芒・秋アラモード4




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芒野を幾重も来たり風の波



光あれば光となりぬ芒かな



透明な駿馬駆け抜け芒原



芒野の下に重たき地層かな



ロードバイク燕となりて芒原







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秋アラモード4

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秋の雨道に流れるネオンかな (修正後)



秋雨に静かに四方囲まれぬ



どこへでも我と行くなり秋冷る



秋の海大きな背中見せている



人通りぱったり途絶え曼殊沙華



彼岸花問答雲が空急ぐ



林檎切る幾つになれば傷つかぬ



優柔不断色無き風に日々重ね



ここでなき何処かへ行かむ秋の雲



まだ白き月閉じ込めている鏡



コスモスや赤子笑えば皆笑う

近所のカフェスタンドに行ってカフェ・オレを飲んでいたら、ジーンズの女の人が入って来た。
やっぱりカフェ・オレを頼んで、入口に一番近い席に座った。

私と彼女の他は、誰も居なかった。

ふと彼女の方を見ると、いきなり赤ちゃんがいてびっくりした。
つまり、入ってくるときは、正面から見ていたので、彼女はリュックかなにか背負っていたと思ったのだが、横から見たら、赤ちゃんをおんぶしていたのだ。

赤ちゃんは、円らな瞳で不思議そうにこっちを向いていた。

赤ちゃんをおんぶして、カフェスタンドで、カフェ・オレを飲む!
なんだかいいなあ、と私は思った。

だって、赤ちゃんがいる時分と言うのは、そりゃもう、自由がきかずに、そういう意味では苦しいものなのだ。
親というのは、赤ちゃんにリモコンでつながれているようなものだ。

このカフェスタンドは、入口が解放されていて悪い空気が溜まらなそうだし、空いている時間で煙草の煙も無いし、多分その辺の様子は見て入っているのだろう。

「何か月ですか?」「8か月」
「男の子?」「女です」

息子がこのくらいの時のことを思い出した。
私が家事で他の部屋に行くたびに、泣き出すのだった。
洗濯物を干しにベランダに出たらもう、大泣きなのである。

ある日ピアノの調律に来ていた若い男性が、その様子をまじまじと見て、一言
「気が狂いませんか?」と言った。随分とまた、正直な男性だった。

高齢出産だった私には、もうおおんぶして家事をするなどという体力は無かった。
しかしまあ、考えてみればお腹の中にいたのだから、出てしまってもしばらくはへばりついていなければ不安なのは致し方無いと云えば無いが、「お腹にいる方が楽だ」というのは最もな言葉だと思った。

「もう大昔のことだから、抱き方なんか忘れちゃうなあ」と私が言ったら、
「うちの親なんかね」… 彼女が言う。 何か子供さんを頼もうとしたらしいが、
「あたし子供育てたことないから、っていうんだからー!!」

マスターが爆笑した。
私も大笑いした。
最近聞いたギャグの中では、相当インパクトがあった。
かなりユーモアのセンスのあるお母さんなのだろう。

ここのところ色々あって落ち込みがちだったので、ああ、笑うっていいなって、しみじみ思った。
笑うと、自分の中に風が起きて、外へ向かって、思いっきり何かが噴き出してゆく。
随分笑ってなかったような気がする。

もっと笑いたい。 笑うと空気が移動する。

そう思ったら、その赤ちゃんが、私を見て、ニコーっと笑った!

「あー、笑ったぁ!」と私が言って、連鎖的に全員が笑うのだった。









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萩の花・秋アラモード3

萩の花


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萩咲いてひそと貌ある月の裏



揺れやまぬ水銀灯に萩の影



萩垂れて大地冷たく固まりぬ



萩咲いて髪解くように過去のこと



すんなりと眠りへ落ちて萩の花











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久しぶりに行った馴染みの店で、久しぶりに若い時の仲間の一人に会った。

会うなり彼が言った。
「俺、癌でさ。余命1年って言われてるんだ」「えーっ、嘘でしょ」
「本当だよ」 「胃癌なんだけど、他にもいろいろ転移しててさ」
まるで誰か他の人のことのように、普通に言う。

