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桔梗・秋アラモード

桔梗

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すみません、リンク切れでご迷惑おかけいたしました。2度手間で申し訳ありませんが、「桔梗」はこちらをご覧ください。


きちこうや地球の半分いつも夜



桔梗咲き人みな別れゆく夕べ



きちこうや片恋はどこまでも奇数



きちこうが月までの距離を測る



男の背扉がありぬ桔梗かな



きちこうやほしのひかりがとんがりぬ

この句はかなり誤解されやすいかもしれない。
桔梗というのは考えてみれば星型だ。
しかも花びらがとんがっている。
だから誤解されたらされたでそれは仕方のないものが俳句というものだ。

秋めいてきて、星々のひかりも何となくとがってくるような感じが、桔梗と共存していると良い、そんな雰囲気を表現したかった。

でも後から気が付いたら、桔梗の花の星型、とんがり花弁。
やっぱりこの句を詠んだ人は花の形の句だと思ってしまう方が多いんだろうなあ。

私は、桔梗という花を思うと、どうも宇宙だの星だの、月だのという方にイメージが広がってゆく。
一体なんで?と今回よくよく考えてみたら、あの「色」なのだ。

青紫~紫。
物凄く神秘的なオーラを放っている「色」なのだ。

それが宇宙の神秘と絡み合ってゆくらしい。

他にもタロットとか、古代文明とか、謎めいているもののイメージに、吸い着いていくようだ。











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秋アラモード



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本日のBGM Bach's Goldberg Variations Glenn Gold.1981 record(BWV988)

グールドの秋のバッハの螺旋かな

30代の頃、グレン・グールドのピアノが好きで時々聞いていた。
バッハのゴールドベルグ変奏曲は1981年に録音されているものだが、
残念なことにグールドはこの録音をした翌年には亡くなってしまう。

この曲を聴くと、私はいつも「秋」という季節の透明感に思いを馳せた。これほど秋にぴったりの曲はないと思っていた。

しかし現在この曲を聴いて私が心に浮かべるのは、「白秋」という言葉だ。

人生の各々の年代を季節になぞらえて、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」というのはご存知の通りだが、ちなみに「白秋」は、50代後半から60代後半あたりだそうで、うーん、まさに今、という感じ。
よく聞いていたのは30代だったのだけれど、今聞くとその時よりも自分の心にフィットしてくる。

この澄んだ水の中を、果てしなく螺旋を描きながら沈下してゆくような、また透明な風の中を、天空へと螺旋を描きながら果てしなく搭の中を登って行くような、どこまでも内省的な音。

言ってみれば「静かに深く自分というものに耳を澄ましている音」なのだ。

だが、奇しくも最後の録音となったゴールドベルグ変奏曲は、また彼のデビュー曲でもあった。

1955年に録音されているゴールドベルグ変奏曲は、81年録音のものとは、全く別物のように、表情が違う。
軽快なアップテンポ、バッハらしからぬロマンティックな雰囲気、春の驟雨にわけも無く胸がはやるような、まさにこれは「早春の光に満ちている」音。

グールドが23歳の時の録音だ。

Bach's Goldberg Variations (V5)(1955) complete by Glenn Gold

そして今私は、やはり「白秋」の真っ只中にいるのだろう。
55年の録音のものも、これはこれで素晴らしい。
でも、81年録音のゴールドベルグの透明感の方が、よりしっくりとくるのである。



三日月や何処から見ても物語



途切れれば闇の巨大や虫の声



新涼に初めて通ってみる路地を



しばらくは喋りたくない秋日傘



忘れゆくものの大きさ秋の海



だんだんと無口になりて葡萄食ふ



秋の夜ギリシャの壺の中もまた



鰯雲どちらの道を選ぶべく



鰯雲空の面積思い知る










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狗尾草・晩夏アラモード

狗尾草

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それらしい言い訳考へ猫じゃらし



猫じゃらしわたしはわたしに矛盾する



雑用に明け暮れてゐる狗尾草



陽を吸へる狗尾草を見て帰る



狗尾草まだ飼い猫になり切れず



猫じゃらし愛想出さずに尻尾出す

近所で、餌だけ貰って、その家の玄関周りにたむろしている半野良猫?外猫?達が、そういってはなんだが、全然可愛くない。

ちょっと呼んだりしても、「ふん、お前は何か持ち合わせがあるのかね?」みたいな顔をしている。
1メートルまでは逃げないが、50センチまで近づくと、やはり逃げてしまう。

