FC2ブログ

ブログお休みいたします。

20191-k.jpg


いつもご訪問いただき、ありがとうございます。
色々な事情で、少しの間ブログお休みすることになりました。

なるべく早くに再開するつもりでおります。
また皆様のご訪問を心よりお待ちしております。

スポンサーサイト

オリオン

オリオン

201811-d.jpg
本日の1曲/Larry Carlton - Fingerprints




オリオンや闇一枚を率いたり



オリオンや正論少し傾きぬ



オリオンや開けっ放しの風の門






二年前の今頃、大きな問題を抱えていた私は、ラリー・カールトンのこの曲(本日の1曲)をひどく気に入っていて、一日に何度も聞いていた。

問題がいかようにも進展せずに停滞したままなのが、せっかちな自分には一番応えるのだった。
少しでもどのようにでも、何か進展さえして問題に風穴があいてくれば、わずかながらにでも視界がきいて来れば、精神衛生は保たれるというものだ。

しかし窓の無い部屋にいるような状態で、とっかかりのない白い壁にいつまでも四方を囲まれていては、自分の根っこが腐乱してくる。

そんな日々、深夜生ゴミを出しに行く時通る崖ぞいの道の、大きく視界が開けて剥き出しになっている夜空に、いつもオリオン座が定位置を占めていた。

オリオン座だけでなく、そこから唐突に広がっていく夜空の
巨大な空間が、自分の鬱屈を瞬間的に洗ってくれるような気がしていた。

そしてその崖っぷちで、いつもオリオンと闇とセットになっていたのは、縦横無尽にのたうち回っている突風だった。
大蛇さながらに力強い突風は、小さな人間の都合などお構いなしだった。

これが一月や二月だったらたまらない。
しかし冬の最初の頁がめくられたばかりのような時期の風は、まだ身をまかせるのにそれほどの苦痛は無かった。

突風はオリオンの矩形の中を抜けてくるように思われた。

その度にオリオンは異様に煌めいた。

オリオンが煌めけば、風もまた新たに生まれてくる。

そして風が生まれれば、またオリオンが輝いた。

その光景には、ラリー.・カールトンのこの曲が、ひどく似合っていた。
突風のそのしぶとい厚みに、この曲の厚みが、ぴたりと合っていた。

オリオン座の硬質な煌めきと、真っ逆さまに落ちてゆくような夜空の闇の深さと、奔放な突風と、自分の中で勝手に自動再生されてくるこの曲が、

私の中では同じ一つもののように、がんじがらめに輝いていた。






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村




201811-e.jpg




秋灯を消せば部屋も我も消え



短日の丁寧に歩いている石段



記憶の隅をまさぐっている夜霧



濃紅葉遠い悲鳴が消えてゆく



深秋の化石となっている言葉



枯木立交錯してゆく我と空



立冬や小さき船が滑り出す











俳句というのは、自律神経で作るような気がしている。

何故って、自分の思うようにできないからである。

なんだかんだ言っても、エッセイというものは、普通の体性神経を使って書けるものではないだろうか。
どんな状態であっても、書きだせばなんとか書いていくことができる。

ところが俳句はそうはいかない。
くしゃみをしろと言われてできる者はいない。(もっとも、くしゃみのふり、と言うなら話は別だけど)
ひゃっくりをしようと思ってできる者もいない。

俳句は詠もうと思って詠むには違いないけれど、どちらかといえば、くしゃみやひゃっくりの仲間だという気がする。

とにかく普通の文章を書く筋肉では、俳句は作れない。
それを賜るまで、待っていなくてはならないのだ。

だから、何て言うか、まずまず体調の整っている時でないと、俳句も青ざめているような気がする。
生きが悪いのだ。

エッセイはちょっと無理しても普通に書ける。

でも俳句は、無理すると落っこちて腐りかけている柿のようなものに、なってしまったりするのである。






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村




秋アラモード

秋アラモード

201810-m.jpg
本日の1曲/Adriano del Sal, Guitarist



木犀香柔らかに溜まっている時間



木犀香最上階まで停止せず



秋夕焼け誰でも知ってる歌の節



難題をほぐす方法残る虫



黄落や眠る女の瞼開く









ここのところ、仕事が忙しかった。

クライアントのイメージと噛み合わず一からの直しになったり、自分の中でもイメージが固まらずに、作るもの作るもの、没にせざるを得ず、使わずに済む時間をどっさり使わなければならなかった。

