蝶々 

小刻みに蝶に纏わりつく虚空



蝶飛んで視野に小さな琴鳴りぬ



人体もシンメトリーに蝶真昼



ようやく去りぬ点滴の痣の蝶

先日病院で、インターンらしき若い男の先生に点滴をされた。思った通り、下手だった。最近は、注射や点滴の針を刺すのは、看護婦さんの方が大抵上手い。他に尋常でない症状ですでに辟易しているのだから、点滴くらい無痛でしてほしいものだ。
遠慮なく失敗を繰り返す先生に、遠慮なく
「痛いですー」と言った。
「看護婦さーん、替わって、お願い」という言葉をぐっと飲み込み、我慢していると、「はーい、」という先生の明るい声。やっと刺し終えたかと安心したら、「ちょっと違う場所にしますねー」と明るい声。

全てが終わった後、私の腕の内側には、点滴で失敗した後が、どう見ても蝶の形の痣になって残った。
数日の間、私の腕には紫色の蝶々が棲んでいた。
そしてふと見ると、
それが音もなく、半分になり、微かになり、やがて完全に消えた。

完全に消えた時、私は自分のまっさらな腕が、妙に新鮮だった。私は時々袖をめくって、自分のなんだか新鮮な腕を見ては、満足した。



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蝶花へ内緒話の軽さかな

蝶の美しさというのは、あの得も言われぬような軽々とした動きを含めてのものだと、思う。
それは見ても見ても飽きない金魚や熱帯魚の動きや、鳥たちの飛翔の、完璧に滑らかな無駄のない動き、蜻蛉の水中を切り分けていくような動き、コスモスと風のどっちがどっちだか分らぬような親密な関係、そんなものたちと同類な美しさだ。

ベランダに花の寄せ植えをすると、3階なのにもかかわらず、時々蝶が訪れてくれる。
春なら小さな紋白蝶や紋黄蝶がひらひらやってくると、その小さく震えるような軽々とした動きが、周りの空気や光にも伝染するようで、見ている私の気持ちも、浮きたってくる。
暑くなってくると、揚羽蝶、中でもアオスジアゲハや黒アゲハの美しさは、ジャンルが違って、エレガントな大人の美しさだ。
大きさも大きいから、飛ぶ動きもゆったりとしていて、大御所の女優のようだ。
黒いものは、炎暑の中でいきなり見ると、思いっきり涼しい。木陰のようでもある。
私は息をひそめて、じっと家の中から見つめている。

野生動物もそのしなやかで堂々とした動きには、見とれてしまう。
さすがにこの辺の野良猫は、ちょっと姑息な動きである。

人間だったら、スポーツの中でも特にスイミングやフィギア・スケート、様々な舞踏、それから、何と言っても、子供の動き。3,4歳がピークかな。段々達者になってくるから、可愛さは目減りしてゆく。

3,4歳の女の子なんていうものは、動きそのものが、もう重力に反しているというか、妖精じみていて、「ホントに体重ある?」って訊きたくなる。それから、こころがそのままスムースに頭脳を通過せずに、身体の動きに現れている、だからあんなに動きそのものが可愛らしいんだと思う。

先日図書館のトイレの洗面所で、そういう可愛さオーラをしょってる、4歳くらいの女の子と隣り合わせた。
お父さんが外で待っているようだった。
女の子は髪が長くて、撫子色のワンピースを着ていた。
まだ小さいから、洗面台を抱え込むようにして、一生懸命に手を洗っている。
なんだか蝶々が花の前で手をこすり合わせているみたいだ。
石鹸水を出そうとしているのだが、その華奢な手の力では、なかなかプッシュしても出てこない。だが慌てず、ゆっくりと何度も繰り返している。

