露草・夜の秋

露草

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露草のかんがへてゐるやうな青

露草の青は、潔癖な青である。
つまり、純血種な青で、それは藍でもなく、紺でもなく、浅葱でもなく、瑠璃ともやや違う、正真正銘の「青」なのだ。
そしてまた「青」というシンプルな漢字の見た目に実にぴったりとくる、飾り気のない、思慮深い色だとも思う。

小さいながら、ドキッとする、神聖な宝石のような青。



露草やひとり帰れば鍵の音



露草や心配事の二つ三つ



露草や我に返れば小さき青



露草や夢でいつでも迷う道






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夜の秋



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本日のBGM → Sinne Eeg Remembering You


ジャズボーカル月へ抜け行く夜の秋

実はこのページ、書きかけというか、エッセイの部分は後から書き込むつもりで、途上だったのだが、なにか手違いで、アップしてしまい、今慌てて書き足した。 ・・・スミマセン。

「夜の秋」という季語は、俳句をやらない人が聞いたら、実に奇異に聞こえるのだろう。
昔私が「夜の秋」と口にしたら、それを聞いていた母が、「あなた、それはおかしいでしょ、秋の夜でしょ」って、まことしやかに諭すように言うものだから、おかしかった。
でも考えてみれば、知らなければ、耳にした時に「海の波」が「波の海」となってしまったのと似たような、納まりの悪さがあるのかもしれない。

「夜の秋」とはご存知のように、昼はまだまだ蒸し暑いのに、夜になってグッと温度が急降下し、いかにも秋にでもなったかのように涼しい夜のことを言う。
避暑地などで、日中は暑くとも夜には羽織るものが欲しいくらいに涼しくなる、そんな夜も含むだろう。

熱帯夜は寝苦しく、何度も目が覚めてしまうし、暑い時は生活の諸々をやるだけでもう精いっぱい、それがこうした涼しい夜になると、急に音楽を聴きたくなったり、本を読みたくなったり、感傷的になったりするから不思議である。

しかしその前段階として、ぐっと疲れが出るのである。
体調が悪くなったり、関節が痛かったり、何もやる気が出なかったり、それをまず通り越して、こういうゆとりのある状態になってくるのだ。

「夜の秋」とはまあ、よく言ったもので、そういう夜は沢山ある。

「秋の夜」ほどには深くなく、空間もまだまだ整然とした雰囲気にはなっていない。
しかし「夏の夜」に比べたら、全く異質な「夜」である。

夏の夜には、なんであれ、脳の中で密集して動きの取れないもの達が、少しお互いの間にわずかな距離を持ち始める。
そのおかげで、脳の中で、なんとかゆっくりとそれらが動き始めることができるのだ。

それらのものが、ゆったりとしたジャズボーカルなどに乗って、しみじみと通り過ぎてゆく。
ぼんやりと思い出したり、考えたりすることが、ひとつひとつ、よく見えてきて、とりあえずその果実のようなものの味がわかるようになる。

そんな感じである。
やっと生きた心地がする、そう思う。



夜の秋今いるひとといないひと



ヘッドライト雨に流れて夜の秋



思い出す言葉短き夜の秋



水滴の間が空いてくる夜の秋









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木槿・晩夏など

木槿


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花木槿まんじりともせぬ家影に



花木槿隣家の親子喧嘩かな



花木槿腑に落ちるよに朝になる



ごくたまに恋の亡霊花木槿



花木槿バレエ教室終わる頃

近所のビルの2階にバレエ教室があり、教室が終わると、小学生くらいの女の子達が、ガヤガヤと階段を降りてる。

何と言っても可愛いのは、あのお団子にまとめたシンプルな髪形だ。女の子達の項はまだか細くて、だからこそあのお団子ののっかった頭が
いっそう可憐に見えるのだ。

息子がまだ小さい頃、2歳半から3歳くらいだっただろうか。
姪っ子のバレエの発表会に、連れて行ったことがある。

至近距離でバレエというものを見たのは私も初めてだったのだが、とても驚いたのは、バレエというのは、実は舞台では大変
大きな音をたてる踊りである、ということだった。

遠目に見れば、いかにも軽々と蝶々だの妖精でもあるかのような、優雅な舞踏であるが、そばで見ていると、その跳躍のたびに、ドン、ドン、ドスン、ドスンと、大変な音がする。