イメージと言うのは、オリンピックの聖火台のようなもので、ランナーはひたすらそれ目指して、一歩一歩進まなくてはならない。
もしこのイメージが、不確かな心許ないものだったり、場所がはっきりしていなかったらどうにもならない。
ところが、そういうことも間々あるのであり、今一つどうしてもイメージが膨らまないということはあるのである。

資料不足や、使える色の限定、使えるデザインの限定、クライアントの注文、などとの間で、膨らんでいたイメージが次々使用不可能になり、どんどんイメージが狭く貧困になっていくと、こういうことがおこりやすい。

イメージというものは、不思議なものである。

「今、ここ」にはないものなのだ。
要するに、現在にとってはまだ「非現実」なのだ。

しかしその「非現実」が、漠然としたものからはっきりとしたものに、赤々と燃えてくると、全てのものが動き出す。

動き出すとは言っても、決してスムーズに行くものではない。
置いてみた石を、「イメージ」という光に向かって、「そこではない」「ここでもない」「押してもダメなら引いてみな」のくりかえしで、ひたすらに「コツコツ」とした膨大な「試行錯誤」のくり返し、それがデザインという仕事なのだと思う。

物の位置が一ミリ右か左かで、印象は全く変わる。
色のトーン、明るさ暗さ、鮮やかさ、鈍さ、これらのものも、ほんのわずかな差で、全体のバランスまでが変わって来る。

デザインの仕事をしていると、いつも浮かんでくる言葉は、「丸腰」と言う言葉だ。

いくらデザインの理論や色彩学を学んでいたとしても、いざ始めてみると、全ては遠い絵に描いた餅、のようになってしまう。
いやもちろん、基礎的な理論は知っていた方がいい。
しかしそれは、webコーディングのように、知っていれば即役立つような代物ではない。

全ては、現在という一枚の白紙の中で、どういう一歩を踏み出したか、それでは次はどういう一歩が展開できるのか、ということだけが頼りの世界で、こういった色の取り合わせがいいとか、黄金分割の構成がいいとか、そういうこととは違う次元で物事が運んでいくことになるのだ。

言ってみればマニュアルの無き世界が突如始まり、「こんなはずではなかった」「なんでこーなるの!」「おかしいなー」という、自分の感覚だけが頼りの、サバイバルのような世界に突入してしまうのだ。

マニュアル無き世界で、どう自分の感覚を信じてゆくか。
いつも「原点」戻ることを余儀なくされる、そういう仕事なのだと思う。

「人生」って言葉は好きでは無いけれど、これはどう考えても、「人生」そのものだという気がする。
自分なりに色々学んだり、準備したり、想像したり、若い時には随分と「絵に描いた餅」についてさらに念入りに考察したものだ。

しかしその後の事を思うと、いつもいつもその「絵に描いた餅」は役に立った試しがなかった。
世界は不条理のジャングルのようなもので、自分の家庭や身の回りでさえが、そうだった。

「絵に描いた餅」、「理想」「あるべきかたち」、こういうものはことごとく眼前から消えていった。

日々ただひたすらに、今起きていることから、できる最善の「次に展開する一歩」を積み重ねていっただけだった。
他にどうすることができただろうか。
「絵に
描いた餅」はただの「絵に描いた餅」なのである。

目前にあるのはただ、今現在と、そこから派生する、「次の一歩」それのみなのだ。

だが、「絵に
描いた餅」は消滅してしまったとしても、そうやって進んだ自分なりの一歩一歩の遥かな先方には、
きっと「聖火台」のようなものがあるのではないかと、思う時がある。

それはものの良し悪しや、何が立派かなんてこととは全く無関係な聖火台だ。
煌々と火が輝いてるとは限らない。
朧げな光かもしれない、弱々しく消える寸前のような時もあるかもしれない。

