薄暑・日傘・薔薇

ウィンドにウィンド映る薄暑かな



薄暑光道間違えて引き返す



薄暑光覗けば逃げる水の我




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白日傘眠らせておく記憶かな



日傘たたみて鳥抱えゆく如く



相触れし日傘に世間話棲む







薔薇咲けばゆっくり話す電話かな

昔から不思議で、不満に思っていることがある。
何故花が咲く時に、肉眼でその動きを確認することができないのだろうか、ということだ。
もちろん花に限らず、植物の全て、青々とした草も、雲に届きたがっているような木々の枝々も、五月ともなれば、嫌が応にも大きく伸びる。
にもかかわらず、その動きは、決して人間の肉眼では見えないのだ。
人間も含めて、動物の動きは速い。その脳の活動も、神経の動きも、全てはスピーディーだ。だが植物の動きというのは、ゆったりと、目に見えないほどの遅々たる速度で、しかし確実に変化し、成長している。
そしてまた、哺乳類である人の中にも、そういう植物的な、原始的な部分がしっかりと残っていていて、そういうものが私たちの底辺をなしているのではないだろうか。
ただ、あまりにも効率の良さだけを追求してゆく生活の中で、普段はめったに意識されなくなっているのだと思う。
例えば病気になると、どんなに意識が頑張って速く回復しようと思っても、薄皮を剥ぐようにという例えがあるように、一進一退の遅々たる変化でしか、なかなか回復してゆかない。
心も同じようなものだ。
感情と心というのは、微妙に違うものだと思う。
感情というのは、動物的な意識に、1番近いところで発生している。
しかし、心というのは、その下の層の無意識に少し近いところに、ひそかな密林のように、びっしりと生い茂っているようなものではないか。
感情は、弱いものから激しいものまで、様々に発生しては台風の如く成長し、時間の流れとともに、速やかに変化しては、消えてゆく。
しかし、より深いところにある心というものに、落とし込まれ、吸収されてしまったものは、やすやすとはコントロールできなくなってしまう。
意識の上では解消したと思っていることでも、例えば同じ問題で、余りにも何度も何度も傷ついていたら、心の深いところで、確実に何かが形成されてしまうだろう。

だが、長い時間をかけて育んでいくような親密な関係もまた、こういう場所で育つのには違いない。

きっと人の心というものは、誰にも動かすことはできない。
当の本人さえもが、安易に操作できるようなものではなくなってくるからだ。





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薔薇咲きぬひとつひとつの城となり



薔薇咲いて視線逸らさぬ女優かな

女優というとイメージするのは、古い外国の映画女優達で、古すぎて名前を出すのはやめた方がいいかも、と思うのでいちいち名前を出さないが、何故か「女優というのは視線を逸らさない」というイメージがある。
ラブシーンになっても、小さな火事のような熱い眼差しで、その視線はひとたび相手を捕まえると、寸分たりともそこから逸れることはない。
あんな眼差しで見られたら、男性でなくとも、ひとたまりもなく催眠術かなにかにかかってしまうだろう。
でも考えてみれば、女優に限らず外国の人はオープンな感情表現をするから、公園などで見かける堂々としたキスシーンなどのことを思えば、映画に限らず恋人同士の間では、ああいう視線というのは、ごく当たり前のことなのかもしれない。
かたや日本人は、ここぞという時には視線を合わせない方法に傾く。大昔の大名行列しかり、高貴なものは下々は見ることさえ許されないような文化の上に乗っかって来たからなのか、視線を合わせるイコール無礼、という感覚を持っている。
身体的な動作だけではない。言葉の使い方も、それに則していて、なんとか「NO」と言わずに、「NO」であることを分かってもらうために、四苦八苦する。
なんとか「愛している」と言わずに、「愛している」のだと分かってもらうために、四苦八苦している!
つくづく遠回りの文化なのだ。ずいぶんと無駄な労力を使う国民性だと思う。

先日とあるデパートのエレベーターで、途中から乗って来た若いカップルが、どうやら喧嘩の真っ最中らしかった。
日本人ではない。大方韓国の人ではないかと思う。二人ともスラリと長身で、抜群にプロポーションが良く、ファッションもバッチリ決めている、が、その決め方は日本人の感覚ではない。少し違っている。
さすがにエレベーターに乗って来た時から、言葉は呑み込んでいる。ストップがかかっている。
しかし、その表情たるや、二人が喧嘩をしていることを、微塵も周りの世界に対して、「恥」などとは思っていない。
喧嘩真っ最中であることを丸出しのその視線は、お互いを発止と捉えて、絡み合って、見事に五分五分で動かない。
エレベーターに乗っている全員が、エレベーターの扉の方を向いているのに、彼らだけは、その真っ只中で、それぞれ腕組みをし、お互いの顔を穴のあくほど見つめ合っているのだ。