「石鹸水出すの?」と聞くと、何にも言わない。
人見知りなのかもしれないけど、こういうご時世だから、「知らない人とむやみに口をきいちゃだめだよ」と言い含められている子も多いだろう。
私は「いいかな、出すよ」と言うと、女の子の小さな手に、石鹼水をプッシュした。
女の子はじっと下を向いたまま、私を見ずに手を洗って、私を見ずに、私の後ろをすり抜けて、軽々と素早く出て行った。





覚めやらぬ睡りさえずり抱いている



囀りや遠い記憶を埋めた場所



深海のような御空へ八重桜



涙目でドラマ見ている八重桜






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春・アラ・モード

葉桜に学生服の続く坂



葉桜が風を集める坂の上



もう一度やり直せるか遅桜



山吹や自転車の子の帽子飛ぶ

風の強い日だった。前から走ってきた自転車の少年の、黒い野球帽が吹っ飛んだ。
私の眼の前だったので、それを拾って振り向いた。
「すいませーん」と言ってUターンして来た少年は、人形のように色白の睫毛の長い、綺麗な少年だった。
帽子を渡すと、恥ずかしそうに会釈をして、走って行った。
あれでは、お母さんは溺愛しているだろうなとか、そういうのが、鬱陶しくなり始める年頃なんだろうなとか、埒もない事が頭の隅っこに浮かんでは消えた。
そういえば、自分があのくらいの年齢の頃、小学校5年生だったかな、学年の終わりに、クラスで記念の文集出したり、色紙に寄せ書きしたりした時のこと。
今思うと笑ってしまうけど、判で押したような決まり文句、「炎の青春に向かって」と色紙に書いてあったのを見て、「青春」という言葉の正確な意味がどうも分からなかった。
読書も好きで、ませていないほうでもなかったのに、「青春」の正しい意味が、なにか腑に落ちなかったのだ。
さて困ったのは、まわりの友達だ。意味を尋ねた私に、
「うーん、だからさ、青春、なんだよ」「そう、そう」。
小学5年生の語彙をもってしては、だれも納得のゆく説明ができなかったのだ。
「青春は、青春だよ」「ねえ」。

その少年の自転車が疾風のように去った時、私はこれでいよいよ春が来た、と確信した。


山吹が午後の安穏搔き乱す



何かといえば小鳥来る睡り来る



春眠の底は真昼のグラウンド




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青々と人の名の出ぬ春の空



コロッケまだ胃の腑のあたり春の昼



春昼の何処かの路地で時止まり



後ろより友が駆け寄る春外套

久しぶりに友人とランチをした。
言わば青春時代を共有したひとりなのだが、その後30年くらいは音信不通だった。ひょんなことから巡り合って、また時々会うようになった。

ランチタイムは短い。
お互いにラフ・スケッチを描く程度にしか自分のことを語れない。
でも若い頃をともにしている友人というのは不思議なもので、共通のイメージの分母を持っているようなところがあって、言葉の数はそれほど多くなくても、言わんとすることは想像がつきやすい。

そんな彼女は、この街に来ると、「胸キュンで、過呼吸症候群」になってしまうという。

この街は、私にとっても、青春時代の思い出の詰まっている街だ。友人も、恋人も、全てはこの街が始まりだった。それは彼女にとっても同じだが、違うのは、彼女にとっては、生まれたのも、育ったのも、この街で、言わば第一の人生も、第2の人生のスタートもここから始まっている、正真正銘のオール・イン・ワンのスーパー故郷である、ということだ。

お互いに順風満帆な人生などとはとても言えない。
だからといって、波乱万丈というのもぴったりこない。
ただ、本気で他者と関わっていけば、どんどん思いがけない方向に追いかけるボールが転がって行った。
こっちに行けばいいのに、と思っていても、あっちに行ってしまうボール。
あっちに行くとうまくいくな、と思っていると、こっちに来てしまうボール。
まるで不思議の国のアリスだ。
そして、起きてくることに、全身全霊で対処しているうちに、あっという間に年月が経ってしまったのだ。

