白梅・紅梅

白梅

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今日のBGM/ドビュッシー「夢」羽田健太郎


白梅に我の裸眼を洗いをり



日蔭れば半音下がる梅の白



白梅や未来も過去もしろきはな



白梅や誰を信じて生きるべく



白梅と繋がっている昼の月



白梅を曲がれば知らぬ道に出る

近所に、素晴らしい白梅の大木のあるお宅があり、毎年その梅を見てから、梅の句を作ることにしていたのだが、尋常でない寒さのせいか、まだその梅が咲いていない。
仕方なくいつもはゆかぬ街の方角に、梅を探して散策に行く。

この辺は少しは通ったことがあるのだが、路地によっては、まだまだ知らぬ小道も多い。
おお、あの辺に何か光が集まっているような…と思って近寄れば、ありました、白梅一本と紅梅一本づつ。
日当たりや風の回りなどの環境の条件の違いか、木の種類などの違いもあるのか、ここの梅は今まさに満開。

「会えたなー!」と嬉しさに浸って、しばし立ち止まって、梅を見る。

しかし、何なのだ。
随分と、人気の無い、摩訶不思議なお宅である。
庭が、これでもかというほどに鬱蒼としている。すべての植物が枯れ放題か伸び放題のどちらかで、その庭をぐるりと回ってみると、何と庭の真ん中辺に、大きな倒木というか、途中からめきっと裂けて裂けた幹がぶらんと垂れて、地に投げ出されたままになっているではないか。
雷でも落ちたのか、それとも老木が何か病気かなにかになって、そういう有様になっているのかわからないが、こんなものを庭にそのままにしておくなんて、中々不思議なお家だなあと、ちょっと興味が湧いたりして。

空き家というほどには荒れていないのだけれど、どこにも人の気配というか、人の仕業の後が無いというか。
それなのに、門の近くの梅の木の、生き生きとしていることこの上無いのが不思議なのである。
白梅も、光が空へ登っていくようだし、紅梅も、若い娘のように晴々と咲いているではないか。

まるで、この家の主は、この梅達でもあるかのようである。


梅林やこの世にすこし声を出す  あざ蓉子

数ある梅の句の中で、特に、特に、好きなものがこの句である。
声を出しているのは何なのかはっきりとはわからないが、梅林というからには、この世のものならぬ、静かな煌めきの坩堝であろう。
この世のものの梅林が、この世のものならぬ何かと、呼応しているのである。

この世のものでないとなれば、「死」の世界のものかといえばそれも違うような気がする。
それは「生」の世界のものでもなく、「死」の世界のものでもない。
何だかよくわからない、そういうものを超越している大きな、永遠のようなもの。

そんなものが梅林ほどの大きさで、すこしこの世に声を出している。
私には、そんな風に感じられるのだ。
あるいは、解釈らしきものを何もしないで、ただ音楽のように、バーン、と受け止めても、どちらにしても結果は同じだ、という感じがする。

この句を思い出しながら、二本の梅の木が主に成り代わっているのかもしれない、この家の門の角を曲がると、一度も通ったことの無い、見知らぬ道が続いている。

ただそれだけのことなのだが、何だか珍しく未知のものへと心が動いた。
梅の花の力もあったのかもしれない。

どうもこの年になると、柔軟な魂でなくなるというか、自分の常備している感情を通低音にして、ものを見る癖がついてしまっている。
習慣になっている物や事へ、選択は落ち着いてしまうし、それは感情に関しても同じことが起きている。
だから、見ているものがいつも似ている。
自分のここ10年かその辺りの、色々なことが度重なるうちに習慣のようになってしまった、心の傾きかたの、癖のようなもの。