思えば実家では猫がいないことはほとんど無かった。
いなくなっても、すぐに私がその辺の野良猫をなつかせてしまった。
若い時、私はあの柔らかな猫の背や、頭を撫でて暮らしていたのだ。

しかし、いつでも悲しい別れが訪れた。
病気で私の部屋で亡くなった猫もいたし、どこかへ行ってしまった猫もいたし、街に住んでいたから、交通事故も多かった。

その度にもう猫は飼うまい、と固く心に誓うのだった、が。

今になって、ふと思う、あの猫たちは、今何処にいるのだろう。
何処にもいないってことは、あり得ない。

だってこれだけ私の記憶の宇宙にいるんだから。

最も、猫だけではない。
いなくなってしまった、大事な人達、無くなってしまった、懐かしい場所。

今はもういない、色んな人達、色んな場所、色んなもの。

何となく思うんだけど、今いるものに、今いないものは、組み込まれている。

ジグソーパズルのように、色々なピースで私の周りは埋め尽くされている。
実在しているものも、実在していないものも、かつて実在していたものも、私の周りをぎっしりと埋め尽くして、いる。

さしたる理由も無く、そんな風に感じる時があるのだ。








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晩夏アラモード

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新涼やもの考える人の顔



秋夕焼け今日も両手にレジ袋



行く夏にいつも何かを置き忘る



秋暑し恋はゆっくり解体す



わだかまり持て余しつつレモン買う



蛇口思い切り捻れば秋夕焼け



吾の中の少年少女の晩夏かな



梨食ふや月夜のすべり台降下



稲妻やどっちつかずな我の前



虫の声闇洗われてゐる如し



かなかなや小刻みに我の奈落へ

この句は、最初はこうだった。「かなかなや 小刻みに恋の奈落へ」。
どちらでも成り立つとは思ったが、なんにせよ気が引けた。

ゆっくり解体していくような恋について詠むのは、この年になると実に現実的で気が引けないのだが、ゆっくりと熟成してゆくような恋について詠むのは、なんだかもう気が引けてくるのだ。

でも若い人が読んでくれて、「そうそう」なんて思ってくれたら嬉しいし、やっぱり「恋」でいいにするかと思ったり、かなり迷った。

22歳の、俳句なんぞ全く興味無い息子にどっちがいい?と見せたら、「我」だという。

同じ奈落でも、「恋の奈落」と「我の奈落」では雲泥の差である。
「恋の奈落」なら、少しづつ、少しづつ上昇してゆくのだけれど、「我の奈落」だったら、少しづつ、少しづつ、確実に落下してゆく。

でも「我の奈落」というのは、矛盾しているかもしれない。

なぜなら、奈落というからには、もう「我」などという範疇をとうに超える境地に達してしまうと思うからだ。
「我」というバケツの底が抜けて、空だの風だの、花だの木だの、虫だの魚だの、森羅万象と渾然一体となっているような場所、そういうものが奈落というものでは、ないだろうか。

それならば、「恋の奈落」でなくったって、別段それほど救いようがなく寂しいものではないということだ。

ここまで考えて、ふと立ち止まった。

いや、そんな風に思うのは、確かにこの年になったからではないだろうか。

若い頃、特に10代の頃なんぞ、自分は本当に激しい孤独の空洞を、確かに持っていた。
それはバケツどころではない。
長い長いトンネルのような、そんな救いようの無い孤独だったのだ。
底は空いていたかもしれないが、10円玉くらいの穴が開いて、うすぼんやりと光でも射していた程度だったに違いない。

