紫陽花・梅雨

紫陽花


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紫陽花や遠き雷鳴振り返る



紫陽花に重き封書の届く午後



紫陽花や未明の宙へ鳥生れ



紫陽花や時間の川の底を見る



紫陽花や第三巻まで読み終わる



紫陽花の青の奈落を見てをりぬ

見ても見ても見飽きない花に、紫陽花がある。昨今はピンクも人気だが、やはり昔からあるブルー系に心は動く。
何故だろうと考えるにつけ、こちらの心模様を、くまなく映し出しているような色だからではないだろうかと、思い当たる。
この写真の紫陽花は割合シンプルなブルーの濃淡だが、もっと様々に細やかな、水色から青、青紫を通って紫、ピンクまで七変化するような、移ろいやすい心をそのまま鏡に映したような細やかな色の紫陽花が、大好きである。

でもシンプルな青の濃淡のものも、その青の深さは梅雨の深さと相まって、慌ただしい毎日の営みの中で、水平に移動してばかりの心に、じっと一点の深みへと降りていくことを教えてくれているかのようで、心に残る。

私はグラフィック・デザインをやっているせいか、「好きな色」というのは、あまりはっきりしていないと思っている。
ありとあらゆる色が好きだし、重要なのは、「色の組み合わせ」であって、いうなれば、「嫌いな組み合わせの色」と、「好きな組み合わせの色」があるのだと思っている。

私達は子供時代に学校で、「12色」あるいは「24色」の色鉛筆など使い、いたって単純な「赤、橙、黄、黄緑、緑~」などの色名を教わるが、そのせいもあって、本当は無限にある、それぞれの色の内包するトーンや、明るさ、鮮やかさや鈍さ、などのリアルな色の差に無意識になりがちなのである。

「赤」って言ったって、一体どれほどたくさんの「赤」があるか。
抽象的な「赤」という言語に、ひとくくりにされて、皆騙されてしまうのだ。
「赤」なんて嫌い、服でも似合わない、なんて思っていても、実は「赤」の裾野は広い。
黄を含んだオレンジ系の赤、朱、茶系を帯びた煉瓦色、グレイッシュな抑えた赤はおしゃれだし、ボルドー系の紫を含んだ様々な赤は、年齢を重ねていても、しっくり来る。

昔からある和の色名は、却ってこういった微妙な色味の違いを表して、とても細やかだったようだ。
「赤」は「明け」が語源の日本最古の色名だが、その周辺には、「赤紅」(あかべに)「蘇芳色」(すおういろ・ボルドー系)「紅」(くれない・マゼンタ系)「朱色」「真紅」「紅柿色」「紅葉色」「濃紅葉色」「茜色」「緋色」など、様々な色名がある。

時代とともにすたれていった、植物染料や着物文化とともに、こういう和の色名もいつの間にか耳にしなくなってしまったが、「色」というと12色を思い浮かべるような短絡的な子供時代の習慣は、細やかな日本の自然や文化から、何か大事なディティールを削ぎ取ってしまう、そんな気がしてならない。

話を戻して、自分は、本当に色々な色が好きなんだけれど、依怙贔屓で、どれか一色って、あまりないつもりだったんだけれど、

クローゼットを開けると、「???」。意識してみると、黒、茶、グレーなど無彩色の服以外は、全て、これも青、あれも青。それも青系統の小花プリント。紺色のボトムスも多い。

それから、持って歩く文房具。
ペンケースはスケルトンのブルー、メモ帳の表紙もブルー、ファイルも水色、ボールペンも水色。名刺入れもブルー。・・・・!

思えばアクセサリーも、小さなペンダントトップの石の色はすべてブルー系。
ブレスレットのビーズや模造石も、皆ブルーではないか!ここまでとは自分も意識していなかった。

うーん、負けました。「私の好きな色は青」なんて、言語に組み立てるのは、何故かいまいち気が進まないのに、私の身の回りにあるものは、「青」系統の色のものばかりなのだった。

これでは夢遊病者のように呆然と、いつまでも紫陽花の前で立ち尽くしてしまうのも、ま、無理のない話というものだ。








梅雨  


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青梅雨・・・旺盛に育つ草木の青々とした清涼感を感じさせる梅雨模様。    荒梅雨・・・暴風雨やしけのように、荒れてしまう梅雨の日。


青梅雨やゼリーに匙を深く刺し



荒梅雨や傘あちこちに傾けて



青梅雨やまだ来ぬ返事待っている



青梅雨の猫が素早く渡る道



青梅雨の雨を逝くひと送るひと



梅雨晴れ間ひとつ魂放たれし

同じ敷地内に住む身内がひとり、急に亡くなった。
夫の肉親で、夫とは色々な意味で絆の深い関係だったので、その悲しみは一通りではないし、まだ始まったばかりだ。

ひとの心は、究極的には、自分以外のものにどうこうすることはできないのだと思う。
こんな時、義理の立場のものは、肉親のように直截な悲しみを持たない。
しかし、その分、平常心で、普段通りのご飯を作り、洗濯をし、風呂をたて、非日常的な心を、なるべく日常的な生活でそっと包んであげることが可能なのだと思う。