その感情はそれはそれで自分の真実なのだから、そこから逃げようとすれば必ず追われる。
でもいたずらに癖になってしまうことは、よくよく認識しておかなくてはならない。

無くて七癖どころではないのだ。
人の心は、CDのように何度もかけている感情が住み着いてしまう。

だがこんなに身近な街にでさえ、まだ見知らぬ道があるのだ。

自分の知らないことも、見ようとさえすれば無限にある。
未だ見ぬ大陸のように、まだ知らない自分もいるし、まだ知らない人々もいるし。

暖かさにはまだほど遠い寒さの中に、先駆けて咲いている春の予言のような、梅の花。


始まるのは春ばかりではない。

新しいものが、古いものを癒すだろう。古い悲しみはあるがままに放置しておくしかない。
新しいものに無感覚でいては事態は変わらないのだ。

少しでもそんな風に思えたことは、久しぶりのことだった。







紅梅

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紅梅を通り過ぎる子ら声きらきら



紅梅が咲けば夕暮れいそがない



紅梅に買い物袋二つ三つ



紅梅が遠くの空も間近にす



紅梅の中を尼僧の歩みをり



紅梅や走れどバスに間に合わず






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春寒・春寒し

春寒・春寒し

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本日の1曲/Eva Cassidy - Yesterday



春寒や小さき歩幅で歩みをり



列車また遅れてをりぬ春寒し



むつかしい貌の犬吠え春寒し



春寒の鍵確かめに戻る道



春寒や端切れの如き夢を見て



春寒の小鳥音符の軽さかな

ある休日の朝、ベランダの植木鉢に植えてあるコニファーの枝先に、何か細かいものが動いた。
よく見ると、小鳥がつがいで来ていて、葉の中に出たり、入ったりしている。
つがいで来ているのだから、雀だろうと思って見ていると、ほんのり抹茶のような色味が見えた。
えっ!鶯? と思って、そっと観察していると、いやいや目の周りがくるりと白い。
じゃあ、メジロだ、と思ってそばにいた息子を呼んだ。
鳥の事にはとんと疎い私だけれど、メジロぐらいなら、分かるのだ。

「そーっとね、気配ですぐ逃げちゃうから」

二羽のメジロは、その動きの軽やかなこと、軽やかなこと、いつまで浮いてる風船の中の、ヘリウムガスだかなんだかが少々入っているのではないかと思うほどに、ぽんぽんと軽やかに葉の中を移動している。

重力に反している。 私は思った。
どのみち、飛べるんだから、地震の時はなんていいだろう。

それにしてもその動きの可愛らしいことこの上なく、ポポポポポポ…という感じ。
コニファーの葉に潜ってしまって、葉がプルプルと動いているだけでも、その葉の動きさえ可愛いのだ。
鳥というのは、飛んでいる時の動きも見とれてしまうほど優美だし、水鳥がくるくる泳いでいるのも、実にスムースな動きで、見ていて癒される。

いや鳥だけではない、野生の動物のしなやかな動作には、それだけで見飽きない美しさがある。
猛獣は猛獣の美しさ、小動物には小動物の動きの可愛さ、美しさがある。

同じ生物でありながら、何故人間だけがこうもぎくしゃく動いているものだろうか。
わざわざスポーツや舞踊のような形を作らなくては、美しい動きができないとはおかしなものだ。

小鳥や動物のように、動きそのものが可愛らしく、美しいのは小さな子供だ。
三つ、四つくらいがピークだろうか。
一時たりともじっとしていない子供たちの、その蝶々のような軽やかな動きには、ついつい目を奪われてしまう。

昔息子に、外で私に会うと、いつも「せかせか」歩いてる、と言われて、「がーん」となった。
何処かで何かが、深く心当たりがあるのだった。
いつも時間に追われている、そのことが心にまず染み付いていると、当然体の動きも、その感覚に操られるに違いない! いつもいつも先を急いでいるマリオネットのような…! いやだー!
要するに、優雅でなく、せかせかしているおばさん、いつの間にかそんなものになっていたのだ!