それが今となっては、バケツの底はすぐそこだ。

そして、バケツの底が抜けた向こうは、果てしなく豊かな、森羅万象の奈落なのだ。











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露草・夜の秋

露草

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露草のかんがへてゐるやうな青

露草の青は、潔癖な青である。
つまり、純血種な青で、それは藍でもなく、紺でもなく、浅葱でもなく、瑠璃ともやや違う、正真正銘の「青」なのだ。
そしてまた「青」というシンプルな漢字の見た目に実にぴったりとくる、飾り気のない、思慮深い色だとも思う。

小さいながら、ドキッとする、神聖な宝石のような青。



露草やひとり帰れば鍵の音



露草や心配事の二つ三つ



露草や我に返れば小さき青



露草や夢でいつでも迷う道






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夜の秋



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本日のBGM → Sinne Eeg Remembering You


ジャズボーカル月へ抜け行く夜の秋

実はこのページ、書きかけというか、エッセイの部分は後から書き込むつもりで、途上だったのだが、なにか手違いで、アップしてしまい、今慌てて書き足した。 ・・・スミマセン。

「夜の秋」という季語は、俳句をやらない人が聞いたら、実に奇異に聞こえるのだろう。
昔私が「夜の秋」と口にしたら、それを聞いていた母が、「あなた、それはおかしいでしょ、秋の夜でしょ」って、まことしやかに諭すように言うものだから、おかしかった。
でも考えてみれば、知らなければ、耳にした時に「海の波」が「波の海」となってしまったのと似たような、納まりの悪さがあるのかもしれない。

「夜の秋」とはご存知のように、昼はまだまだ蒸し暑いのに、夜になってグッと温度が急降下し、いかにも秋にでもなったかのように涼しい夜のことを言う。
避暑地などで、日中は暑くとも夜には羽織るものが欲しいくらいに涼しくなる、そんな夜も含むだろう。

熱帯夜は寝苦しく、何度も目が覚めてしまうし、暑い時は生活の諸々をやるだけでもう精いっぱい、それがこうした涼しい夜になると、急に音楽を聴きたくなったり、本を読みたくなったり、感傷的になったりするから不思議である。

しかしその前段階として、ぐっと疲れが出るのである。
体調が悪くなったり、関節が痛かったり、何もやる気が出なかったり、それをまず通り越して、こういうゆとりのある状態になってくるのだ。

「夜の秋」とはまあ、よく言ったもので、そういう夜は沢山ある。

「秋の夜」ほどには深くなく、空間もまだまだ整然とした雰囲気にはなっていない。
しかし「夏の夜」に比べたら、全く異質な「夜」である。

夏の夜には、なんであれ、脳の中で密集して動きの取れないもの達が、少しお互いの間にわずかな距離を持ち始める。
そのおかげで、脳の中で、なんとかゆっくりとそれらが動き始めることができるのだ。

それらのものが、ゆったりとしたジャズボーカルなどに乗って、しみじみと通り過ぎてゆく。
ぼんやりと思い出したり、考えたりすることが、ひとつひとつ、よく見えてきて、とりあえずその果実のようなものの味がわかるようになる。

