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落ち葉

落ち葉

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今日の1曲/Yoshiko Kishino - Forest Rain


落ち葉踏むとき逃げてゆく月日かな



幾層に積もるこころや落ち葉踏む



街の人華やぎ始め落ち葉かな



伝わらぬ数多の言葉落ち葉かな



街路樹の落ち葉一丁目から二丁目へ

道路の真ん中に、藁半紙をクシャっと丸めたようなものがいくつか落ちていたので、何だろうと思ったら、プラタナスの落ち葉が丸まったものだった。

プラタナス? ここから見える場所にプラタナスなんか無い。

そうか、プラタナスの並木は、この町のトレードマークのような街路樹で、ここからはちょっと離れたところにあるのだけれど、11月末にしては生暖かい、今日の強風に吹かれてここまで旅をしてきたというわけか。

そういえば、少し前に、その道を通った時に、まだ葉がついているプラタナスを剪定していて、作業着を着た人が6.7人、大きな声を上げながら、高いところの枝を落としていた。
プラタナスの落ち葉は大きく、量も多いから、排水をふさいだり、道路のスリップを招いたりするらしく、早めに剪定してしまうらしいのだが、ぶつぶつと思い切り良く切られてしまったプラタナス達は、どうにも不格好である。
それでも残っていた僅かな葉が落ちたのだろう。

去年の正月に通り掛かった時は、夜でしかも正月だったので、人っ子一人いず、丸裸のプラタナスの斑の幹が、どことなく動物じみていて、シュールな、異界のような雰囲気だった。
その不思議なオブジュのようなプラタナスの木の枝の間合いに、細い爪のような月が赤銅色に光っていて、なんだかポール・デルヴォーの絵画の中に、紛れ込んだような気分になった。

それにしても
落ち葉と言うと、思うだに寂しいのが、この町から、銀杏落ち葉が姿を消してしまったことだ。

駅のすぐ前に、小学校があって、線路に面したその校庭の端に、見事な銀杏並木があったのだ。
そんなに本数は沢山なかったかもしれないが、秋ともなれば、素晴らしい黄金色の空間を、子供にも大人にも惜しみなく提供してくれた。俳句にも詠んだものだ。

電車に乗っていて、その前を通るとき、電車はしばし夢の中を通る銀河鉄道のような具合になるのだった。
夥しい金色の、光の中をスーッと移動する、あの小さな眩暈のような、感じ。

そんなささやかな喜びが、味気ない平板な日常に、どれだけ素晴らしい感嘆符を加えていたものか。

それでなくとも、都会とも田舎とも言えない無個性な平凡な住宅街で、自然と言えば人の家の庭や公園くらいの場所でしか親しめない、そんな生活の中で、どれだけ人の心に華やぎを与えていたものか。

だが小学校の建物はかなり古くなっていて、教室のみならず、体育館、校庭、すべてをしばらく前に丸々新しくした時に、なんとその小学校のシンボルと言っても良かった、銀杏並木を全部取り去ってしまったのだ!

誰がそんなことを思いついたものか、またそれをそれでよしとしたものか、新しいものを作ればいいってものではないだろう。
何故今、ここ、にあるものを生かして、新しいものを作っていかないのだ。

あれだけの大きな銀杏だ。一体あそこまで成長するのに、何年かかったことだろう。

そしてこの町の秋から、大きな金色の喜びが、消えてしまったのだ。

人間のやることは、ほんとに時々、愚の骨頂だ。




追いかける明日の背中冬夕焼け



往年の女優の如く冬晴れぬ



宇宙の広さ寒々と冬の星



短日やひとつ悲しみほっておく



冬の夜誰かが誰かの名前呼ぶ



毛糸編むいいことも悪いことも












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山茶花

山茶花

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今日の1曲/Yoshiko Kishino - Photograph



山茶花の舞踏の如く咲けば散り



山茶花の転生せわしき月夜かな



過ぎてより気づく山茶花華やぎぬ

何故過ぎてから気が付くのか。

何かとせわしなくなってくる時期だからなのである。

山茶花は玄関前にあるのだが、あと10分で時間切れになる郵便局に振り込みに行くなどと、鉄砲玉のようにすっ飛んで出てゆくものだから、若干通り過ぎてから気が付く、なんて羽目になる。
目の横になにかワーッと華やかな色が溢れていて、ふと振り向くと、昨日は1,2輪だった山茶花が、沢山咲いているではないか!

