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泰山木の花

泰山木の花


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本日の1曲/Eliane Elias - That's All



泰山木の花緑蔭を切り抜きぬ




服脱ぐように咲いて泰山木の花




よく眠れた日泰山木の花白く


泰山木の花というものの実物を間近で見たのは、ごく最近の事である。
いつもは通らぬ住宅街を入って行って、鬱蒼とした、まさに緑蔭と言うのにふさわしい、広い庭のあるお宅の横を通り過ぎようとした時に、濃い緑の中に、いきなり大きな空白のような「白」が目に飛び込んできたので驚いた。
よくよく見るとそれは花だった。

バレーボールほどの直径の、大きな花だ。
少し高いところに咲いてはいたが、その花がしっかりとした単純な構成で、肉厚な花びらをしていることは良く見て取れた。

六月には、白い花が良く似合う。
しかし、この花の迫力は、今までに見たどんな白い花とも違っていた。

泰山木の花は、鷹揚で、ゆったりと咲いていて、どんなことも気にしていないような、まさに泰然自若といった空気を漂わせている。

白い花というのは、幽玄なものも多く、ものによっては霊感のようなものを感じるものさえある。
泰山木の「白」は「聖なる」感じもあるにはあるのだが、もっと安穏としていて、どこかひとを安心させる柔らかさを持っている。

手術の日取りが今週半ばに決まり、近々入院することになった。
刻一刻とその日が近づいて来ると、さすがに何か落ち着かない。
色々細かなことで気が揉めるものである。

そんな時、ウォーキングの最中に発見した泰山木の花が、ことのほか気に入り、気になり、毎日会いにいくようになった。

良い医師に出会えたし、頼りになりそうな看護師さんにも出会えたし、後はもうベテランの方達に身をまかせて、なるようになるしかない。

それだのに、何か小動物の尻尾のように、不安がちょろちょろと目前をよぎる。


そんな時、泰山木の花にまた会いに行く。


もう少し、「自分以外」の人や物事を頼みにしてみたらどう?

泰山木の花は、そう言っているような気がする。 










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夏帽の中の虚ろや空と風



手短に話切り上げ夏帽子


夏帽子に眼鏡をして、マスクをして歩いていたら、ご近所さんに会って頭を下げても、俄かには誰だかわからないようである。
それはそうだろう。鏡で見ても、まるで変装しているみたいな有様だ。

まだ薄暑とは言え、ウォーキングなどしたらばマスクの下は汗だくである。

これから梅雨があるのがまだ救いかもしれない。
真夏日には、どうなることやら。


「夏帽子」という言葉は、やはりただの「帽子」とはニュアンスが違っている。
これは「夏」という、非常に派手な「季節をしょっている」からなのだろう。

また、「夏帽子」という言葉は、誰もが思い出の深い抽斗の中にしまってある、子供時代の「夏休み」というイメージとの繋がりを、持っているのではないだろうか。

その辺に置いてある、「夏帽子」のポッコリへこんだ空間の中には

通り過ぎて来た様々な夏の、しかしどこか似ている匂い、
そんなものがふっと、入っているような気がするのである。




クレーンの先端遠く薄暑光






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ベランダガーデニングその後



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自粛中のゴールデンウィークに一大決心でベランダの模様替えをしてから、はや一か月程経った。
その時に植えこんだペチュニアも、元気に育っている。
残念なのは、太陽の方を向いて咲いてしまうので、家の中から見ると、皆あっち向けほい、をしているということ。
鉢を回して少し方向を変えてみるが、あっという間にあっち向けほい、である。
こればかりは致し方ない。花はいつでも、太陽に恋してるんだからなあ。





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パセリ、イタリアンパセリ、バジル、写真に写ってはいないけど、タイム、ローズマリーなども大きくなってきてくれた。
ちょこちょこ取っては、料理に使うと、本当に美味しくなるので、重宝している。
なまじ立派なハーブガーデンなどあったら、手に負えないだろう。このくらいの小規模なものが私にはちょうどいい。





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一番手前に写っているのが、大好きなラベンダー。
花が一旦終わって、全部切り戻しておいたら、小さな二番手の花達が上がってきた。こういうのって、嬉しいなあ。