考えてみれば、何の不思議もない。
小学生といったって、小さい子から大きい子まで様々だが、20キロ、30キロだのの女の子達が、ぴょんぴょん、とんだり跳ねたりするのだから、あれくらいの音はして当たり前なのだろう。

しかしそれまでの私の経験からしてみれば、テレビや遠目の舞台でしか見たことがなかったので、バレエというものは、人間が踊っていたとしても、ティンカーベルだの、幽霊だの、蝶々だの類の、およそ重さという概念から遠く隔たっている、重力に反した踊り、そんな風に思えていたのだ。
また、そう見えてこそ、バレエという典雅な舞踏の本領を発揮している、ということなのだろうが。

それがドン、ドン、ドスン、ドスン、だったので、ちょっとしたカルチャー・ショックだった。

息子は成り行きで連れて行かざるを得なかったのだが、男の子なので、別段面白がらないだろうと思っていたのだが、帰宅してから、何か妙なことを始めた。

足をぴんと伸ばすののだ。

そして「アンヨ、ピン、アンヨ、ピン」などと言い出した。

うーん、やはり非日常的な人間の動きというものは、子供には特に、なんであれ面白いものに違いないのだろう。
暫くの間、我が家では「アンヨ、ピーン」がちょっとしたブームになっていたのだった。











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晩夏・その他


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暦の上では8月立秋以後は秋ですが、実際には、「晩夏」という季語が実感としてぴったりくると思います。
あまり実生活からかけ離れて俳句を作るのはつまらないので、私は8月には、夏の季語と初秋の季語を混ぜることが多いです


少女の声集まり遠のき晩夏光



断捨離の本読みふける晩夏かな



食べて洗ってまた食べて晩夏かな



落蝉はまだあの空を抱いている

蝉の一生は切ない。土の中で、例えば油蝉の場合は6年もの間幼虫で、いわば下積み生活だ。
天敵も多く、土の中で死んでしまうものもたくさんいる。
やっと外界へ出てきて、成虫となった後も、蝉自信は攻撃をしないので、
色々な生物に襲われやすく、とても過酷な一生なのだという。

外の世界へ出てきてからは、1週間というのは俗説で、1か月から1か月半くらいの命だとのこと。

しかし蝉は蝉で本能に忠実に生きているだけだから、「下済み生活、つらいネッ、
とか、「なんて過酷で、切ない運命」なんて思ってもいないのだろう。

必死で危険をよけながらも、本能にしたがって、鳴いて、鳴いて、子孫を増やして、そして天寿を全うして、落ち蝉となる。

私が蝉の声に魅かれるのは、蝉と蝉の存在との間に、一分の隙も無いということを感じさせられるからだ。
ただ一心に鳴くことに埋没している。
自分を顧みたり、反省したり、行く末を色々シュミレーションしたりなんてことはせず、ただその時を生きること、鳴くことと一体になっている、そういう原始的な状態に、懐かしさや羨ましさを感じるからなのだ。

ふと思った。人間は、何故音楽というものを必要とするのだろうか。
端的に言って、やはり蝉のように、原始的に自分の存在と一体になって、鳴きたいだけなのではないだろうか。

歌というのも、もとはと言えばそんな動物的な素直な本能が複雑になっただけのものなのかもしれない。
そして声には自信がない、なんて手合いが、実に様々な楽器を考案したのかもしれない。