おまけに、そのころの私はヘアスタイルがショートボブだったんだが、「ショートボブは似合わない。よけいせかせかして見える!ロングヘアの方がいい!」などと訳のわからない方向へ話がなりゆき、おかげで今ではコラーゲンのすっかり減少したバサバサな髪なのに、頑張ってロング・ヘアーにしているのだ。

どういう繋がりなんだろうと、考えたことがあったのだが、きっと息子の中では、ショートボブは「短い髪」で、「ボーイッシュで、活動的」イコール「せかせか」、にどこかでイメージが結びついたのかも。
それと対局的な位置にあるイメージが「ロングヘアー」イコール「優雅」だったのかしら。

だけどね!中身が優雅でなきゃ、絶対優雅にならないから!
といいつつロングにしている自分がわからない。息子の言うことにはちょっと影響されてしまう自分がいる。

しかし驚いたのは、メジロの動きを一緒に見ていた息子が、「可愛いなー!」と本気で感動していたことだ。
ちょっと覗いて、すぐに行ってしまうだろうと思っていたのに、一緒になって、ずっと見ている。
その上、「バードウォッチングする人の気持ちが分かったなあ」とかしみじみ言っている。

「ホントに?」
「うん。これは、可愛いよー!」だって!

なんだか私は安心した。

社会人一年生の息子は、最近仕事が大変で、結構ストレスフルな感じだったから、ちょっと心配だったのだ。

プログラミングの仕事をしているのだけれど、研修中は前向きだったのが、いざ仕事になったら、太平洋にいきなり小舟で繰り出したような有様だと、疲れた顔で帰宅するようになった。
それでも上司には恵まれて、とても良い人で教え方も上手いと言うし、残業の無い生活を社員にさせたいというポリシーの会社だったので、七時半には帰って来てしまう。恵まれているのだ。

そう言っても、月曜が来ると思うと気持ちが暗くなる、などと言って、帰宅すると、スマホ三昧、しかもタブレットをスマホの前に置いて、スマホでゲームだかなんだかやりつつ、その待ち時間だか空き時間に、タブレットでアニメや映画を見るという、液晶漬けの毎日。
ストレス解消になるなら放っておこうと思っていたが、あれで気が休まるものかと内心疑っていた。

だって、人間の脳は、絶えず「こっちとこっち、どっちがいいか。あれにするか、こっちにするべきか」などと、いうなれば選択三昧。たとえゲームと言えど、そのことに変わりはない。
そのわずかな空白時間にまた違う情報で脳を一杯にしていたら、気が休まるわけはない。
休日もあまり出かけないで、ひたすら一日バーチャル漬けなのだ。

かく言う私だって今の生活からPCは外せない。
仕事がまずPCでやる仕事だし、趣味のブログも、デザインの勉強も、レシピも、インテリアの参考も、百均グッズの利用法も、健康の情報も、もうホントにこれが無くては困ってしまう。
でも、それはあくまでも「リアル」の世界のための「バーチャル」の情報であって、「リアル」と「バーチャル」がメビウスの帯のように循環している。

息子を見ていると、「バーチャル」一辺倒だから、心配なのだ。
何か「リアル」の方で、趣味を見つけたら、といつも言っているのだけれど、「興味のあるもの何もない」というつれない返事。

それが珍しく、リアル界の小鳥に、本気で感激しているのだ!
なんといい傾向ではないか。
ああ、これを機会に「バードウォッチングすることにした」とか言って、休日に外へ出かけるようになれば、しめしめなのになあ! まあ、そんなにうまくは問屋が卸さないだろうけど。


だがここ何日か、息子は帰宅すると、プログラミング言語の勉強をするようになった。
ストレス解消とはいえ、遊び三昧だと、却って不安になるのではないか、何か一つの言語に習熟したら、それが自信になって仕事に対する気持ちも少し変わるんじゃない、などと控えめに言ってみたのだ。

