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薄紅葉

薄紅葉

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本日の1曲/フジ子・ヘミング~ため息(リスト)


薄紅葉人とのあはひ皆遠く



薄紅葉子の思考回路透けて見え



一瞬に日差しが戻る薄紅葉



吐く息のいまだ見えずに薄紅葉






植物と言うものは、見た目も性質も千差万別で、そこのところは人間も同じといえばそうなのだが、いざ育ててみればこれがなかなか一筋縄では行かない。

手をかけていても、どうもひ弱でついには枯れてしまうものもあれば、、放置していてもどんどん育つものもあるが、しかしそれだけに放任していたら他のものを牽制してしまうので、今度は積極的に刈り取らなければならないものもある。

枝垂れてくるもの、直立するもの、放射状に広がるもの、常緑のもの、秋に葉を落とすもの、花の咲くもの咲かぬもの。
緑と一口に言ったって、濃い緑、青みがかった緑、黄緑、灰色っぽい緑、とトーンは色々であるし、銅葉と呼ばれる赤紫や赤茶系統のものもあるし、これら様々な少しづつ違う色目のものが、一緒にあるからこその、景と言うものが生まれる。

同じような色味や形態の植物ばかりでは、変化がつかずに、面白みが出ない。
最も、わざと同じ種類を幾何学的に模様のように植栽する場合は別であるが、その場合も、背景と前景の植物は、対照的な色や形態にしないとメリハリが出ない。

長年植物とは関わっていたけれど、植えっぱなしという感じで、本腰を入れていたわけではない。
今も、多忙のため、丁寧なことは全くしていないけれども、以前より進歩しているとは思う。

今年は初めて「挿し木」というものを試みた。

その時期に生まれているからだろうか、紫陽花はとても好きな花である。
これを増やしたくて、マニュアルを見ながら、小さな植木鉢に葉を植え付けておいた。
三つ挿していたもののうち、一つはだめになったのだが、二つは無事に根付いたようである。

この小さな植木鉢を見るたびに、密かに微量の「ワクワク感」がうごめく。
この感じ、根底にあるほのかな「してやったり」感は、「ポケットの中にはビスケットがひとつ」、という、小さなころに耳タコになるくらい散々聞かされた歌の歌詞とシンクロしている。

「ポケットの中にはビスケットがひとつ、もひとつたたけばビスケットはふたつ」
「もひとつたたくとビスケットはみっつ、たたいてみるたびビスケットはふえる」
「そんな不思議なポケットがほしい、そんな不思議なポケットがほしい」♪

この歌詞のような、ささやかな「してやったり」感と、切ったヒトデがそこからまた再生してゆくような生命への驚きがミックスして、「挿し木」は私の趣味の戸棚の奥の方に確固たる位置を占めることとなった。

「オリヅルラン」などは、放射状に伸びた葉の合間から、ひょいひょいと子株を先端につけた茎がどんどん出てくるから、これを取ってどこかに植え付ければ、丈夫なので植えたそばからすくすくと育つ。
それで気が付くとあっちもこっちもオリヅルランだらけになって、どんどん放射状にみどりの噴水のような葉が増えてゆく様は、ちょっとしたかくし芸でも披露しているような嬉しさがある。

植えて一番役立っているのは、ハーブの「ローズマリー」で、以前にも書いた、ベネシア・スタンリー・スミスの書籍によりすっかりハーブに魅了された私は、手始めにローズマリー・バジル・ラベンダーなどを植え付けた。

ローズマリーは様々な料理を美味しくし、そのままちぎって香りを嗅ぐと、「なんだこれ」というほど癖のある、強い香りで、「いい香り」からはかけ離れているのに、多すぎないように気を付けて、他のハーブなどとも合わせると、料理のグレードが一気に上がるのには、本当に驚いた。