そんな感じである。
やっと生きた心地がする、そう思う。



夜の秋今いるひとといないひと



ヘッドライト雨に流れて夜の秋



思い出す言葉短き夜の秋



水滴の間が空いてくる夜の秋









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木槿・晩夏など

木槿


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花木槿まんじりともせぬ家影に



花木槿隣家の親子喧嘩かな



花木槿腑に落ちるよに朝になる



ごくたまに恋の亡霊花木槿



花木槿バレエ教室終わる頃

近所のビルの2階にバレエ教室があり、教室が終わると、小学生くらいの女の子達が、ガヤガヤと階段を降りてる。

何と言っても可愛いのは、あのお団子にまとめたシンプルな髪形だ。女の子達の項はまだか細くて、だからこそあのお団子ののっかった頭が
いっそう可憐に見えるのだ。

息子がまだ小さい頃、2歳半から3歳くらいだっただろうか。
姪っ子のバレエの発表会に、連れて行ったことがある。

至近距離でバレエというものを見たのは私も初めてだったのだが、とても驚いたのは、バレエというのは、実は舞台では大変
大きな音をたてる踊りである、ということだった。

遠目に見れば、いかにも軽々と蝶々だの妖精でもあるかのような、優雅な舞踏であるが、そばで見ていると、その跳躍のたびに、ドン、ドン、ドスン、ドスンと、大変な音がする。

考えてみれば、何の不思議もない。
小学生といったって、小さい子から大きい子まで様々だが、20キロ、30キロだのの女の子達が、ぴょんぴょん、とんだり跳ねたりするのだから、あれくらいの音はして当たり前なのだろう。

しかしそれまでの私の経験からしてみれば、テレビや遠目の舞台でしか見たことがなかったので、バレエというものは、人間が踊っていたとしても、ティンカーベルだの、幽霊だの、蝶々だの類の、およそ重さという概念から遠く隔たっている、重力に反した踊り、そんな風に思えていたのだ。
また、そう見えてこそ、バレエという典雅な舞踏の本領を発揮している、ということなのだろうが。

それがドン、ドン、ドスン、ドスン、だったので、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。

息子は成り行きで連れて行かざるを得なかったのだが、男の子なので、別段面白がらないだろうと思っていたのだが、帰宅してから、何か妙なことを始めた。

足をぴんと伸ばすののだ。

そして「アンヨ、ピン、アンヨ、ピン」などと言い出した。

うーん、やはり非日常的な人間の動きというものは、子供には特に、なんであれ面白いものに違いないのだろう。
暫くの間、我が家では「アンヨ、ピーン」がちょっとしたブームになっていたのだった。











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晩夏・その他


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暦の上では8月立秋以後は秋ですが、実際には、「晩夏」という季語が実感としてぴったりくると思います。
あまり実生活からかけ離れて俳句を作るのはつまらないので、私は8月には、夏の季語と初秋の季語を混ぜることが多いです


少女の声集まり遠のき晩夏光



断捨離の本読みふける晩夏かな



食べて洗ってまた食べて晩夏かな



落蝉はまだあの空を抱いている

蝉の一生は切ない。土の中で、例えば油蝉の場合は6年もの間幼虫で、いわば下積み生活だ。
天敵も多く、土の中で死んでしまうものもたくさんいる。
やっと外界へ出てきて、成虫となった後も、蝉自信は攻撃をしないので、
色々な生物に襲われやすく、とても過酷な一生なのだという。

外の世界へ出てきてからは、1週間というのは俗説で、1か月から1か月半くらいの命だとのこと。

しかし蝉は蝉で本能に忠実に生きているだけだから、「下済み生活、つらいネッ、
とか、「なんて過酷で、切ない運命」なんて思ってもいないのだろう。

必死で危険をよけながらも、本能にしたがって、鳴いて、鳴いて、子孫を増やして、そして天寿を全うして、落ち蝉となる。

私が蝉の声に魅かれるのは、蝉と蝉の存在との間に、一分の隙も無いということを感じさせられるからだ。
ただ一心に鳴くことに埋没している。
自分を顧みたり、反省したり、行く末を色々シュミレーションしたりなんてことはせず、ただその時を生きること、鳴くことと一体になっている、そういう原始的な状態に、懐かしさや羨ましさを感じるからなのだ。

ふと思った。人間は、何故音楽というものを必要とするのだろうか。
端的に言って、やはり蝉のように、原始的に自分の存在と一体になって、鳴きたいだけなのではないだろうか。

歌というのも、もとはと言えばそんな動物的な素直な本能が複雑になっただけのものなのかもしれない。
そして声には自信がない、なんて手合いが、実に様々な楽器を考案したのかもしれない。


しかし落ち蝉はやはり切ない。

落ち蝉はきっと空を抱いている。




盆の月カーブミラーに歪みをり



夏草に野蛮な私が隠れてる



赤カンナ髪結い上げてひと夏を



振り向けば誰も居ぬ道涼しさよ



凌霄花の風のふところ知っている



傾けて鳥を見ている秋日傘









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朝顔・花火など

朝顔

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朝顔やまだ新しきものおもい



朝顔や夜裏返り朝となる



朝顔やすみやかに星逃げてゆく



朝顔や空の皮膚まだ優しくて



朝顔の色のいちずを振り返り

少し前の夏に、朝顔の苗を買い込んで、玄関前に植え付けた。
苗についていた写真では、大層美しい大輪の、淡いピンクとブルーの朝顔で、私はそれが咲くのを、かなり楽しみにしていた。
ツルが伸びてゆき、蕾もついて、さあ咲いたかなと、毎日玄関から外へ出るときには、ぱっと開いた大きなラッパのような花を想像しては、朝顔を見る。

ところが、どうしたことだろうか。
大輪の特別の朝顔のはずが、開くには開いているようだが、使った後の布巾のように、しんなりと半開きにしなだれている。
毎日毎日、朝顔の花は、元気がなく、半開きのような、萎れかかったような、かなしい状態だった。
私は、その朝顔を買った園芸店に行って、様子を話した。
色々と話しをしたが、埒が開かなかった。よくわからない、と言われてしまった。

あれほど楽しみにしていたのに、不良品を買ってしまったのかと、大層不満だった。
青空にひらりと大きく、サキューラスカートの如く開くはずだった、朝顔。猛獣のような暑い夏に、少しでもささやかな楽しみを作ろうと思ったのに。

しかし、ある時私は雷打たれたかのように、真実に思い当たることとなる。

その真実とは、朝顔には何の罪もなかった、ということなのだ。
特別に大輪の美しい朝顔は、普通に毎日咲いていてくれたのだ。おそらく。
帰宅が深夜の主人と、私の在宅ワーカーという職業柄、寝るのは午前、4時。
どうしても午前11時ごろに起床となり、朝食、家事などが終わって、何か外出となると、早くて2時3時、完全に昼下がりなのである。

それでどうして朝顔がぴんと、ラッパのように咲いているわけがない。
夕方ともなれば、完全にしぼんでしまうが、まだそこまでいかない時間には、濡れたハンカチのように、しんなりと萎れかかっている、その状態の時間に、いつも見ていたということなのだ。

なんという間抜けであろう。
思えば子供が小学校の頃には、ベランダに朝顔の鉢植えなど置いて、愛でていたものだが、子が育ってしまってから、私はリアルタイムの朝顔に、ほとんど遭遇していなかったのだ。

花の俳句を作るとき、実際にその花を見て感動した方が、やはり作りやすいのだが、朝顔に関しては、子供の頃の朝顔の記憶が、あまりにも強烈に残っているから例外のようだ。

庭とも呼べないほどの小さな庭、そこにあった外の水道で、私は夏休みの朝、顔を洗ったり歯を磨いたりしていた。
庭のはずれに、毎年祖父が細長い木箱に朝顔をいくつか植えていて、まだ眠い目を覚ますような茄子紺や、瑠璃色、牡丹色や淡い桃色などの色とりどりの朝顔を見ながら、私は歯を磨いていたのだ。

それから、ラジオ体操に行って、実に開放的な気分で帰って来る。
そして家に入る前に、必ずもう一度確かめた。

あの朝顔たちの、一途な、色。





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花火・その他


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上り下りの列車下行く花火かな



勿体をつけて開けば大花火



花火繚乱こころひらけるひとはいず



ひとごとの如き思い出遠花火



遠ければ遠きことおもふ花火かな

遠花火というのは、水槽の中の熱帯魚のように、静かである。
むろん、ドーン、という破裂音はしているのだけれど、やはりそれもそれなりに遠いものなので、近場で見る臨場感のある花火とは、大分質の違った娯楽のような気がする。