こんな時、一体なんて言ったらいいんだ。
私は全速力で言葉のストックを参照するが、これというものがない。咄嗟に言う。

「こんなことしてていいの?」「いいんだよ。どうせあと1年しか生きられないなら、好きにやるさ。酒飲んで」

心の下層部で私が言う。 (そうだ、その通りだ)
しかし上層部の私は考える。 (そんなこと言えない)
だからといって、お大事になんて言って、通用する手合いではない。

「駄目だよ、養生しなきゃ」 そうだ、養生、この人にはこの言葉がやけにしっくりする。

友人の中でも、破天荒なひとで、それはいい年になっても治らず、奥さんがいるのに、女の人を作って、子供まで作って、尚且つその人とも別れ、尚且つまた違う女の人とくっついて・・・。

だもんで、友人同士が集まれば、説教されるわ、なんだわ、ここのマスターにも、ボロクソ怒られどうしなのに、全然反省している様子はない。

よっぽどいい男かって? 全然そんなことはないんだけど。(失礼)

でも、何かわかるんだ。
この人の中には、誰でもスッとスムーズに入れる場所がある。

たぶんそれは、男でも女でも同じで、その時彼の前にいる人間が、ちょうど一人入れるくらいのスペースが、いつも用意されている。
普通人は、扉だの窓だの鍵だの階段だの、色々とくっついていて、順々に手はずを整えなければ、なかなかその内部に入れないものなのだが、彼の場合は何と言うべきか、もう終日バリア・フリーなのだ。

でもバリア・フリーもいいけど、後がね。大人になるってことは、後のことも大事にするってことなんだから。


「元気?」
聞かれて私は困った。「全然」
「なんでだよ」
「なんで元気ないんだよ」

ほらね。バリア・フリー。

「いいでしょ、なんだって。皆、いろいろあるんだよ」
上層部の私が言う。
そして下層部の私が言う。(こんな時に、ひとの元気の無いの心配する?)

彼が言う。「そうだよなあ、いろいろあるよなあ、死んじまう奴だっているんだからな」

The Band の「 Weigt 」がかかる。昔、皆でさんざん聞いた曲だ。これ聞いてると、いつの間にか合唱になってしまったっけ。歌声喫茶じゃあるまし。

時間は経っているのだろうか。
時間は全然経っていないか、それとも経ち過ぎているかの、どちらかなのにちがいない。

いつだったか、数年前に会った時、「おー、すっかりいいおばさんになって、外で会ったらわからないな」
なんてずけずけ言われて、思わず「まーっ、どっちがよ!そりゃあんたでしょ!」なんて応酬した。

ずけずけした人と話すと、こっちもずけずけした姉御みたいになってきて、なんだかそういう自分が面白くって、もしかしてホントの自分ってこういう姉御肌だったのかも?なんて埒も無いことを考えさせるような奴。

今日のところは最後まで姉御肌で行くっきゃない。

どんな言葉も用意できなかった。
どんな言葉だって、空回りしてしまう。
言葉に束ねることのできないものだって沢山ある。

そろそろ帰宅せねばならない時間だった。
私は立ち上がって、彼の方へ、まるで命令でもするように、言った。
見つからなかった言葉を入れた空の封筒に貼った、切手のような言葉。


「ちゃんと 養生しなさいよーっ!」

「おー!」










秋アラモード3



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秋の灯や考えることやめてみる



同じ道ばかり歩いて秋曇り



爽やかや知らぬ人のみすれ違う



ストラヴィンスキー走り抜け無月かな



林檎食べ静かな午後のような味



秋晴れに昔の家と祖父と祖母



後悔に幽かな羽根ある秋の虹



秋の雲短編小説すぐ終わる



駈け出せばまだ間に合うか鰯雲



これからは自分を愛す秋の暮



思春期のような還暦青蜜柑












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コスモス・秋夕焼けなど

コスモス


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コスモスや少女空への浮力持ち



コスモスの影揺れてわが影揺れず



コスモスに蒸発してゆく地平線



コスモスやほどけない愛ほどける愛




眠れば真昼がコスモスを閉じ込める



またもやというかなんというか、色々頭を悩ませるようなことが続き、毎日無い頭を振り絞ってどうすべきか考え抜いた。
シャンプーしたら、髪の分量がかなり減ったような気がして、恐ろしくなった。
その後決定的にもっと打ちのめされるようなことがあり、もっと髪の分量が減った。