特に「秋刀魚の塩焼き」のような和風の料理も、劇的に美味しくしてくれるのは意外だった。
塩をした秋刀魚の胴体に包丁でちょいちょいと斜めの切込みを数か所いれて、ニンニクの薄切りを挟み込む。後は適当に、ちぎったローズマリーをうまく胴体の上に置いて、グリルで焼く。
裏返すときに、乗せたものは大体落ちてしまうけど、あまり気にせず。
こうして焼いた秋刀魚は生臭さが取れてめっぽう美味しく、醤油などかけてしまうとその風味が損なわれるので、何もかけない。

晴れた日に植物が陽の光に透けているのを見ていると、様々な問題に満ちた生活のうっとおしい瘡蓋のようなものが、ふっと取れるように思う時がある。
一時的かもしれないが、こういう時間こそが大切だ。
それは理論や理屈による解放ではない。
理屈抜きに、光へ向かって傍若無人に伸びてゆく緑というものの力が、伝染してくるのだ。

そして千差万別な植物のように、人もまた千差万別だ。

単純な者、繊細な者、力の強い者、頭の良い者、積極的な者、受動的な者、行動的な者、内向的な者。

ピンからキリまで様々な性質の者がひしめいていて、自分とよく似たような者は、これがなかなか、いそうでいない。少し似ている者には出会うのだけれど、やっぱり部分的な相似にとどまっている。

「頭の良い者」と一口に言ったって、皆「頭の良さ」を生かせる部分が違っている。
「数字」を使う時に頭の良さを発揮する者と、「言葉」を使う時に頭の良さを発揮する者は、結構正反対の性格だったりする。
また観念的な理論の組み立てや、芸術的な面では素晴らしい力を発揮することができても、実生活での現実的な采配は不得意、という者もいる。
誰でも、「好きなこと」、「やるのが億劫でないこと」をしている時には、普段気付かないような「気配り」や「計算」が本能的にできて、にわかに「優秀」になるのではないだろうか。

だから、人間が皆違っているということ、これは本当に素晴らしい事なのだと思う。
あるシーンで「優秀」なものが、あるシーンでまるで役に立たない、ということは良くあることだ。

人はきっと、誰でも誰かのために、何かができるように、出来ているのではないだろうか。

自然というものは、皆違っている。
そしてそれは、自然という物自体の、知恵なのかもしれない、と、そんな風にも思うのだ。







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秋雨の丁寧に縫っている無言



白菊やひとの祈願が密集す



秋晴れの古い箪笥に住む祖先



潔癖な月に問いただされている



秋薔薇に巧妙に隠れている悔恨



秋の星奇数ばかりが集まりぬ
 



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秋の暮

秋の暮

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本日の1曲/STACEY KENT || What A Wonderful World


秋の暮闇に重りがついている



秋の暮テレビをつけて外出す



玄関の靴についてる秋の暮








秋の暮に底はあるだろうか。

私はあると思うのだ。

とっぷりと暮れてゆくその闇の重たさ、その先にあるのは奈落のような夜なのだが、その奈落には、柔らかな底があるような気がするのである。

肌を刺すような冷気の冬の暮とは違って、まだ肌になじむ温度のせいかもしれない。

その柔らかな闇は、人影と溶け合う。
どこかに寂しさはあるのだけれど、人をあたたかく包み込むような、受け入れてくれるような夕闇なのである。

秋の暮の道を歩いていて、その次の角を曲がると、うっかり幼い頃に住んでいた町に、迷い込んでしまうかもしれない。

舗装された道はまだまだ少なく、ゆるやかに起伏した坂道や、血管のようにややこしい路地が入り組んだ、土の匂いのする道。

そして門のそばに大きな榎の木のある、木造の小さな家。
ここは私の生家なのだ。
榎の木の幹には、大きな穴が開いている。
ここには色んなものを入れて遊んだものだ。

ここもまた、とっぷりと秋の暮の真っ只中だ。

窓から見えるのは、つけっぱなしの白黒テレビ。
テレビだけがついていて、人気は全くない。人っ子ひとりいないのだ。

門の鍵も玄関の鍵も開いているのに、誰も居ない。

それは何故かって、それは過ぎ去った「時間」の中だから。

もう誰も住むことのできない「時間」だから。

それでも私の中のどこかにいつでも沈殿している「家」。
秋の暮の、濃い闇に混ざって、どこからともなく浮上してくる、懐かしい町のゆるやかな面影。

蝉の抜け殻のように、人っ子ひとりいないのだけれども、

妙に生暖かい、時間の止まっている、「町」。









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白菊や思い出せないひとの顔



晴々と白菊に嘘見抜かれる



白菊や静かに侵食される月



柿の実になつかしきもの皆化ける



柿深く沈めり空の青き肉



食べ尽くす林檎の中のしじまかな










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秋の句

秋の句

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本日の1曲/Stacey Kent - Gentle Rain


仕事が詰まって、今週は俳句やエッセイを書く時間が全く取れませんでした。
訪問してくださった方ありがとうございます。
よろしければ私の好きな秋の句で、ひととき秋に浸ってください。





水音の一端にふれいわし雲  金田咲子 



ストローを深く折りたる秋の暮  金田咲子



流木の記憶の果てのいわし雲  秋尾敏



望郷や秋刀魚は青き水平線  秋尾敏



秋の暮撫でて目鼻のありにけり  鳴門奈々



顔の上に鳥の影さす秋彼岸  鳴門奈々



超えられぬ川がいくつも曼殊沙華  椿文恵



鶏頭の中の一本兜太かな  大竹照子



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芒挿す光年といふ美しき距離  奥坂まや



水の上を愁思の影の過ぎゆけり  山﨑百花



蜩や加速続ける定型詩  田中亜美



レコードのノイズふつくら星月夜  田中亜美



蜩よ森の表面張力よ  照井翠



一声を発し銀漢跳び越える   近 恵



コスモスの暗がりに足入れている   近 恵



遠くまで行く秋風とすこし行く  矢島渚男



星がおちないおちないとおもう秋の宿  金子兜太






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本日の1曲/Sunday Song - Richie Beirach (Piano solo)


満月やバスの乗客我のみに



名月やつま先立ちでゆく時間



路地深く静かに月に追われゆく







月の光というものは、どんなに烈しく煌々と輝いていたとしても、静かである。

そこにとても惹かれるというか、引っかかるというか、とにかく素通りできないのだ。

その静けさには、太陽の持つ問答無用な暴力的でさえある生命力も無ければ、人口の光源の、嫌にのっぺりした平坦な無表情も
持ち合わせが無い

夜空にいきなり金属を貼り付けたかと思うほど、鋭い光を放っている時でも、その光の底の方には静かに覚醒している何かがあって、それはひんやりしたさざ波のように、私の身心の最下層へと沈殿してゆく。

月の下に、全てが眠っている、わけではない。

大多数が眠っているとしても、夜勤の医師や看護婦やガードマンや、受験生だの不眠症の人々だの、病のためになかなか眠れない人々もいて、夜行性の動物もいるし、眠るもの達と眠らぬもの達すべての上に、月が昇る。

月はこれらの物と一体になっていながら、完全に孤高だ。

月の光の先端は、例えば鐘の音の最後の、消える間際の幽かな余韻のように、無の中へ、限りなく沁みとおるように、消えてゆく。

どこまでも遮るものの無い、静かな光。

こんな風に、自分の心を、余すところなく最後まで素直に見ることができたらと、そんなことを考える。

世の中は理不尽で満杯だし、身の回りには理由も無く足を引っ張って来る、厄介な昆虫のような連中がいくらでもいる。

感情はいくらあっても足りず、いたずらにそれに長い間深入りすれば、心ばかりか肉体も蝕まれてしまう。
感情は直ぐにざわめきたち、想像力はそれに点火し、ああでもないこうでもないと思い悩む。

するとだんだんと自分の感情を堰き止めるようになり、しかし堰き止めれば、それは必ず、深瀬や渦や、しこりやたんこぶのような物を生むのが感情というものだから、却って心の病や体の病や、突然の周囲との衝突を生むような気がする。

