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初桜・桜

初桜

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今日の1曲/BILL EVANS "Danny Boy" (Londonderry Air) Piano solo


初桜空に小さな不安かな



慣れぬ靴少し痛くて初桜



初桜夜の校舎に灯がひとつ



初桜してみたかった質問を



まだポケットに開かぬメール初桜












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人声のふととぎれをり花満ちる



陽も風も音も吸い込み桜かな



さくら咲き時計この頃遅れがち



昼と夜繰り返してまた桜かな



桜咲く湯飲みにお茶を注ぎ過ぎて



血液が少し足りない朝桜



人違いしている満開の花の下


昨夜コンビニに行ったついでに、少し桜のある近所の小学校へ足を伸ばした。
おおー、咲き出している、気遅れがちに、可憐な桜が。
半分は蕾といったところか。
初桜である。

明日昼間に、そのすぐそばの、中学校へ行ってみよう。
この辺では知らぬ人のいない中々の桜の名所。樹齢60年と言われる桜の大木が深々と、また高々と重なり、見る人を圧倒する迫力である。

果たして、次の日は朝から調子が悪かった。
頭痛のような肩こりが、たまに来る。
これは正しい肩こりではない。頑固で、容易に取れないくせに、移動する。PC稼業の身であるから、作業を終えた深夜に入浴し、そのあと肩こりをとるストレッチまでまじめにやり、体をほぐしてから寝たのに、起床時からガンガンと。

こいつは肩こりの変化球というか移動性低気圧みたいなやつで、季節の変わり目なんかにひょっこり出現する。
身心の冷え、つまり体の冷えと、心の冷えと、両方が同じ結果となって、何だかわからないが、紫色のゼリーのようなものが、体内の一部にとりつく、と私は仮定している。
すると、そこの血液循環が悪くなり、痛みが出たり、凝り固まったり。
頭にとり付けば頭痛になるし、お腹にくれば下痢をするし、足に出ればただ歩いているだけでも痛む。
いかようにも変身する紫色の虚血性?ゼリー。

こいつが来たら、もう仕方ない。相手にしすぎれば症状は強くなるが、その辺の扱いは難しい。
相手にしないように努めれば努めるほど、臍を曲げて逆襲してくるからだ。
だから、コントロールしようとしても無駄だ。ひたすら、「何かのはずみ」で治るのを待つしかないのだ。

その紫色の変化球肩こりを抱えたまま、私は中学校に桜を見に行った。

だんだん近づくにつれ判明したことは、こちらの桜は、小学校の方の奥ゆかしい桜と違って、なんともう満開になっているということだ。
ううっ、今回のブログは初桜でやるつもりでいたのに、もう句も作ったのに、どうしてくれよう。
満開の桜はその次の回にしようと考えていたのに。
言わずもがな、初桜とはその年に初めて目にした桜のことだが、私の中では、蕾の開きかけている2分咲きくらいの桜のイメージがあって、満開の桜と区別して詠むことにしている。

ぽつぽつ人も見に来ている。
誰もが携帯を掲げている。

中学校の正門が桜の群れとともに近づいて来るともう、あまりの美しさに胸がいっぱいになって、少し歩いてはつい立ち止まり、立ち止まり、酔っ払いのように歩いていると、

前から真っ直ぐにこちらに向かってきた女性が、私を見て微笑みかけた。
それは微かなものではなく、鮮明で、明るかった。公然としていた。

見れば、子供が小さい時PTAで一緒だった、Tさんではないか!
住んでいるのもこの近所だし。
なんとなく、彼女が若返っているような気はしたが、私は懐かしさに思わず親し気な声を上げた。
「ワーッ!」
この後には言わずもがな、「久しぶり!」という一言が控えていた。

ことろが、私に向かってはっきりと微笑みかけていたこの女性の反応は、この小さな叫び声には、全く反応を示さなかった。微笑んではいても、そこははっきりと分かった。

瞬時に人違いだということを悟った私は、「すみません、人違いでー」と頭を下げた。

「あ、」彼女は軽く了解の声を漏らして、風のように通り過ぎた。

「ワーッ!」という最初の歓声で大きく出てしまっただけに、穴があったら入りたいと思ったが、なんと良く似た人というものが、世の中にはいることか。
丸顔に、ちょっとエキゾチックな大きな目、その顔立ちは彼女に酷似している。
てっきりTさんだと思ってしまった。