言うなれば、プールで実際に泳ぐ楽しみと、プールサイドで人々が泳いでいるのを見て、夏の雰囲気を楽しんでいる、そんな違い。

どんなに盛大に重なり合って打ち上げられていても、遠花火は何か寂しい。

花火を見ている自分と少しばかり離れて、平行して存在している場所に、花火のように速やかに、自動的に、過去の出来事がすーっと現れては流れてゆく。

そしてまた、その「思い出」達との間も、微妙に距離感があって、それを喜んでいるのか、そうでもないのか。

何もかも、定かではないのだ。




ストレッチ・マッサージ皆放棄夏の夜



かなぶんを月に返して寝る時間



鬼灯や大事なことを言えぬまま



人間の裏と表と鬼灯と



踏切にひとが並んで夕焼けぬ



空蝉のなかは小さき寺院かな



月見草力入れずに開きけり





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カンナ・星月夜

カンナ



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カンナ咲く真昼の燭の如く咲く



枯れながら咲きながらカンナのソプラノ



カンナ咲く男待たせている女



血圧の高そうな雲カンナ咲く






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星月夜・天の川など


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光年の出会いばかりの星月夜



星月夜子音涼しく犇めきぬ



星月夜かつて知ったる未知もあり



銀河ありそうで無さそうなものばかり



天の川耳鳴り右から左へと



スプーンとフォーク銀河に落とす



星月夜距離という寂しさ一堂に

ただでさえ、この年になると頭の中はどうも混沌としてくる。ひとつの目的があって、そのために行った部屋で、「あれ、何しに来たっけ?」はもうしょっ中。
そんなモヤモヤした頭の中に、また解決のむつかしい問題が堂々巡りを始めると、もういけない、心はわた飴の上に、ソフトクリームを絞り出してのせたような、なんとも不安定な、寄る辺ない状況になる。

「気分を変えなくちゃ!」
夕飯の準備に取り掛かろう。そういえば息子がちょっと辛目の麻婆豆腐を食べたいと言っていたから、今日の挽肉は麻婆豆腐にしよう。
ニンニクとショウガのみじん切りにネギのみじん切りを用意して、豆腐の水切りをする。フライパンを温めて、みじん切りの細かなものたちをいため、豆板醤を入れて、一緒に炒めるんだったっけ。
ここが昔は分からなかった。後で、たれに豆板醤を入れていたりしたので、美味しくならなかったのだ。
この肉を入れる前の段階で、豆板醤を炒めるから、美味しくなるのよねー。

などと自分を励ましつつ、豆腐の準備。ネットスーパーで注文した豆腐は、パッケージの写真が小さくて分からなかったのだが、大きな豆腐ではなく、なんと小さな豆腐4つだった。大きな帯状のビニールが巻かれていたので、様子が分からなかった。
チマチマと小さな豆腐をキッチンペーパーを敷いた皿に並べてレンジで水切をしたが、なんか怪しかった。プルプルしていて、水がきれたんだかなんだか、はっきりしておくれって感じだったが、まあいいかとガス台の横に持ってきた。

ここで何気なく手元にあったスマホを見ると、「がーん!」
「今日は飲みに行くことになったので、夕飯いらない」だと。

ソフトクリームをのせていたわた飴を支えていた割りばしが、一挙にぽっきりと折れたような気持ちになった。

いや、気を取り直そう。
とにかく麻婆豆腐を作ろう。何か一つうまくいけば、気持ちというのは、かなり前向きになるものだ。
などと思いつつ、作業を再開した。炒めた豆板醤に、醤油や味噌を合わせたたれをつぎ込み、ジュージューいってるところに、怪しい豆腐たちを投げ込んだ。
そこで、はっとした。
「なんか違う」
後の祭りである。挽肉はどうしたんだ!挽肉は! 挽肉を炒める手順を、まるきり省いているではないかー!!前代未聞のボケである。挽肉はいまだ冷蔵庫の中なのであった。
豆腐たちはもう、たれの中で出来上がりつつある。
私は挽肉を手に、全速力で思案した。「どーしよー」
しかし考えるより速く、どこからか巨大なな魔力のようなものが、私をつかんだ。