「胸キュンで、過呼吸になってしまう」のは、単なるスーパー故郷の懐かしさだけではなく、「あの頃に戻って、違った人生の選択をしていたら、どうだったろう」、というような感傷を、この街が感じさせるからだ、と言う。

ロマンチストなんだなあ。
私などは、土台無理なことは、最初から空想できない。ぴたっと思考が止まる感じ。
でも春だからなあ。
桜も雪柳も椿も菜の花もみんな咲いてりゃ、そういう気持ちだって、ふわーっと膨張するってもんかもしれない。

自分に関しては、ただひとつのことしかわからない。
自分らしく生きてきた。だから傷をいっぱい持っている。
たとえタイムラインを戻せても、自分らしく生きたら、やっぱりそんなに楽ではないんじゃないか。
そんな気がする。

人生って言葉、あまり好きじゃないんだけど、
人生にどんなに手紙を出しても、返事が来たためしなんかない、そう思う。







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朧月夜 2017/4

朧夜の猫の分かれて逃げる道



朧夜の湯を踏む音の聞こえをり



浴槽に光捩れて朧月



朧夜の睡りはすぐに岸離れ




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ふと夜空を見上げると、そこに朧月を発見することが多くなった。

淡くなった月光と、その周辺を点描のように、様々な色の細かな粒子が取り巻いている。
空気中の水蒸気が多くなると、発生しやすくなるらしい。
ある夜ベランダに出ると、東の空に出たばかりの月は、最初朧月ではなかった。
それはちょうど和菓子の「すあま」のような感じで、もったりと黄身色をしていて、ちょっと不気味だった。
夏の月はもっと水気があるのだけれど、春の月はもう少し半生な感じなのだった。
しかし暫く時間が経過して、再びベランダに出ると、高みに上った月は、しんみりと光を放つ朧月に変身していた。

でも何かが違う。
朧月夜というのは、もうすこし取り巻いている大気がなまあったかい、そのために体中がふっと弛緩するような、そんな記憶が根強いのである。
そう、まさに「なのはーなばたけーに、いりーひ、うすれー」という、「朧月夜」の歌の、あのリラックス感、鼻歌が出るような春の夜の気持ちよさ。

今年は何か、まだそこまでいってないような気がする。
確かに日中の温度はここ2,3日急に上がったが、今度はやや薄暑じみていて、「気持ちいいー」という雰囲気とは微妙に違う。
それなのに、深夜には、かなり大気がひんやりしていて、「ああ、春の夜だ」というしみじみとした感慨が湧いてこない。

春が爛漫に熟成する前に、初夏になってしまわないことを祈るばかりである。
「今年の春、行方不明」、なんてのはたまらなくいやである。





言えなかった言葉芽を出す朧月



朧月森に傷つく獣たち



朧月未完の春の骨格に


日の当たって、視界のきく森を歩くように、言葉の意味を普段の筋道通りに使う俳句。
それから朧夜のように、視界のきかない霞の立ち込めた森に立ち入って、言葉の繋がりを通常の関係性から切り離し、無意識に大分近いところから、手探りで探してくる俳句。
大きく分けると、その二通りの俳句があると思う。

実際には、二つのタイプが厳然と分かれているのではなく、限りなくスライダ式になっていて、その中間もあれば、読みようによって、どちらともとれる俳句もあるだろう。
ひとつの考え方として、伝統俳句というのは、視界のきく森で言葉をさがすことで、現代俳句というのは、朧の森の視界のきかない場所で言葉を探すこと、と例えてみてもいいかもしれない。

そのどちらも好きで、どちらも詠みたいから、困るのだ。
並べて書けば段差ができて、すんなりゆかない。でこぼこする。

大体のところは、その中間あたりで俳句を詠んでいるつもりだ。
視界のきかない方の森から掬い上げる俳句は、数としては少ししかできないが、私にとってはとても大事な句だ。
だからといって、シンプルな言い回しの句を、「つまらない」とか「普通すぎる」などと排除したりする気にはならない。