そこではっと気が付いたのは、彼女が今現在、あれほど若かろうはずはない、ということだった。
子供が小学校の頃は、お互いに若かった。もうあれから、かれこれ10数年もたっている!
それにその後、何度も見かけてはいる。自分もそうだが、ちゃんと年相応になっている。

それを彼女だと疑わなかったのは、その女性がこちらにはっきりと笑いかけていたことと、それから桜時の、何か少しくらい不思議なことがあってもおかしくないような、そんな魔力のせいだったのかもしれない。

それにしても彼女は何故私に微笑みかけていたのだろう。あんなにもはっきりと。
桜に酩酊して、フラフラ歩いているいい大人を微笑ましいと思ったのだろうか。何だか顔が赤くなる。

それから私は中学校に入って行くと、桜に浸かった。
どうせ見たように映らないから、携帯で撮るのはやめた。
大きな桜だから、神聖な雰囲気もあって、見ても見ても、まだ見つくしていないような気持ちになるのだった。

桜を見に来ている人の中に、一人で来ている男性が二、三人いた。
そのうちの一人が、私と同じくらいの年齢なのだが、他の人とは様子が違っていた。
桜の大木を仰ぎ見ながら、躊躇無く、ぴたりと立ち止まり、少し歩いては、また立ち止まるので、後ろから歩いて来る他の男性が、戸惑っているのだった。

それは私が多分夢遊病者のようにふらふらしているのとは、全く異質な状態なのだろうと思う。
彼は堂々たる確信を持って、何かを発見していた。
発見するたびに、足がぴたりと止まった。
そして、自分の1メートルくらい先の地面に、大きなリュックをバン、と投げ出すと、やおらかがみこみ、リュックの上のポケットから一眼レフのカメラを取り出した。

なあるほど。
写真家の眼が発見する桜は、私の見ている桜とは、またかなり違う桜なのであろう。
あの確信に満ちた躊躇の無い立ち止まり方が、私は羨ましかった。
それは私の、心ここにあらずといった立ち止まり方とは、随分と違っているような気がした。
「これだ!」と思った時、彼の心はカメラのレンズと同じように、はっきりと焦点が合っているに違いない。

色んな人の、色んな桜。老若男女それぞれの桜。今夜は皆の眼の中に、桜が棲みついて、この町は本物の夜桜と桜の残像で、さぞかし華やいでいるに違いない。

帰ってしばらくすると、紫の虚血性肩こりは大分楽になってきた。
陽の光も、風も、人声も、何でもしんみり吸い込むように咲いていた桜が、吸い取ってくれたのかもしれない。

そんな気分になる夜だった。








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雪柳・春の闇

雪柳・春の闇

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本日のBGM/Maurice Ravel / Piano Concerto in G major, II. Adagio assai


鏡の中にひかる鏡や雪柳



街灯の影は寡黙に雪柳



雪柳この頃髪の細くなり



雪柳小数点以下切り捨てず



雪柳はっきりと覚えている夢



雪柳眉描きながら思ふこと



オーケストラの音なみなみと春の闇



春の闇2番線ホームの末端に



春の闇我を家まで運びをり

春、日の落ちた後に出かけると、なんとも体中の力が抜けてくる。
夕闇は温い湯のように私の毛細血管を広げて、カメの甲羅さながらな分厚いコートを着てもまだ厳しかったあの寒の夜が嘘のようである。
見ている町の光景は変わっていないのに、気温が変わったというだけで、ここまで歩いている時の気分が変わるのだから、人間というのは現金なものだ。

1月31日のブログでは、「棒の如寒波の夜をひた歩く」と詠んでいて、まさに硬直した刃物が寒の厳しい塊に切り込むように身体を固くしなくては、歩けなかった。
あの寒波に、正面から風でも吹いていようものなら、「ワ~」とか「ヒ~」とか、微かに小声で悲鳴を上げながら、レジ袋を両手に必死で夜道を帰宅したものだ。

