俳句との馴れ初め

ひとり気ままに30年くらい俳句を書いてきました。
若い時分は現代詩のようなものを書いていたのですが、俳句の独自のスタイルに魅かれて方向転換。
周りからはつまらぬ伝統回帰をしたという風に取られたりしましたが、私は堅苦しいことは抜きにして、俳句を「一行詩」と捉えています。

世界で最も短い形式を持つこの詩形が、何かを表現する時、細いホースから噴き出す水が鮮烈なように、非常にビビットにイメージが顕在してきます。
もちろん最短詩形といっても、単一なイメージではなく、時と空間を超えて重複したイメージの重なりを自在に包み込むこともできます。

また、私はこの短詩形に、何か強いノスタルジーのようなものも感じるのですが、そのノスタルジーは二つの性質の違う面を持っています。
ひとつは「季語」というタイムトンネルによって、過去が掘り起こされて現在に重なる、普通のノスタルジー。
もう一つは、短詩形のもつ鮮烈なイメージが、子供の頃や思春期の頃に体験している、生の強烈さと、何か関係しているように思えてならないのです。
「今、ここ、にしか生きていなかった実存としての自分」、そういうイノセントな状態へのノスタルジー。
原始的といってもいいような、「今、ここに、生きる」という無垢な状態への憧憬。
それは最短詩形というスタイルが自ずから持っている「取り合えずひとまとまりのイメージしか表現できない」という性質に、何か繋がってゆくものがある、私はそう感じたのです。

また、若い頃、絵を描いたり、詩を書いたり、様々に自分探しをしていたのですが、何かそういった「芸術作品」を完成させてしまうと、広義の意味での「生活」と「芸術作品」が、きれいさっぱり分かれて、きれいさっぱり分かれてしまうことが、つまらない、そんな気持ちをいつも抱えていました。
もっともこれは、「絵画」や「現代詩」がつまらないわけではなく、たまたま私がその年頃に、私なりの方法で、私なりの小さな哲学のようなものを持って、そういう風に芸術に関わっていた、というだけの話ですが。



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「生活」の入り口から入って、「芸術」の出口から出る、また「芸術」の入り口から入って、「生活」の出口から出る。
俳句はミニマムな空間のなかで、生活と芸術が自由に混ざりあい、いかようにも伸び縮みする、私にはそんな風に思えました。メビウスの帯のように。

何故こんなに小さな世界がどこまでも大きなものも内包でき、鮮烈かつ柔軟なのでしょう。
俳句は私にとって、今でも不思議で貴重な、小さな生き物です。

また、現代の物質的な日常生活の中で、「私」という「ものを感じるエネルギーの総体」である塊のようなものは、ともすれば背後へ背後へと押しやられて、痩せ細ってしまいます。

そういったエネルギーの塊としての自らと、万象とが一体となっている、人間として自然で健康的な状況を回復させたい。
そんな気持ちで、少々の俳句を作り、自分の生活で出会った物・事をありのままな感性で雑文にしてみようと思っています。



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12月 風とオリオン(2016)

髪の先指の先まで冬茜

寒くなってきたなと思っているとほぼ同時に、日が沈んだ後の茜空が、その色を深く、鮮やかに熟成させていく。
その茜色は、体全体に浸み込んでしまう。
甘酢に漬け込まれたはじかみのように、その色から逃れる術はない。




風漲り巨きオリオン押し上げる


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私の好きな曲  Fingerprints(2000)より Larry Carlton  「 Fingerprints」


最近好きでよく聞いているのが、ラリー・カールトンの「フィンガー・プリント」という曲。
ラリー・カールトンはごく最近になって好きになったギタリスト。
若い頃には、あまり聞かなかった。
でもラリー・カールトンでもあんまりギンギンのものは、はやっぱり飛ばしてしまう。
ギターの音の余韻を十分に楽しませてくれるようなスローな曲の方がいい。
一般には、「ギターの泣き」というやつ、私的には、「ギターの音の空間」とでも言いたいんだけれど。

あの空間の中に、いろんなものが入ってくれるんだけど、空とか海とかそういうものはもちろんだけど、もっと宇宙的な、SFチックな抒情が入ってくるのが、ラリー・カールトンのギターの特徴だと思う。
ラリーカールトンをさんざ聞いていて、深夜ゴミを出しに行ったら、見たこともないほど、オリオンが大きく見えて、強風のせいで星はきらめいていた。
寒さに小走りしながらも、私は息を大きく吸った。
澄んだ冷たい風が、オリオンはじめ、諸々の冬の星を天心に向かって、ぐいっと斜めに押し上げた、そんな風に感じたと言えば、一番近い。