そして、話を間近な心の場所で聞いてあげたい。
私達人間は、「想像力」というものを持っている。

自分にとって直截な悲しみではなくとも、「想像力」のエレベーターに乗って、相手の心の間近にまで、降りていけるのだ。
自分が大事な肉親を失った時のこと、また、これから先に起こるであろう、同様な事態について想像してみれば、今自分にとっては直截的なものでなくとも、相手の悲嘆の間近まで行って、話を聞くことができるのだと思う。

大事な人を亡くした時の俳句は、本当にたくさんある。
私が最近接した中で、最も印象に残ったのは、正木ゆう子の第5句集「羽羽 haha」から、彼女が母を亡くした時の句である。

けふ母を死なさむ春日上りけり

大切な人が亡くなってしまっても、また同じ春の太陽が上り、また同じ地球の一日が始まる。
自分にとっては大きな喪失であっても、巨大な自然の流れの中では微小な変化でしかない。
そんな当たり前なことが、納得できないような、しかし何があっても上って来る太陽を恃みにもしているような、複雑な心持ちなのだと思う。


尋常の死も命がけ春疾風

逆説的であるが、まさにそうだろうと思う、リアルな句だ。誰にとっても、「死」は「命がけ」なのだ。


もうどこも痛まぬ躰花に置く

大事な人が亡くなった時から、残された者達の悲しみは始まる。
場合によっては、その前から、心配で心苦しい思いを抱えている人もたくさんいるだろう。

しかし、人が亡くなった時には、すでにその人は様々な苦痛から、解放されている。
もう、その人は、楽になって、自由なのだ。

そうは言っても、離別の悲しみは深いし、死は人の未来の共有できたであろう時間も奪ってしまう。

しかしこの一句を、心のどこかに、お守りのように、そっと忍ばしておいてほしいのだ。
今この時、亡き人はもう解放されている、この句はさりげなくそのことに、気づかせてくれる。

いつかきっと、この句の種から、花が咲くことを、私は信じたい。






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花柘榴・枇杷の実

花柘榴


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花柘榴太陽小さき水溜まり



花柘榴遠い過去から長電話

小さな可愛い、柘榴の花が、大好きである。
この大好きには、わけがあって、生まれた家の門のそばに、あったからなのだと思う。
正しくは、お向かいの家にあった木なのだが、親戚だし、一つの門の中だったので、身近なものだった。

でも、子供の目線は低い。あの頃、幼稚園に行っている頃だっただろうか。
どうしても、地面に落ちている額のほうに目が行って、そちらを花だと思っていたのだ。

私は不思議だった。
どうしてこんなに固い花があるのかが。
あのタコウィンナのような、赤い星のような、可愛い額を、「世界で一番固い花」と思っていたのだ。
散々拾って遊んだ、「世界一固い花」。

この木の下を通って、銭湯にも行った。角のパン屋に、ヨーグルトを買いに行ったし、、駄菓子屋にも行った。

柘榴の花はまた、なんとなく電話にイメージが結びついてしまう。
その柘榴の木から、遠くない位置に、自分の家の電話が置いてある場所が、あったからなのである。

ダイヤル式の、真っ黒な、あの電話。
過去からの長電話が、かかってきそうな、一人の、梅雨時の、午後。




花柘榴ほのかな夕焼け消えてゆく



花柘榴女王と小人のどの童話




花柘榴小さな恋のものがたり


最後?に恋をしたのは、一体いつだったかな。
いや、「恋をした」っていうのは語弊がある。「ひとを好きになったのは」というべきか。
うわー!もしかしてかれこれ7年前くらい。そ、そんなに前。なんか悲しい。
芸能人とかでもいいから、誰かいなかったっけ?
・・・いない。一体なにやってたんだろう。
いやいや、遅まきながら、デザイナーとしての一歩を踏み出したりなんだり、他にしんどいことも色々あっったから、よっぽど余裕なかったんだなあ。

と言ったって、主婦の恋なんぞ、たかが知れているのだ。それは育たない花の種だの、満足に光らずに落ちてしまう線香花火とか、縁日で買ってくる金魚とか、方程式の代数とか、密かにしまってある宝くじみたいなものなんだから。(最も人によっては、積極的に育てるという人もいるのであろう。)

ずっと昔、息子の学校の先生を密かに好きだったこともあったっけ。
そんなこと書いて夫に悪くないのかって?
あっちはあっちで、子供の友達のお母さんのこと、「○○しゃん、好き」なんて言って顔を赤らめてたんだから、いいの。
だってその時に作った句が、「鶯ほどの恋己に発覚す」なんだから、可愛いことこの上ない。
小さな鶯。しかも、その恋に自分が気が付いた、というくらいなんだから、それが事件だというんだから。

