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晩秋

晩秋


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今日の1曲/前橋汀子 J. S. Bach - BWV 1001 -2.Fuga Allegro  Sonata for Violin solo No. 1 in G minor



晩秋や人身の丈の無言持ち



晩秋を秒針の如歩みをり



晩秋の人形の影窓辺まで



晩秋の一つの部屋に鍵をかけ



晩秋や真夜の水音消えるまで



富士風に露わになりて暮の秋


いつもは見えないものでも、もとはと言えば確固たる真実が、そこにある。
そんなものが色々ある。

その一つに富士山があって、東京湾を挟んでいて、普段は光化学スモッグだの秋の雲だのに邪魔されてあんまり見えないのだが、今日のような突風が吹けば、「おおー、あったのね」「忘れてくれるな!」みたいな感じで、くっきり、はっきりと顕在してくる。

普段もやもやと自分の気持ちを抑えて暮らしていると、そういう澄み切った姿を見ると、あー、やっぱり自分は自分だな、せめて自分にだけは気持ちの嘘をつかずに生きなくては、などと思う。

光化学スモッグが蔓延しようと、秋の分厚い雲がトグロを巻こうと、自分の気持ちは万象の底の底に確固として沈下している。それをあだやおろそかにすると、きっと体が悲鳴をあげて、どこかしら具合が悪くなるのだ。

グレーのシルエットの富士山の色が、みるみる濃くなってゆく。
朱鷺色だったその周りの空も、だんだん濃くなって、柿色になってくる。

秋は深い。





半眼の仏背負いぬ秋夕焼け



地球のどこかが夕焼けてむず痒い



耳からだんだん柿の木に化ける



洗う手の水に緊まりて菊の花



恋すれば前頭葉も濃紅葉


何という色気のない俳句だろう。「前頭葉」だって。
たとえば「恋すれば耳の奥より濃紅葉」とか、「恋すれば指の先まで濃紅葉」なら、それらしいのにね。

だって、それじゃあ歌謡曲だろう。

30そこそこの独身の頃、一人で京都へ行った。
初めての一人旅で、いい年でもそうとう緊張していた。
3泊のうち半分以上雨で、たいして楽しめなくて、がっかりしていた。

やっと晴れて、金閣寺へ行った時、車から降りたら頭の上が紅葉、紅葉、また紅葉で塞がれて、空はその彼方に小さくつつましく、青かった。

あの感動、あの前頭葉が一斉に紅く染まってしまったような高揚、

あれはまさに、恋の問答無用な感じに、良く似ている。









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またまた、転機がやってきました。
グラフィックデザインの仕事を在宅で細々とやってきましたが、やはりだんだん仕事が減ってきました。
これではまずい!
そこで来年もう還暦だというのに、老眼も半端ないのですが、ここで今一つ心機一転、Webデザインの勉強をすることにしました。
そちらの方は、かなり仕事はありそうです。でも年齢が年齢ですから、そうとうクオリティが高くなければ、相手にされないでしょう。だからなんとも先は見えないのですが。

まー昔、少しは齧りましたが、何せ10年前ですから、別世界と言ってもいいほどの違いがあり、暫くは時間を絞り出し、また学生さながらに必死に勉強することにしました。

「ブログやってる場合か」と息子に叱咤激励されましたが(笑)ブログをやめるのはいやなので、ボリュームを減らしてボチボチ行くつもりです。

よろしければまた、お付き合いください。いつも見に来てくださる方、ホントにありがとうございます。










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柘榴・秋アラモード7

柘榴

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実柘榴に落暉いよいよ重くなり



実柘榴が力溜めてる枝の先



言いにくいことの言えずに柘榴かな



投げやりな視線の女柘榴爆ず



あかあかと過去蓄積す柘榴かな








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今日の1曲
Alison Krauss - Dream Of Me










秋アラモード7


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長き夜のペンも眼鏡も立った先



本売って出来る空間秋灯


ついに断捨離実行。

いやあ、疲れた。
本だけではない。

納戸と言う名の大いなる混沌。
「舌きり雀」の葛のように、魑魅魍魎が入っている混沌を、片っ端から息子と捨てまくる。

入っていたのは自分の心。
つまり、思い切りが悪く、優柔不断で、夫に「まだ とっとけよ」言われれば言われたままに、「まあいいか」の連続。一体何をそんなに後生大事にしていたか、

息子の小学生の時の自由研究、古本屋に売る、売ると掛け声ばかりのコミックスの山、若い時から持っていて、ついぞ仕立てなかった服地、編みかけで放置していたセーター二つ、捨てるのに困った華奢な硝子の小物、金魚を飼っていた時の水槽、支障があって使わなくなったのに、捨てないポット、鍋、今や骨董のようなカセットテープ、最初に使ったコンピュータはなんとマックだった、その骸。キーボードだの、以前のモニターだの、壊れたヒーターだの、聞かなくなったCDだの、書けば切りも無い、捨てるという行動が面倒、あるいは捨てる決心をするのが面倒、その躊躇がどっさり溜まれば、こういう山になるのだという、動かぬ証拠。
「後でいいや」というのが、溜まってしまうと、とんでもなく巨大なしっぺ返しがくるという、教訓。

(あれっ、断捨離って、まだまだ使える立派なものを、物がありすぎるから、処分するんだったっけ、とするとウチの場合は、ちょっと違うのかも。単に捨てるのが面倒だった物達ではないか!)

はてさてこのように、自分というものの性格のいびつさを、はっきりと目にもの見せてくれてしまった納戸だったのだが。
これをコツコツ燃えるものと燃えないものに弁別し、運び、その重さたるや、息子の手助けが無ければ、とうてい最後まで強行できたとは思えぬ。

いやあ、本も大変だった。

コミックスは売れるだろうとは思ったが、何せその埃をクイックルで一冊一冊拭い去り、シリーズものは番号順に。

自分の本もしかり。本と言うのは、集まると、どうにもならぬ。
岩になるのだ。
文芸書は実家に置いてきたものを以前にかなり処理したので、それ程には無いのだが。
だいたいが、主婦件時折デザイナーなんて生活では、小説など読んでいる時間は実質的に、あまり無い。

そこではたと気づいたのは、もしかして、自分が俳句にのめり込んだのは、そういう実際の時間的事情も大きいのではないのだろうか、ということだ。

長い小説の迷路を溺れるように通過してゆく快感も確かにあるが、俳句のスピーディーな、稲妻のような、閃き、感動、共感、これほど多様な含蓄のある歓びを、短い時間で享受できるその幸福。
これこそが、もしかしたら私と俳句との繋がりが絶たなかった理由なのかもしれない。

世界で最短の詩形式。

この形式自体が、ひとつの哲学であり、ひとつの詩であると、私は思う。

2017年の初めに書いた序文と重なるが、「今、ここ」に生きるイノセントと、生の一瞬、一断片を潔く切り分けて表現する俳句形式が、私の中ではぴったりと重なり合う。

そしてその世界で一番短い詩は、読むのも書くもの小説のような文芸形式に比べたら、少しの時間でできるのだ。短いからと言って、深い浅い、広い狭いと言うことではなく密度の問題なのだ。

もう10年以上前のことになるが、実家でエリートの兄弟に、「俳句なんて、古臭いことは、僕は絶対子供にもやらせない」などという、それこそ「古臭い」ことを言われてびっくり。
「お公家さんっぽい」とも言ってたから、短歌も俳句も一緒くたなんだと感心。理数系だからなあ。

それでは彼は現代詩を読むのだろうか。
読みはしない。

まあ、私達の時代の国語の教科書の責任もあるだろう。
なにせ俳句の第一歩は芭蕉の「古池や~」なんだから。俳句甲子園なんてのも無いし。

せめて中村汀女の「少年のかくれ莨や春の雨」とかのせたらどうなんだ、いや、そりゃムチャというものか。

定型であろうがあるまいが、「詩」の重力が成り立っている世界なら、それが「詩」なのだ。
物理的な時間の流れの中での「古い、新しい」しか見えないものに、文学の本質が見えるとは思えない。

「俳句は古臭い」と決めているのが、どれだけ古臭く、オリジナリティの欠如している視線なのか、いまだに多分気づいてないんだろうなあ。

話を戻して、ブック・オフは,来るのがひと月も先になるというので、ネットで調べて、「あやみ堂」という名前の古本屋に来てもらうことになった。店舗販売だけでなく、ネット販売もしており、それがなかなかいけるらしい。

茶髪の体格のいい、元気なお兄さんがやってきて、丁寧に見てゆく。
本が180冊くらい、CDが50枚くらいだっただろうか。

こんな本、売り物になるかなと思っているようなものが、「ああこれ、このシリーズ、探してる人結構いるんです。」などというから、びっくり。30年も前の日本料理の本。ページの端がめくれて折れたままだ。

「へー、こんなに古くなっちゃってて、いいの」

「ああ、本の状態は一応書いておきますから」とのこと。

捨てる神あれば拾う神あり、とは至言である。
特にネットを通してのお客というのは、マニアックな人が多いから、今時こんなものどうだろう、というようなものでも、ちゃんと需要があるらしい。
段ボール4箱分の本を、3階から何度も行き来して運んでくれて、最後に「では」といって、査定してくれた金額は、息子の分を抜いても、なんと福沢諭吉以上のものでした。

「えーっ!そんなになるんですか?」と思わず。

「はい、またお願いします」と、お兄さんはニコニコしていた。

断捨離決行で古雑巾のように疲れていたのだが、この成り行きで一気に気持ちは上がった!
主婦というものにとって、こうした思いがけない突発的な収入は、星屑の如く、キラキラと後光を背負って見えるのだ。

この福沢諭吉は特別だ。私はそれを封筒にしまう。

それから花の種をそっと土に埋めるように、それを抽斗にしまい込む。
さてどんな花が咲くか、それとも実がなるか、それはこれからのお楽しみ!
(しかしあまり長くとっておくと、家庭の必要経費にいつの間にか化けてしまうから、気を付けようっと)






木犀香月の満ち欠け同期して



木犀や少女と少年入れ替わる



秋の海ぶっきらぼうな波寄こす



天高しとりあえず白紙に戻る



秋天や何度でもスタートラインに



霧の中行けば体重失えり



秋麗ぼろぼろになった我を捨てる



もうこんな処まで来た鰯雲



秋思捕まえて保存ビンに漬けてみる



菊の香に鏡の我が引き締まる



秋冷や自分の中は心地よし



柿見れば一緒に空の青見えて











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秋雨・秋アラモード6

秋雨

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窓の灯の色みな違ふ秋の雨



秋雨に何故かこの道通りたく



信号の赤はさめざめ秋の雨



秋の雨これから先のこと決めず



彫像は何も見てゐず秋の雨

秋の雨と言っても、9月の雨と10月の雨ではやっぱり違う。
9月の雨は、涼しくなったとは言っても半袖や七分袖を着ているくらいだから、まだまだ生あったかい。
それでもビニ傘の上で、でんでんででん、とまるでドラムを叩いているかのようだった、夏の大粒の雨に比べると、やっぱり緩んで柔らかくなってくる。
そして10月ともなれば、いきなり三段論法のように寒くなったりして、静かに細やかに、物語を呟くような、押しも押されぬ「秋雨」になってくるのである。

寒さといっても、まだコートを着る程ではないから、ゆったりと歩けるし、俳句の題材にもできるし、あんまり家に籠っているのも勿体ない。

とは言え、近所のスーパーが閉店してしまい、隣町まで行かないと満足な食材は無いので、雨の街に買い物に出るのは大いに億劫で、ついつい冷凍庫の中のもので済ませて、あんまり出かけなかった。

秋雨前線の影響で、数日降り続いていた雨。この辺では雷雨のような激しい雨にはならなかった。

急にがくんと寒くなったので、お布団を出そうったって、まずは日に干せないではないか!
家族がダニアレルギーなので、さんざん布団に掃除機をかけて、何とか使ったが、今日やっと日が出たので、あれもこれも干したい、洗いたいで大わらわ。