こんなにもミニマムな詩形が、こんなにもはっきりと流派が分かれるほどに、多彩な表現が可能であるということ自体がとても面白い。

統一が取れなくとも、俳句の道を私は、自由に歩いて行きたいと思う。
そしてスタイル以外の、自分らしさのような統一感が出てくることを、目指しているのだとも思う。







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静かな桜 2017/4

ヨー・ヨー・マとキャサリン・ストット(Yo-Yo Ma&Kathryn Stott ) 「チェロとピアノのためのロマンス/ディーリアス(Romance for Cello and Piano/Delius)」
桜の柔らかな雰囲気に合う曲だと思う。特に夕桜や夜桜のイメージ。





ゆらゆらと風の洗えるさくらかな



静けさの遠い扉が開くさくら


「静かなもの」といったら何を連想するか。
考えたら、中々浮かばないことに、我ながら驚いた。 それはまあ、「静か」というからには、目立たず、意識に上りにくいということはあるだろうけれど、そこまで喧騒に満ちた、ゆとりのない毎日だったのだろうか。
さんざん考えて思い当たったのは、細い針のような小雨が降っている時の感じ。それから、早朝の家族が寝静まっている時間の、目覚まし時計の秒針のかすかに涼しい音。あとは、雪かな。

夫にも聞いてみた。すると、「うーん、思い浮かばないな」と言う。
息子に聞いたら、「扇風機が止まった時」と言う。
なるほど、あれは何かささやかな安らぎのようなものが、ある。

桜はどれほど盛大に満開であっても、隅から隅まで、みっしりと静けさが満ちている。
本当に不思議だ。
咲いているのは、静けさだ。
散っているのも、静けさだ。

静かにやわらかな、たましいだ。



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花の下人入れ替わり立ち替わり



桜満開わたしはもぬけの殻



天と地の間合いに咲いてさくらかな



漆黒の鴉さくらを飛び立ちぬ



散るさくらごしに見ている咲くさくら


今年は桜に会いに行くタイミングがうまくいかなかった。
近くになかなかの桜の見どころがあるのに、時間があって出かけられると、まだ咲いてなかったり、三分咲きだったり、どうも今年は寒いせいか、いつもより開花が遅かったようだ。天候も悪い日が多かった。
さあ晴れた!という日は決まって予定があり、多忙だった。
さあ暇だ!という日は決まって雨なのだった。
天気予報で、明日なら悪くないし、予定も何もない。さあ、明日こそと思っていたら、よりによって、心臓の頻拍発作でいつもの救急センターに行く羽目に。なんということだ。

何かの拍子に、心臓がいつもの倍テンポで打ち始めたら、もうどうしようもない。
速くなったり、遅くなったりとかならまだいいけれど、もうシンセドラムか何かのように、160前後の脈拍がびくともせずにつっぱしるのだからたまらない。病院に行く支度をするのにも、頭が働かず、時間がかかる。
心臓を一時的に止めるという薬を点滴するのだが、それが物凄く苦しい。大声をあげてしまう。だが、わーわー言ってるうちに、すぐにその苦しさは終わる。そこで、治る時は治るし、治らなければ、再度挑戦。1回から3回くらいで大抵おさまる。
昔は5,6年に一度くらいしか起きなかったのだが、最近1年に何回か起きたりするので困る。
だが心臓に異常があるわけではなく、あくまでも不整脈の一種らしい。
カテーテルを使って、心臓周辺のなにがしかの部分を焼き切る治療を勧められているのだが、他の持病というか体質と兼ね合わせて考えると、難しい面があり、なかなかそれを決行する決心がつかない。