私はこのカップルが、本当に羨ましかった。
ここまでいくと、国民性云々を超えている。
ああいうビクともしない視線を交わせるのは、余程お互いの間に、信頼がなくてはできない。
信頼があるから、お互いの中にある怒りの感情に、どんな翳りもないのである。

これはなまじなキスシーンなんぞより、中々に当てられた。





一斉にに咲いても薔薇の孤高かな



薔薇咲きぬ歓喜も憂いも皆咲きぬ


「バラ色の人生」という言葉がある。
また、化粧品のシリーズなどで、薔薇を香料やイメージに使うと、決まって「幸せな〜」とかいうフレーズが頭にくっつく。
兎角薔薇と幸せは、世間ではセットになっているらしい。

しかし私の中では、薔薇は「幸せ」というイメージとは、少しかけ離れている。
もちろん何色の薔薇かということもあるだろう。ピンクや薄いオレンジなどは、そういうイメージに結びつきやすい。
だが、薔薇というのは、花びらが非常に多い花だ。
一つの花のボリュームが大きくて、重そうで、気怠い雰囲気を持っている。
「憂愁」という言葉がこれほど似合う花もない。
そして沢山咲いていたとしても、孤高である。
一つ一つの花が、完結した世界、ひとつの城のようである。

少なくとも幸せしか知らないような、そんな子供っぽい花には見えないのである。








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夏立ちぬ・聖五月・花茨

聖五月数多のひかり踏んでゆく



いきいきと爪切る音も夏立ちぬ



日向より帰し闇みどり立夏かな

すっかり陽射しの強くなったベランダで色々仕事をして部屋に戻ると、暫くの間、視界は濃い緑の闇に塗りつぶされていて、何も見えなかった。
そういえば子供のころ、この現象がとても面白くて、わざと日向と家の中を行ったり来たりした覚えがある。
しかしそれでなくともあの時代の家の中は雑然と暗く、古い卓袱台や箪笥がひしめき合っていて、特に奥の台所は暗かった。
現代の明るいリビングダイニングからは想像もつかない暗い台所で、祖母が鰹節をかいたり、糠味噌をかき回したりしているのを、そばにしゃがみ込んで、放心したようにじっと眺めていた。
考えてみれば、昭和30年代のことであるから、大人たち、特に祖父や祖母はまだまだ時代の大きな苦労を引き摺っていたことだろう。日当たりの悪い小さな家で、大人たちは黙々と働いていた。
でもまだどんな人生の目的も責任もない子供たちは、いたって呑気に毎日の生活に満足しているのだった。
家の奥のいっとう暗い台所でさえ、そこにはそこの安らぎがあった。
外の日向にはあらゆる楽しみと冒険があり、日陰の家の中には安心できる薄暗さがあった。
子供たちは戸外での健康的な遊びに飽きると、大きな木陰のような仄暗い家に帰って来て、気の向いた場所に忽ち自分の居場所を決め込んでは、拾って来た小石や硝子の丸くなったかけらを眺めたり、きりもない空想の翼を大きく広げたりしていたのだ。


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立夏かなやるべきことを一つづつ

大人になると、やるべきことは不思議なくらいいくらでもある。
しかし、この頃、とみにやるべき事を後回しにする傾向がある。その元を辿れば、何をやるにも億劫という年相応の症状が悪化しているということで、いくらでも言い訳は立つのだが、なにせ元々も、そういう傾向がある性格だから、相乗効果も甚だしい。
美容院に行って、髪を切り、染め、パーマを少しかける。
うん、そう決心したのは確か去年の年の暮れ。
そして速いもので、今や季語は立夏である。これはまずい。
まあ、美容院って嫌いなのである。
歳を取ると色々な事情から、新たな美容院を開拓する気力が無くなってくる。色々な事情って何かって?髪質を知り抜いているとか、髪型の好みを把握しているとか、トイレの近い事を了解していて作業の途中でも嫌がらないとか、そういところがモノを言うのだ。
だから、その他の担当さんとの不一致については、私は目をつぶることに決めているのだ。
どんな不一致かというと、これまた珍しいくらいに、話をしていて「通じない」、反りが「合わない」、タイミングが「ずれる」、まるででこぼこ道を歩くような会話になってしまうのだ。