でもそこには、やっぱり何かがあるような気がする。


それはきっと、「自分自身」のようなものではないかと、私は思うのである。






応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村







201810-k.jpg


満月や人のからだの水動く



秋雨が過ぎた時間を撫でている



彫像の怒り確かに天高し



唐突な言葉投げ出している柘榴



ひとの影また生き生きと秋晴れぬ



少し身を離れて浮きぬ愁思かな







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

風光る

風光る

20184i.jpg今日のBGM/Bonnie Raitt - Wounded heart


目つむればひとつ海あり風光る

俳句は「眼前」にあるものも詠むけれど、「ここには無い物」も詠むことができる。
上手くいけば、それは表現にひとつの奥行を与えてくれる。

子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」
の中の雪は、病床にあって、その時起きられなかった子規にとっては、傍にありながらも、眼前に見ることのできない「雪」だ。

しかしそれだけになおのこと、この句の中の雪は、せつないまでに純粋に「白い」。

私は、平坦な言葉でできているこの句が、何故心の奥底に引っかかってくるのか、長い間不思議だった。
子規の眼前には無い、見ることの叶わなかった「雪」が、だからこそ魂の次元にあるような純白の「雪」として、読む人の胸を打つような、そんな気がするのである。





風光る郵便物に良き一通



風光る駅まで走る身の重さ

線路脇の道を歩いていると、後ろで踏切の警報が鳴りだす。
うわあ、大変、あの電車に乗らなくちゃ!駅のホームも見えてはいるが、これはひとしきり走らねばならない。
小走りに走り出すが、走ってみて驚く。
なんだこれは。
これは私の身体なのか。
全ての連結部分が分解寸前、という感じでやたらガチャガチャと揺れている。
なんだか自分で自分という神輿を担いで、練り歩いているみたいだ。
これはいかん。
前に走ったのは一体いつだったのか、その時はこんなじゃなかったのに。
筋肉量が大分減少しているのかもしれない。
そうだ、筋肉は沢山の内臓や骨やら何やらを、組み紐の如く、ぎゅうっと編み上げて、しっかりと荷造りしているのだから、こいつがすっかり緩み出しているにちがいない、これは大変。

足は上げてるつもりなのだが、その実ちっとも上がっていないのだろう。
筋肉の紐が緩んでいるからには、脳の命令だって、ピピっとはゆかないのだろう。

風は光っているけれど、これでどうする、あー、電車が駅に入って来た、でも私もどうにかこうにか、駅に入って行く!
間に合った!

でもこれじゃ今日から筋トレだ。
私は電車の中で扉に凭れ掛かりながら、息を切らして考える。

放っておいたら、色んな物の入った風呂敷包みのようになってしまうー!






風光る聞き耳をたてている木の葉



通り過ぎてゆくものばかり風光る

天気の良い4月の休日ともなれば、一歩家から出れば、家族連れの自転車やら子供たちの小さな集団やら、ベビーカーを押している母親や、うら若い幸福そうなカップルやら、そんな様々な人たちにすれ違う。または、追い越される。
木々はもう新緑の眩しい光を、思いっきり風に跳ね返している。

ベビーカーの母子とすれ違えば、自分もまた小さな息子のベビーカーを押していた頃を思い出す。
ちょっと外出するにも、あれこれと荷物をまとめて、大変だった。
おしめにミルクに、着替え一式。ベビーカーに、アレコレ玩具もぶら下げて。

その赤ん坊が今となっては、私にWebプログラミングなど教授しているのだから、なんだか笑ってしまうなあ。
息子に教わった、F12キーで出てくる開発者ツールとやらの何という便利なこと!
座布団の上におさまって昼寝していたちっちゃな息子が、今となっては私に何やら教えているというのだから、なんというか、感無量である。 とても嬉しい。