夫の車で救急センターへ行く途中、沢山桜のある公園を横目に過ぎた。
現金なもので、あんなにさくら、さくらと思っていたのに、桜は曇ったガラスを通して見るように、ぼんやりと遠いものだった。

しかし治療が終わっていつもの尋常な自分に戻ったらもう、桜が見たかった。
まだ元気はなかったのだが、少し花見をさせてほしいと夫に頼んで、コンビニでパンやコーヒーを買い込んだ。
すると今度は夫の車のガソリンが怪しくなってきた。ガソリンスタンドも最近減ったし、少し遠いので、私はいつも行く図書館で待っていることになった。
しかし、待っている間に今度は空模様がおかしくなってきた。
やっと来た夫の車に乗り込むと、なんと車の調子が悪いので、今日は帰った方が無難という展開になった。
どうにも間の悪い、今年のさくら。 さくら遁走曲。

だが翌日は晴れて、やっと私は桜に会いに行くことができた。
ひとりで、思う存分、平日の花見客のいない桜を堪能した。
もう散り始めていたが、そこがまた良かった。
真っ黒な鴉が一羽、桜の大木に降りたった。薄紅との色のコントラストが斬新というか、目が覚めるようにきれいだった。若冲が見たら描いたかもしれない、などと思ったり。
鴉というものは、桜が満開の時に、何かやっぱり感じるものがあるのだろうか、などど思って、しつこくじっと見ていたら、居心地が悪かったのか、無礼者!という感じで、すぐに飛び去ってしまった。

散る花の中を、小学生や女子高生が歩いて行った。
テニスラケットを持った若者も、おじいさんも、野良猫たちに餌をやりに来るおばさんも、犬の散歩をしている女性も、皆が散っている花びらを、髪や肩にそっとのせて、花の雨の中を、歩いて行った。





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折々のうた 2017/4

大岡信さんのご冥福をお祈りします。
5日のブログでチラリと大岡さんの事書いたのですが、同日に亡くなられたとのこと。

「折々のうた」は素晴らしいお仕事だったと思う。
私は、朝日新聞のコラムの方は読んでいなかったが、書籍にまとめられている方を読んだ。
昔、俳句や短歌が好きだった祖母に、誕生日やクリスマスに、本を贈ったりしていた。
「折々のうた」はそもそも祖母にプレゼントしたものだった。
物が無い時代に暮らした世代なので、美しい装丁の本を、「読むのが勿体ないねえ」などと言っていたのを懐かしく思い出す。
時々そういう本を自分も借りて読んでいるうちに、こちらの方が深みにはまってしまったのだが。

「折々のうた」を適当に、「ぱっ」と広げて、そこから暫く気のすむところまで、読む。
そして本を閉じた後には、決まってとても肉厚な、豊かな気持ちになるのだった。
普段ぼんやりと、不確かにしか見えないものが、突然視力が良くなり、はっきりとその輪郭が浮かび上がるような、そんな気持ちがしたものだ。

新聞で一日ひとつ、納得、と言う感じで読むのもいいけれど、書籍にまとまると、また違った面白さがあった。
様々な時代の、様々な人々の、様々な形式の詩歌。
アトランダムな、断片的な、しかし鮮烈な、そして時代は違っても、あまり変わり映えのしない、人というものの心の足跡。
そういうものが万華鏡のように詰まっていた、と思う。






 石段を上りつめれば春の月
 


 春の月人を頼みにしてをりぬ



 少年の中の混沌雪柳



 サイレンのかき乱しゆく雪柳


雪柳も、とても好きな花の一つだ。ベランダにも植えたが、毎年良く咲いてくれた。
雪柳の花を見ると、文楽の人形の顔を思い出す。
あの顔の、雪のような真っ白な色のせいもあるのだろうが、それよりも、雪柳の花の、自然の仕業とは思えぬような、細かな花のひとつひとつの精巧さが、文楽の人形の見事に作り込まれた精巧さに通じるような気がするのである。



