秋雨・秋アラモード6

秋雨

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窓の灯の色みな違ふ秋の雨



秋雨に何故かこの道通りたく



信号の赤はさめざめ秋の雨



秋の雨これから先のこと決めず



彫像は何も見てゐず秋の雨

秋の雨と言っても、9月の雨と10月の雨ではやっぱり違う。
9月の雨は、涼しくなったとは言っても半袖や七分袖を着ているくらいだから、まだまだ生あったかい。
それでもビニ傘の上で、でんでんででん、とまるでドラムを叩いているかのようだった、夏の大粒の雨に比べると、やっぱり緩んで柔らかくなってくる。
そして10月ともなれば、いきなり三段論法のように寒くなったりして、静かに細やかに、物語を呟くような、押しも押されぬ「秋雨」になってくるのである。

寒さといっても、まだコートを着る程ではないから、ゆったりと歩けるし、俳句の題材にもできるし、あんまり家に籠っているのも勿体ない。

とは言え、近所のスーパーが閉店してしまい、隣町まで行かないと満足な食材は無いので、雨の街に買い物に出るのは大いに億劫で、ついつい冷凍庫の中のもので済ませて、あんまり出かけなかった。

秋雨前線の影響で、数日降り続いていた雨。この辺では雷雨のような激しい雨にはならなかった。

急にがくんと寒くなったので、お布団を出そうったって、まずは日に干せないではないか!
家族がダニアレルギーなので、さんざん布団に掃除機をかけて、何とか使ったが、今日やっと日が出たので、あれもこれも干したい、洗いたいで大わらわ。

さて秋雨の俳句で、大好きなものが、「コーヒー店永遠に在り秋の雨」、永田耕衣の句だ。
あるある、こんな感じの店。
現代ではスタバなどのチェーン店の影響ですっかり影を潜めているが、たまにあるのだ、「あれっ、この店、まだあるの?」という喫茶店。
そんな店の一つ、実家の近くの繁華街の四つ角に、随分前から営業している店がある。
なんたって、私が若い時からある店なのだ。
いや、そういえば、途中でしばらく閉めたままだったなあ。
もう止めたのかと思っていたら、そのままの内装で、また始めたのだったっけ。

数回しか入ってないし、特別に気に入ってるわけでもない。
それなのに今となっては流行遅れの、いかにも珈琲店と言った感じの民芸調のこげ茶の木の椅子やテーブル、油絵のかかった壁、なんかがやたら懐かしい。

外から覗いたら、シニアが多かった。
盛り場だけど多分、この辺に住んでるひと達なんじゃないかな。和気あいあいとした雰囲気があった。

少し前に通り掛かった時、買い物で疲れていて、一瞬入ろうかと思ったが、入れなかった。

この店に何回か入ったのは、20才前後の頃だ。

若かった自分。
何も知らなかったとも言えるし、今より大事なことを知ってたとも言えるし、恋をしていたかもしれないし、孤独だったかもしれないし、やりたいことは様々あったけれども、どれも上手く実らずに、中途半端な自分にいつもジレンマがあった。

あの店に入ると、そんな自分がいるような気がした。
中途半端で、自分が不満で、でも今よりずっと輝いていて、そんな自分が入っていく自分と会ってってしまうような気がして、怖かった。

彼女は言うだろう。
「何か見つかった?」

私は答えるだろう。
「わからない」

彼女は黙って席を立って、レジで代金を払うだろう。
私はそれから、一人その店に残って、珈琲を飲まなくてはならないのだ。

そんな幻想が一瞬私の脳裏を透過してゆく。
私はそれを払いのけるように、足早にその店の前を通り過ぎて行った。




 



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今日の1曲

Diana Krall - Just The Way You Are


曲はビリー・ジョエルのもの。1977年のヒット曲で私は19歳。洋楽ファンでなくても、当時有線で盛んにかかっていたから、聞き覚えがあるのでは。まさにこんな曲を聴きながら、あの喫茶店で珈琲を飲んでいたのだろう。