かように面倒かつ複雑な感情との付き合いというものが、人には、ある。


月の光の遮るものの無い、且つどこまでも静かな光を見ていると、いつでも「覚醒」と言う言葉が浮かんでくる。

己の心に対して、あんな風にすみやかでいられたら、率直でいられたら、もう少し静かな気持ちでいられるのではないか、そんなことを思うのだ。








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爽やかや次にやること決めていず



天高し草へ踏み出す一歩かな



秋の暮襖の奥にまた襖



鶏頭に嫉妬されている二人



流星や誰かを忘れていく途中



秋天に巨きクレーン届かずに



コスモスやいつまでも心を決めず







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鱗雲

鱗雲

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本日の1曲/Bill Evans Trio - I Loves You, Porgy



鱗雲無形となってゆく体



忘却の大群流れ鱗雲



鱗雲行けるとこまで行ってみる






見上げると、空一面に光が攪拌されたような、細かな鱗雲が広がっている。

空と言うものが、こんなにも広々としたものだということを、普段はすっかりと忘れ去っている。

「鱗雲」あるいは「鰯雲」、どちらにするかはその時の句の気分や響きで、こっちでなければ、と言う時もあれば、どっちに変えてもそんなに大差は無いという時もある。

鱗雲を眺めていると、自分が一枚の皮膚だけになってしまったような気持ちになって来る。
何処までも伸びる透明な一枚のラップのような。

そして鱗雲がそれとなく囁いて来るのは、「忘却のすすめ」である。

最もこれは、鱗雲に鍵ったことではなく、「秋の海」なんかも、おんなじである。

だが「秋の海」は、もっと乱暴で、ぶっきらぼうで、「囁く」なんて優しさはあまり持ち合わせていない。

それは遠い祖先の背中のように、ソッポを向いていながら、愛想の無い無遠慮な波で、「忘却のすすめ」を投げつけてくる。

それに比べると、鱗雲は親切である。
あくまでも、見るものの身に沿うように、流れ、静かに形を変えながら、しばしの間、私たちを緩やかな放心の中に泳がせてくれる。
その「放心」は、子供の頃には嫌と言うほど味わっていたものなのだけれど。


「忘却」とは「考えないこと」あるいは「考え過ぎないこと」だ。

私達は一日中、思考のベルトコンベアの上に乗っかっているように、何かを考え、選択することの繰り返しで生きている。
無論考え無しで生きていたらば、仕事も健康も何もかも、維持していくことは不可能だ。

しかしこれは自動化されやすい。
リセットすることがむつかしくなってしまうことが頻繁にある。

そんな時、鱗雲は私の心を捕まえて、静かに放し飼いにしてくれる。

端から端まで、そこにあるのは「静かな今」だけで、それも緩やかに蠢いて、ひとつのところにいないのだ。







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虫の声夜の輪郭を辿る



虫の声眠る地層の最上階



湯に髪が広がりゆきぬ虫の闇



コスモスや視線俄かに錯乱す



コスモスや青空少し遠すぎる



短調の唄の短き林檎かな



梨食へば夜の公園静まりぬ






林檎、梨、葡萄など秋の果物は大好きな私であるが、その美味に浸りながらも、ふと、秋の果実は、どこか寂しさのある味のような気がする時がある。

美味しいのに変わりはないのだが、たとえば音楽にも長調の旋律と短調の旋律があって、どちらが良いと言うことではなく、素晴らしい音楽は、どちらの調であったとしても素晴らしいように。

言うなれば、秋の果実の味覚には、、短調の素敵なメロディの持っているような、しんとした、幽かな寂しさのようなものが、どこかにあるような気がするのである。

それは秋の澄み切った大気の持っている、涼やかな透明感と同じ響きを持っている。

どこか寂しい、でも美しい。

「色無き風」という季語があるけれど、初めて知った時には、「なんじゃこれ?」と思ったものであるが、ある時、そうか、この秋の大気や風の、「透明感」のことを言いたかったのかも、そう思った。

そうした中で実る果実は、やはりその透明な淡い寂しさを、どこかに孕んでいるいるのかもしれない。






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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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