息子は返事をしなかった。
でもここ何日か、帰って来ると机に座っている。
状況はすぐには変わらないだろうしし、液晶漬けであることには変わりはないけれど、少しでも明るい気持ちで毎日を過ごしてほしい。
下手なことを言って、気が変わってしまわないように、それこそベランダの小鳥の前を通り過ぎるように、そぉーっと、知らんふりをして息子の部屋を通り過ぎる。
ついでに健康的にバードウォッチング、などと欲は出さないことにしておこう。


でも、こういう成り行きだけは勘弁してほしい。

「バードウォッチングのゲーム見つけたから、買ってきた!」







雲は今駿馬のかたち黄水仙



黄水仙夜の背筋が伸びている



薄氷や嘘を信じたふりをして



パンジーに風のつむじを見つけをり



パンジーの色隠れてる闇夜かな



ヒヤシンス新聞記事を棒読みに



天気雨の如き思い出ヒヤシンス



如月や風の坩堝の瑠璃色に



これからのことのみ思ふ物芽かな










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春浅し・浅春

春浅し・浅春

20182d.jpg本日のBGM/Bill Evans - Like Someone in Love


春浅し何待つうちに月日たち



イヤリング片方落とす春浅し



春浅し種の見ていた夢を見る



泣いている子供何処かに浅き春



浅春の空の瘡蓋取れる朝



春浅し時間に傷がついている



浅春の風に打たせるままに行く


春の風は光を煽り立てるように勝手気ままに吹く。
そして新しいものを連れてきたのは、いつもこの気まぐれな春の風だった。

早春にふと思い出すのは、やはり自分の人生も時間割が早春だった頃のことだ。

中学を卒業したばかりで、くんずほぐれつしていた5人くらいの友人達で、房総の海辺の民宿に一泊した。いわゆる卒業旅行というやつだ.。皆15歳だったし、子供だけでというのはまだ割と珍しかったけど、なんとか全員の親の許しを経て、実行することにあいなった。

私達が一体、海辺で日がな一日何をしていたか。

実に、今思い出しても微笑んでしまうのだが、なーんにも、しなかったのである。

15歳の少女が5人。一日中海岸をうろうろしながら、したことと言えば貝殻を拾ったくらいのもの。
後は各々、己の頭の中に目一杯の空想を携え、空想を食べ、空想を並べたり、並べ替えたり、陽に干したり、波に洗ったりしていたのだ。
そしてきっと私達は、お互いにそういうことに没頭していることを、知っていた。

私達が持っているたのは、現実への不満と、自分に合うように作り上げた非現実への憧憬だけだった。
中途半端なものはそんなになかった。

現実はいつも不格好で、自分の背丈に合わない服のようだった。
15歳なのに、将来への明るい夢なんか、殆ど持ち合わせがなかった。
現実と自分の作った非現実を並べてみると、それはどうにも違い過ぎていた。
天と地ほどに、赤と黒ほどに、ダイヤモンドと石ころほどに、それは違い過ぎていた。

私達は早春の浜辺で、ただただ自分達の空想を、貝殻を磨くように磨き上げていたのだ。


それから2年ほど経過して、私は初めての恋をした。
そのころ親しくしていた友人の弟と。
一つ年下で、肩まで髪を伸ばしていた。 黒いロンドン・ブーツを履いていた。
そしてなんと私は赤いロンドン・ブーツを履いていたのだ!
今思えば実に空想的なファッションだった。鉄腕アトムじゃあるまいに。
写真を撮っておくべきだった。
さぞかし面白かったに違いない。

二人ともロックが好きで、今考えてみると共通点はそれだけだったんだけど。

はじめて二人で会った日、高架線のホームで、嬉しいやら緊張するやら、若いから二人とも一生懸命カッコつけようとしているのに、そんな二人に早春の風は全くもって無慈悲だった。