秋アラモード6


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木の実落つ忘れた頃に思い出す



コスモスの搔き乱している記憶



秋思かなエスカレーター登り切るまで



団栗の理屈屁理屈降って来る



秋天やアドバルーンがあった頃



林檎の中の階段上り切ると青空



あの月をどこか収納せねば眠れず



レモン齧ればシャンデリアになる一瞬



スプーンに小さき秋晴れひとつづつ



残る虫通り過ぎてよりひとり



秋冷る我の名を問われし如く







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秋風・金木犀その他

秋風

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秋風に石膏像の無言かな



夜道行くもうひとりいて秋の風



秋風やキリコの影を追っている
  
ジョルジョ・デ・キリコの絵が、10代の頃とても好きで、画集から切ってしまって、壁に貼ったりしていた。

キリコの絵の特徴は、誇張された遠近感と、光と影だ。
とくに「影」が主人公なのではないだろうか。

神殿の影、人間の影、建物の影、彫像の影、とにかくそのくっきりとした大きな影たちが、どういうわけか私を安堵させるのだ。
よくキリコの絵は不安を感じさせるというけれど。

郷愁を誘うというか、デジャブを感じるというか、夜見ている夢の空間や世界が、実はずっと、後頭部の一部に存在していて、そちらでももうひとり私が生きている、その場所、そんな感じなのである。

そして、キリコの世界の光と影の感覚は、秋の空気感を持っている。
ひとつの物体に、明暗がくっきり現れて、透明な空気がいやがおうにもそれを引き立てる。

しんと引き締まった、「秋冷」、そんな空気を感じるのである。



秋の風悲喜こもごもつかずはなれず



コンビニで立ち煙草して秋の風



秋風やいろんなことに距離を置く








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金木犀・その他

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今日の1曲 /  Keith Jarrett  Danny Boy


木犀香甘き螺旋をのぼりゆく



天すこし降りて来てゐる金木犀



金木犀いましばらくは恋の中



門灯にまだ暮れきらず金木犀



秋冷るひとつの石にひとつ影



秋夕暮れ洋服少し重くなる



満月や眼球疲労してをりぬ



満月に支離滅裂な我の夢



秋灯しひとの家にはありそうな



天高く我が影掘れば迷路かな



曼殊沙華西陽の影の皆長く

近所の線路わきの彼岸花は、よく写真で見るような燃えるような真紅ではなく、ちょっとアースカラーの煉瓦色がかった赤で、見るなり私は市松人形がそっと置かれているような、そんなイメージを持った。

アンティークな着物のような色味だったからだろうか。丁寧に精巧に作られたような、凝った形をしているからだろうか。

「市松人形」というと思い出す漫画がある。
といっても、怖い話ではない。
内田善美という漫画家の「草迷宮・草空間」という漫画で、道に捨てられていた市松人形を拾う羽目になった大学生の男の子の話。

のっけから人形は喋っていたので、てっきり捨て子かなにかと思っているのだけれど、実は人形という設定。
人形なのだけれど、「愛」を感じると、人間に近くなってくる、という感じの物語。
捨てられていて、最初に野良猫がその人形を不憫に思って、子猫のように抱擁して温めてやる、すると人形の中にも、温かな「愛」が生れてくる。

だが何せもとは人形なので、人間界のことは端から端まで疑問だらけ。
人間の幼児のように、片っ端から男性を質問攻めにする毎日。

そのかわいらしいこと。愛らしいこと、市松人形イコール怖い話というのが徹底的に覆されて、しかも文学性のある、画期的な作品だったと思う。

ある日、あまり人形の質問攻めがうるさくて、ヒステリーを起こした男性が、「人形のくせに、」という言葉で、人形を傷つけてしまう。
するといきなり、今まで血の通った子供のように喋っていた人形が、凍り付いて動かなくなり、本当の人形になってしまうシーンが、とても心に残っている。

何か非常に象徴的なシーンだった。

人形が愛によって、人間になる。
そして傷つくと、人形に戻ってしまう。

ラストは迷子になってしまった人形を探して、やっと古い人形店で見つけた主人公が、ずらりと並んだ動かぬ冷たい市松人形の中から、人間になりかけている人形に手を差し伸べて抱きしめる、というシーン。