しかし落ち蝉はやはり切ない。

落ち蝉はきっと空を抱いている。




盆の月カーブミラーに歪みをり



夏草に野蛮な私が隠れてる



赤カンナ髪結い上げてひと夏を



振り向けば誰も居ぬ道涼しさよ



凌霄花の風のふところ知っている



傾けて鳥を見ている秋日傘









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カンナ・星月夜

カンナ



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カンナ咲く真昼の燭の如く咲く



枯れながら咲きながらカンナのソプラノ



カンナ咲く男待たせている女



血圧の高そうな雲カンナ咲く






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星月夜・天の川など


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光年の出会いばかりの星月夜



星月夜子音涼しく犇めきぬ



星月夜かつて知ったる未知もあり



銀河ありそうで無さそうなものばかり



天の川耳鳴り右から左へと



スプーンとフォーク銀河に落とす



星月夜距離という寂しさ一堂に

ただでさえ、この年になると頭の中はどうも混沌としてくる。ひとつの目的があって、そのために行った部屋で、「あれ、何しに来たっけ?」はもうしょっ中。
そんなモヤモヤした頭の中に、また解決のむつかしい問題が堂々巡りを始めると、もういけない、心はわた飴の上に、ソフトクリームを絞り出してのせたような、なんとも不安定な、寄る辺ない状況になる。

「気分を変えなくちゃ!」
夕飯の準備に取り掛かろう。そういえば息子がちょっと辛目の麻婆豆腐を食べたいと言っていたから、今日の挽肉は麻婆豆腐にしよう。
ニンニクとショウガのみじん切りにネギのみじん切りを用意して、豆腐の水切りをする。フライパンを温めて、みじん切りの細かなものたちをいため、豆板醤を入れて、一緒に炒めるんだったっけ。
ここが昔は分からなかった。後で、たれに豆板醤を入れていたりしたので、美味しくならなかったのだ。
この肉を入れる前の段階で、豆板醤を炒めるから、美味しくなるのよねー。

などと自分を励ましつつ、豆腐の準備。ネットスーパーで注文した豆腐は、パッケージの写真が小さくて分からなかったのだが、大きな豆腐ではなく、なんと小さな豆腐4つだった。大きな帯状のビニールが巻かれていたので、様子が分からなかった。
チマチマと小さな豆腐をキッチンペーパーを敷いた皿に並べてレンジで水切をしたが、なんか怪しかった。プルプルしていて、水がきれたんだかなんだか、はっきりしておくれって感じだったが、まあいいかとガス台の横に持ってきた。

ここで何気なく手元にあったスマホを見ると、「がーん!」
「今日は飲みに行くことになったので、夕飯いらない」だと。

ソフトクリームをのせていたわた飴を支えていた割りばしが、一挙にぽっきりと折れたような気持ちになった。

いや、気を取り直そう。
とにかく麻婆豆腐を作ろう。何か一つうまくいけば、気持ちというのは、かなり前向きになるものだ。
などと思いつつ、作業を再開した。炒めた豆板醤に、醤油や味噌を合わせたたれをつぎ込み、ジュージューいってるところに、怪しい豆腐たちを投げ込んだ。
そこで、はっとした。
「なんか違う」
後の祭りである。挽肉はどうしたんだ!挽肉は! 挽肉を炒める手順を、まるきり省いているではないかー!!前代未聞のボケである。挽肉はいまだ冷蔵庫の中なのであった。
豆腐たちはもう、たれの中で出来上がりつつある。
私は挽肉を手に、全速力で思案した。「どーしよー」
しかし考えるより速く、どこからか巨大なな魔力のようなものが、私をつかんだ。

それは「ええい、ままよ」という名のラベリングがされている魔力で、副タイトルとして「どうにでもなるがいい」とラベリングされている魔力だった。
私は、手にしていた挽肉を、炒めずにそのまま鍋に投げ込んだ。
「和風料理で、挽肉と厚揚げの煮物なんかもあるんだし、炒めずに煮ただけだって、それほど酷いことはないだろう」そういう考えもチラリと頭を掠めた。
しかし甘かった。
出来るには出来たが、食べてみると果たしてそれは「失望の味」だった。
入れた材料の味は、すべて、した。
ニンニク、しょうが、豆板醤、豆腐、挽肉、ごま油、このそれぞれのものの味は、確かにした。
しかしそれらは、「協力して」ハーモニーのようなものを、作ってはいなかった。
それらの味はどこまでも分裂して、バラバラだった。