それが大気の緩んできた気持ちの良い春の夜ともなれば、その闇は、凭れ掛かってみても大丈夫なのではないかと疑うほどに、私の身心を弛緩させる。
歩いているのは自分なのだが、半分は春の闇が自動的に押して、運んで行ってくれているような心持なのだ。


「どこまでがわたしどこから春の闇  」山下知津子

まさにこんな感じである。


「春の夜のわれをよろこび歩きけり」 日野草城
こちらは「春の夜」なのだけれど、雰囲気はシンクロしている。

「時計屋の時計春の夜どれがほんと」  久保田万太郎
これも大好きな句で、どうしたって春の夜に纏わりついている、ふくよかな幻想性をそのまま掬い上げている。


「探し物している家じゅう春の闇」 高桑婦美子

「めつむりてひらきておなじ春の闇」 森澄雄

「うかうかと飲んでしまえり春の闇 」秋尾 敏

「吊皮の踊つてゐたる春の闇」
竹内悦子



しかしこれがまた暑くてたまらぬ真夏の夜などになると、それはそれで大変になるのだから、春宵一刻千金と言う言葉通り、今しばらくの尊い自然の贈り物と思って、遠慮なくいただいておくことにしよう。

もちろん人は金銭が無くてはどうにも立ち行かない。
でも本当に素晴らしいものは、大枚を積んでも手に入るとは限らない。

春宵しかり、春風しかり、若さや恋しかり、愛情もしかり。

本当に素晴らしいものは、人間の手には負えないものなのかもしれない。
それは流れる水のように、ひと時を満たして、どこかへ去ってしまう。
あるときにはあるのだけれど、ふと気が付くと、もう煙のように、それは立ち消えてしまっている。

それを捕まえて虫籠の中に閉じ込めておくことは、どうにもできない相談だなのだろう。




春星の下に無人の観覧車



約束は忘れていないサイネリア



ブランコを漕ぐともなしに放心す



春の波寄せては引いてあきらめて



タンポポや結構踏まれているけれど



春外套風の袋小路かな



忽然とわかる答えや春の月






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沈丁花・沈丁香

沈丁花・沈丁香

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本日の1曲/Yoshiko Kishino - You Make Me Feel Brand New


沈丁香もうひとり我のいる闇



厚き雲今日は動かず沈丁花



沈丁花水面の月も移動する



沈丁花医院の裏の日陰かな



沈丁香ハンカチほどの胸騒ぎ



行き過ぎて二三歩戻る沈丁香

急いで通り過ぎてしまった沈丁花の香りの中。
勿体ないので少し戻って、も一度どっぷりと浸かる。

いきなり何か神聖な水を浴びたような気持ちになる。
沈丁花の香りは、濡れている。
雨が降っていなくても、陽が当たっていても、日蔭でも、昼でも、夜でも、沈丁花の香りというものは、濡れている。

そして深い空間を持っている。
水仙や梔子もそうなのだが、奥行きのある空間を持っているのだ。

ジャスミンや薔薇の香りは全然違う。「空間」ではなく、「体積」を持っているのだと思う。
ふわふわとつかみどころは無くとも、しっかり空気を膨張させている。
こういう花の香り達とは、ジャンルが違うのだ。

沈丁花の香りは、決まって、花から少し離れた所に、浮遊している。
だから時々、香りが見つからずにウロウロすることもある。
その日の風や気象条件によって、沈丁花の香りは色々なところに、蟠っている。

ふと思うのだけれども、人もまた、沈丁香のように、実体から少し離れたところに、その人となりの本質が漂っているのではないだろうか。

様々な現実のしがらみやら幸不幸やら身に纏わる条件達から、私達は決して逃れることができない。
いいことも悪いことも含めて、私達の根を張っている土から離れて生きていくことは不可能だ。

しなければならない仕事が大半を占めているのに、残る時間も色々な人間関係の波に流されて、あっちへぶつかったり、こっちで沈んだりして、心騒がしい時ばかり。
漱石でなくとも、「とかくこの世は住みにくい」と言いたくなることしきりである。