主人公が人形に手を差し伸べたとき、巨大な「死」の無機的な連鎖の中に、奇跡のように生命と愛が、ひとつ生れ出る、そんな印象的な場面だ。

そして2人が店の外に出ると、雪が降って来る。

人形が言う。

「たましいが、降って来たよ」。

何故かやたらにそこで泣けてしまう、不思議なハッピーエンドの物語。

緻密に描きこまれた絵は漫画離れしていて、美しい。
古くなって、大分紙が傷んでいるけど、捨てられない一冊だ。









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芒・秋アラモード4




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芒野を幾重も来たり風の波



光あれば光となりぬ芒かな



透明な駿馬駆け抜け芒原



芒野の下に重たき地層かな



ロードバイク燕となりて芒原







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秋アラモード4

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秋の雨道に流れるネオンかな (修正後)



秋雨に静かに四方囲まれぬ



どこへでも我と行くなり秋冷る



秋の海大きな背中見せている



人通りぱったり途絶え曼殊沙華



彼岸花問答雲が空急ぐ



林檎切る幾つになれば傷つかぬ



優柔不断色無き風に日々重ね



ここでなき何処かへ行かむ秋の雲



まだ白き月閉じ込めている鏡



コスモスや赤子笑えば皆笑う

近所のカフェスタンドに行ってカフェ・オレを飲んでいたら、ジーンズの女の人が入って来た。
やっぱりカフェ・オレを頼んで、入口に一番近い席に座った。

私と彼女の他は、誰も居なかった。

ふと彼女の方を見ると、いきなり赤ちゃんがいてびっくりした。
つまり、入ってくるときは、正面から見ていたので、彼女はリュックかなにか背負っていたと思ったのだが、横から見たら、赤ちゃんをおんぶしていたのだ。

赤ちゃんは、円らな瞳で不思議そうにこっちを向いていた。

赤ちゃんをおんぶして、カフェスタンドで、カフェ・オレを飲む!
なんだかいいなあ、と私は思った。

だって、赤ちゃんがいる時分と言うのは、そりゃもう、自由がきかずに、そういう意味では苦しいものなのだ。
親というのは、赤ちゃんにリモコンでつながれているようなものだ。

このカフェスタンドは、入口が解放されていて悪い空気が溜まらなそうだし、空いている時間で煙草の煙も無いし、多分その辺の様子は見て入っているのだろう。

「何か月ですか?」「8か月」
「男の子?」「女です」

息子がこのくらいの時のことを思い出した。
私が家事で他の部屋に行くたびに、泣き出すのだった。
洗濯物を干しにベランダに出たらもう、大泣きなのである。

ある日ピアノの調律に来ていた若い男性が、その様子をまじまじと見て、一言
「気が狂いませんか?」と言った。随分とまた、正直な男性だった。

高齢出産だった私には、もうおおんぶして家事をするなどという体力は無かった。
しかしまあ、考えてみればお腹の中にいたのだから、出てしまってもしばらくはへばりついていなければ不安なのは致し方無いと云えば無いが、「お腹にいる方が楽だ」というのは最もな言葉だと思った。

「もう大昔のことだから、抱き方なんか忘れちゃうなあ」と私が言ったら、
「うちの親なんかね」… 彼女が言う。 何か子供さんを頼もうとしたらしいが、
「あたし子供育てたことないから、っていうんだからー!!」

マスターが爆笑した。
私も大笑いした。
最近聞いたギャグの中では、相当インパクトがあった。
かなりユーモアのセンスのあるお母さんなのだろう。

ここのところ色々あって落ち込みがちだったので、ああ、笑うっていいなって、しみじみ思った。
笑うと、自分の中に風が起きて、外へ向かって、思いっきり何かが噴き出してゆく。
随分笑ってなかったような気がする。

もっと笑いたい。 笑うと空気が移動する。

そう思ったら、その赤ちゃんが、私を見て、ニコーっと笑った!

