花冷え  2017/3

レントゲン待つ間の空や花冷えぬ

お医者さんというのは、人の話を途中で遮って入ってくる特権を持っているのだろうか。
婦長さん的な、エライ看護婦さんにも時々ある。
いや、忙しくて短時間のうちに責任のある仕事を分刻みでやらなくてはならないのだから、これは致し方ないのだろう。
しかし、説明を求められ、いざ説明をしだすと、大体その三分の一聞いたあたりで、もうあちらが話し出す。
いや、そのことはまだこれからなんですよ、先生、と心の中で言いつつ、また話をしだすと、三分の二きたかというあたりで、またあちらがあーかな、こーかなと言う。
いやですから最後まで聞けば先生、わかるんですよ、と心の中で思いつつ、やっと話のゴールにたどり着いた時にはすっかり疲れてしまう。

くどくどと要旨を得ない長い話ならわかる。だがそうではない、ふだんよりかいつまんだ話なのである。
これを数回続けると、いい加減汗をかいてしまうのだ。
話の筋を真っ直ぐ行こうと思っているのに、却って行きつ戻りつして、尺取虫のような話になってしまう。

頭のいい人なら、落語や漫才の素材にできそうである。




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この辺で咲き始めたのは、早咲きの種類の桜。まだまだ寒い。(写真の桜はイメージです)




花冷えやこころうつらぬレントゲン

恋心のようなものは、いかにも写りそうではないか。レントゲンに。
それはやはり常ならざるものであるから、痛んだり、腫れたり、肥大したりしているだろう。
持て余していて、どうにかしてほしいという時もあるだろう。
しかし、もうこの年になれば、恋心なんか信用していないのだ。
あれほど根拠がないくせに、有無を言わさず人を巻き込む無責任極まりないものは無い。

良く知っている間柄より、良く知らない間柄のほうが却って発生しやすかったりするから、話はややこしい。
実際につき合ってみると、お互いの違いの大きさに唖然とすることは、若い時にはよくあるだろう。

かたや愛とは、これ日々重労働だ。
最初は恋だったものが自然の法則で下火になってきた後、その後どうするかで道は幾つもに分かれる。
愛は理解が前提だけれども、この「理解」というのが、生易しくないのである。
そのためには波風も立つし、疲労するし、悲鳴もあげるし、堪忍袋もたくさんいる。

そんな時間を沢山重ねて、それでもどんな結果になるのか、最後までわからないのだ。



イキヲスッテ・トメテイル間に桜咲く




小走りのわが肺活量にさくらかな




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3月 春の夜


ダイアナ・クラール(Diana Krall)Live In Paris(2002)より 「East Of The Sun (And West Of The Moon)」
ダイアナ・クラールは1964年生まれの
アメリカのピアニスト・シンガー。歌だけでなく、ピアノもとってもいい。センスが良く、その曲にフィットしたアドリブ。ボーカルメインでピアノはあまり活躍しない曲も多いんだけど、もっとダイアナのピアノを前面に出してほしい。





春の星緩んでをりぬドライアイ


緩んでくるのは星の光ばかりではない。
緩んで一番まずいのは財布の紐である。
しかしこの場合、緩むといっても、「高額のもの」にというのではなく、「あっても無くてもいいもの」に、なんである。

主婦ともなれば、胸のあたりに一応は「主婦の虫」が棲んでいる。
この虫は、何か買おうとすると、必ずひょいと出てきて、「今すぐ、いらないんじゃないの」とか、「すぐに飽きちゃうよ」とか、「これって、無くても別に困らないよね」などと要らぬことを言ってくる。
若さとは、こういう声をすっぱりと無視する力なのだ。
こいつに抵抗できないようになると、いい加減おばさんになったということだ。

ところが普段こうして節約を重ねていると、ある時 「たまにはいっか」と、たがを外すと、大きく飛んだボールが、2,3回バウンドするように、あろうことか、1度で済まない。
帰りには、ささやかだが可愛らしい無駄なもの、を3つくらいをバックにひそめて、「おかしいなー、あれだけ買うつもりだったのに」などとぶつぶつ言いながら歩いている。
まあ、リッチな方はまた別の世界のお話なんだけど、女性は高額な「必要なもの」より、少額の「あってもなくてもいいもの」を買った時のほうが、嬉しいものなのだ。
ささやかでも、そこに「遊び」、「夢」そんなスペースがあって、主婦にこそたまにはそういうものが必要なのだろう。

あ、でも男性からのプレゼントはまた事情が違いますね。 
バースディや記念日などだったら、まあ人それぞれの適正価格の「ロマンチックな、あってもなくてもいいもの」ってところですか。大人だとあまり少額ではへそを曲げられますね。
でも高額でも生活必需品なんてプレゼントなんてしたら、白けられてしまうでしょう。

男性は普段は本当に必要なもの以外、ほとんど購買欲を感じないタイプが多いように思うのだけど、一転して何かのきっかけで「コレクション」のようなことを始めると、「こんなに、こればっかりあって、どうするのおー!」・・・
という不条理な結果を生みがちであるから、押しなべて考えると、どっちもどっちというところか。