毎日、やるべきことをがむしゃらにやった。
その間は忘れていられるような気がした。

しかし朝になると、自動的に脳が元に戻ってしまうのだろうか。
どんよりとした悩ましい気持ちがまた舞い戻ってくる。

このどんよりとした鉛のような心が、髪の毛根をどろどろに溶かしているのかもしれない。
うわー、考えるにつけ恐ろしい。

そんな時素足でフローリングの上を歩いていて、ふと足の裏に得も言われぬ優しい感触を感じた。

なんだろう、踏んだことのない、身に覚えのない感触だ。

そう思ってみると、日日草のピンクの小さな花だった。
ベランダに植えようと買ってきたポット苗を、玄関からベランダへ運んだ折に、一輪零れ落ちてしまったらしい。

ただそれだけのことだった。

しかし花を踏んでしまったその一瞬、私ははっきりと癒しのようなものを感じた。

花と言うものを、私は今までひたすら眺めて愛でていただけだった。
踏んでしまって可哀想だったが、花というものの、感触の柔らかさ、たおやかさを改めて思った。

家事に忙しく、その後すぐ靴下をはいた足で、また同じところを歩いてしまって、また踏んでしまった。
しかしその時にはもう、私は何も感じなかった。

あんなに小さな花の感触で一気に癒されるためには、こちらも柔らかい素足でなければ、駄目だったのだ。












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秋夕焼けなど


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我を追う我がいて秋夕焼ける


本日のBGM
 
Tears In Heaven/Eric Clapton 


エリック・クラプトンの1992年の大ヒット曲。最初私は歌詞の意味を意識せずに、ただいい曲だなー。と聞いていただけ。
自宅ベランダからの転落事故で4歳の息子を亡くした悲しみを歌ったものだとわかったのは、大分後のことだった。
当時クラプトンは悲しみのあまり、長い間家から出ることもできなかったという。
この曲とともに仕事に復帰し、悲しみを乗り越えたという。


Tears In Heaven | Tommy Emmanuel & Igor Presnyakov

こちらはアコースティック・ギター界の大御所トミー・エマニュエルとモスクワ生まれのギタリスト、イーゴリ・プレスニャコフによる同曲の演奏。

歌詞がそのままギターの音になったような、表現力もさることながら、クラプトンの曲への共感、そしてまた脇役に回っているイーゴリの表情を見ると、リードを取っているトミーへの共感、いや、もう相手も自分もない、そこにあるのはただひとつの曲の世界への共振だ