だから、鶯だの、柘榴の花だの、そっと小さな花くらいの、ささやかな物語。
決して薔薇だのカトレアだの、牡丹だの芍薬ではない。

のっぽでガリガリに痩せたジャクソン・ブラウンみたいな、無精な感じのセミロング・ヘアー。
なんだか少し汚れてるよーな白いアラン模様のセーターにジーンズ、真っ赤なダウン・ジャケット。

でもきっとあの人は気が付いていたんだろうなあ。だって、恋をしていて、相手に悟られないようなものは、恋って言えるか怪しいものだと思う。





花石榴雨きらきらと地を濡らさず  (大野林火)

花柘榴の俳句で、いっとう好きなのが、これである。
こんなに素晴らしい句と自分のを並べると、いかにもがっかりしてしまうけれど。
まだ梅雨も深くなく、地面を濡らさぬほどの細やかな雨が、音もなくそっと降り出した。
角度によって、その雨がきらっと光る。ことによると少し天気雨のような状況かもしれない。
そしてまた、小さく、しかしくっきりと赤い柘榴の花も、その雨にきらきらと昼の星のように、輝いている。








枇杷の実



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ふくよかな赤子と闇と枇杷実る



枇杷の実の犇めくむこう星ひとつ



枇杷の実や地中に古りし子守唄



朗報はまだ秘密にし枇杷実る



枇杷実りアンリ・ルソーの森開く

枇杷が生っているのを見るのが好きだ。無論食べるのもいいが、安くないわりには、結構当たり外れがあるような気がする。
外れた枇杷を食べるのは、めっぽう寂しい。ただ水分と、種周辺の微かな渋さだけで、あてにしていたお土産が何にもなかった時のような、子供じみた落胆だけが残る。
枇杷の実が生っているのを見上げると、とても懐かしさを感じる。
何故か昭和を感じるのだ。昭和30年代とか、40年代とか。「暮らしの手帖」とか、あの辺の雑誌のグラビアの色合い、ちょっと黄ばんで、くすんだ感じのレトロ色合い。
そんなイメージが浮遊してくる。

一転して、アンリー・ルソーの絵に登場しても、絶対おかしくない雰囲気があると思う。
素朴だけれど、幻想的なその絵の世界の、まるで動物さながらに、生き生きととふくよかな、果実。







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梔子・梅雨の月

梔子


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梔子の香よりこの道昏くなり



梔子や水の筆跡とどまらず



梔子や古い手紙の古い傷



梔子や夕暮れが髪を洗う



梔子の香りも我も行き止まる


梔子や沈丁花や、金木犀の香りは、花から随分離れて、思いがけないところでわだかまっていたりする。
それらはもう、花に帰らない。

幽体離脱のように、あるいはもう、魂みたいなものだ。

建物や植え込みに、香りをのせた風が通せんぼされて、小さな沼のように梔子の香りがわだかまっている。
濃密なその香りの行き止まりの中で、

私も一緒にわだかまっている。

自分も心の帰れる場所が欲しいなあ。
もう長い間、本当にはなかった、自分の居場所。

それは物質的な空間じゃないから。

忙しさにかこつけて、胡麻化してこれたけれども、
却ってしゃにむに頑張ることができたけれども、

もうそんなに頑張る気持ちにならないなあ。

花から離れてしまった香りは、一体何処へ行くんだろう。








梅雨の月



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梅雨の月夢はあるべき場所にあり




梅雨の月坂の途中に座る猫



真夜中に顔を洗えば梅雨の月



酔っぱらう今天心に梅雨の月

盆暮れ正月では無く、盆暮れくらいのローテーションで、一人で飲みにゆく。
一年に2回くらい。可愛いものである。
(うちは夫が飲まないのだ)

しかし主婦になると、自分だけが飲みに行く場合、「根回し」が必要になるから、案外大変なことなんである。
つまり家族の夕ご飯をちゃんとするということなんだが、これはかなり面倒なことになる。
家は息子以外は朝4時に就寝という典型的在宅ワーカーの家庭なのだ。
なので例えばこの間の日曜は10時半に起きて、朝食の準備、食事、後始末、それから大量の洗濯。昨日の洗濯ものの始末。それから、部屋を片付ける。それからシャンプーをして、髪を乾かしているうちに、「腹減った」ということになり、昼食のパスタを茹でる。食べて、洗って、自分の顔も洗って、化粧をする。
するとかれこれもう夕方である。
さてここで、ちょっと休みたいではないか。
ここですかさず夕飯の支度なんてのは、私にはぜーったい無理。でも一品くらいは作ってゆかなくてはならぬ。ということでぐっとこらえて、胡瓜と安かった茗荷を気前よく2パック、ぽんぽんと乱切りにして、紫蘇の千切りと赤唐辛子とともに甘酢につける。帰宅したら、これにトマトを切って混ぜれば良し。

問題は主菜だ。
わが町に少し前まであった、唯一のスーパーが、なんと少し前に閉めてしまった!
隣町まで歩くか、電車で3駅乗るかしなくては、ファミリー向けのリーズナブルで満足な蛋白源は手に入らない。
そこで息子に「和幸のとんかつ弁当」にしようと提案し、揚げ物をあまり食べない息子もたまにはいいということになったのだが、3人前の弁当とその他もろもろのものを買って、隣町から歩いて帰るのは、ご免こうむりたい。
途中、これで雨でもパラついてごらんなさい。