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梅咲いて紆余曲折の愛もあり



さくらの芽空泳いでるまひるかな



街灯に影が先行く春の夜


やっと春の訪れを感じるようになった。
外出から帰ってくる時に、寒くないというのは、いや寒くも暑くもないというのは、かなり嬉しいものである。
なんていうか、自分と外界が一体になったようなのびのびとした快感。

年賀状に先駆けて書く「春のおよろこび」というのは、これかもしれないなんぞと思いつつ、うーん、あったかくなったというだけでしみじみ感動するのは、やっぱり年齢ってものなんだろうか。







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沈丁香  2017/3


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沈丁香追い越してゆく少女かな

沈丁花の香りというのは、私にとっては本当に特別の香りだった。
そうなったのは、13歳頃からだったと思う
思春期の私にとっては、「未知」という言葉が花の香りになったら、それは沈丁香だった。

今、沈丁香に出くわすと、後ろから速足で来る足音は、13歳の私なのだ。
そして彼女は、私に気づきさえしない。
私と濃密な沈丁香のわだかまりを追い越して、すいすいと行ってしまう。



沈丁香過去の中にもある未来

過去に見ていた夢。過去に見ていた未来。
それらは今何処にあるのだろう。
過去の中だけで昏々と眠っているのか。
でも微かに、何処かにいるのだ。
幽霊のようだけれども、今現在の何処か隅っこで、忘れられた花のように、隠れて咲いている。



沈丁香成層圏はやはらかに




家々の灯が濃くなりぬ沈丁香




バスを待つ人の背にある余寒かな

背後霊かって。
「春寒」というと辺り一帯に漂っている、空間的な大きさえをイメージする。
でも「余寒」というと、何かもっと人の身の回りにまとわりついている、生活に組み込まれている「残る寒さ」、そんな感じがする。それにしても今年は、春が遅いと思う。


1週のはやさがさみし梅の花

これは周りにいる大人皆が言う。
皆が言うけれども、やはり微妙に違うんだろうなと思う。
大体が、変化のない事ばかりで埋め尽くされていた1週は、特に速い。


ねこやなぎ朝のひかりをふくみをり

どうしても、触らずにおれない。
触ってみれば、たちどころに心がほぐれる。
これはどう考えても、「猫手」の感触である。
思えば実家では、生まれてこの方、猫がいないことは無かった。
でも今は色々な事情で飼うことはできない。

だからどうしても、猫柳に出会うと、触ってしまう。
猫柳は大いに迷惑しているだろう。






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寒昴  2017/3

 寒昴たれも誰かのただひとり     照井翠


東日本大震災から6年。
今日はテレビでも様々な特集番組が放映された。
震災で親兄弟を喪った当時の高校生が成長し、それぞれに問題を抱えながら、就職活動をし、今年社会へ旅立ってゆく。 そういうNHKの報道番組を見た。
家も息子が今年から社会人である。 あの時は、高校生だった。

面接で必ず「震災」のことを問われるので、何と言ってよいか、考えてしまう、という。
また、自分が残って生かされている、そのわけが分からない,とも。


沢山の俳人が震災を詠んだ。
私は照井翠の手記と俳句に非常に感銘を受けた。

ニュースの映像でみる夥しい瓦礫の山や、亡くなった人の耳を疑うような数、そういう外から見たものよりも、
照井翠という一人の女性の心を通過した叫びの方が、
震災の現実を遠くにいる者に、近しい形で伝えてくれた、そんな風に感じた。


しかし、俳人たちのように、自分というものと言葉が非常に近しい人ばかりではない。
心の傷や、闇が大きければ大きいほど、それは悶々とこんがらかり、容易に整理された言葉になぞ、出てきはしないだろう。


番組で取材されていた男性が、私と同じ都道府県の、大学に通っていたというナレーションに、私ははっとした。
そうだ、離れた場所で起きていることではないのだ、

また、その男性が、電車の扉付近に立っているシーンを見て、再び私ははっとした。

昨日乗った電車の同じ車両に、同じような誰かが、乗っていたかもしれない。

想像することと体験することの間には、大変な差がある。
それを思えばありきたりな励ましの言葉などとても易々とは言えない。
何ができるわけでもない。

でも、せめて忘れないでおこう。
もちろん恐ろしいような数の人達が、同じ闇を抱えているのだけれど、

彼のような人が、同じ県内に何人もいるのだろう、ということ。

彼のような人と、同じ電車の車両に乗り合わせているかもしれない、そういったことを。




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エヴァ・キャシディ(Eva Cassidy)は1963年生まれのアメリカの歌手。
1992年にジャズ、フォーク、カントリー、ブルースなど様々なジャンルの音楽を融合した「The Other Side」でデビューするが、皮膚癌のために、1996年に33歳で亡くなる。
没後、カバー曲「虹の彼方に」(Over the Rainbow)がイギリスのBBCラジオで紹介され、大反響を呼んだことがきっかけとなり、広く世界に知られるようになる。