こういう人も珍しい。「空気が読めない」とかよく言うけれど、そういう事なのか、いやいややっぱり組み合わせというものなのか。
これを言えば大抵笑うだろうというところでは、むっつりと大真面目に返答が返ってくる、そして割合シリアスな話にさしかかってくると、いきなり大声で笑い出す。時によってはいたく傷ついたりしてしまうのに、全く気がつかない。
面白みのある話題には説教じみた答えが返ってくるし、つまらない話は長々と独演調で聞かされる羽目になってしまう。
このリアクションの以外さは、めったに体験できるものではない。
しかし彼女のいる店内で、他の人に担当を変わっってもらうような勇気は私にはない。

他にも、あー!出さなくてはいけなかった、郵便物!
深夜ミニストップで切手を買おうと思ったら、ほとんど毎日出ずっぱりの店長らしき人が、世にも悲しそうな顔で、「すいません、無いんです。買いに行っている時間が、無いんです。」と視線を合わせずに言うではないか。
ここにも過酷な労働状況の犠牲になっている人がひとり。
それでは明日、自分で郵便局へ行こう、そう思ったのだが、明日には明日の風が吹いてしまって、それからかれこれ3日経過!

こんな調子であれこれと、銀行へ行って、お金をおろして、布団を干して、図書館に本を返却し、会社に先月のデザイン料の請求書を出し、医者に薬をもらいに行き、パソコンの不具合の原因をネットで探り、買って来たままポット苗の状態で置いてあるペチュニアを植えてやり、今夜のおかずを考え、全てが終わったら俳句を捻り、ブログを書き、・・・・!

まるで台所の排水管のように、やるべき事が集積して詰り、私の頭の中は一挙に混乱する。

こんな時、どうするか。
私は決心する。ああ、また「演劇部」をやらなくちゃ。

自分の中に滞る、やるべき事をテキパキとこなすキャラクターがいないとすれば、もう女優になったつもりで、次々に諸事を冷静にこなして行く人間を、「演じる」しかないのである。

これは意外に使える手である。
演じているつもりが案外その気になっていく。

最も想像しにくいほど、異様にかけ離れたキャラクターは無理があるだろう。そこは範囲というものがあろう。
でも考えてみれば、結婚して妻となる、仕事で色々な役割りにつく、今までに経験のない様々な事の、はじめの一歩を踏み出す時、人はどこかでこういう方法を、無意識の内に少し使っているのではないだろうか。




何取りに来たか忘れて風光る



サイダーや生きのいい過去立ちのぼる





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花茨ひとかたまりの風抱いて



花茨少女の未来あまりある



花茨家路を行けば影長く




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躑躅・新緑・柿若葉

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燃えうつる如咲きゆけり躑躅かな



白昼の風の透明躑躅咲く

躑躅というのは、マンションやアパートなど、シンプルで現代的な建築物にとても似合う。
白や黒のフェンスからはみ出しているのも、中央分離帯の中にも、真っ白なガードレールの下にも、とにかくモダンで単純な形の物の周辺に、ぴったりくるのである。
一体何故だろう。形だって、よく見れば日本的な雰囲気もあるのに。
やはりあの、空へと一気に抜けていくような、この上なく鮮やかな色のせいだろうか。
シンプルな形へ、鮮やかな色。

あの燃えるように情熱的なマゼンタの花を、直方体の硝子や氷に閉じ込めてみたくなるのは、私だけだろうか。


躑躅咲く夥しい願望の連続



また同じ化粧していて躑躅咲く






Alison Krauss - Losing You Windy City(2017) より
アリソン・クラウスはアメリカのシンガー、フィドル奏者。ブルーグラスを一般のポップスファンに広めた。
曲はブレンダー・リーのもの。グラミー賞受賞は28回で、歴代2位だそう。5月のように、伸びやかな声。









柿若葉空へ逃げ切ってゆく緑



柿若葉ポストに広告犇きぬ



躊躇なき色と思へり柿若葉


「青蛙おのれもペンキぬりたてか」と詠んだのは芥川 龍之介だが、私は晴れた日に近所の大きな柿の木の若葉を見て、「柿若葉おのれもペンキぬりたてか」と心の中でつぶやいた。
それほどまでにその萌黄色は、「派手」だった。自然の造形物とは思えないほどに、人工的なまでに鮮烈な黄緑だったのだ。
なんでも柿若葉にはビタミンCがたっぷりと含まれているそうで、レモンの10倍だとか。見れば見るほどそれらしい。見れば見るほど、美しい。