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9月 新しいカフェ(2016)

無花果の香分け入る夜の腑



白粉花や言えなくてもやもやしてる



月見草次第に小さくなって愛



名月も一人はあんなにすがすがしい



カンナ咲けば軍艦のような夕暮れ



蝉しぐれ過去が迷路になっている




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新しいカフェに入れず虫の声

もともと新しいことをするのが、苦手というか億劫なほうなのであるが、そこへもってきて年を重ねるとますますそういう傾向が著しい。

駅前にカウンターだけの、小さなカフェができた。
客席のスツールと壁の間は、人ひとりがやっと通れる、という感じの狭さである。
気になりだしたのは、その前を通ると、珈琲のとても良い香りがしてくるから、この香りのレベルからゆくと、かなり美味しいコーヒーなのではないかという予感。
それから、客のいない暇な時間に、マスターと呼ぶにはまだ若いのでは、というくらいの店主が、カウンターの中に突っ立ったまま、一心に本を読んでいることが多いということ。
いったい何を読んでいるのだろう、なんとなくそんなことを考えながら前を通り過ぎる。

私の職業はグラフィックデザイン、とはいっても主婦の在宅ワークであるから小規模なものであるが、偶然、そのクライアントの一人が、そのカフェの主人を知っていた。
○○君はいい人ですよ、コーヒー豆も良いから、行ってみなさいよ、と名刺をくれた。
私の住んでいる私鉄沿線の街には、カフェらしいものがない。
モスバーガーが一軒、自宅カフェのようなあんまり入るのに気が進まないかんじの店が一軒あるにはある。
それから、紅茶専門店が一軒。
こじんまりと落ち着いた雰囲気で、私の好きなブリティッシュ・ロックが小さな音でかかっていたりするのだが、紅茶専門店は、やはり「カフェ」ではないのだ、というのが私の感覚だ。

主婦兼在宅デザイナーというのは、致命的に外界から遮断されやすいポジションである。
周りはいいわねー、家で仕事できて、などというが、やはり満足するまで、どこまでも仕事をするのが許されてしまうから、入稿前は寝るのは朝だ。

仕事が立て込んでいれば、家から全く出られない。p・cの後ろを向けばやらなくてはならない家事だけが待っている。
人にはほとんど合わない、家族のみとコミュニケーションをするしかない、物凄く気持ちが停滞しやすい生活形態なのである。
だからこれといった用事がなかったとしても、ちょこちょこ外界の空気を吸いに出かけないと、煮詰まって煮凝りにでもなってしまいそうになる。

だが自分の街にこれといった居心地の良いカフェがないので、仕方なく3駅離れた町の、デパートの9階にあるブックカフェまで足を伸ばさなくてはならないのだ。
まず駅まで歩く、そして切符も買わなくては、電車にも乗らなくてはコーヒーが飲めないなんて、間違ってる、などと思いながらも、そうするしかない。
そこは三省堂がやっているブックカフェで、新品の本を、3冊まで本屋の店先の方から選んで、隣続きになっているカフェに持ち込めるのである。
職業柄、デザイン関係の本はほんとに高額なので、ここでゆっくり目を通せるのはとてもありがたい。
パソコン関係の実用書も、ここでかなり読み込める。買う必要がある時には、ゆっくりと品定めができる。
俳句関係は超メジャーなものしかないのが残念だが、その他料理の本、大好きなインテリアの本、それから興味のあった、村上春樹の新刊、なんかを心行くまで読めるのだ。
誤って本を汚してしまったとしても、弁償はしなくてよい、とのこと。
値段は少々張るが、この待遇なら仕方ない。

特に「本日のお勧めコーヒー」は、とても美味しい。
だが、ここに例えば一日、二日おきに行く、なんてことは不可能である。主婦ともなれば、時間もお財布の中身も豊かとは言えない。
そこで自分の住む町に、居心地のいいカフェがあればどんなにいいだろう、いつもそう思うのだ。
「今日は外に出た」イコール「スーパーに行って、そして帰ってきた」。「帰って、仕事と家事」。では、あまりに悲しいではないか。
「今日は○○カフェに行った。それからスーパーに行って、夕飯の買い物をした。夕焼け空を眺めながら、帰ってきた」。
せめてこんな風に、いきたいものだ。