そこで買ったあとで電話するから自転車で取りに来てと息子に頼んだら、「拒否」。「時間がもったいない」。
今までであれば、「あんたも食べるんだろーが」などともめたことだろうが、現在息子は就職したての恐怖の研修地獄の真っ只中で、連日睡眠4時間でプログラミングの猛勉強真っ只中なので、致し方ない。

うちの場合、息子と夫と両方11時ごろの帰宅なので、ここのところ夕飯は11時半頃。
なので「和幸のカツ」を買って、それを持って「飲みにゆき」、
「和幸のカツ」を持って、帰ってくる。
という涙ぐましい「主婦の夜遊び」計画が実行されることとなった。
なんでそこまでして飲みにゆくのかって?
それは書かないがそれなりの理由があるのである。

しかしぷんぷん匂うようなトンカツなんぞ持って、一体どこへ飲みに行けたものか。
おしゃれなジャズバーなんかに行けるわけもない。
ここは古巣のロックバー、稲毛のその名も「フルハウス」。私にとっては「古巣ハウス」に行くことに。

一見おしゃれな店だけれど、気取りのない、一風変わったシニアが常連。だって、1970年代ロックをかける店ですから。でも若い常連さんも、勿論いるんだけど。

カウンターで最初に隣り合わせた人は、マスターによればプール付きの邸宅に住むお金持ちの、しかし全然そういう感じではない、気さくなK君。常連の中では若い。歯切れ良いお喋りがとても楽しく、こういう人と喋りだすと、自分がスケートしてるみたいに気持ちいい。
いや、彼の頭がいいとか、話が上手いとかは勿論なんだろうと思うけど、何か性格的に似ているところもあるのかも。
何年か前に居合わせた時、「いやー、僕もうこれから先の人生で、やりたいこととか、やってみたいこととか、全然、ないんです。」と、きっぱり、さっぱり、大真面目に明るく言っていた。
こういうフレーズをこんな風に明るく言う人を初めて見たので、面白かった。
そしてこう言うのだ。
「でも、してみたいことが、ひとつだけ、あるんですよ」「うんうん、何?」
「結婚なんですよ。」
これも大真面目に言っていた。面白いなあ。

そして今では目出度く、夕飯を作って待っていてくれる、素敵な奥さんがいるのだ!
道理で帰るの早かった。

次なるお隣さんは、ピアニストのTさん。バンドもやっているが、音楽教室も経営している。
とても音楽の守備範囲が広いから、話していて楽しい。
グレッグ・オールマンが亡くなったこと。ダニエル・クラールのピアノがセンスのいいこと。
彼がチャー(竹中尚人)とコマーシャルで共演した話を、スマホの写真を見せてもらいながら聞いていて、面白くて、すっかり気持ちよく酔いが回ってきたと思いきや、例の困った「病気」が出た!

数年前から悩まされている「頻尿発作」なんである!
普段は普通なんだけど、この発作が起きると、なんと、6,7分おきにトイレに行くのだ。それが5,6回でワンセットで終わる。
お酒を飲むと、大抵起きる。ほんっとーに、困りものである。
人の話の腰をぽきっと折るのって、大嫌いなんだけど。
ショッピング中なんかに起きても、もう大変。あっちのトイレ、こっちのトイレ・・・
しかも「膀胱炎」が癖になった時期があり、ひどいときは1月に2回も。抗生剤の飲みすぎで、また別の病気も起きたり、もー二度とああいう地獄のような思いはしたくないので、トイレに行きたくなったら、絶対我慢するわけにはゆかぬ。

チャーと共演の話が佳境に入るたびに、「あーちょっとごめんなさーい!」
帰ってきて再び話が始まり、また盛り上がって来ると、「あー、ごめんねー、もうー」
またまた話に熱が入ってきたころ合いに、「またまた失礼ー!」
なんということだ。こんな醜態をさらせるのは、古巣ハウスだけである。Tさん、ホントに失礼いたしました。

ところで、バーのカウンターの椅子って、大抵円い。そして真ん中が少々盛り上がっている。
そこにのせてある「和幸のカツ」は時々ずり落ちそうになる。それをひっぱり上げるのにいい加減疲れてきた。
だもんで、もう面倒くさくなり、「和幸のカツー!」と言いながら堂々とカウンターにのせてしまったら、反対側のお隣さんの夫婦の、奥さんの方が「和幸のカツ、私大好き」と言ってきた。