幸せそうな家族連れが通れば、ああ、自分もあんな時があったんだなあ、
幸せそうな恋人同士が通り過ぎれば、ああ、自分もあんな頃があったんだなあ。

快速電車のように過ぎた日々。

目まぐるしかった、忙しかった、色んな事があり過ぎた、信じがたいこともたくさん起きた。

これからは、一体どうなっていくのだろうか。

風が光っているばかり。





応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村






咲き過ぎて途方にくれている椿



春昼に暗中模索してひとり



菜の花や雲の標本作りたし



花は葉に夕べあちこち水の音



花は葉に誰にでもあるよな秘密



葉桜を離れていかぬ星ひとつ



草若葉みな一天に引かれをり

木々の「若葉」は夏の季語だが、「草若葉」あるいは「若草」は、春の季語だ。
公園の草たちも、青い青い天から、見えない糸で引っ張られているように、勢いよくピンと伸びている。

植物といえども、そこには確固とした意志のようなものを感じる。







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村







20181k.jpg
今日の1曲/Maxence Larrieu 「亡き王女のためのパヴァーヌ」


雪降って祈っている屋根また屋根



雪降りぬ何巻もある物語



雪降って言葉の隙間埋めてゆく



雪積むやひと日ひと日のうへへまた



雪降ってゐる過去の中今の中

子供の頃は、雪が降ればそれだけで興奮したんだから、今思えばたいしたものだ。
雪が積もるのが珍しい関東だからということもあるだろう。

雪がやんだら、もうじっとしてなんかいられない。
とにかく外へ行く、とにかく何をしてみたって面白い。

踏んで歩くだけで面白い。
触ってみる、落としてみる、蹴ってみる、齧ってみる、描いてみる、捏ねてみる、投げてみる。
小さな雪だるまはすぐできる。
近所の子供もいる時は、雪合戦のような運びにもなった。

だが、最終的に誰かが言い出す遠大な思い付きは、ほらあれ、「かまくら」というやつである。
雪国の、こんもりと大きな、お家のような、「かまくら」。
中でおやつを食べたり、遊んだりしている絵や写真を見るにつけ、「面白そう」「楽しそう」と憧れに胸躍らせる。

兄と私と弟と二つづつ年の飛んでる三人兄弟だったんだけど、上二人小学生、下幼稚園くらいだったんだろうか、何度かその思い付きにチャレンジしたものだ。

最初の頃の勢いといったら、天まで届くかというような意気込みで始めるのだが、いかんせん子供の体力と持続力では、残念ながらに最後まで志を成し遂げられたためしはなかった。積雪の量からしても、かまくらを作るには心もとない。

最終的には、自分の身長にさえまだまだ届かぬような、雪だるまでさえない、不思議な、無目的な雪のオブジェを原っぱに唐突に残したままに、お腹がすいたり、暗くなってきたりして、帰ってしまうのだった。

しかし長じても、やってることは大して変わらなかったような気がする。
若い頃には、随分とこの途中放棄「かまくら」まがいの事をしていたものだ。

さて還暦も目前というこの頃になってふと考えれば、さすがに少しは前進していることに気が付く。

というか、大人になると時間が圧倒的に少なくなるから、あれこれと「かまくら」を無意味に作り始めることをセーブして、できそうにないことには、初めから手を出さなくなっただけのことかもしれない。

大きなかまくらは、とりあえずひとつ作り終えた。
小規模ではあるが、50代になってから、デザインの仕事ができるようになったこと。

だがこれは、入口だった。

つまり、このかまくらは、入ってみると、「トンネル」になっていて、奥へ奥へと、延々と続いているものだったのだ。
仕事なのだから思えば当たり前なのだが、その先は新たな試練のジャングルだ。

いやいやこれに限らず、きっと私にとっての、あの「かまくら」みたいなものっていうのは、たいがいこういうことになっているに違いないのだ。

「やったー!」「できた!」「やっとここまで来た!」

ゴールだ!と思った、そこからこそが、新たなスタートラインになっているのだ。







寒菊や一度決めたらかヘりみず



山眠る海空眠る人眠る



枯木立あるく速度でかんがえる



寒の星小さな予感的中す



冬の梅プラトニックのままで暮れ



寒月や待っていたらば湧かぬお湯



寒燈の鏡にありぬ夜半かな



蜜柑剝くあの一言を思い出す



昔から我を知ってる冬木かな







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村






お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

ブロとも一覧

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR