2018/04/26
金盞花・春燈
金盞花・春燈
本日の1曲/Eva Cassidy - Time After Time
金盞花この道海へ直進す
金盞花ひかりの筋力強くなる
彫像の影くっきりと金盞花
春燈を点けてゆうぐれ遠ざける
あちこちの頁で泣いて春燈
何の本で泣いていたかというと、片山由美子著の「現代日本女流百人」なのであるが、いつ頃買ったものか忘れているくらいで、平成11年発行となっているので、もう19年も前に発行されている本だ。
女流俳人を、大正以降から昭和にかけて、百人、その代表作とプロフィールを簡潔に紹介する趣旨の本で、以前から時間がある時に、ちょくちょく取り出しては飛ばし読み、広げたところ読みで、親しんでいた本だ。
だが、いまだかつてこの本を涙ながらに読んだ覚えはなくて、たぶんもっと若い頃には、おもに俳句作品だけに注意を集中して読んでいたような気がする。
それも、作品の中でもやや奇抜な、ユニークなものを追っていたし、、作者のプロフィールの部分も、おそらくは読んでいたとは思うのだが、単なる「話」として、さほど感情移入せずに通り過ぎていたのかもしれない。
今回久しぶりに取り出して、じっくり読んだのだが、あっちで涙、こっちで涙、真っ直ぐに読み進められないような、そんな有様だったのは、こちらが年を重ねたせいだろうか。
実に様々な女性の人生があった。
その短いプロフィールに纏わる文章の中に、決して多くはない代表作の句の中に、察して余りあるそれぞれの平坦ではない人生があり、それらの人生が、見事に句に結晶していた。
長く病床に伏していた女性、夫と離別した女性、幸せには繋がらぬ恋をしていた女性、夫が亡くなった後に、子供まで亡くなってしまった女性。人それぞれに、その苦悩の形は違っているが、俳句に全人格をかけて詠んでいる、その迫力に胸を打たれた。
石田波郷門下の山田みづえは、夫との不和から、婚家にやむなく子を置いて去らねばならなかった葛藤を、ストレートに句に残している。
「考えても考えても解決なし」という前書きがある。
目の前に凍湖ばかりや言いひつのり
罵られ吹っ飛び出づる膝まで雪
嘆かへば雪靴の吾子すがり来る
子を置きて四年狂わず青山椒
猫じゃらし泣き癖の頬にほしいまま
子供の日は悲母の一日や家を出でず
野分に得し力恃まむ子に逢ふまで
夫と別れるだけならまだしも、子供と別れなくてはならなかったのは、時代的な背景もあるにしろ、どれほどの悲しみだったことか。
「花鳥風月」どころではない。俳句というものの枠を大きく動かしている。
一方、水原秋櫻子門下の古賀まり子は、まだ若い頃結核を発病し、長い療養生活を余儀なくされた。
夕焼けぬ壁にすがりて立てる身も
血を享けしぬくもり罌粟の昼ふかし
柿紅しいつまで病みて母泣かす
健康を取り戻し、30代に社会復帰をし、貧しい人々のための医療活動を仕事にするも、今度は乳癌の宣告を受け、また闘病の日が始まる。
失ひし乳房戻らず鳥雲に
心にも傷あと深く五月癒ゆ
医へ通ふのみの日傘を選び買ふ
しかし、また健康を回復し、再びしみじみとした作品を作り続けることになる。
花種蒔く土の眠りを覚ましつつ
水に身をまかす水草開け易し
書きだしたら切りが無いので、二人の例をあげるにとどまるが、大河小説やラブストーリーならいざ知らず、俳句の本を読みながら、涙腺が壊れたようになってしまったというのは、初めてだ。
(もちろん、こういうドラマティックな生涯の俳人を集めたというわけではない。様々なタイプの女流俳人がたくさん載っていて、最後は大好きな澁谷道さんだというのが、なんか嬉しい。)
それにしても、同じ本一冊を、同じ人間が読んでも、その時々によって、これほどまでに感じるものが違うものなのだろうか。
炙り出しのように、齢とともに見えてくるものが、あるのかもしれない。
若ければ見えぬ行間春燈

にほんブログ村
しじまよりしずかな音に春の雨
春の月闇に描きたる不安かな
アネモネ揺れる気に病むな気に病むな
アネモネや睡りに錘ついている
小手毬や娘の頃の時長く
小手毬の風よりすこし遅く揺れ
小手毬は、とても好きな花である。
独身の頃、実家の自分の部屋から、隣の庭の小手毬が溢れるようにに咲いているのを、いつも気持ちよく眺めていた。
晩春の風は緩やかに光を撒き散らす。
その風に少しタイミングが遅れて、小手毬の花が揺れるのは、その花の重みと、枝の長さのためだろう。
今に比べれば、時間もふんだんにあった。
だから光も、風も、空も、雲も、たっぷりとあった。
それでもやはり、三十ともなれば、このままでいいのだろうかと、いつも頭の片隅に付箋のようなものが、ついていたのだ。
独身の頃、実家の自分の部屋から、隣の庭の小手毬が溢れるようにに咲いているのを、いつも気持ちよく眺めていた。
晩春の風は緩やかに光を撒き散らす。
その風に少しタイミングが遅れて、小手毬の花が揺れるのは、その花の重みと、枝の長さのためだろう。
今に比べれば、時間もふんだんにあった。
だから光も、風も、空も、雲も、たっぷりとあった。
それでもやはり、三十ともなれば、このままでいいのだろうかと、いつも頭の片隅に付箋のようなものが、ついていたのだ。
応援お願いします。

にほんブログ村