彼女はTレックスが好きなんだそうで、Get It On がかかる。懐かしい。
夫婦で飲みに行くなんて、いいなあ、と思っていたら、旦那さんがトイレに行った隙に、彼女がささやく。
「あのー、うちのひと、相当酔っぱらってて、あのう、なんかご迷惑おかけするかもしれませんので」という。
「は?」
「あのー、そこにある、缶コーヒーなんですけど」彼女が指さす。
「ああこれ?」
私は今日駅で,疲れていたのか、無性に砂糖入りのコーヒーが飲みたくなり、カフェに入るのも面倒だったので、取り合えず缶コーヒーを買い、それを飲みながら、フルハウスに、やって来た。
まだ少し残っていたので、缶コーヒーはカウンターの上に置かれたままだった。まあ、他の店ではこうはいかないけど。なにせ「古巣ハウス」だから。

「これが何か?」
「ええー、うちのひと、こだわりが色々激しくて、こういうの見ると、何でここに缶コーヒーがあるんですかって、ツッコミ入れてくると思うんです。」
「えーっ?」
「多分、言いそうなんで。もし、そんなことになったら、適当にあしらってください」と言うではないか。

示し合わせたわけでもない、読心術が使えるわけでもない、いくら奥さんでも夫の次のセリフが読めるのか。
私は半信半疑だった。
果たして旦那さんは帰ってきたが、話は全然違う方に行ってるみたい。やれやれどうってことなさそう。

ところがそれから20分くらい経過した時、その旦那さんが私に問いかけてくるではないか。
「あのー、すいません、あのーすいません、」
「はい?」
「その、缶コーヒー、それ、何ですか。なんで、ここにあるんですか」
不思議でしょうがない、って顔だ。

私はもう笑いをこらえるのが大変だった。
スゴイ夫婦。

でも奥さんはどういう展開になるか、少しビビッていたよう。
こういう時にはすかさず「フルマス」ことマスターの出番である。
そして、いつもの真っ赤な嘘を言う。「○○ちゃんは、
(これは私のことなんである。還暦手前なのにちゃん付けはスゴイ)うちの店、中学生のころから来てるんだよ!」

だれが中学生の頃から行けるもんか。
高校生だよ。
(でもそのころは、「ロック・バー」ではなく、「ロック喫茶」だったんだからね!)
これでツルの一声で解決。男性は縦社会で生きているから、骨董品ほど古い客とわかると、絡んだりしてこない。

反対側の他の人と喋っていて、ふと気が付くと、いつの間にかその夫婦が親子連れ3人に代わっている。
両親と、その若い娘さんで、娘さんは「女優」なんだそうだ。
いいなあー、親子で飲めるなんて。
でも私の隣に座ったその娘さんは、黒ビールの小瓶を手酌でドドーっとグラスについでいる。
そうだよなー、親子だもんなー、手酌かもなあ、こういう場合。
「女優さん」ともちょっと色々お喋りして、面白かった。テンションの高い、女優さんだった。

さて、そろそろ家の夕飯の時刻が近づいて来た。帰らねば。竜宮城からカメに乗って帰る浦島太郎のようだ。
皆さんに挨拶すると、フレンドリーであたたかな「おやすみなさい」が飛び交った。なんていい気分。

さて最後にトイレに行かなくちゃ。
でも大事な和幸のカツ、はるばる旅をしてバーのカウンターに鎮座していたこのトンカツを忘れてなるものか。
私はトイレにトンカツを忘れないように、緊張した。久しぶりに大分酔っぱらっているではないか。
しかし、最後に手を洗い、トイレの出口のドアノブを開けようとすると、荷物を持っている左手がいやに重い。

さてはトンカツが狸にでも化けたか、と理不尽なことをふと思いつつ荷物を見ると、何故かトンカツの入っているスーパーのビニール袋がとっても大きくなっている。「えっ、何これ?」と思って中を見ると、狸ではなく、トイレットペーパーが5つくらいぼこぼこ入っている。

「うわー!」
狸に化かされたのか? 一瞬頭の中が空白に。
トンカツがトイレットペーパーに? 何せ酔っているから混乱この上ない。

落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせて、よくよく見ると、トンカツの袋は別に、ちゃんと存在している。
これはもうひとつ、別のスーパーの袋、なのだ。
よく考えたら、トイレの壁の所持品をかけるフックに、予めここのトイレの予備のペーパーが、大きなスーパーの袋に入って、吊るしてあった、のだ。そこに上からトンカツやら自分の荷物をかけたので、全てが一緒になり、それを根こそぎ持ち出して、こういう結果になったらしい。
あー誰も居なくて良かったなあ。私は汗をかきながら、素早くその袋を元に戻した。

主婦が飲みに行くというのは、かように大変なことなんである。

タクシーが基本料金ですまなかったのが多少の難点ではあったが、今日はとても良い日だった。
人様がいなくなると急激に酔いが回り、わあわあ言いながら息子と夕飯をし、なんとか和幸のカツは食卓に辿り着いたが、そのあと食卓のベンチに突っ伏したまま起きられなかった。

しばらくして目が覚めると、息子が言った。
「そっちの分も、洗い物してやったんだぞ!」

ええーっ!トンカツ弁当引き取りを拒否したのに? プログラミング言語の詰め込みで、目線が宙に浮いてるのに?自分じゃ、インスタントラーメンだって作りたがらず、せいぜいカップで済ませる息子が?