「あー、笑ったぁ!」と私が言って、連鎖的に全員が笑うのだった。









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萩の花・秋アラモード3

萩の花


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萩咲いてひそと貌ある月の裏



揺れやまぬ水銀灯に萩の影



萩垂れて大地冷たく固まりぬ



萩咲いて髪解くように過去のこと



すんなりと眠りへ落ちて萩の花











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久しぶりに行った馴染みの店で、久しぶりに若い時の仲間の一人に会った。

会うなり彼が言った。
「俺、癌でさ。余命1年って言われてるんだ」「えーっ、嘘でしょ」
「本当だよ」 「胃癌なんだけど、他にもいろいろ転移しててさ」
まるで誰か他の人のことのように、普通に言う。

こんな時、一体なんて言ったらいいんだ。
私は全速力で言葉のストックを参照するが、これというものがない。咄嗟に言う。

「こんなことしてていいの?」「いいんだよ。どうせあと1年しか生きられないなら、好きにやるさ。酒飲んで」

心の下層部で私が言う。 (そうだ、その通りだ)
しかし上層部の私は考える。 (そんなこと言えない)
だからといって、お大事になんて言って、通用する手合いではない。

「駄目だよ、養生しなきゃ」 そうだ、養生、この人にはこの言葉がやけにしっくりする。

友人の中でも、破天荒なひとで、それはいい年になっても治らず、奥さんがいるのに、女の人を作って、子供まで作って、尚且つその人とも別れ、尚且つまた違う女の人とくっついて・・・。

だもんで、友人同士が集まれば、説教されるわ、なんだわ、ここのマスターにも、ボロクソ怒られどうしなのに、全然反省している様子はない。

よっぽどいい男かって? 全然そんなことはないんだけど。(失礼)

でも、何かわかるんだ。
この人の中には、誰でもスッとスムーズに入れる場所がある。

たぶんそれは、男でも女でも同じで、その時彼の前にいる人間が、ちょうど一人入れるくらいのスペースが、いつも用意されている。
普通人は、扉だの窓だの鍵だの階段だの、色々とくっついていて、順々に手はずを整えなければ、なかなかその内部に入れないものなのだが、彼の場合は何と言うべきか、もう終日バリア・フリーなのだ。

でもバリア・フリーもいいけど、後がね。大人になるってことは、後のことも大事にするってことなんだから。


「元気?」
聞かれて私は困った。「全然」
「なんでだよ」
「なんで元気ないんだよ」

ほらね。バリア・フリー。

「いいでしょ、なんだって。皆、いろいろあるんだよ」
上層部の私が言う。
そして下層部の私が言う。(こんな時に、ひとの元気の無いの心配する?)

彼が言う。「そうだよなあ、いろいろあるよなあ、死んじまう奴だっているんだからな」

The Band の「 Weigt 」がかかる。昔、皆でさんざん聞いた曲だ。これ聞いてると、いつの間にか合唱になってしまったっけ。歌声喫茶じゃあるまし。

時間は経っているのだろうか。
時間は全然経っていないか、それとも経ち過ぎているかの、どちらかなのにちがいない。

いつだったか、数年前に会った時、「おー、すっかりいいおばさんになって、外で会ったらわからないな」
なんてずけずけ言われて、思わず「まーっ、どっちがよ!そりゃあんたでしょ!」なんて応酬した。

ずけずけした人と話すと、こっちもずけずけした姉御みたいになってきて、なんだかそういう自分が面白くって、もしかしてホントの自分ってこういう姉御肌だったのかも?なんて埒も無いことを考えさせるような奴。

今日のところは最後まで姉御肌で行くっきゃない。

どんな言葉も用意できなかった。
どんな言葉だって、空回りしてしまう。
言葉に束ねることのできないものだって沢山ある。

そろそろ帰宅せねばならない時間だった。
私は立ち上がって、彼の方へ、まるで命令でもするように、言った。
見つからなかった言葉を入れた空の封筒に貼った、切手のような言葉。