それは「ええい、ままよ」という名のラベリングがされている魔力で、副タイトルとして「どうにでもなるがいい」とラベリングされている魔力だった。
私は、手にしていた挽肉を、炒めずにそのまま鍋に投げ込んだ。
「和風料理で、挽肉と厚揚げの煮物なんかもあるんだし、炒めずに煮ただけだって、それほど酷いことはないだろう」そういう考えもチラリと頭を掠めた。
しかし甘かった。
出来るには出来たが、食べてみると果たしてそれは「失望の味」だった。
入れた材料の味は、すべて、した。
ニンニク、しょうが、豆板醤、豆腐、挽肉、ごま油、このそれぞれのものの味は、確かにした。
しかしそれらは、「協力して」ハーモニーのようなものを、作ってはいなかった。
それらの味はどこまでも分裂して、バラバラだった。

見た目もなかなか酷かった。むきになって挽肉を固まらないよう掻き混ぜたので、豆腐も何が何だかわからないほど細かくなってしまっていて、この見た目そのものが、もう、今の私の頭の中を如実に表していた。
混沌とした気持ちで作った混沌とした麻婆豆腐。この一皿は、今の私の心そのものだ。

ついにわた飴の割りばしの棒はポッキリ折れてしまった。

全てに嫌気がさして、私はベランダに出た。
槍投げでもするように、モヤモヤしている気持ちを外界に打ち捨てられたら、と思った。
しかし、ふと夜空を見上げると、いつもと様子が違っていることに、気が付いた。

いつになく、沢山の星が、出ているのだ。街中のこの辺では、こんなに星が見えるのは、珍しい。しかもパソコンのせいで、非常に度の進んだ私の老眼の視力で、ここまで見えるとは。手元だけが見づらく、遠景が見えていたのは、もう昔。今では、遠景も、中景も、手元もみなそれなりに見えない。

そういえば、月が無かった。そうか、月はもう沈んでしまったのかも。それで余計に、こんなに星が見えるのだ。
8月上旬は歳時記の世界ではもう「初秋」だ。
ではこれこそが、初秋の歳時記にある「星月夜」というものではないか。
七夕も、もとはと言えば現在の8月の季語で、その頃は星が良く見える、ということも思い出した。

なるほどなあ。温暖化と暦のずれで、色々ひずみもあるけど、基本的には歳時記の通りなんだ。
私は感心した。
しかしベガとアルタイルがどれかは、探したけれど分からなかった。私の視力で見つかった星座は、実に分かりやすい、ひしゃげたWの字、カシオペアだけだった。

それにしても、よくよく目を凝らして見ると、ありそうなのだ、「天の川」が!
何か、モヤモヤと少し白濁している流れがあるようなのだ。
天の川の微かな白濁、そのモヤモヤは、あの麻婆豆腐のモヤモヤと、何たる違いであろうか。

私はすっかり気分が晴れた。

なんて遠い者たち同士だろう。気の遠くなるような隔たり、想像しがたい無限。
距離たちの交響曲、無限という涼しさ。

麻婆豆腐がどうしたというのだ、わた飴がどうしたというのだ、とりあえず、この涼しい距離間の中で、小さく小さく、一粒の砂のようになったミクロな自分を感じていようではないか。

その感覚は、大層涼しく、気持ちの良いものだった。









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予定無く蝉の声吸い取っている



蝉の声記憶の瘡蓋はがれをり



秋扇こと荒立てぬよう話す



ひぐらしに空遠のきぬ幾重にも





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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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