見た目もなかなか酷かった。むきになって挽肉を固まらないよう掻き混ぜたので、豆腐も何が何だかわからないほど細かくなってしまっていて、この見た目そのものが、もう、今の私の頭の中を如実に表していた。
混沌とした気持ちで作った混沌とした麻婆豆腐。この一皿は、今の私の心そのものだ。

ついにわた飴の割りばしの棒はポッキリ折れてしまった。

全てに嫌気がさして、私はベランダに出た。
槍投げでもするように、モヤモヤしている気持ちを外界に打ち捨てられたら、と思った。
しかし、ふと夜空を見上げると、いつもと様子が違っていることに、気が付いた。

いつになく、沢山の星が、出ているのだ。街中のこの辺では、こんなに星が見えるのは、珍しい。しかもパソコンのせいで、非常に度の進んだ私の老眼の視力で、ここまで見えるとは。手元だけが見づらく、遠景が見えていたのは、もう昔。今では、遠景も、中景も、手元もみなそれなりに見えない。

そういえば、月が無かった。そうか、月はもう沈んでしまったのかも。それで余計に、こんなに星が見えるのだ。
8月上旬は歳時記の世界ではもう「初秋」だ。
ではこれこそが、初秋の歳時記にある「星月夜」というものではないか。
七夕も、もとはと言えば現在の8月の季語で、その頃は星が良く見える、ということも思い出した。

なるほどなあ。温暖化と暦のずれで、色々ひずみもあるけど、基本的には歳時記の通りなんだ。
私は感心した。
しかしベガとアルタイルがどれかは、探したけれど分からなかった。私の視力で見つかった星座は、実に分かりやすい、ひしゃげたWの字、カシオペアだけだった。

それにしても、よくよく目を凝らして見ると、ありそうなのだ、「天の川」が!
何か、モヤモヤと少し白濁している流れがあるようなのだ。
天の川の微かな白濁、そのモヤモヤは、あの麻婆豆腐のモヤモヤと、何たる違いであろうか。

私はすっかり気分が晴れた。

なんて遠い者たち同士だろう。気の遠くなるような隔たり、想像しがたい無限。
距離たちの交響曲、無限という涼しさ。

麻婆豆腐がどうしたというのだ、わた飴がどうしたというのだ、とりあえず、この涼しい距離間の中で、小さく小さく、一粒の砂のようになったミクロな自分を感じていようではないか。

その感覚は、大層涼しく、気持ちの良いものだった。









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予定無く蝉の声吸い取っている



蝉の声記憶の瘡蓋はがれをり



秋扇こと荒立てぬよう話す



ひぐらしに空遠のきぬ幾重にも





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昼顔 / 夏アラモード・ラスト

昼顔


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昼顔や真昼の中は真空管




昼顔や妹少し泣いて見せ



昼顔はだれかの小さな思い付き



砂山のかたちうつろう昼顔や



昼顔や砂浜に鍵失くしをり

二十才そこそこの頃、数人で海へドライブした時のことだ。
自分のボーイフレンドはまだ免許を持っていなかったから、確か友人の彼氏が運転していたのだが、夕方、さて帰ろうかという時になって、いつの間にか車の鍵が無くなってしまっていたのだ。

さあ困った。なにせ皆一日中砂浜に居たのだから、探すといったって、これは気の遠くなるような話である。
それでも仕方なく私達は探した。ウロウロと、夢遊病者のように、虚しく砂地をかき回しながら、歩いた。
結局見つからずに、疲れ果てた私達は地元の専門の業者に連絡することになった。

昔のことなので、よく覚えていないこともあるが、なにしろ機械や車のことは皆目わからないから説明のしようもないのだが、何か事は難航しているようで、「いやー、これは無理かな、○○が○○でないと、やはりちょっと無理かなー、」みたいな怪しい展開になってきた。

皆はらはらと成り行きを見守っていたが、長い間その人が色々と頑張ってくれて、ついに目出度く車は動く運びとなった。

お礼を言う私達に、その人が言った。
「いやあー、お盆だし、人助けしなくっちゃって。」
今思えば、30代半ばくらいの、お兄さんとおじさんの間のような、飾り気のない無精な感じの人だった。

