではない。

やっぱり、「新鮮な気持ち」になれないと、どんなに沢山の事がやれても、何か空虚なものがついてまわる。
満足は明日にある。そんな気持ちでいつも過ごして来た。今日はとっても忙しかったけど、きっと明日には、満足がやってくるだろう。
要するに、明日という時間に、貸しを作って、生きているのだ。

ところが果たしてそんなものはめったにやってこない。
能率を図る、そもそもそういう意識から、満足というものはやってこないのだ。

確かにこの年になると、新しい事は億劫だというのも、自然の成り行きなのかもしれない。
しかしそこを押して、無理やりちょっと自分の座標を動かしてみると、おおーっという感じで、何かが開ける。
いきなりまっさらに新しい事は大変なのだけれど、普段やっている家事や仕事の中で、「新しいやり方」を試してみると、却って、色んなことを見直せて、気分一新になる。

例えば何をしてるかって、笑われてしまうような小さなことかもしれない。
御大層なことは一切していないのだが、動画つきのレシピのアプリを使い始めて、新しいメニューに挑戦するのが全然億劫で無くなったとか、ひとつのネットスーパーを選ぼうと、躍起になって、プラマイを比較していたのだけれど、ふと思いついて二つのネットスーパーを交互に使うとか。

何か自分のまっしぐらな思い込みとか信仰みたいなものが、ぽきっと音を立てて折れたりして、新しい道が出来ていて、すっと行ってみたら、なんだ近道じゃない、みたいな。

仕事でいつも使っている画像加工のソフトはフォトショップだけれど、写真をちょっとした絵のようにすることに特化した外国のフリー・ソフトをダウンロートしてみたら、案外悪くなかったとか。
こうした若い人だったら、何のことは無い水を飲むくらい容易いことが、還暦寸前ともなると、どうにも腰が重いものなのだ。

この頃本来の仕事以外に、自分のポートフォリオ用の自主制作をしているのだけれど、先月まで俳句の句集のブックデザインを多数制作した。
特に「新しい時代の句集のデザイン」を意識したので、モダンなものが多くなり、それもいいけれど、何か違う、もう少し柔らかいものを、作ってみようと思い出して、ここのところ試行錯誤している。

また自分の仕事のホームページのレンタルサーバーも変えたついでに、中身も色々更新したこと。
テンプレートをカスタマイズして作ってみているが、これがまた言うことを聞いてくれないことが多い。
もともとコーティングは大嫌い、苦手だから、サルに玉ねぎ、って感じで頭から湯気が出る。

息子に教わり、そんなのできないー!と敬遠していた「開発者ツール」というものを使い始めてみて「ホ~!これは便利」と感動。
そして、サイトの中の、「完成度がやや低い」と思われる作品を、沢山切り捨てたこと。
この「切り捨てご免」というのが、性格的に中々できないタイプなのだ。

また主婦だから、家事のやり方そもそもを変えてみるのも大きく気分転換になる。

忙しさを言い訳に、洗濯物をいつまでも家のあちこちにぶら下げていた。
深夜4時頃まで仕事、昼11時頃起床、という生活では、昼ちょいすぎにやっと洗濯物を干すわけだから、なかなか乾ききらなかったりする。それをもう面倒なので、夕方家に取り込んで、その後、家のあちこちに吊るしっぱなし、そして翌日の昼頃また仕上げに天日干し、などと気の長いことをしてた。しかも一昨日の分も何気にもう一度日に当てたいとか、洗濯物はいつも2日分ベランダに干す有様。昨日の分と一昨日の分をベランダに仕上げ干ししている間に、今日の分を洗う。
大きめのピンチハンガー4つとその他の服。さぞかし大人数の家と思われているかもしれない。

ことほど左様に新陳代謝の悪い洗濯物をぶら下げてあるせいで、家の中はなにか薄暗く、穴倉のように陰気になっていたのに、全く気がつかなかった。それに考えてみると、大量の衣類の出し入れで馬鹿馬鹿しくエネルギーを消耗していたのだ。

長雨の時のために風呂場乾燥機を付け替えたのに、惰性で普段は使わなかった。電気代の事も少し頭にあったし。
ふと思いついて、今日の洗濯ものはそもそも今日中に乾かせば、二日分の大量の洗濯ものを御大層に出し入れしていることはないのだ、と、その大きな無駄に気が付いた。追加の乾燥だけならコストもあまりかからない。

そして実行してみると、家にいることが何と気持ちいい事か、と思うほどに、せいせいしたのである。
もともとインテリアを工夫するのが大好きで、色々手作りなどしていたのに、なんかこの頃、どーでもよくって、ひたすら散らかっているのを片付けることのみに意識が集中していたし、あの大量の洗濯ものがあちこちの窓辺にぶら下がっていることで、光や視界を遮って、プチ鬱を増幅していたと言っても、言い過ぎではないかもしれない。

もちろん旅行やグルメも気分転換にいいだろうけれど、帰れば待っている普段の暮らし。
普段の暮らしの中で、「考え」を変えて、それを実行してみると、それはプチバカンスのように、気分を一新させてくれる。

色々なことの意識を少し新しくしてみると、齢を重ねていく自分にも、ささやかにではあるが、若葉が生えたような、そんな新鮮な気分になる。ストレッチで体が軽くなるように、意識も時々ストレッチしなくちゃ、としみじみ思った。

流れる水は腐らないって言うしなあ。






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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