そんなこの世に掻き回されている部分から、すっと少々離れたところに、元々のその人らしいエッセンスのようなものが、沈丁香のように漂って浮遊しているような気がする。

人間関係に纏わる様々な心のしがらみやひずみ無しに、来し方を過ごせていたら、どんなにか充実した時間があったのではと、そんな風に考えてしまう時がある。

しかし、過ぎてきた時を巻き戻すこともできないし、自分なりに、一生懸命、本質的な自分を追いかけて来たのではないか。
デザインに打ち込んできたのも、俳句を続けているのも、そんな雨風の中で、すぐに行方不明になってしまう自分の魂のようなものを、洗い出していなければ、私というものを保つことが難しかったからだ。

願わくば、これから先の時間を、要らぬ人間関係に振り回されずに、もう一度自分の原型のようなものを、思い出し、思い起こし、生きていきたいものだと思っている。








春昼やグラビア雑誌パラパラと



草萌えて誰も彼もが語りだす



やりかけのことを付箋に春めきぬ



春霖や閉じ込められたままの過去



タンポポや地球の円さ見えねども



思ふことすぐ掻き消して春の雨



囀りのまばらにこぼれているテーブル



春愁の大きな邸の前を過ぐ







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春アラモード1

春アラモード1

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本日の1曲/タイースの瞑想曲 葉加瀬太郎


春の夜のどこかにありぬメリー・ゴーランド



雛あられあたりさわりのない話



啓蟄やあれもこれもやるつもり



啓蟄やコンビニ前は人で混み



春光にじっとしている記憶の背



春光を吸ってタオルの乾きけり

洗濯物を干しにベランダに出ると、まさに春が来ていた。
眩暈がするような明るい陽の光によってそう感じたのだけれども、ぐっと底上げされてきた温度や、風の柔らかさや、何の匂いとは特定できないけれど、ああ、春の匂い、と身に覚えのあるような匂い、そういったものが一丸となって、私を捕まえたのだ。

これこそ「旬」というものだ。
春の、最初の一行目。

「女房を質に入れても初鰹」なんて古い諺がある。
ホントに女房を人質にしたのかとか、あれは女房の着物を質に入れるという意味だとか、あれこそジョーク!だとか、色々尾鰭は付くけれど、旬の物の素晴らしさは、何としても体験してほしいものだ、ということだろう。

「春光」は鰹と違って、「ただ」であるから、これをたっぷりと享受しない手はない。

とは言えこれも、「いいなぁ、春だなぁ、」などど、言っているうちに、あっという間に慣れてしまうのだ。
毎日ベランダで洗濯物を干すうちに、多忙で均一な時間の中で、最初の感激の大きさは、どんどん色褪せてしまうのだ。
お風呂に入って、「あー、いいお湯!」という、あの最初の酩酊が、じきに終わってしまうように。

だが、四季というものがあるからこそ、こういう様々な変化による喜びが訪れる。
そういうところから、俳句や季語も生まれるべくして生まれて来たのだろう。
常夏の島だったら、出てこない文芸形態なのではないだろうか。

巨人のように堅牢だった今年の寒波のあとには、ひとしお嬉しい、春の訪れである。

いつまでも、生暖かい春の大気の中を、背泳ぎで、ゆったりと泳いでいきたいような、そんな心持ちでいる。







春の闇とめどなくユングの話

最近本を読んでなかった。
時間が無いといえば無いのだから、当たり前なのだが、決していいことではないのだ。

「自分」というものが、なんというか、更新されなくなるのだ。

「自分」などといったって、それは沢山の「自分で無いもの」の混入と、その並べ替えでできている。
おでんの汁だって、ほおっておけば煮詰まってしまったりするのを、水を足したり、新たな具を足すことによって、新鮮で尚且つ深みのある味を保っているのだと思う。

「本を読まない」「外出しない」というのは、更新されない自分をほおっておくということだから、当然自分というものは、煮詰まってくる。だから忙しいというのは、決して褒められたことではない。

この時は、正しく言えば、「ユング」の著書ではなく、「ユング派の心理学者」である河合隼雄の「心の読書教室」という本を読み返したのだが、「河合隼雄」の「こころの読書教室」なんてのは字数からしたっておよそ俳句にはならないから、「ユングの話」ということに短縮した。本の内容からしても、ユングの心理学の原理の上に、河合の見解を乗せてゆく内容だから、違ってはいないと思う。