最後の方で、二人が思わず歌わずにいられなくなって、頷き合いながら小さな声で歌っているのが、なんともイイ。

イマジネーションが共感を生み、共感が繋がって、大きくなっていく。

それはあっという間に消えてしまう、夕映えと同じようなものかもしれない。

しかし、それが無くては、世界はたちまち枯渇してしまうだろう。






秋夕焼け芝居の如き街をゆく



秋夕焼け傷ついたもの皆つつむ



上り電車秋夕焼けに直進す



秋雨の静かに大地確かめる



鈴虫や指輪を箱にしまいをり



青春が密閉され林檎の真ん中



虫の闇星の夜空に釣り合いぬ



秋高しまだ見ぬものの多さかな










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葡萄・秋天・水澄むなど

葡萄


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刻一刻時の実りて葡萄かな



高き天の額より葡萄垂るる



密生すアルゴリズムの葡萄かな



葡萄裂れ迸り出る夜の四肢



かなしみは真っ直ぐに垂る葡萄かな

かなしみは、真っ直ぐに垂れる。どこにも干渉する力が存在しない。
葡萄も、真っ直ぐに垂れる。重力に身を任せるのに、どこにも干渉する力が存在しない。

もし人が捥いで食べなければ、鳥が食べるのだろう。雨風が葡萄粒を落としてゆくのだろう。
そして何度も昼夜が入れ替わり、葡萄も私も鳥も風も存在しなくなるのだ。









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秋天・水澄むなど


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本日のBGM 

Keith Jarrett Trio - When You Wish Upon a Star



秋天に紙舞い上がり落ちて来ず

今日は、はっきりと「秋になった」と確信した日だった。
といっても、暑いのは暑かった。
しかし、確実に秋が訪れていた。

暑くても、風が木綿の布のようにサラリとしているのだ。
べっとりしていない、なんていうか、身を清めてくれるような、風。

それから光の粒子が、しっとりと落ち着いている。
光がきめ細やかに、微かな重みを持っているような気がする。

そして、地上のものはしっかりと沈下し、天のものはすっかり高みへと遠ざかる。

こんな日が、記憶の中のそんな日を一挙にかき集める。

今日の秋の光のその角度の中に、私が見ているものは、またあらゆる過去の同じような日の、秋の光なのだから。


秋天や列車出てホームは無人



チェンバロがひかりの螺子を巻く秋天



虫の闇我も沈める船となり



人待てば火照ってをりぬ虫の闇



モナリザの微笑の後ろも秋高し

これは、本物のモナリザの絵の通りでは、ない。
本当のモナリザの絵の背景は、まあ秋っぽくないわけではないが、もっと湿気がありそうだし、この世かあの世かわからぬもやーっとした怪しげな感じがあって、あまり「秋高し」という雰囲気ではない。

でもこれはモナリザの絵を写生した俳句ではない。
何となく秋っぽいモナリザの微笑みと、「天高し」という季語の、両方のコントラストを利用した、俳句の中の自然現象を作っているものなのだ。

俳句の中の力学が、現実の力学とおんなじ、というわけではないのだ。



秋晴れのような嘘つくおとこかな



柘榴落つ馬鹿野郎という言葉



私とは誰なのかしら水澄みぬ



水澄みて滑らかな幾何となりゆく



その昔風だったことのある蜻蛉



思案とは林檎の中の虫の道



うつくしき引き算となり秋の空

春、夏というのはイメージとしては「足し算」だ。
伸びてゆく草木、増えてゆく花々、暖かくなり、やがて暑くなって、上昇してゆく温度。

秋は、そうなれば「引き算」だ。
低くなってゆく温度、湿度、少しづつ木々の緑の厚みが薄れて、花もどちらかというと秋のものは地味目である。

しかし引き算の大気のどれほど透明で心地よいことだろう。
そして花を終えて、充実した実を結ぶもの達。

この上なく豊かな余剰、美しい、引き算。

ひとの秋もできるだけこう行きたいものだが、なかなか。












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曼殊沙華・秋アラモード2

曼殊沙華

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空の青祀り上げたり曼殊沙華



睡るもの地に層なせる曼殊沙華



曼殊沙華つかむ虚空の涼しさよ



曼殊沙華古き白黒写真の中



暮れゆきて遠きネオンや曼殊沙華

曼殊沙華には沢山の別名がある。ご存知の彼岸花のほか、死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)など、あんまりだ、という不吉な感じの名前ばかり。

球根には毒があるというが、水で何度もさらすと無くなるので、昔の人は飢饉の際のデンプン源としていたという。

それにしても自然の造作とは思えぬ見事な造形である。
混ざり気のない「赤」だから、見れば無条件に「ドキッ」とするが、よくよくその形を見れば、全てが曲線で構成されていて、優雅で繊細だ。

私はこの花を見ると、浮世絵を思い出す。

歌麿や国芳、春信など、どうして浮世絵の中の人々は、あんなにどこからどこまで、曲線だけでできているのか。
色彩がいまひとつ地味目なのは、植物性の絵の具しかなかったからだというのは、分かる。
でもあの人間たちのシルエットは、極端に柔らかく描かれていて、軟体動物のように不気味である。