上から下から右から左から、春の風は容赦無く二人の髪を掻き混ぜて、立ち上げて、振り下ろした。

二人ともすっかり閉口してしまい、無口になって、ベンチに座ったまま下を向いていた。
いつでも理想と現実のギャップは、こうして私の人生を掻きまわした。

すると彼が一言、しみじみと、「いやだよなー、風は」とつぶやいた。
「うん」 それでやっと会話が始まったのだった。

そんな断片的な、大して意味の無い記憶のかけらを、はっきりと覚えているのもおかしなものだ。

夢中になっていた年下の男の子。

ずっと続くと思っていた恋。
ずっと続くと思っていた若さ。
ずっと続くと思っていた未来。 湯水のようにあった時間。

あの赤いロンドン・ブーツを履いていた女の子が、還暦のおばさんになるなんて、誰が想像しただろう。
これこそが生命の神秘でなくてなんだろう。 神秘であり、不可解であり、不条理だ。
肩までの長髪で学ランを着ていた男の子も、きっと今はおじさんで、お腹が出ているに違いない。

会いたいかって?
いやー、会わない方がいいに決まってる。そりゃお互い様だけど。

早春は早春でいい。

生きいてれば、時間のベクトルは無慈悲なまでに一方通行だ。
戻りたくったって、戻れない。

でも時たま時間は二重になっている。

季節の変わり目に、なにかがふとエア・ポケットのようにいきなり私を捕まえる。


その中には、動かない時間がある。









虫の影ふいに湧き出る春障子



春障子ひかりに耳を澄ましをり



特急が過ぎるホームの余寒かな



春星の思い出しかけている言葉






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立春・春立つ

立春・春立つ

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秒針の音かるくなり春立ちぬ



春立ちぬ気軽にひとを呼び止めて



無防備なこの世のものや春立ちぬ



立春の人のまなざし浅くなり



春立ちぬ遠く列車が走りだす



立春の猫の背にあるひかり濃く



立春やひととひととは噛み合わず

ここ数年、聴く音楽が変わって来た。

ジャンルは「クラッシック」「ジャズ」「ロック・ポップス」などなんでもありなんだけど、乱暴に言ってしまえば、「静かな音楽」になって来た。
「静かな音楽」と言っても、今はやりの「作業用BGM」みたいなものではなく、隅々まで魂の行き渡っているようなナイーブなものでなくて食指は動かない。 
たとえば 
Eva Cassidy - Songbird

アップテンポのものももちろん聴くけど、エネルギーがむき出しで巨大な火の玉になっているようなものでなく、ガラスの立方体の中に、熱い花火が上がっているのを閉じ込めたような、そんな感じの音楽。(笑)
たとえば、 Ron Carter - The Shadow Of Your Smile
モダン・ジャズの中では、こういう耽美的というか、シックなのが好き。

あと今よく聴くのは1970年代ロック・ポップスのカバー・バージョン。
カバーと言っても、原曲の良さが無くなったような、中身のスカスカなスポンジケーキに砂糖をまぶした、みたいなのは、願い下げだ。
一番素晴らしいのは無論オリジナルとしても、そのシンガーが昔愛聴した曲を、歳月を重ねて良くも悪くも色々な経験をした後で、今ならこう歌う、そんな情感の濃い、完熟しているカバー曲が好きなのだ。
たとえば 
How deep is your love - Simone Kopmajer

クラッシックの場合は、ものによりけりだけど、交響曲はほとんど聴かない。
「ダダダダーン!」と来るような衝撃は、今の生活では別にいらないのだ。
だからといって、ああいう音楽がつまらないとか、ゼーンゼン、そんなことは思っていない。
ああいう大きなエネルギーの空間の中にすっかり入って、一緒に流れるのはそれはそれで大変なカタルシスだろう。
でも今、私の生活ではいらない。今の自分の感情のレベルとか、疲労のレベルとか(笑)「波長」みたいなものにスッと入ってきてくれる音楽が必要なのだ。薬局で今の自分に合った薬を処方してもらうように。
今気に入ってるのはこれ。 
神尾真由子「瞑想曲 op.42-1」 (なつかしい土地の想い出) チャイコフスキー