その言葉は何ということなく、長い間私の記憶の砂の中の、大分下の方に、埋まっているのみだった。

それがなんで40年近い歳月を跨いで、今いきなりポップアップしてきたのかと思ったら、少し前に読んだ、松下幸之助の「道をひらく」という著書の中の一文と、妙に響き合い、磁力で引っ張り合って、飛び出してきたらしい。

と言っても、啓蒙書の類の、大嫌いな私。普通だったら、絶対読まないジャンルの本だ。
本屋の啓蒙書の棚の前を通ると、目の迷いではないかというような信じがたいタイトルの本が並んでいるではないか。
「今すぐにあなたの習慣は変えられる」、「人生がすべてうまくゆく10のルール」、「その人は何故運命をすっかり変えることができたのか」、「悩みは完璧に無くせる」、などなど。
これらの本は、そういってはなんだが、様々なツボ指圧グッズやストレッチ用のぐぃーんと伸びる特大ゴム紐なんかと同じで、ものの一週間もすれば、無用の長物と化して意識の中から忘れ去られるのが落ちというものだ。

そんな本棚の前を通り過ぎようとしたら、不似合いな可愛い文庫本サイズの本があったので、
職業柄、デザインの可愛さから手に取ると、それがたまたま松下幸之助の著書だったのだ。
感心したのは、同じ本で違う装丁、つまりカバーの絵が違うものがあるという企画で、初めは1巻、2巻とかそういうものかと思ったら、同じ一冊の著書を、違うカバーで出版している。
つまり、自分の好きな雰囲気の装丁のものを、選べるのである。
これは画期的な企画だなあと感心して、中を開いてみた。
開いたそのページにあった文章が、啓蒙書にしては珍しく、私の気持ちにすんなりとしみ込んできた。

「与え与えられるのが、この世の理法である。すなわち、自分の持てるものを他に与えることによって、それにふさわしいものを他から受けるのである。これで世の中は成り立っている。

与えるというのは、わかりやすくいえば、サービスするということである。自分の持っているもので、世の中の人々に精一杯のサービスをすることである。
頭のいいひとは頭で、力のある人は力で、腕のいい人は腕で、優しい人はやさしさで、そして学者は学問で、商人は商売で…。

どんな人にでも、探し出してくればその人にだけ与えられている尊い天分というものがある。その天分で、世の中にサービスすればいいのである」。

妙にすっと気持ちに入って来た。
私達は貨幣というものを介在させて生活をしているから、
仕事のイメージは「金銭を得るためのもの」という味気ない、窮屈なビジョンになりがちだ。
しかし貨幣の向こうに存在しているものは、様々な人々の生活をかけた創意工夫であり、労働の結果であり、持てる天分や修行の結果であるサービスの諸々なのだ。

経済や貨幣の循環のみのイメージしかもっていないと、殺伐たる世の中の構図のみに気がいってしまうが、サービスの循環、しかも「それぞれが持てる天分を存分に使って」のサービスの循環、というイメージを持つと、俄かに違った切り口の世界が見えてくる。

「経済」というクールなものと、「個人の天分」というホットなもののマッチング。

しかし私達は個人の資質を伸ばすような教育を受けているとは言えない。

学歴主義の、知識をどれだけ記憶しているかが人間の評価の主軸になる教育の中に投げ込まれてきたわけだから、「自分の天分」「自分の長所」なんていったって、見当がつかないよ、というような若い人も多いのではないか。
職業もまたしかりでマニュアル通りの応対を叩き込まれるから、予定外のことが起きると、何と応対してよいかわからず途方に暮れているような場面にも出くわす。

「個人の天分」というのは、本人だけでなく、周りも意識してそれを引っ張り出してあげないと、なかなか花を開かないのではないだろうか。
考えてみれば、販売に携わる人や美容師さんなどでも、それぞれ、周りに伝染するほど明るい雰囲気の人、静かだけれど気配りのできる人、手先が器用で仕事のはやい人、言葉が豊かで応対が如才ない人、など個性は様々だろう。
そういう「天分」みたいなものを、自分が発見して活かしていくこと、それには上に立つものも、そこをきちんと評価して、意識の上に引っ張り上げてあげる、そういことがもう少し必要なのではないだろうか。通り一遍なマニュアルだけでなく、積極的に個人の資質を伸ばすような視点。