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よし、ではあの駅前カフェに今日こそ行ってみよう、と固く決心をして、そのつもりで、家を出た。
道順もいつもと変えて、新鮮な気持ちで私は歩いて行った。
うーん、コーヒーは美味しいかな。常連はどんな人たちなんだろう、などと想像を巡らしていたが、ふと、コーヒーを注文した後、何か喋らなくてはならないだろうか、と思い至ると、歩く速度が心持落ちた。
無論普通のカフェならば、注文だけすればあとはこれといって店主や従業員と会話する必要はない。
だがああいうミニマムなカウンターだけの店で、目の前に店主が立っていたら、どうなのだ。
見たところ、お客さんは大体2人くらいの時が多い。
だがもしお客さんが誰もいなかったりしたら、コーヒーを注文したあと、だんまりというのは、こちらの方も気づまりになってくるのではないだろうか。
いやいや今日は天気もいいし、お客が誰もいないってこともないだろう。
それにたとえそうだったとしても、名刺をもらった、クライアントの名前を出せばすぐに会話のきっかけにはなるではないか。そう思えば、少しは勇気が出た。

そこで自分を励ますように勇み足で、店の至近距離まで近づいた。
しかし、店にはたまたまお客さんが誰もいなかった。
意識しすぎてギクシャク歩いていた私が変だったのか、コーヒー豆を売る窓からこっちを向いていた店主が、じろりと警戒したような鋭い一瞥を投げてきた。
変なおばさん、とでも思ったのだろうか。
こうなるともう、だめだった。私の足はそそくさと自動的に店の前を通り過ぎでしまった。

大人になると、意図したことを実行できなかったというのは、結構自己嫌悪になるものだ。
だから、私はあきらめなかった。
家から出て、スーパーに行って、そして帰ってくる、この恐ろしく刺激のない行動パターンが、いい加減いやだったのだ。

また次の日、私はそのカフェに立ち寄る決心をして、家を出た。
今日こそは、と店に近づいて行くと、今度はとても混んでいた。
そして、中からは、和気あいあいの、楽し気な複数の笑い声が絡み合って響いてきた。
私の足はゆっくりと方向を変えた。
あの楽しそうなお仲間の中に、いきなり一見さんの私が突入して、どういう雰囲気になる?
こちらだけ一人だんまりを決め込むのも、何か無理してお仲間に加わるのも、同じに気が進まなかった。
やれやれ仕方ない。今日のところは通り過ぎよう。

さて何日かすぎて、まだ私はあきらめていなかった。
今日こそは自己嫌悪の自分とはおさらばしよう、そう心に決め込んで、店の角に近づくと、今日は中には、なんとなく怖そうなお兄さんかつおじさんがいた。こういうのって、誤解の場合も多いんだけど、よくわからない。
それでなくても心細さを気持ちのバックにしょっているから、ひとたまりもなく私の足は方向転換をしてしまった。あーあ、これでいったい何回目。

それから後も、2,3回、チャレンジは続いた。だが似たり寄ったりの小さな違和感のために、ついには私はその店に入ることはできなかった。
うーん、困ったものだ。いい年して、新しいカフェにぐらい入れないものか!
私はしばらくの間、なかば諦めたような気持になっていて、そのことを忘れていた。

ある日、3駅離れたブックカフェに行った帰りの電車が、自分の駅に滑り込む寸前、私の脳裏に明るい考えがひらめいた。
そうだ、駅についたら、すぐ目の前のあのカフェに、今日こそ入ってみよう!
いつもは家からあの店のある街角まで、6.7分は歩く。それこそが元凶なのではないだろうか!
その間あれこれと考える、考えすぎるから、店の前に着いた時、諸条件に負けてしまうのだ。
そうだ、そうに違いない。

胃のなかには、まだ9階のブックカフェで飲んだコーヒーが消化されていないような気がしたし、カフェのはしごなんてあり得ないと思いつつ、この際そんなことにかまっちゃいられない。
兎に角一度入ってしまえば、あとはもうなんとでもなるではないか。
考えるな!考える前に入ってしまえばいいのだ!
私は少し高ぶっている気持ちを抑えて、駅を出ると、その店に向かった。
すると!なんということだ。

店は臨時休業で、シャッターに貼られている、お詫びを書いた紙が、秋らしくなってきた夜風にひらひらと揺れているではないか。

その時、私の中で、何かが終わってしまった。
それ以来、私はあのカフェに入ることを、考えなくなってしまった。
今日も立って本を読みふけっている店主の眼前をすーっと素通りしてゆくのである。