「ちゃんと 養生しなさいよーっ!」

「おー!」










秋アラモード3



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秋の灯や考えることやめてみる



同じ道ばかり歩いて秋曇り



爽やかや知らぬ人のみすれ違う



ストラヴィンスキー走り抜け無月かな



林檎食べ静かな午後のような味



秋晴れに昔の家と祖父と祖母



後悔に幽かな羽根ある秋の虹



秋の雲短編小説すぐ終わる



駈け出せばまだ間に合うか鰯雲



これからは自分を愛す秋の暮



思春期のような還暦青蜜柑












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コスモス・秋夕焼けなど

コスモス


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コスモスや少女空への浮力持ち



コスモスの影揺れてわが影揺れず



コスモスに蒸発してゆく地平線



コスモスやほどけない愛ほどける愛




眠れば真昼がコスモスを閉じ込める



またもやというかなんというか、色々頭を悩ませるようなことが続き、毎日無い頭を振り絞ってどうすべきか考え抜いた。
シャンプーしたら、髪の分量がかなり減ったような気がして、恐ろしくなった。
その後決定的にもっと打ちのめされるようなことがあり、もっと髪の分量が減った。

毎日、やるべきことをがむしゃらにやった。
その間は忘れていられるような気がした。

しかし朝になると、自動的に脳が元に戻ってしまうのだろうか。
どんよりとした悩ましい気持ちがまた舞い戻ってくる。

このどんよりとした鉛のような心が、髪の毛根をどろどろに溶かしているのかもしれない。
うわー、考えるにつけ恐ろしい。

そんな時素足でフローリングの上を歩いていて、ふと足の裏に得も言われぬ優しい感触を感じた。

なんだろう、踏んだことのない、身に覚えのない感触だ。

そう思ってみると、日日草のピンクの小さな花だった。
ベランダに植えようと買ってきたポット苗を、玄関からベランダへ運んだ折に、一輪零れ落ちてしまったらしい。

ただそれだけのことだった。

しかし花を踏んでしまったその一瞬、私ははっきりと癒しのようなものを感じた。

花と言うものを、私は今までひたすら眺めて愛でていただけだった。
踏んでしまって可哀想だったが、花というものの、感触の柔らかさ、たおやかさを改めて思った。

家事に忙しく、その後すぐ靴下をはいた足で、また同じところを歩いてしまって、また踏んでしまった。
しかしその時にはもう、私は何も感じなかった。

あんなに小さな花の感触で一気に癒されるためには、こちらも柔らかい素足でなければ、駄目だったのだ。












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秋夕焼けなど


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我を追う我がいて秋夕焼ける


本日のBGM
 
Tears In Heaven/Eric Clapton 


エリック・クラプトンの1992年の大ヒット曲。最初私は歌詞の意味を意識せずに、ただいい曲だなー。と聞いていただけ。
自宅ベランダからの転落事故で4歳の息子を亡くした悲しみを歌ったものだとわかったのは、大分後のことだった。
当時クラプトンは悲しみのあまり、長い間家から出ることもできなかったという。
この曲とともに仕事に復帰し、悲しみを乗り越えたという。


Tears In Heaven | Tommy Emmanuel & Igor Presnyakov

こちらはアコースティック・ギター界の大御所トミー・エマニュエルとモスクワ生まれのギタリスト、イーゴリ・プレスニャコフによる同曲の演奏。

歌詞がそのままギターの音になったような、表現力もさることながら、クラプトンの曲への共感、そしてまた脇役に回っているイーゴリの表情を見ると、リードを取っているトミーへの共感、いや、もう相手も自分もない、そこにあるのはただひとつの曲の世界への共振だ

最後の方で、二人が思わず歌わずにいられなくなって、頷き合いながら小さな声で歌っているのが、なんともイイ。

イマジネーションが共感を生み、共感が繋がって、大きくなっていく。

それはあっという間に消えてしまう、夕映えと同じようなものかもしれない。

しかし、それが無くては、世界はたちまち枯渇してしまうだろう。






秋夕焼け芝居の如き街をゆく



秋夕焼け傷ついたもの皆つつむ



上り電車秋夕焼けに直進す



秋雨の静かに大地確かめる



鈴虫や指輪を箱にしまいをり



青春が密閉され林檎の真ん中



虫の闇星の夜空に釣り合いぬ



秋高しまだ見ぬものの多さかな










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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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