私の脳裏に、文節でも文章でもなく、ただ一つの、シンプルな単語が鮮やかに浮かび上がった。

「育った!」






金魚草・五月闇

金魚草


よく似てる母と娘と金魚草



金魚草雨がソナタに追いつきぬ



金魚草水増しされた恋心



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金魚草ここだけの秘密天気雨



生足にヒールサンダル金魚草

昨今のいわゆるギャル達を見ていると、金魚草のようだなあと思う。
今の子は背も高いし、そこへまたヒールのサンダル、色とりどりのどこかがフリフリしている服に、カールした茶髪・金髪。ディズニーランドのよう。私の趣味ではないけれど、思いっきりファンタジックな格好できるのは、やっぱり若い時だけだから、皆好きな格好すればいい。

でも、なんか皆似ている。似過ぎてる。
だが似過ぎているのはギャルだけではない。
おばさんも、皆似過ぎている。
(おばさんがおばさんをおばさんと言っていいのかって、その問題はさておいて、)

せっかく制服脱いだんだから、また違う制服着るのはつまらない。
自分のイメージをひとつに決めちゃうのはつまらない。
自分を裏切るのは、一番むつかしいが、自分を裏切ると面白い。
だがテクニックというか、厳しい目が必要だ。
特におばさんになると、服選びの基準の優先順位が、色々と錯綜してくる。
「体形隠し」「冷えなどへの対策」もあだやおろそかにはできない。だから、服選びは大変。なかなかに根気が必要になってくる。

そういえば、何年か前のことになるが、カフェで休憩していると、6人くらいのギャルが賑やかに連れ立って入ってきた。カウンターにずらりと並ぶと、壮観だった。皆思いっきり派手で、高い声で喋っている。
その中のひとりが、一番端に座っている、一等背の高い女の子に向かって、訪ねた。
「ねー、名前、なんていうのー?」
背の高い子は、そう言っては何だが色黒で、付け睫毛こそ長いが、やけに逞しく腕っぷしが強そうで、男勝りというか、そんな感じの子だった。その子が太い声で言った。
「千恵子ー!」

訊ねた方は、笑いころげながら言う。「千恵子って感じじゃないー!」
確かに。でもこの子達の年代の名前にしては珍しい。この子のお母さんの年齢でもまだ違う。もしかして、名付け親は、おばあちゃんかも。

しかし、言われた方の子の、「なんでー?」という鋭いツッコミに、言った子は困った。
ここで下手なことは言えない。
言葉に詰まったその子は、「うーん、何となく、もっと違うかんじー」

「えー、じゃ、どんな名前のかんじー?」おっ、なかなか追いかけてくるではないか。
そのあとに、訪ねた子の言葉を聞いて、私は目が点に。

「うーん、もっとさぁ、リカぴん、とかさぁ」

「リカぴん」無論私が驚いたのは、この中の、「ぴ」に、なんであるが。・・・リカぴん、ねえ。

リカちゃんといえば、この子たちはディズニー世代だけれど、この子達の親はもしかしてリカちゃん人形で遊んだ世代かも。先日とあるデパートで「リカちゃん人形フェア」なるものをやっていて、大盛況だったのが、見ていてなんだかコワかった。そこにはあらゆる年代のご婦人が、真剣な目つきで、かつ夢遊病のようにリカちゃんの間を右往左往していた。無論小さな子もいたが。

私が小さい頃、彗星のごとくおもちゃ売り場に並んだのは、アメリカのグラマー女優さながらな、元祖バービー人形だった。私が持っていたのは、褐色の肌に、真っ青に塗りつぶしたアイシャドー、直角のバストに栗色のカーリーヘア、という、ソフィア・ローレンばりの人形だ。(あれ誰が選んだのだろう。ブロンドのロング・ヘアーとかもあっただろうに。自分で選んだのかなあ。でも7歳くらいの幼い女の子が、色っぽい大人の人形で遊んでいるのも、今思えばちょっと不気味だ。)
しかし、マネキンのひな型のような、現実的な人形は、日本人の女の子の間では、今一つ人気が継続してゆかなかったようだ。そのうちもっとアニメチックな顔の、「リカちゃん人形」というものが登場し、元祖バービーよりも人気が出てきたのだ。
バービーのような生身っぽいアメリカ人形を持って来ても、日本人の女の子達は自分との共通点を見出しにくく、戸惑いがあったのだろう。
だからと言って、お雛様のような顔の人形で遊ぶわけにもいかない。
お雛様は十二単のためにあるのだ。日本人はこれから本格的に洋服を着こなしてゆかなくてはならない。

リアル路線の人形では、アメリカ的でも日本的でもしっくりこない。
そして宙に浮いた日本の女の子のアイディンティティは、リカちゃん人形のような、いきおい漫画チックな抽象性を帯びるほかは無かったのかもしれない。










Eva Cassidy - Fields of Gold
夭折が惜しまれるエヴァ・キャシディの、1998年のアルバム、Songbirdに収録されている。
旧ポリスのメンバー、スティングの曲。スティングのメロディーは、いつも独特の哀愁を帯びている。
エヴァ・キャシディの透明な声がそれに輪をかける。