さて秋雨の俳句で、大好きなものが、「コーヒー店永遠に在り秋の雨」、永田耕衣の句だ。
あるある、こんな感じの店。
現代ではスタバなどのチェーン店の影響ですっかり影を潜めているが、たまにあるのだ、「あれっ、この店、まだあるの?」という喫茶店。
そんな店の一つ、実家の近くの繁華街の四つ角に、随分前から営業している店がある。
なんたって、私が若い時からある店なのだ。
いや、そういえば、途中でしばらく閉めたままだったなあ。
もう止めたのかと思っていたら、そのままの内装で、また始めたのだったっけ。

数回しか入ってないし、特別に気に入ってるわけでもない。
それなのに今となっては流行遅れの、いかにも珈琲店と言った感じの民芸調のこげ茶の木の椅子やテーブル、油絵のかかった壁、なんかがやたら懐かしい。

外から覗いたら、シニアが多かった。
盛り場だけど多分、この辺に住んでるひと達なんじゃないかな。和気あいあいとした雰囲気があった。

少し前に通り掛かった時、買い物で疲れていて、一瞬入ろうかと思ったが、入れなかった。

この店に何回か入ったのは、20才前後の頃だ。

若かった自分。
何も知らなかったとも言えるし、今より大事なことを知ってたとも言えるし、恋をしていたかもしれないし、孤独だったかもしれないし、やりたいことは様々あったけれども、どれも上手く実らずに、中途半端な自分にいつもジレンマがあった。

あの店に入ると、そんな自分がいるような気がした。
中途半端で、自分が不満で、でも今よりずっと輝いていて、そんな自分が入っていく自分と会ってってしまうような気がして、怖かった。

彼女は言うだろう。
「何か見つかった?」

私は答えるだろう。
「わからない」

彼女は黙って席を立って、レジで代金を払うだろう。
私はそれから、一人その店に残って、珈琲を飲まなくてはならないのだ。

そんな幻想が一瞬私の脳裏を透過してゆく。
私はそれを払いのけるように、足早にその店の前を通り過ぎて行った。




 



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今日の1曲

Diana Krall - Just The Way You Are


曲はビリー・ジョエルのもの。1977年のヒット曲で私は19歳。洋楽ファンでなくても、当時有線で盛んにかかっていたから、聞き覚えがあるのでは。まさにこんな曲を聴きながら、あの喫茶店で珈琲を飲んでいたのだろう。













秋アラモード6


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木の実落つ忘れた頃に思い出す



コスモスの搔き乱している記憶



秋思かなエスカレーター登り切るまで



団栗の理屈屁理屈降って来る



秋天やアドバルーンがあった頃



林檎の中の階段上り切ると青空



あの月をどこか収納せねば眠れず



レモン齧ればシャンデリアになる一瞬



スプーンに小さき秋晴れひとつづつ



残る虫通り過ぎてよりひとり



秋冷る我の名を問われし如く







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秋風・金木犀その他

秋風

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秋風に石膏像の無言かな



夜道行くもうひとりいて秋の風



秋風やキリコの影を追っている
  
ジョルジョ・デ・キリコの絵が、10代の頃とても好きで、画集から切ってしまって、壁に貼ったりしていた。

キリコの絵の特徴は、誇張された遠近感と、光と影だ。
とくに「影」が主人公なのではないだろうか。

神殿の影、人間の影、建物の影、彫像の影、とにかくそのくっきりとした大きな影たちが、どういうわけか私を安堵させるのだ。
よくキリコの絵は不安を感じさせるというけれど。

郷愁を誘うというか、デジャブを感じるというか、夜見ている夢の空間や世界が、実はずっと、後頭部の一部に存在していて、そちらでももうひとり私が生きている、その場所、そんな感じなのである。

そして、キリコの世界の光と影の感覚は、秋の空気感を持っている。
ひとつの物体に、明暗がくっきり現れて、透明な空気がいやがおうにもそれを引き立てる。

しんと引き締まった、「秋冷」、そんな空気を感じるのである。



秋の風悲喜こもごもつかずはなれず



コンビニで立ち煙草して秋の風



秋風やいろんなことに距離を置く








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金木犀・その他

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今日の1曲 /  Keith Jarrett  Danny Boy


木犀香甘き螺旋をのぼりゆく



天すこし降りて来てゐる金木犀



金木犀いましばらくは恋の中



門灯にまだ暮れきらず金木犀



秋冷るひとつの石にひとつ影



秋夕暮れ洋服少し重くなる



満月や眼球疲労してをりぬ



満月に支離滅裂な我の夢



秋灯しひとの家にはありそうな



天高く我が影掘れば迷路かな



曼殊沙華西陽の影の皆長く

近所の線路わきの彼岸花は、よく写真で見るような燃えるような真紅ではなく、ちょっとアースカラーの煉瓦色がかった赤で、見るなり私は市松人形がそっと置かれているような、そんなイメージを持った。

アンティークな着物のような色味だったからだろうか。丁寧に精巧に作られたような、凝った形をしているからだろうか。

「市松人形」というと思い出す漫画がある。
といっても、怖い話ではない。
内田善美という漫画家の「草迷宮・草空間」という漫画で、道に捨てられていた市松人形を拾う羽目になった大学生の男の子の話。

のっけから人形は喋っていたので、てっきり捨て子かなにかと思っているのだけれど、実は人形という設定。
人形なのだけれど、「愛」を感じると、人間に近くなってくる、という感じの物語。
捨てられていて、最初に野良猫がその人形を不憫に思って、子猫のように抱擁して温めてやる、すると人形の中にも、温かな「愛」が生れてくる。

だが何せもとは人形なので、人間界のことは端から端まで疑問だらけ。
人間の幼児のように、片っ端から男性を質問攻めにする毎日。

そのかわいらしいこと。愛らしいこと、市松人形イコール怖い話というのが徹底的に覆されて、しかも文学性のある、画期的な作品だったと思う。

ある日、あまり人形の質問攻めがうるさくて、ヒステリーを起こした男性が、「人形のくせに、」という言葉で、人形を傷つけてしまう。
するといきなり、今まで血の通った子供のように喋っていた人形が、凍り付いて動かなくなり、本当の人形になってしまうシーンが、とても心に残っている。

何か非常に象徴的なシーンだった。

人形が愛によって、人間になる。
そして傷つくと、人形に戻ってしまう。

ラストは迷子になってしまった人形を探して、やっと古い人形店で見つけた主人公が、ずらりと並んだ動かぬ冷たい市松人形の中から、人間になりかけている人形に手を差し伸べて抱きしめる、というシーン。

主人公が人形に手を差し伸べたとき、巨大な「死」の無機的な連鎖の中に、奇跡のように生命と愛が、ひとつ生れ出る、そんな印象的な場面だ。

そして2人が店の外に出ると、雪が降って来る。

人形が言う。

「たましいが、降って来たよ」。

何故かやたらにそこで泣けてしまう、不思議なハッピーエンドの物語。

緻密に描きこまれた絵は漫画離れしていて、美しい。
古くなって、大分紙が傷んでいるけど、捨てられない一冊だ。









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10月・秋アラモード5

 10月


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10月のオリーブオイルに陽が潜る



10月やブラッドベリは棚の下



10月の光に射られて立っている



10月や誰もが高き塔になる



10月のシルクハットの中の月



10月やひととの距離を測りゐる









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今日の1曲

Alison Krauss - River In The Rain 















秋アラモード5


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秋晴れは光も影も大事にす



秋晴れが天下統一している日



梨食ふや水滴に耳すましをり



嬉しがる茸の絨毯踏むように



銀漢や掃いて捨ててる鬱の屑



ここからはひとりで行かむ秋入口



同じ皿ばかり使って秋の声

これが年を取るということかと思い当たることがある。

習慣に従ってやっているだけなのに、あたかも選んでやっているような気になっている。
いつもやっていないことをやるのが、どうも気が進まない。

沢山ある本のうち、本当にちょっぴりの本しか覗かなくなっている。
沢山ある食器のうち、本当に少しの、手前に置いてあるものしか、使わなくなる。
今日のように俄かに気温が変わると、今までのお決まりのパターンの洋服から、慌てて色々と組み合わせを変えなくてはならないのが、いかにも億劫になって来る。
バックを変えるのが、なんだか面倒だ。
夕飯のレシピもこのところマンネリかなあ。
通販サイトでする買い物でさえ、なにか根拠無き躊躇のようなものが、頭の隅っこに陣取っていて、一体何なんだ、これは。
家電の修理を頼まなくちゃ、電話、問い合わせ、ああ、これも根拠なきモヤモヤがかかっている。