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 夕暮れて宙に貌ある白椿



 たんぽぽは地面にいること喜べり


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初桜  2017/4

電線に分かれし空や初桜



夥し地中の根より初桜



初桜猫の逃げゆく暗がりへ



少しだけ血が薄くなる初桜



ゆうぐれの裸の空へ初桜




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初桜影曖昧になる時間



またひとつ骨に年取る初桜


そりゃ、年を取ったことがあからさまにわかるのは、皮膚や頭髪などの人の外側を構成しているものかもしれないけど、実感としてずしん、とくるのは、この年になると、どうも骨だという気がする。

若い友人が、誕生日に落ち込んで、「ああ、もう22歳になっちゃった。いやだなあ...」と言う。
私は言った。
「私も、思ったもんだ。 20歳になった時、『遂に20歳になってしまった』と。 30歳になった時も、『ああ、もうだめた』と。 40歳になった時、『こりゃもう、いかん』 そして50歳になる時、『あああ...もう勝手にすれば....!』」

「でもねー、今思えばね、なんて、バカだったんだろう。なんて、若かったんだろう。今に比べたら、まだまだいーっぱい色んな事ができたんだし、あんなこと考えるだけ損ってもんだったなって」。

かくいう私の年はと言えば.....プロフィールの「50代後半」というのは、確かにウソではないが、いやー、もう大変な後半なのだ。もう目前に、「今までとは違う大台」が、蒼ざめた山のように、聳え立っている。

少し前にこの大台を突破した主人が「60歳になった。」と落ち込んでいた時、私は言った。
「昨日59歳だったあなたと今日60歳になったあなたは、たった一日しか経過していない、一体どこが違うというわけ?」

そう、虚子も言っているではないか。
「去年今年貫く棒の如きもの」
その棒のごときものとは何か、「去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理」というのが大岡信の解説であるが、私的勝手にしたい解釈をすると、「去年も今年も貫いていく、たいして変わらぬ自分自身」、と考えてみるのも一興。
年は勝手にどんどん経過してゆくが、私自身は変わらぬ私として、2016年も2017年も貫いていく!と考えると、随分と楽に、なりませんか? 虚子には怒られるかもしれないが。

などと、人のことはどうとでも慰められたというのに、さていざ自分のこととなると、どうしたものだろう。

うーん、
ここはひとつ、80歳になった自分というものを想像し、言わせてみるしかない。

「なんてバカなんだろうねー、まだまだ若いじゃないか。まだまだできることも色々あるし、人にやってあげられることも、色々あるじゃないか」。




初桜月に臍の尾繋がりぬ



初桜まだ決心のできぬこと



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菜の花 2017/4


ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)は1979年生まれのアメリカのピアニスト&シンガー。女優。父はインドの有名な音楽家のシタール奏者ラヴィ・シャンカル。彼女の歌は、ふっと肩の力が抜けるような、そんなリラックス感が持ち味。
ノラ・ジョーンズ(Norah Jones)Come Away With Me (2002)より  「Don't Know Why」




菜の花や子の一群に追い越さる



菜の花や工事現場の音遠く



いつも一人で帰る少女に菜花咲く



ビニ傘のうちより見やる菜花の黄



風の尾のまだ揺れていて菜花かな




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菜の花や仕事終われば大の字に


デザインの仕事をしていると言うと、よく言われるのが、「趣味が仕事になるなんていいですね。」とか、「好きな事でお金を稼げていいですね」ということだ。
部分的には間違ってはいないけど、仕事となったら、厳しいのは、他の仕事と同じだ。
今のようにある程度定期的に仕事をもらえるようになるためには、ある期間コンペで勝ち続けなくてはならなかった。
無茶苦茶無理もしたし、またさせられたし、ドライアイの目薬を湯水のように差していたせいかなにか、白目がイチゴ色になり、長い間治らなくなった。
アレルギーのようだったが、ステロイドの目薬を、一週間差して治ったかと思えば、またイチゴ復活。
その繰り返しで、約ひと月の間、ステロイドの目薬を差したり、やめたり。でも、ステロイドって、たしか緑内障の原因になるんじゃなかったっけ?調べると、決して長期は使用しないようにとのこと。
結局、少しの間仕事を休ませてもらわなくてはならなかった。