五月闇



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猫の目の光って消える五月闇



取り返せぬ言葉棲んでる五月闇



コンビニに時々人消え五月闇



悲しみに輪郭は無し五月闇

あるところに一人の男と一人の女がいた。
男と女は違う国の人間だった。
男は「今」の国に住んでいて、「今」の国の住人達にとって、とにかく重要なのは「今」だけなのだ。今、楽しければ、美味しければ、面白ければいい。七面倒なことはなるたけ考えないのが彼らの国のモットーだった。

女は、過去と未来の国に住んでいた。だが過去には住みたくて住んでいたわけではなかった。
沢山の起こってしまった結果が、強制的に彼女を過去に住まわせていた。彼女が他の国に住むのを許さなかった。
だが、一週間のうち、土曜日と日曜日だけは、女は「未来」の国にいって、住むことを許されていた。

女が過去から未来に移動する時に、男に会った。

男と女は出会えて、嬉しかった。そしていつしか、「今」の国で一緒に生活することになった。
しかし過去と未来の国の住人である女が、今の国で生活することは、なかなかむつかしいことだった。
法律も違う、食べるものも違う、温度も違う、交通規則も違う、何から何まで、違っていた。
そのうえ、「今」の国の人々は、様子の違う「過去と未来」の国の女に、非常に冷たかったのだ。

女は疲れ、病気になった。周りには自分の国の友達は一人もいなかった。
自分の国の猫も、小鳥も、いなかった。

女が病気になってしまうと、何かと
男と喧嘩になるようになった。
喧嘩になると、女はいよいよ元気が無くなった。
男は女との約束を簡単に破るようになっていた。
そしてそれを指摘されると、鉄壁のように怒って、女を拒否するようになった。

女は約束を守ってほしい、と何度も言った。

しかし、どうしても通じなかった。

だって、「今」の国には、約束なんて存在しないのだ。
「約束」は「過去」を振り返り、「未来」に同じようなことが起きないように、過去と未来の間を結び付けるものだから。

「今」の国には、何の保証も無いし、心配も無いし、反省もないし、分析もないし、面倒な手続きや約束などは、皆いっさいしないのだ。
そして、誰も傷ついたりしないから、ほかの国の人が「傷ついた」というのが、大嫌いなのだった。

そのうち、気が付くと、女の体は、だんだん透明になってしまうようになった。
女の体は、透明になって、水になって、どんどん流れて行った。

その水は過去と未来の国に、流れて行った。
女は自分の国に帰ったのだ。

男は怒った。
アイツは最初から、俺を愛してなんかいなかったんだ、そう言って怒った。

しばらくすると、家の近所に、何故か大きな湖が出現していた。
そして男がそこを通るたびに、湖のほとりに、新しく、花が咲くのだった。
パンジーやペチュニアや紫陽花、薔薇にジャスミン、色とりどりの綺麗な花が、みるみるうちに増えてゆく。
そして小鳥が沢山来ては、いい声で鳴いた。
男はそこを通りかかるたびに、懐かしい、あたたかな気持ちになった。

ある朝男が通りかかると、湖を渡る橋が出来ていた。咲き乱れる花の中の橋は見るからに美しかった。
男は不思議に思って、その橋を渡ってみた。

しかし男が橋の中央辺りにさしかかった時、いきなり全てが、忽然と消えてしまった。
湖も、橋も、いい匂いの花達も、小鳥も。

そしてそこにあるのは、五月闇のような濃い紫の、ただもうほんとの真っ暗がりだけだったのだ。









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罌粟の花・明易し・六月


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罌粟咲きて女の意地はやはらかき

杉田久女の句で、「張りとほす女の意地や藍ゆかた」 がある。藍ゆかたとは、藍染めで染めた浴衣地のことだ。
そういえば最近はピンクやクリーム色などの、思いっきりカラフルな浴衣が若い人には流行りのようである。
あれはあれで可愛いのかもしれないが、浴衣特有の、見た目の涼しさというものが無い。
それから粋な歯切れ良さもない。ちょっと残念である。
自分は14歳のころ、白地に藍の模様の浴衣が好きだったが、18歳くらいになると、やはり藍色に白の模様のほうが、ダントツに大人っぽくて素敵だと思った。

糊をきかせてばりっとした藍浴衣と、女の意地を並べるとなると、久女は結構まっしぐらな性格だったのではないだろうか。
若いころ、田辺聖子著の 「花衣(はなごろも)ぬぐやまつわる…―わが愛の杉田久女」 を読んで感銘したが、久女は、夫と不仲であり、家庭的には円満とは言えなかったようだ。

だが、ばりっとした藍浴衣のように、真っ直ぐにに女の意地を守るというのは、相当周りとの摩擦が大きくなる。

そこでだんだん、女が自分の心意気を守るとなると、それはやんはりと屈折して、派手に外界に発散しない分、体内の奥深くにしんしんと沈殿するようになる。
それに年月の力が加わったりすると、そういうものは、びくともしなくなったりするのである。