女達がせわしくなってくる頃に、せわしく咲いたり散ったり、咲いたり散ったりする花。
もう一年が終わりに近づいているのだから、切りも無い雑用に、ことさらに拍車がかかるというものだ。

主婦の自由時間は細切れで、バラバラと一日の中に点在している。

それを掻き集めなければ、新たな仕事のための勉強なんぞできはしない。
その細切れ時間を集める方法を、日々色々と工夫しているのだ。

少年でさえ、老いやすく学成り難しと言うのだから、還暦寸前の主婦なんぞ、一体どうしたものだろう。

昨今の女性雑誌の見出しの、キーワードは「時短」。
「時短の料理」「時短の掃除方法」「時短のお化粧方法」などなど、現代の女性の忙しさは比類ない。
こんなにも便利な電化製品に囲まれつつも、それでもまだ時間の足りない女達。

それでは昔の女性はどうだったのか。
これがやっぱり、忙しかったのだと思うのだ。

私の家は父が早くに亡くなり、母が仕事を持っていたので、祖母が母親代わりだった。
しかし、自分が本当に小さな頃だったと思うのだが、祖母が盥で洗濯板を使って、手洗いで家族全員の洗濯ものを洗っていたのを、覚えているのだ。
祖父のワイシャツも、三人の孫の下着も、ブラウスも、靴下も、ハンカチも!

ウーン、これは考えただけでもげっそりしてしまう。
その他に、食事の支度に、洗い物に・・・・。私には、とても無理だ。
しかも、もう若くない、体力が乏しくなって来た頃に、このヘビーな毎日の労働。

ほどなくして祖父が洗濯機を買ってくれたのだが、その時の祖母の喜びは、一体どれほどのものだったことだろう。

祖母には齢の近い姉妹が2人いて、さして遠くない場所に住んでいたから、よくその2人が遊びに来たが、姉妹でお揃いの着物を着てくる事が多かった。
祖母はいつでも、普段着の上に、割烹着。割烹着がトレードマークだった。
その齢になっても、祖母には朝から晩までやることがあったから、とても他の姉妹のように、着物なんぞ着るゆとりはなかったのだろう。

そして、絵が上手だった。昔話になると、画家に弟子入りしたかったのだが、許してもらえなかったとか、そんな話が必ず出てきた。
それから、俳句が好きだった。
考えてみると、そのDNAを隔世遺伝で、この私がそのまんま受け継いでいるのだった。

しかし祖母には、その素質を伸ばす時間など、存在しなかったのだ。
もっと後になって、やっと時間は出来たけれども、もう気力の方が、ついていかなかったようだ。

それを思えば、自分はこれだけ忙しくても、俳句のブログなんかやっていて、絵はもう描かないけれど、デザインの仕事もボチボチしていて、祖母のやれなかったことをやっているではないか。

今でも思い出す。

冬になると、小学校の放課後、下校時間ぎりぎりまで友達と遊んでいて、家に帰る間にもうとっぷりと日は暮れてしまう。

「ただいまー」といって玄関に入ろうとするとき、必ず見上げた夕空が、深い深い群青色だった。
だから、私の中で、今でも冬のイメージは群青色だ。

そして、家に入ると、座卓の横の練炭火鉢で煙管を吸いながら、テレビで相撲を見ている祖母の、「わーっ」とか「あーっ」とか「それーっ」とかとかいう掛け声が聞こえてくる。
これから6人分の夕食を作らなくてはならないその労働の前の、一休み。
好きだったのだろう、テレビの相撲中継に夢中になるのが、祖母の唯一の娯楽の様なものだったのかもしれない。

あの群青色の夕空の色と、相撲の行司の間延びしたような声、それからテレビの中の観客のどよめきが、私の中でセットになっていて、「冬」の空気の匂いを感じると、どこからともなく、ふっと浮かび上がってくるのである。




冬林檎ひとつ計画温めぬ



猫の目のような寒月見て帰る



冬薔薇に少し後悔してをりぬ



木枯らしや湯舟に重力失へり



情熱の冷たき背中シクラメン



東京に人は犇めく神の留守

神の留守・神無月とは旧暦10月のこと。11月は「霜月」。
以前の句だが、今回足りない感じなので付けたし。
しかし旧暦なので、2017年に置き換えると、11月18日から12月17日のことだそう。雰囲気的には、今頃の感じなんでしょうね。でもやっぱり、11月は「霜月」と、頭の中に先入観があるし。ま、ややこしいからその辺はアバウトに。

鳥一羽空に底なし神無月











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冬に入る

冬に入る

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今日の1曲/Thea Gilmore/ Drunken Angel 


冬に入る街は光に膨らみて

「冬に入る」は、好きな季語だ。
多分読んだ時の音のせいだろうが、「立冬」と言うと何だかのべっとした道路標識みたいだけど、「冬に入る」と言うと、「冬に入ってゆく」あるいは「冬に入った」という、動きが含まれていて、電車やエレベーターに乗っているような移動感があって、いい。
「さあ、いよいよ冬だ。準備しなくちゃ」という心構えの感じもある。
ああ、お布団を出したと思ったら、もう大きいお布団を用意しなけりゃ、干して、ダニ掃除の掃除機がけをして、厚い方のコートも出して、マフラーやスヌードはも一度洗おう。コーディロイのスカートは何処だったっけ。