夕飯が済んで、しばし休憩と思ってソファに近づくと、整理の途中だったすぐ横の本棚から、一冊の文庫本が私の前に落ちてきて、それがたまたまこの本だったのだ。ウーン、何だか実にユング関係の本にふさわしい登場の仕方だなあ。
偶然から必然が顔を出す。

本の内容は、臨床心理学者の著者が、様々な小説や物語に、人間の心や無意識というものがいかに如実に反映されているか、というような講演の内容で、山田太一や村上春樹、遠藤周作、ヘッセ・カミュなど、また様々な世界の児童文学などと、ユング心理学との照らし合わせが論じられている。
そして、このような観点からのそれらの読書のすすめ、そんな内容になっている。

その中の言葉で、非常にリアルに響いて来たのが、

自分に近い周辺にあるもの、つまり自分の知っている身の回りの人や、場所的に近いことろにある人及び物、などがまずあり、その外側に、今現在の自分からは見えない、自覚できない、人や物や事件、知らない人々などがあり、(たとえば、今この時、隣の町で交通事故が起きていても、自分はまだそのことを知らない。)
そしてそのもっと外側には、違う国やらなにやらあって、戦争をしていたり、平和だったり、洪水が起きたり,旱魃が起きたり、なんだりかんだりしている。

そして一人の人間の内部の、つまり心の中も、このように空間的な広がりがあって、自分の知っている、自分に親しい自分から、顔だけは知っているような人や、知らない人、自覚していない事件のような段階の自分、さらにはもっと外側に、広大な外国のような未知の場所がある、というのである。

これは私の言葉に置き換えてしまっているから、表現は違うのだけれど、おおよそこんな感じであると思う。

そしてまた、この広大な世界に生きている様々な人、物、事が、一人の人間の成長や変化に、実に複雑に絡み合って、影響し合って、一人の人間が生かされている、というのである。
それは確かに、その通りであって、人ひとりが生きていくには、沢山の人や色々な社会の働きが、無限に関わって成り立っているのだと思う。

さらにまた、こうした外界の関係のありようは、一人の人間の中の心や無意識のありようと、微妙にシンクロしている、という。

そして一人の人間の心の中も、よく知っているものから、多少知っている物、殆ど自覚できないもの、大きな未知のもの、まで様々に広がっているものだから、よく知っている物とよくわからないものとの緩衝が、うまくゆかないと、心に色々と支障をきたす、というものだ。

なるほどなあ、と思う。

自分の事なんか、自分が一番知ってるわい、なんて思っていても、それがそうでもないですよ、という話。

この本は、講演形式のせいもあると思うのだけれど、「これはこういうことなんです」と数式の並列のようにはなっていなくて、比喩がまた比喩をかぶっていたり、疑問を展開していくと新たな疑問の入れ子状態になっていたりで、前に読んだ時には、どうもすっきりこなかった。

何年かたって、ポロリと私の前に落ちてきて、拾って読んだら、少しわかって来た。

自分の内界もまた、春の闇のように、見通しのきかない、無限の奥行を持っている。

自分の中も、自分の外も、くんずほぐれつしているジグソーパズルのように全体として機能しているもので、あらゆるものが、あらゆるものの生成に、お互い影響し合っている、ということ。

とめどなく広がってゆく、大きな、話だ。
始まりが無くて、そして終わりも無くて、いたるところに中心があるような、宇宙的なスケールの話だと、私は思った。








シクラメン放し飼いになっている情熱



シクラメン硝子に映っている女



言いたかった言葉積もれば雪崩かな



遠窓に人影ありて春めきぬ



面倒と思うこと増え桃の花



春の雨眼鏡で受ける一粒目






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桃の花

桃の花

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今日の1曲  Keith Jarrett - Paint My Heart Red


桃の花少女一日空想す



桃咲いてしばらくぶりに使う皿



桃の花御伽噺に黒き影



目覚めれば橋が落ちてく桃の中



炊飯器白煙上げて桃の花



春の雨洗ってをりぬ幸不幸



パンジーや少年少女の恋忙し



春嵐女であることむずかしき



日月に雛の沈黙揺るがざり



三月が古ぼけたカーテンを捨てる



春の闇言葉どこから生まれ出ず



物の芽の諳んじている時間かな

ベランダの鉢に植えてある雪柳の固い枝に、ついに柔らかな芽が出始めた。
この間確かめたときには、まだ何も見当たらなかったのに。
小手毬 の方はと見ると、出ている出ている、でもこちらはまだもっと小さな、よく目を凝らさなければわからないほどの、微かなものだ。