いつもやっていることに自分が吸着してしまっていて、いつもと違うことをしようとすると、なんだか体に納豆菌のような粘りがついていて、引き戻されるのだ。

これぞ「習慣菌」というものではなかろうか。

これはいかんー!

仕事のある時は別として、主婦の生活なんてものはたいがいが知れていて、クリスマスのスノードームの置物のように、自分で逆さにしたり、振り回したりしなければ、毎日の景色なんぞ変わりはしないのである。

問題は、どうやって気分を変えるかだ。

といっても、家事がすべてつまらないのではなく、遊びがすべて面白いわけでもない。

家事でもルーティンワークの毎日同じことがつまらないのであって、遊びと言っても、いつも同じ場所・事ではそれと大差無いものになってしまう。

例えば
断捨離もいいかもしれない。
そうだ、不要な大量の本を捨てよう。或いは、長年読んでいなかった本を再読してみる。
不要な服も捨てよう。いつか役に立つかもと思っても、結局流行が変わってしまう。
或いは、手持ちの服のコーディネートを考え直してみよう。
作ったことの無いレシピに挑戦する。
入ったことの無い喫茶店に入ってみる。
インテリアを変えてみたら。あるいは、収納について、すっかり見直してみるのもいいかもしれない。
無印の収納、考えられてるなあ。

それから人に頼るのはやめよう。
ひとりで何処へでも、行ってみよう。
新しい人間関係に飛び込んでみよう。

というわけで、一念発起した私は、まず手始めに本を断捨離することに。

ブック・オフに電話したら、「訪問買取は100冊からです」という。
そのくらいならあるだろうと、まずは本の分別に取り掛かった。

ところが、このところ身辺に色々アクシデントがあり、掃除を怠っていたため、とうに本棚をはみ出ていた本たちは、一冊一冊が、うっすらと埃の着物を着ているよう。

いやそれどころではない、リビングダイニングはかろうじて普通だが、本の大量にある部屋は、後は野となれ山となれと放置していたため、大変な有様ではないか。

しまい場所の決定されていなかったCD達は山積みになって倒壊してくるわ、息子のネット通販の残骸段ボールは道を塞いでいるわ、使わない手織り機が埃だらけになって立てかけられて、本棚の開閉を妨げているわ、書類はバサバサとあるべき場所をはみ出して溢れているわ、もうたまったものではない。

結局掃除が先!とあいなったのだが、ふと私の脳裏に、「去年はわけあって、年末の大掃除ができなかった」という重大な事実が浮上してきた。
それから、「息子のハウスダスト・アレルギーがこの頃ひどい。発作が起きると、一日中鼻水攻めだ」という事実も。
続けて、「そうだ、今年からひとりで大掃除をしようと決めたのだから、今から少しづつ取り掛かっていれば、さぞかし楽ではないだろうか。」

こうして私は果てしなく脇道にそれてゆき、気が付くと、大きな壁際の箪笥の引き出しを一つ一つ取り出し、それをひとりで動かして、その後ろの驚くべき分量の埃を掃除機でやっつける、という大事に手を染めていたのである。

本はどうしたんだ、本は。

結局脇道が大通りになってしまい、本日はこれにて終了とあいなったが、それでも一日が終わった時、その疲労は、ルーティンワークの一日の、閉塞感に満ちたどんよりしたものではなく、何か充実感のある、みっしりと健康的な、明るい疲労だったのだ。

やっぱり、スノードームは、自分で引っかき回さなきゃならないんだな。
私はそう思った。

よーし。






鰯雲我も広がる我を出て



何処からか呼ばれて来れば水澄みぬ



忘れたい・忘れたくない水澄みぬ



意志持ってここに咲きたり桔梗かな












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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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