そして皆が「自分の天分」をもっと意識し、活かしながら仕事をしたら、もう少し仕事というものに、面白さが出てくるのではないだろうか。

わが事を思えば、この年になっても、仕事というのは、いかに自分の天分を使っても、クライアントは絶対であるし、歯ぎしりするようなこともままあるものが仕事であり、趣味でなく仕事となってからは、畢竟お金をもらうためだという意識が、上層に浮かばざるを得ないような状況でやっていた。

「誰かのために」とか「誰かを助ける」などという感覚は、おこがましいとも思っていた。
私のできる限りのことをつぎ込む、精一杯の仕事はする、でもその向こうに存在しているのは、その報酬であり、私と、その報酬との循環の中で、世界は閉じている、そんな感じだった。

でもせめて「誰かが喜んでくれるかもしれない」、そんな方向に、もっと自分の意識を広げていってもいいのかもしれない。そしたら仕事というものに、ひとつ違った意味と喜びが加わるかもしれない。

そしてまた、松下は言う。
「この世の中は持ちつ持たれつ、人と人との協同生活によって、仕事が成り立っている。暮らしが成り立っている。神様ではないのだから、全知全能を人間に求めるのは愚の限りである。人を助けて己の仕事が成り立ち、また人に助けられて己の仕事も円滑に運んでいるのである。
長所と短所と。それは人間のいわば一つの宿命である。その宿命を繁栄に結び付けるのも、貧困に結びつけるのも、つまりはおたがいの心配りひとつにかかっているのではないか」

人は皆違っている。違っているから、素晴らしいのだ。違っているからこそ、協力すれば、ひとりではできないような、何かがなせる。
それぞれの天分や素質を排除し合わず、尊重すればこそ、事業にもプラスになり、各々ももう少し生きやすくなるというものではないだろうか。 

「社畜」という言葉が使われ、就活をする若い人達が最初にするのは自分のチェックした会社がブラックでないかの洗い出しだ。そんな世の中の状況を変えるのはとても難しいことだろう。
少しでも、流れの方向が松下の言うような個人の資質が生かせる社会へと、変わってくれることを願うばかりだ。





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夏アラモード・ラスト



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峯雲やジーンズ干せば固くなり



蜜豆や重い話は切り出せず



ガラス器に入日もありぬ蜜豆や



目閉じても夏野の先はまた夏野



寝入り端夜店の如く今日のこと



アイスティーこの頃旅に出なくなり



夏草やどこに情熱置忘る



シャンデリア消えている夜の凌霄花



凌霄花アリアの同じ箇所で泣く

凌霄花というのは、不思議と和風にも、洋風にも見える。
かなりディコラティブなイメージで、歌舞伎やオペラにイメージが結びついてしまう。
同じ処で、同じセリフで、同じ音楽で、泣く、また笑う。
そんな少し俗っぽい空気も感じる。

宝塚みたいな感じ。

蟻が入ったら、出してくれないようなコワさもある。

いずれにしても、かなり色っぽい、のである。



わが影入れば夏木立とひとつ影







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向日葵・夏アラモード3

向日葵

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向日葵に立ち塞がれて海見えず



向日葵やみるみる濃くなる我の影



向日葵の蜂は蕊より生まれしか



向日葵と一本道の孤独かな

その向日葵に会ったのは、もう夕方に近い時刻だった。
暑い日で、西日がまたそれに輪をかけていて、すぐ目の周りに汗が溜まり、歩いていても頻繁にそれを拭わなければ気持ちが悪かった。

向日葵は正直言って特別好きな花ではなかった。
それは、広告関係という仕事柄もあるのだと思う。
なんといっても、「元気な夏」の季節感を出すのに、向日葵の画像はいやというほど、使われる。
すると現実の向日葵ではなく、イメージが先行し、向日葵は「元気いっぱいで、明るく、楽しい、陽気で単純な花」のような先入観念ができてしまうのだ。
それであんまり、食指が動かないというか、これと言ってどうでもいい花、という距離感のようなものを持っていた。