それにしても、と私は考える。
俳句をやっているせいもあるけれども、「柿若葉」なんてものにこれほど感激したりするのは、やはり50代になってからというもの。そしてもうすぐ、還暦がやってくる。

若い頃には、「若葉」だの「新緑」だのなんて、意識にたいして上らずに暮らしていた。
年を重ねて、いのちの大元の電池の残量が大分減ってきて、髪へも皮膚へも内蔵へも、どうも血の行きが心許なくなってくると、人はこういう、端々までいのちの行き渡っているものに、惹かれるようになるのかもしれない。
一方、生命力が有り余って、細胞のひとつひとつまでフレッシュな年頃には、人は時にさしたる理由もなく死や孤独に惹かれることがある。
それは本当の死ではなく、本当の孤独ではないかもしれない。
しかし生命が頂点にいる時、その熱さを中和させるために、生命そのものが本能的に、バランスを取っている、そんな気がしてならない。

それにしても、いいなあ、樹は。
年を重ねている樹でも、春ともなれば可憐な花をつけ、初夏ともなれば鮮やかな若葉がまた生まれる。
人間もこうだったらどんなに良いか。
街で知り合いに合う、そして挨拶するのだ。
「あーら、ご無沙汰しております、まあ、今年はまた随分と若返られて、まあ、なんて沢山の、ご立派な若葉なんでしょう!」
そして腰も痛まず、不整脈もなく、お肌つやつや、物忘れもすっかりなくなり、エネルギッシュに仕事をし・・・
なんてね。


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これはイメージ写真です。柿若葉ではありません。


新緑の中無数の翳ざわめきぬ



新緑に追い込まれてゆく社



新緑へバイク吞み込まれてゆきぬ



あれこれと充電していて緑夜かな



ベビーカー3台続く若葉風







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花水木・風光る

われ先に光へとどかむ花水木

花水木というのは、白い花とピンク色のものとでは、えらくまた雰囲気が違う。
梅、と普通にいえばたぶん人は白い花をまず思い浮かべるだろうし、白梅、紅梅などという呼び分けもできる。
木蓮はどうか。紫のものと、白のものと、ぱっと先に思い浮かべるのは互角な勝負か、やや白が優勢かもしれない。こちらも紫木蓮、白蓮、などと呼び分けられる。
だが花水木は困ったものである。
花水木、という季語でどちらの色の花かは判別できないとなると、季語以外の内容の雰囲気で、どちらなのかを推測するしかない。中には両方の色でも通用する句もあるだろう。
ピンクの花のほうも、晴れやかで素晴らしいとは思うが、私は白い花水木の花がとりわけ好きであるから、ここに書いたものはすべてが白い花の花水木の句だ。

この句は、どちらの色のものでも通用しないわけではないが、やっぱり白い花水木の花の、光の反射の強烈さをイメージしながら作ったので、白でゆきたい。
光に向かって、一途に押し合うように咲いていて、その光を貪って日々白さを新たにしていくような。
その花のきっぱりとしたまばゆさ。



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学生服まだ身に余り花水木

自宅のそばに中学校があるので、新中学生も時々家の前の道を通る。
男の子は特に、思いっきり大きめの学生服を着ている。こればかりは仕方ない。育ち盛りだから大きいものを買っておかないと、あっという間につんつるてん、になってしまうのだから。

それにしても、着ている子供は動きにくそうな感じで、ちょっと気の毒だ。
顔もまだ幼くて、不必要に大きな学生服が、その幼さをやけに強調してしまうから。



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花水木明晰に空へ答える



月ひとつ中空にあり花水木



夢から覚める花水木風に浮く







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カンバスにピンクの無あり四月尽

ひょんなことから知り合った絵描きさんが展覧会をしているので見に行った。
興味があったのは、その展覧会のコンセプトで、彼が20代の若い頃から、70歳の今日に至るまでの作品の変化を、代表作を展示して辿る、というものだ。
20代の頃の油絵は雪山の中の風景の具象画。雪景色といっても、雪は白くなく、泥が混ざったようなグレーである。
どこにもきれいに描こうという意志は無い。何かにおもねっているようなところは微塵もなく、ずっしりととただそこにあるのは絵と言うより、自然そのものだ。雪の重たさや、厳しさ、寒さ、力強さ。生きているような沼の碧。