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8月 炎天の蝉(2016)

白木槿手紙くるように咲き始む



身の内の水嵩上がる白木槿

白木槿というのは、私にとっては特別な花のようだ。
何か重い問題があって鬱々としている時には、その白さは一つの引力ででもあるかのように、私を惹きつけ、私に寄り添う。
でも、平穏な日常があるばかりの時は、それはこざっぱりと清潔なたたずまいを控えめに見せているだけである。


まず髪が夏木立となり睡り来る



家族というぬかるみもあり夕焼けぬ



炎昼に堂々巡りで生きている




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夏の月母に白髪を抜かせをり

母の白髪を抜くのではない。
母に白髪を抜いてもらっているのである。
こんな日が来るとは。
思い切り抜いていいよと言っているのに、躊躇しているところが、やっぱり母というものなのだろう。
八十五歳の母の小さく繊細な指が髪に触れた途端、私ははるかな昔の幼稚園の頃の自分を、ありありと思い出していた。
毎朝、幼稚園に通う私の肩まであった髪の両サイドを、細い三つ編みに編むのが、母の日課だった。
祖母の代からの、分解してしまいそうな古い木の鏡台の前で、朝に弱かった私は、きっとふくれ面をしていたに違いない。

昏き炎天蝉の声の奈落まで


右も左もにっちもさっちもいかない。
人間関係というのはどうにもこんがらかる。
蝉は地上に出てから、一週間しか、生きられないという。
それなのにどうだ、その運命に文句のひとつも言わず、精一杯に、ただひたすらに、鳴いている。
あれを聞くと、何かが吹っ飛ぶ。
自意識のようなものが吹っ飛んで、一挙に、子供のころの、夏休みの長い長い一日の、
無我夢中になっているようでいて、何も考えていない、一種の忘我常態。その頃にタイムスリップする。
蝉の声を全身にいやというほど浴びていた、あの頃。




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ボニー・レイット(Bonnie Raitt)
は1949年生まれのアメリカのロック・ギタリスト、シンガー。
女性のスライド・ギターの名手として知られているが、歌も素晴らしい。 何と言っても、今年68歳で現役バリバリなんだから、その元気を分けてもらいたい。

Draw of Luck(1991)彼女が42歳のころの11番目のスタジオ・アルバムより 「I Can't Make You Love Me」










6月 大賀蓮(2016)

紫陽花や雨の重みでかんがえる



一足ごとに梅雨に深入りする




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蓮放電す朝の空の被膜へ



蓮咲いて街の物音はじまりぬ


今が見ごろだという、早朝の千葉公園の蓮を夫が見たがっていた。
在宅ワークという商売柄、早朝にやっと就寝というのが家の生活パターンなので、そりゃ無理と言っていたら、
発想を転換した夫は、「寝る前に見に行けばいい」という。
「今から行く」と、珍しく行動的になっている夫に、それも面白いかと付いていくことにした。
「大賀蓮」の名所の池は家から車で6.7分の近さだ。
行ってみると、まだ5時前というのに、2,3人の男性が三脚を肩にうろうろしている。
早朝の蓮だなんて、さぞかし神々しい非日常的な世界が展開されているのだろうと思いきや、
「ゴー、ガー、ゴー」と凄い鼾のような声があちこちでしている。
たぶん牛蛙というものではないだろうか。
牛にそっくりの大きな声で鳴いて、それがうるさくて問題になっている、と何かで読んだ。
どんな蛙なのだろうと一生懸命探したが、残念ながら遭遇できなかった。
あれだけ蓮の葉が池を覆いつくしていたら、無理もない。

蓮の葉は、軽いものなら、ちょっとしたものを置けそうである。
肉厚で、原始的で、茎も強靭にぐいぐい伸びてます、という感じ。
つぼみなどは、鳥か、蛇のようである、。
まだそんなにたくさんの花が咲いていたわけではなかったけれども、開花している花は、「花」という雰囲気を超えている。
植物というより動物に近い迫力がある。
だがそのくせ、不思議に人工的な雰囲気もあって、お盆の作り物の蓮の花に似ていると言ったら逆なんだが、造花のような雰囲気もあるから、不思議な花である。
原始的な雰囲気と人工的な感じが同居している。
花の向こうに昼月、いや正確には朝月が、繊細かつぼんやりと、浮かんでいた。




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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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