日本に来たことのない外国人が、昔あんな絵を見たら、日本人には骨と言うものが無いのか、と思ったりしなかったのだろうか。

曲線ばかりで描かれた浮世絵の、かんざしだらけの女性のような、柔らかくて哀しい雰囲気、そんなイメージを、私はこの花に、持っている。












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Eva Cassidy - You've Changed
フォーク、ロック、ブルース、ジャズ、どんなジャンルの音楽でも独自の解釈でソウルフルに歌い上げるエバ・キャシディ。曲はビリー・ホリディのもの。











秋アラモード2


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眠り入る我は銀河と平行に



蛇口から水漏れている銀河かな



瞬けば花野が消えてしまいそう



しあわせはどこかが麻痺す花野かな



かかわりにならぬがよろし秋の雲



秋風や四肢水平に伸びゆきぬ



コスモスや考える筋肉弱る



手放してゆくもの多しコスモスや



過去のこと過去に帰りぬ秋の風



秋夜長ドラマ見ている百面相

深夜家事がすべて終わった後、ダイニングキッチンのいつもの自分の席に座ると、ちょうどその位置から違う部屋、今は主に夫が使っている奥の部屋の一角が見える。
そのほんの10センチくらいの視覚の中に、私の見たことのない夫がいる。

その時間、夫は大抵布団に寝そべって、お腹の上にノートパソコンを置き動画を見ている。
映画かドラマかわからないが、そういうものを見ている時間が、彼の黄金時間のようである。

私が驚いてしまうのは、夫の表情が、私には見せたことがないような、豊かで繊細な、色んな顔をする、ということなのだ。

本当に、結婚以来見たことのない、色々な顔。
まるで奇妙な隠し事でも発見したかのように、私は驚く。

だって、そう言っては何だけど、私は彼の、大体5パターン位の表情しか見たことがないのだ。
笑っている顔、怒っている顔、適度に機嫌のいい顔、戸惑っている顔、ごくたまに塞いでいる顔。
だいたいがこんな感じで、いつもの夫の、いつもの顔。

だがドラマを見ている時の夫の顔は、繊細かつ微妙な表情で、秋の夕焼けのように、刻々と変化するのだ。

ニコニコしていたかと思ったら、眉根がかすかに曇って来る。
怪訝そうな顔色になって来たかと思うと、そのまま目には同情と心配の色がありありと漲って、眉は八の字に下がり、今にも涙が浮かぶのでは、というような表情へと変わってゆく。

えーっ、あんな顔、するのー!

ここですかさず私はムラムラっとくる。
何故って、私の身の上にも、ほんと色んな事があったのだが、いまだかつて、あのひとのあんな視線を浴びたことはないのである。

あの共感に満ち満ちた、心配そうな視線!

そうかと思えば、限りなく優しい顔になり、その柔らかな視線はあたかも秋草を撫でてゆく微風のよう。
その風が、キラッと光ったと思ったら、まあなんて、芯から嬉しそうに微笑むではないか。
混ざり気の無いひとの心の表れた表情というものは、これほど印象的なものなのか。

それから、ああ、これも初めて見る顔だ。
何かと何かに葛藤、している顔。
憎しみと悲しみ、或いは憤りと諦め。相反する感情に引き裂かれ、葛藤している、こんなに深い大人の表情を、私は現実の夫の顔に上に、一度たりとも発見したことはないのである。

2人で話している時に、よく私の言うセリフ。

「ねえ、聞いてる?」。「聞いてるよ」。

しかし話には返事がないことも結構ある。
話は聞いてくれているのだろう。しかしそのレベルというものがあるだろう。

私という川の、水面に近いところで、彼はコミュニケーションしているのだ。
その下の、深いところまで、あまり降りてくることが、無い。

でも人間なんてこんなものかもしれない。

夫の知っている私と、私の知っている夫でコミュニケーションしているだけだから、それは途方も無く、お互いの現実から、遊離しているのかもしれないのだ。まるで木霊の木霊のようだ。

ひとりの女性の心を掴むのは、そんなに難しいことではないと、私は思う。
時にはその女性の話を、心底共感して、聞いてあげること。相手の心の前に、じっと立ち止まってあげること。

それはかならず相手に伝わる、そう思う。










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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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