ところが、線路脇の土手に、不意に人の如く立ち現れたその向日葵は、なんともちょっと向日葵離れしていた。
広告界でよく見る写真のような、はち切れるような生き生きした向日葵ではなく、小さめの控え目な花、背丈も私と同じくらい、茎も細め、強烈な日差しに耐えて、葉にはたくさん傷やら痛みやらがあり、言うなれば「草食系の」「傷を持った
」「やや顔色の悪い」「ちょっとやつれた向日葵なのだった。

しかしそこはさすがに向日葵。
ちょっとやつれていても、「傷を持ったまま」立ち上がって、何一つ繕おうとしない潔い迫力が、ある。

それはいわゆる「逞しさ」でもなく、「力強さ」でもない。

向日葵らしかろうがらしくなかろうが知ったこっちゃない、「私は私」ということを意識さえしていない、ただ自分のままにすっくと立って、咲いている。
少なからず疲れてはいるが、そういう自分というものから、寸分たりとも動いていない、そういう静かな迫力。

そんな無防備な美しさに、私は立ち止まり、しばし歩を進めることがためらわれた。

花というより、私は誰か人と邂逅したような気持ちだった。







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夏アラモード3


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シェルターの如く炎暑に家を出ず



夕立ちて人の繋がり立ち消える



大輪の赤いダリアに出口なし



日日草植えて何かを忘れたし



緑陰を出てまた普段の時間へと



空いた口塞がらぬ時夏の月



万緑や熟睡すれば四肢重く



寄り添いて月を隠せり夏木立



空蝉を夕焼けの色透りゆく



親の前親の後へと浴衣の子

幼い女の子たちが浴衣を着て歩いているのを見ると、私には、どう見ても金魚にしか見えないのだ。
今夜は近所の公園で盆踊りをやっているので、浴衣姿の子供を連れたファミリーがそこかしこに歩いている。

金魚といえば、だいたい赤や黒と相場は決まっているから、彼女たちが金魚に見えるというのは、色のせいではない。どうしたって、ピンクや、白地にピンクの柄物の浴衣が優勢なのだから。
すると、どっしり歩いている親の前へ後へと、先へ行ったり遅れてみたり、ゆらゆらひらひらしている、あの浮遊感が、「金魚」なる所以、ということなのだろう。
折から夕風が心地よく吹いていて、浴衣の袂は滑らかに風の中を泳いでいる。

女の子たちは、どんなに幼い子でも、きっとどこかで知っている。
いつもと違う、可愛らしい格好をさせてもらっていること。
それを自分も気に入っていて、大満足していること。

だから、足が浮き立ってしまって、小走りになったり、歌を歌いながら皆に遅れたり、気もそぞろなのである。

そんな親子連れを見ながら、ああ、女の子がいたら、楽しかったかな、と思った途端だった。

私の前を、一人の男の子と、お母さんが足早に過ぎ去った。
私の目は、その親子に釘付けになった。

男の子は、甚平の上下。
ジーンズのような色の暗めの紺地に、黄土色やカーキの蜻蛉柄で、とても男の子らしい。

そして母親の方はと見れば、同じ色柄の生地の、浴衣を着ているではないか。
小学校低学年くらいか、おそらくこういうペアルックをしてくれるのは、今年、来年くらいが限界かもしれない。

鉄紺と言われるような、色味を抑えた紺地に、黄土色やカーキの蜻蛉柄の女物の浴衣なぞ、そもそも私の発想に無かったし、男の子と母親が浴衣を揃いにするという発想も無かった。

しかし二人並んでいると、これが実に粋で格好良かった。

母親の、今風の少年っぽい、ショートとセミロングの間くらいの茶髪。男の子と揃いの、カジュアルな浴衣。
周り中の金魚や鯛のひらひらの中で、二人はダントツに目立ち、颯爽と歩いていた。

そうか、
「女の子がいれば・・・」なんて、古いなあ!

今の若い人は、ものの楽しみ方を知っている、私はそう思った。
自分の条件に負けているようでは、駄目なのだ!








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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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