「押しても駄目なら引いてみる」を延々と繰り返すのが、この仕事である。
どうもすっきりまとまらない時、どこかの色をほんの少し変える、線を本の太さをほんの少し細くする、字の大きさをほんの少し大きくする、ドロップシャドウ(影)の数値をほんの少し薄くする、などなど。
このほんの少しの匙加減で、「いける」デザインになるか「だめー!」なデザインになるかが分かれてくるから、あきらめずにチマチマした調節を繰り返していく。
しかし、最後完成に至るまでこうした小さな調節を、全体の中でのバランスを見ながら組み立てるので、いわば積み木のように出来上がっていく面もある。
そこで、後から、「ここの色、この色に変えてー!」とか気軽に言われても、そこの色だけ変えて済むような性質のものではない。
周り全てが、ある引力の相互引っ張り合いでできているから、そこの色を変えたら、他の様々なものの色々な事情も変えていかないと、全体として美しいものには、ならないのである。一個後から抜いたら、積み木はガラガラと崩れてしまうのだ。

でもまだ修正を頼まれるだけいいというものだ。
一番恐ろしいのが、こちらに内緒で修正されて、すごいことになって、すでに印刷されたものが送られてきた時。
広告代理店の下請けなら、上司はデザインのわかっている人だろうから、そんなひどいことはないだろう。
でも私のように、メーカーに直に外注デザイナーとして雇用されている場合は、クライアントの人達は、ソフトはいじれても、デザインの専門家ではない。その人達が手直ししてしまうこともある。
一見して、「なにこれーっ!!!」という絶句を何度経験したことか。
自分は職人気質なのだろう、いいものができるまで、粘りに粘って、完成させる。そういうやり方を変えることはできない。そしてそのあとに来るこの大ショックを、一体なんとしよう。

しかしそういう時、私は自分の怒りを開放する。絶対にごまかさない。
もちろん、クライアントにはぶつけられない。 あくまでも、自分一人で、時には友達の前で、完全に、怒るのだ。
仕事なんだから、こういうものよ、なんてクールに構えたり、絶対しない。
ここで怒っておかないと、私は人造人間とか、ゾンビとか、がんもどきとか、なんだか得体の知れないものに、なってしまう、そんな気がするからだ。

そしてまた、新しい仕事を、新しい気持ちでやる、しかない。
一途に、チマチマと完成を目指して。





菜花一面の嬉遊曲空の下



菜の花や今夜のおかずなんにする



太古よりひとつ太陽菜花咲く



菜の花に昼夜何度も入れ替わる

2017/04/02

明日は息子の入社式だという。
「背丈より菜花が高し入学す」と詠んだのは小学校の入学式であった。
張り切ってビデオ撮影しようと待ち構えていたのに、男女一組で手をつないでの入場で、隣の混血の女の子が非常に背が高く、その子の向こう側の息子はなかなかカメラの視野に入ってこなかった。
教室に移動すると、隣の学級花壇の菜の花が異様に生育が良く、息子の方が小さかったのをよく覚えている。

しかし自然は気まぐれだ。
中学では、背の順で一番前だったりした息子も、今では人の群れの中に居れば大抵頭一つ分くらいは抜きんでる長身となってしまった。これから始まる通勤ラッシュの毎日の中で、それだけでもまあ、いいといえばいいか、と言っていた。

時間というのは、蛇腹になっているのだろうか。
あんなにゴロゴロと色んな事があったけど、まるで一瞬のように、ぱたんと閉じられて、すましているのだ。




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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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