罌粟の花は本当に柔らかい。薄い紙のように、風にもみくちゃになる。
でも私はこの花に、はかなさを感じない。

ふわふわと浮遊しているようでいて、そこには確かに、誰にも動かせぬ凛とした女の心、のようなもの、がある。





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罌粟咲いて油絵の如雲ゆきぬ



蟻のせしまま罌粟風に吹かれをり



罌粟の花レム睡眠に沈没す



罌粟の花風に揉まれて遠ざかる









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明易し潮引くように夜が消え



いつか来た場所に居る夢明易し



ただ一語見つからぬまま明け易し

たった17文字の中のことなのに、その中の一語が見つからずに悶々と時が経ってしまうことが、ある。
こんなにも小さな世界なのに、否、小さな世界だからこそ、最小限の言葉で思いのたけを納める、というのがむつかしい。
時には短歌が羨ましい。
こーんなにスペースがあるの?いいなあ。まるでワンルームと2DKくらいの違いはあるなあ。
状況説明ができるのね!自分の気持ちも説明できるし、なんて自由なんだろう。

散文詩にいたってはもう豪邸か。
何をどれくらい、どう書こうが、何の縛りもないんだから、飲みたいだけ飲んで、食べたいだけ食べて、眠りたいだけ眠れる。

じゃあなんで俳句をやってるのかって?
それは今年の1月にも書いたのだが、一度に「主にひとつのこと」しか(多重的ではあるが)詠めないということが、「今、ここ、に意識を集中して生きる」という哲学を、自ずから含んでいるユニークな詩の形式、と思ったからなんである。

それから、俳句の中の語句、特に季語が、少ない字数の中だけに、その内容が象徴的になる、そういうところが、面白い。

つまり、「海」といった時、短歌の中だったら、どんな海なのかとか、どこの海なのかとか、色々とその「海」についての描写がある程度可能である。散文詩や小説にいたっては、どうとでも好きなだけ説明も描写も修飾も可能だ。
しかし、俳句の「海」といったら、それはもう厳しいものだ。
「海」についての修飾をちょっとでもしたら、もう他の要素がきつきつになってくるのだ。

そうするともう、「海」丸投げ、ってことも非常によくあるわけで。

ただの「海」!

このただの「海」という言葉ひとつを目にしたとき、人は一体どんな「海」を目に浮かべるのか。

それは日本海側と太平洋側の人では、当然そのイメージに大きな隔たりがあるだろう。
あるいは北海道の人と、沖縄の人でも。
また、視覚的なイメージより、波の音などの聴覚や、潮の匂いなどのような嗅覚のほうが、先に来る人もいるだろう。
それから、具体的な海、というものから、抽象的な、「海」という概念まで、様々な段階でそのイメージは揺れ動く。

そうなると、俳句の中では、語句、特にイメージの中心となる季語は、「海」という語から万人が引き出してくる「その人にとっての、海」というものを、呼び起こして来ることが容易だ、ということになる。

俳句の中の例えば「海」は、他の詩形式や小説の中の「海」よりも、読む人の中の、原風景の「海」を呼び出しやすい、そういう特徴を持っていると思うのだ。

つまり、書き手の描写を許さないスペース事情が、読み手の想像の自由を広げる。
読む人がそこに、自分にとってのイメージや原風景を当てはめて、味わいやすい、そんな風通しのいい詩形なのではないだろうか。











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六月や硝子の食器拭いてをり



六月の密かに動く昼の星



六月に吹く風少し重くなる

六月は好きな月である。
といっても、中旬になり梅雨ともなれば、やはりそれなりに気は重い。
それまでの束の間の初夏は、とても貴重だ。

爽やかで短い初夏だが、六月に入ると、心持ち風が重みを増すような気がする。
それはきっと、5月よりも蒸し暑くなってきて、空気中に水蒸気が多くなってくるからかもしれない。

そして新緑、新樹、若葉、青葉、これらの季語のなかでも、「青葉」が一番ぴったり来る時期だ。

この季語たちの、色のトーンの微妙な違いを考えると、面白い。
一番優しい、淡いトーンに感じるのが、「新樹」だ。多分発音のせいもあるだろう。
やや淡い、白の混ざったような、優しいパステルトーンの緑色を想像する。

つぎに、「若葉」。 これはもう、ビビットで生きのいい「黄緑」だ。
そして「新緑」は、この「若葉」と「新樹」の中間くらいのイメージだ。

さて「青葉」となると、字面の通り、「青みがかった」緑、を感じる。
少し青緑、つまり、いわゆる「緑青(ろくしょう)」系の色合いをもう少し鮮やかにした感じである。
若葉がもう少し落ち着いてきて、でもやはりまだ柔らかな色、とでも言うべきか。

四月下旬から、五月、六月と季節が移り、木々たちの色合いのトーンも、少しづつ移ろっていく。
そして梅雨に思う存分水分を吸収し、濃い緑の、堂々たる「夏木立」へと変貌していくのだろう。







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いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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