「物の芽」、何故こうしたものに、年とともに年々惹かれるようになるのだろうか。
若い頃から、花は好きだったけれど、こういう微細なものには、あまり気がいかなかったなあ。

おそらく私が芽の中に見ているのは、緩やかな「時間」の流れなのだ。

今眼前にある物の芽の視覚だけではなく、それが無生物さながらな針金のように固い、あの枝から奇跡のように生まれてくること。
その針金のような枝さえも、去年の夏には豊かな葉を茂らせていたこと。
そして長く厳しい寒波の冬を経て、今再び柔らかい、可愛らしい芽を出していること。

「物の芽」が象徴しているものは、「時間」だ。
生きとし生けるものがすべて身を任せている、大河のような、時間の流れ。
「時間」が流れゆくこと、循環することを、何かと意識するようになったのは、自分もまた、若くはなくなって、沢山の時間を内部を流れてきたからなのかもしれない。

若い時には、生きのいい、「今現在」にしか興味は無かった。

今は、柿の木一本にしても、青空に喰い込んでゆくようなビビットな朱色の実が終わり、枯れ枝の間合いから星を見ているうちに、やがて芽が出て、初夏には目も眩むような若草色の「柿若葉」となる。
そうしたものの全体としての存在に、気がいくようになった、とでも言ったらいいのだろうか。

だが大きな時の流れは一つの発見であるが、また一つの喪失でもある。
いや、長く緩慢な喪失を実感することによって、その価値を発見してゆくということなのかもしれない。

去年の丁度、今頃だ。
病院の帰りに、タクシーに乗った。

珍しく、物柔らかな、話好きの運転手だったのだが、私が乗り込むとまず、「今日は寒さが大分やわらぎましたねえ、」と、話しかけてきた。
「ホントですね。今日は暖かい」と私が言うと、

「あーりがたいですねえー」と言うのだが、その言葉の抑揚に、私は何かはっとした。
本当にしみじみとした実感がこもっていたからだ。

言葉の抑揚というものには、大まかに分けて二通りある。
演劇的な、演出めいた抑揚と、あまりにも実感があるために、いやがおうにもついてしまう、抑揚だ。

「寒い、寒いって言ってるうちにね、」運転手が言う。
「困った、困った、嫌だねえ、って言ってるうちに、あったかく、なって来るんですよ、少しづつねえ。」

車は坂道を急降下し、そして緩やかにまた上り坂を進む。

「それが、人生なんですよ」

おっ、こう来たか。
でも、とにかく何だかわけのわからない説得力がある。

そして再び言う。
「あーりがたいです、ほんと」

だが、もしここで会話が終わってしまったら、なんてことはないのだ。

寒かった、辛抱した、春が来た、目出度し目出度し、ありがたし、
それは人生の縄のある場所からある場所の、ひとつの切り口でしかない。
数多のドラマや映画の台本のように、編集された、人生の中のひとつのシーンなのだ。

ところがこの運転手は、また続けた。

「それでねぇ、あったかくなって、ああ、ありがたい、ありがたい、なんて言ってるうちにね」
「またああ、暑い、暑い、困った、困った、って、なっちゃうんですよねー!」

私はなんだかほっとした。真実が立ち上がって来たからだ。
それでいて、この運転手には、そのことを揶揄しているような調子は、全くなかった。

困っちゃうけど、それが人生。でも今は、ホントに春が来ることが、しみじみ嬉しい。
そういう、真実味のある、等身大の、話し方だったのだ。

ある時思い出して、もしかしたら、あの運転手は何か大病を患っていたのかもしれない、そんな気がした。
そして回復して、運転手の仕事をしていたのではないか。

何の根拠も無いと言えば無いのだが、あの「あーりがたいですねぇ、」という一言の、最初の一筋の春風のような、あたたかな抑揚が、ふと、そんなことを想像させたのかもしれない。








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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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