あらゆる音楽を隅から隅までリサーチしてる時間なんかとてもじゃないけど無いし、
年齢や体質が変わるのと同じように、好みの音楽が変わるのは、ごく自然なことだと思う。
エネルギーが炸裂しているような音楽に「おおっ!凄い!」と立ち止まることもある。息をのむこともある。でも今は、深入りせずに通り過ぎる。

以前のブログにも書いた、馴染みの「ロック・バー」に久しぶりに顔を出した。
前には「和光のとんかつ」持参で行ったなにがしを書いたが、今度は「恵方巻」を持っての来店。近くのスーパーが店を閉めて、こういうものを買いたければ、隣町まで歩くか、反対の駅まで電車でゆくか。今日は電車でゆく方を選び、ついでにそのスーパーの目前にあるその店にふらりと立ち寄る。うちの夕飯は10時すぎなのだ。

カウンターの客が私だけになって、何気に音楽の話が始まった。
前述したような、今自分が聴いている音楽のタイプを、マスターに説明しようと、話し始めた。
マスターは店は一応「ロックの店」ということだが、幅広く色んなジャンルを聴いている。

しかし「静かな音楽」と言った途端に、もう「あー、駄目駄目そんなの」みたいな運びになった。
どう説明したらわかるかなあ。
「うるさいのはもうダメなんだよね」、「例えばフリー・ジャズとかは聞かない」と私が言ったら、頭ごなしに「あー、そうやって選り好みしてちゃダメなんだよ!なんだって聞かなきゃダメなんだよ!ミュージシャンに失礼だよ!」
そりゃ正論だ。でもそれはそれ。こちらはこちらの物を見る角度ってもんがある。
それにロック全てを聞いてなくたって、ジャズ全てを聴いてなくたって、クラシック全てを聴いてなくたって、自分なりのアプローチで全てのジャンルから、選りすぐりのものを掘り出すようなやり方だってある。

私が言ってるのは、オーネット・コールマンとかコルトレーンとかセシル・テイラーとかが試みたような、アバンギャルドとか、アナーキーと呼ばれるような、凄い混沌とした音。でもそれだって、この人たちのやったことのほんの一部だし。「この人は聴く・聴かない」というのではない。どんなミュージシャンだって、色んなアプローチで色んな曲を演奏する。

理屈でなく、感覚だ。誰が、ではなく、そのアルバム、その曲で聴きたいかどうかは変わる。

だから感覚的に、聴かないのは、あらゆる原色のペンキを一挙にぶちまけた、混沌の塊が炸裂したような音。
抽象的な音がダメってんじゃなく、諧調を感じる、バランスの取れた抽象は好きなのだ。
これは絵画の好みでも一緒だ。
あとはこれでもかというような圧力を感じる無秩序な音。そういうのは聴かない。聴きたくない。スルーする。
この「聴かない」ってのが腹が立つらしく、向こうは興奮してくる。待て待て、向こうがつばを飛ばしてるからって、こっちも乗ったら、マズイ。

マスターの場合は、昔は好きな音楽とそうでもないものとあったのが、ある時「全ての音楽」が素晴らしく、どんな音楽でも聴こう!と開眼したことがあったんだと言う。それは前から聞いていた話で、いい話だな、と思っていた。でも「マスターズ・ストーリー」は滔々と述べるのに、「私のストーリー」には耳を貸そうともしない。
誰にだって、同じようなマイ音楽ストーリーがあるんじゃないの。
マスターの言わんとするところは分かっているし、全ての音楽、そのミュージシャンの存在を丸ごと聴くというのは、最も正統的な音楽の聴き方だ。
でも私の聴き方は違う。自分のその時その時に必要な音楽を探していく。若い時に聴いていたものが今も必要とは限らないし、若い時に全然関心の無かった音楽が今とてもぴったり来たりする、そのことに忠実なだけ。
どちらもありなんじゃないの、と言いたいだけなんだよね。