エヴァ・キャシディ(Eva Cassidy) Songbird より    「Over The Rainbow」


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3月 椿と夢

まだ解けぬ難題ひとつ椿落つ



落椿まばたきもせず雲流る



落椿また落椿夜明けかな



落ち椿自分の名前忘れをり




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椿落つ長き夢からふと眼覚め
 


夢を見ている時の、(眠っている時の夢)そのシーンのことだけれど、今現在の住まいとか環境とかは、あんまり出てこない。大体小さい頃の家や若かったころ住んでいた家が、しょっちゅう出てくる。

私は、最初に住んでいた家からそんなに離れていない場所を、ぐるぐると引っ越していて、結婚した後もそこから電車で3駅の街に住んでいる、生粋の地元人間である。
でも、私が子供の頃の面影はもう、この辺には全然残っていない。
24階のビルは建つわ、モノレールは宙に浮かんでるわ、立体交差の道路で地形は原型をとどめていないし、区画整理で地元に住んでいた人々は、散り散りになってしまった。
そんなこんなで、時々幼少時代に住んでいた場所を通るのだけれど、もうあまり元の地形を、細かい部分は思い出せなくなっている。

それなのに、夢には出てくるのである。仔細な地形、細かな路地、土地の起伏、崖の高さ。
なんとも不思議なことだ。
夢で見て、思い出す、そして、ああ、そういえばここはああなっていた、などど懐かしむ。

人が一人通るのがやっとのような細い路地。その路地の、踏み固められて黒々と湿った土。
小さかった頃、母に手を引かれて外出した行き帰りには、よくその道を通るのだった。
そして春には、その路地の入口で、必ず母が上を向いて指さして、「ほら、見て!」と言うのだ。
木蓮の花だった。
しかし小さかった私に、木蓮の花は目線からとても遠いものだったから、あんまり関心が湧かなかった.

住んでいた家のすぐ前に、自動車整備工場があり、その後ろが大きな崖になっていた。
工場が低い方の土地にあり、そこから後ろの人家のある方は、崖のところで急に高くなっている地形だった。
崖の傾斜している部分は工場の敷地に含まれていて、ぐるりと崖に沿って、鉄条網が張られていた。
その崖の途中、つまりは工場の敷地内の鉄条網の中なのだが、そこに一本の椿の木があった。

私達は兄弟や近所の友達と一緒に、その椿の蜜を吸いたさに、なんと鉄条網の下の崖の土を掘って、子供一人が通れるくらいの窪みをこしらえてしまった。
そして代わる代わる出たり、入ったりして崖を這いつくばり、木によじ登り、甘い蜜を吸ってはご満悦だった。
多少の危険が伴うことが、いっそう椿の蜜の味を甘いものにしていたのだろう。

しかし、ほどなくして工場の人に見咎められ、私たちはこっぴどく、叱られた。

あの時代は、子供たちは町中の大人たちに怒られて、育っていた。
よそのおばさんだろうが、おじさんだろうが、お姉さんだろうが、おじいちゃんだろうが、容赦なく怒られた。
だから「大人」イコール「怖いもの」と思っていたし、だいいち子供というものが成長して、「大人」になるなんてことは、根っから信じていなかった。「白人」と「黄色人種」のように、元から違う物、と感覚的に思っていた節がある。

私達は路地や草地で知恵を絞って、どんどん新しい遊びを発案した。
たいして勉強はせずとも、石ころや花や草や砂を使って、想像力を駆使し、計画を立て、理解力や応用力を磨いていたのだ。

子供を育てていたのは、親だけではなかった。
身の周りにいる大人達、そして背丈より高い草地、大きな木陰を提供してくれる木、それからとりわけ懐かしいと思うのは、足の下にいつも感じていた、柔らかな土の感触だ。
そういった起伏に富んだ自然の地形そのものが、私達を育てていたのだろう。

だから、夢の中に深く棲みついていて、意識の上では忘れていても、時々現れては私の中の何かを癒してくれるような、そんな気がするのだ。





赤い椿白い椿と落ちにけり     河東碧梧桐


椿落ちてきのふの雨をこぼしけり    蕪村


ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に      高浜虚子


玉椿八十八の母の息          桂信子


椿の夜あたまが邪魔でならぬかな       鳴戸奈菜


落椿詩の解説を繰り返す             鍵和田柚子


森深く神々います椿かな             加藤三七子


水に浮く椿のまはりはじめたる   藺草慶子



私の好きな椿の句を並べてみたが、特に最後の藺草慶子の「水に浮く~」は、実景であったとしても、実景以上の様々な心の動きを象徴しているように思えて、鮮烈な印象を残す。
同じ句集「櫻翳」の中に、「寒紅梅晩年に恋のこしおく」がある。
合わせて読むと、ぽとりと水面に落ちた椿が、自然の力によって否応なしに回り始める様子が、抑えきれない恋の始まりの心を表象しているように思えて、ならないのだ。




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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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