一転して、その後の銅版画や木版画は、小さな面積の中で、非常に繊細でデリケートな印象。
心象風景のような一本の木をさまざまなバリエーションの色合いで連作されたり。
抽象の版画も素晴らしかった。私はこの辺に一番心惹かれた。小さな空間の中で、様々な図形と色が自律神経をもっているかのように構成されている。しかししっくりと落ち着いていて、モダンなのだけれど、調和の取れた室内楽のような味わいがある。

そのあとに、一連の「鉄錆版画」が、ユニークで現代の先鋭的な作品として、製作されてゆくのだが、なぜか今回の展示には割愛されてる。後で、いただいた小冊子の中で、それを見る。

さて、次に一番心にひっかかってきたのは、NO7Sakuraと題された淡い桜色の小さな木版画である。
見ると、一見アブストラクトのようでもあり、しかしよく見れば桜の枝のようなものも見えてくるような、抽象とか具象とかそんなものさえ超えたような版画である。
さくらの「印象だけ」が眩しく抽出されたような、そんな感じがする。

その版画に添えられていた文章はこうだ。
「東京の桜の名所を見て歩いているうちに、桜の木も、暗い部分も、全部桜色に見えてきた。人間は桜の花を見ていて、その他を見ないはずなのだ。」
 
そして今回の展示の最後の作品として出会ったのが、襖2枚分くらいの淡いピンクのアブストラクトの絵画。
遠目に見ると、薄紅色の無地っぽく見えるが、そばで見れば、大ぶりな筆の跡が見える、薄い桜色で塗りこめただけの、大きな空間。

そして彼は言う。「これは無なんです」  「仏教的な、そういう無なんです」
私はどうも腑に落ちなかった。
ずうずうしくも、私は言う。「無って、ピンクでしょうかー?」

「では何色だと思いますか」
「うーん、無彩色というか、無に色ってついてないんじゃないでしょうか」

「それはさみしい」
そのあと「無」についていくつか問答したあと、彼は言った。

「これは さくらなんですよ」
ああ、とやっと私は腑に落ちた。
私の心にひっかかっていたあの桜の版画がこういう風に展開してきたのか。

「でも桜って、無じゃないですよね。 じゃあ、桜と無のあいだにあるような、桜が化けて出たようなものが、この大きな絵なんでしょうか」
と聞くと、彼は「そうです、そんなようなものです」と頷いた。
私の言葉は非常に大雑把なものだ。彼はこちらの言語に合わせて翻訳でもするかのように答えてくれたのだと思う。

しかし思えば桜ほど無に近いところに咲く花はないかも知れない。

私のようなどっぷりと俗に組み込まれて生きている者でも、桜を詠んだ俳句には、その周辺に、小さな無のからんでいるものがいくつあもる。

宅配のトラック無人夕桜

午睡から覚めし空白さくらかな

夕桜テニスコートに誰も居ず

からっぽのカップをのぞく朝桜

天と地の間合に咲いてさくらかな


帰ってから、いただいた小冊子を見た。
略歴には、長年他のお仕事をしながらただひたすらに描き続けてきたこと、統合失調症になられてご苦労されたこと、タイ、カンボジア、東アジアを旅されたこと、ご両親やお姉さんを次々介護されたこと、ご自身も膝を悪くされて障碍者登録されたことなどが書かれていた。
2015年にはフランス・パリのカルーゼル・デュ・ルーブル美術館に作品が展示されている。

これらの経験全てが、あの最後の展示作品、「薄紅色の無」に繋がっているのだ。私はそう思った。
彼が選び取った「表現行為も意味を持たない」、そういう「無」、それはきっと、彼のそういった日常の苦しみや歓びの深く大きく絡み合った根の上に、探し当て、育ち、花咲いたひとつの「答え」なのだろう。

それは今日初めて彼の絵を見た私などには、とうてい想像しきれるものではない。
私にわかるのは、微かな、その輪郭程度のものでしかない。

4月も終わろうとしているこの日、私は淡いピンクの、大きな「無」に出会ったのだ。






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風光る可も不可も無き地方都市



風光るまたひとりジョガーに追い越され



風光る水平線を隠す街





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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。 また、当ブログ内に埋め込んでいた音楽配信動画のうち、違法にアップされたものは削除いたしましたが、公認されているものも色々ありましたので、再度少しづつ載せていきたいと思います。ジャズ・ロック・クラッシック、ジャンルは問いませんが、心に沁みるアコースティックなものをコラボ。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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