「だからね、静かな音楽ってのは、静かなだけじゃなくて…」
( 静かで、魂が震えるような、音楽なんだよ!)と、私が言おうとする。
それなのに、「だからね、静かな音楽」のあたりまでしか言わせない。

その辺まで言うと、「ダメダメ!」「違うの!」と途中で横やりを入れてきて、その後を言わせない。

ここからはもうどんどん、ずれてゆく。
何がずれてゆくかって、音楽の話では無くなって来る。だんだん腹が立ってくるのは、音楽的な意見の違いなんかではない。そんなの違って当たり前だ。

そうではなく、人の話を頭一つ分くらいしか聞こうとせずに、ひたすら自分の意見だけを押し付けようとする、この態度!
相手には「言わせない」というやり方だ。何か言おうとすると遮って、とにかく話を続けさせない。
特に相手が女だとこうなるようだ。
こういうの、大嫌いなんだよね。

少なからずむかむかしてきて、「マスター、も少し人の話を、後の方まで聞きなさいよ!」
と言っても、全然聞く耳持たない。

「俺はね、全ての音楽を聴いてんの!とにかくもう、全て!」なんて教祖さながらに言ってる。嘘に決まってる。
だってマスターからクラッシックの音楽の話を聴いたことはない。
「へー、じゃあマスターはクラッシックも聴くんだ?」と言ったら、

「聞くよ!すべての音楽を聴いてる、聴いてない音楽なんかない!」「マーラーだってなんだって聴いてるよ!」

「じゃあ誰のマーラーが好きなの?」「好きな指揮者は?好きな演奏家は?」と言ったら、一人の名前も出てきはしない。「ほらねー!」と言っても、「とにかく俺は聴いてない音楽なんかないんだ!」だって。

あげくに、「静かな音楽なんてもんは、音楽なんかじゃない、そんなの、音楽聞く必要なんかないだろう、そんなんが良けりゃ、川のせせらぎでも聞いてろよ!音楽聞く必要なんかないんだよ!」と吐き捨てるように言うではないか。

それを聞いた途端、突然私の頭の上の「蓋」みたいなものが、ポカっと取れた。
そう、熱いいお茶の入った湯飲み茶碗の蓋とか、なんかそういうものが、ポカっと。

私はマスターに向かって、言った。

「いーかげんに、人の話を最後まで聞けって言ってるでしょー!」
「静かな音楽音楽って、その後があるのっ!」
「いいっ?静かで、しかも魂が震えるような音楽って言おうとしてるんだよっ!」

「いーや!さっきそうは言わなかっただろう!」
「言おうとしてるのに、あんたが聞こうとしなかったんでしょーがっ!」

そして最終的に、マスターを睨みつけて、あろうことか

「この頑固ジジイー!」と言っていたのである。

凄い。 言いながら、(これを言ってるのは一体誰なんだ?)と思った。
人様にこんな言葉を投げたのは生れて初めてだ。人生初のことはまだまだ起きるんだなあ。

そしてレジでお金を払いながら、
「マスター、その石頭、どぉーにかしなさいよっ!」

「もう来んわ!」と何故か関西弁の捨て台詞を残して、思いっきり店のドアを閉めたのであった。


ああ…「春が立つ」はずだったのが、一字違いで、「腹が立つ」に…。

仕方ない。あれも立春なら、これもまた立春。 
我慢がきかなかったのもまた、春が故かもしれない。
色んなものの種も、地面の中でむくむくと動き出してるに違いない。

そういえば今日は、寒くなかったなあ。







寒明けのみずのはやさで夢をみる



春隣すっかり約束忘れゐて



チェロの音に洞窟ありぬ二月かな



薄氷優しい言葉割れてゆく



寒菊やメトロノームに狂いなし



人の縁遠くなりつつ余寒かな



束ねをり髪と記憶とヒヤシンス



春を待つ駅で電車を待ちながら






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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