実際、今日は(ここを書いているのは11月12日)劇的に寒くなった。
まさに「冬に入る」という感じ。
今までの薄手のコートでは心もとなく、厚手のコートで出かけた。

正直言って、極め付きの冷え症だから、冬が来るのは決して有り難くない。
油断していると、膀胱炎だの過敏性大腸炎だのが、ひょいっとやって来るし、重いコートに分厚いスパッツ。
お洒落より防寒優先のファッションで、一回りふくよかになってしまう。
掃除だって、億劫になりがちだし、食料買い出しに行かなくてはならない時、車をやらないから、雨だったりしたらもう悲惨。
近所のスーパーは閉めてしまったし。(まだ言ってる)
生活の基盤を整えておくのだって、寒くなると容易なことではない。

だから「立冬」なんて聞くと、「ええー、もう冬? ちょっ、ちょっと待ってよ、もうしばらく秋ってわけにはいかないのォ?」なんて言いたくなる。

でも、ふと手元にある歳時記を開けば、「寒夕焼け」「冬茜」「冬空」「凩」「寒月」「時雨」「寒雀」「白鳥」「山茶花」「水仙」「枯野」「寒林」「冬薔薇」などなど、綺羅星の如く、大好きな季語、季節のエッセンスのような言葉が、ぼろぼろと落ちてくるではないか。

これらの季語はただの言葉ではない。
今までの自分が通り過ぎてきた過去の、様々な冬の中のある瞬間瞬間を、冷凍保存のように封じ込めているのだ。

こういう言葉たちの小さな、しんみりとした輝きを見ていると、「ウーン、ま、冬もまた、いいか」という気持ちに、じんわりとなってくるのである。




落日の紅極まりて冬に入る



冬に入る無口な人の後追うように



黙々と畳む衣類や冬に入る



誰か影忘れてゆきぬ冬に入る



オリオンの弦緊まりゐて冬に入る



まだ宙に浮いてる一句落ち葉かな



何もかも出だしに戻る冬の雲



寒昴終わった愛を振り向かず



凩や言いたいことは山ほどありて



何処まで行っても冬空の下にいる



冬茜遠くのひとをおもう色













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白菊

白菊
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今日の1曲/ONLY TRUST YOUR HEART / YOSHIKO KISHINO



白菊に朝は何度もあたらしき



白菊や知らぬ顔のみ今朝の夢



白菊に揺れしこころを決める時



白菊のまはり夕闇溜まりをり



白菊に静脈ありぬ朝曇り



夢追えば疲れてをりぬ秋オリオン

やることが、どうも多すぎる。
単に身体的にすべきことというだけでなく、考え、懸念し、シュミレーションし、工夫する、こういったあらゆる頭脳労働も含めて、その頭数がどう考えても多すぎる。
シンプルでない。
夢と言えることも、夢どころではなく、どうにかしてゆかなければならぬことも、それから日々の生活の基盤も、それぞれが馬鹿にできないボリュームのあることなのだ。
ひとつひとつが、すべて小さな決断と工夫の連続だ。

なまじ凝り性だし、自分なりの創意工夫をしなければ、どんなことも退屈極まりないただの義務でしかなくなってしまう。
だから、創意工夫の連続が嫌ではないのだ。

ただ、その数、ジャンルがどうも多すぎるようだ。

やること、やりたいことが多いのは、悪いこととは思わないが、その分疲労も華やかに増えて、それらの事々にじゃらじゃらとくっついて来る。
若い時と違うのは、こういうものをあだや疎かにしていると、突然足元をすくわれる、ということだ。

割合、体からの信号を無視してしまう、というか、気づかずに何でも根を詰めてしまう性格だから、すぐに体の方から、ブーイングが来る。

疲れ果てて、深夜ベランダに出ると、南の空にオリオン座が輝いていた。
そうだ、去年の今頃は、違う場所から、毎晩オリオン座を見ていたのだ。

どうにも解決してゆかぬことが色々ある。
だからこそ、新しいことを切り開いていかなくてはならないのだが、いやはや、体の声にも、耳を傾けていかないと。




月高くしてひとの夢混濁す



小春日に少女の我に呼ばれゐる



秋雨の最初の細さ見上げをり



最後まで読んでしまいぬ秋灯

秋灯というものが、現代の生活で本当にあると言えるだろうか。
春灯もしかり。

家とてもそうなのだが、大体が、円い大きな蛍光灯のリビング。
机と言えば、パソコンが鎮座し、そこから光が出るので、スタンドなどは不要。

それでも私達の世代は、昭和の暮らしが体の奥底に眠っているから、「秋灯」「春灯」と言えば、分かるのだ、あの感じ。

蛍光灯なんて言ったって、なんだか薄暗い、障子のような和風な囲いに囲まれている照明器具、あるいは電球に硝子の傘がかかっただけのシンプルな照明、机には布製の傘のスタンド。たいていの照明器具には、紐がついていて、それを引っ張って、点けたり消したり。
リモコンなんてものは無かった。

現代の、隅々まで隈なく明るく便利なリビングに、「秋灯」「春灯」は果たして存在するや否や。

谷崎潤一郎の陰影礼賛ではないけれど、「光」というものと「闇」というもののあわいの、うすぼんやりとしたところに、「秋」や「春」それぞれの夜の、魂のようなものがあったのかもしれない。











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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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