やりたいことは色々ある。
壁には、シックな濃い色のアイビーを這わせて背景にしたい。全部元気な色だと疲れちゃいそうだから。
一重の白い茨の花も植えたいけど、花の時期は終わっちゃってると、来年かな。

矮性の百日紅の、白か淡いピンクが欲しいけど、カイガラムシが付くことがある、っていうので、模索中。
夏はこのベランダが暑すぎて、殆どの花は元気なくなってしまうから、夏に咲いてくれるものが何か欲しいんだけど。

入院中、夫はちゃんと水やりをやってくれだろうか。
ペチュニアの花がら摘みばっかりは、無理というものだろうなあ。
なんたって、べたべたしたものが大嫌いなんだから。





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明けましておめでとうございます。

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新年明けましておめでとうございます。

色々忙しく、いまだブログ再開叶いませんが、
閉鎖中のブログをちょくちょく覗いてくださる皆様、

ありがとうございます。

皆様にとって幸多き年になりますよう、
お祈り申し上げます。

    

ネコヤナギ





ブログお休みいたします。

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いつもご訪問いただき、ありがとうございます。
色々な事情で、少しの間ブログお休みすることになりました。

なるべく早くに再開するつもりでおります。
また皆様のご訪問を心よりお待ちしております。

オリオン

オリオン

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本日の1曲/Larry Carlton - Fingerprints




オリオンや闇一枚を率いたり



オリオンや正論少し傾きぬ



オリオンや開けっ放しの風の門






二年前の今頃、大きな問題を抱えていた私は、ラリー・カールトンのこの曲(本日の1曲)をひどく気に入っていて、一日に何度も聞いていた。

問題がいかようにも進展せずに停滞したままなのが、せっかちな自分には一番応えるのだった。
少しでもどのようにでも、何か進展さえして問題に風穴があいてくれば、わずかながらにでも視界がきいて来れば、精神衛生は保たれるというものだ。

しかし窓の無い部屋にいるような状態で、とっかかりのない白い壁にいつまでも四方を囲まれていては、自分の根っこが腐乱してくる。

そんな日々、深夜生ゴミを出しに行く時通る崖ぞいの道の、大きく視界が開けて剥き出しになっている夜空に、いつもオリオン座が定位置を占めていた。

オリオン座だけでなく、そこから唐突に広がっていく夜空の
巨大な空間が、自分の鬱屈を瞬間的に洗ってくれるような気がしていた。

そしてその崖っぷちで、いつもオリオンと闇とセットになっていたのは、縦横無尽にのたうち回っている突風だった。
大蛇さながらに力強い突風は、小さな人間の都合などお構いなしだった。

これが一月や二月だったらたまらない。
しかし冬の最初の頁がめくられたばかりのような時期の風は、まだ身をまかせるのにそれほどの苦痛は無かった。

突風はオリオンの矩形の中を抜けてくるように思われた。

その度にオリオンは異様に煌めいた。

オリオンが煌めけば、風もまた新たに生まれてくる。

そして風が生まれれば、またオリオンが輝いた。

その光景には、ラリー.・カールトンのこの曲が、ひどく似合っていた。
突風のそのしぶとい厚みに、この曲の厚みが、ぴたりと合っていた。

オリオン座の硬質な煌めきと、真っ逆さまに落ちてゆくような夜空の闇の深さと、奔放な突風と、自分の中で勝手に自動再生されてくるこの曲が、

私の中では同じ一つもののように、がんじがらめに輝いていた。






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秋灯を消せば部屋も我も消え



短日の丁寧に歩いている石段



記憶の隅をまさぐっている夜霧



濃紅葉遠い悲鳴が消えてゆく



深秋の化石となっている言葉



枯木立交錯してゆく我と空



立冬や小さき船が滑り出す











俳句というのは、自律神経で作るような気がしている。

何故って、自分の思うようにできないからである。

なんだかんだ言っても、エッセイというものは、普通の体性神経を使って書けるものではないだろうか。
どんな状態であっても、書きだせばなんとか書いていくことができる。

ところが俳句はそうはいかない。
くしゃみをしろと言われてできる者はいない。(もっとも、くしゃみのふり、と言うなら話は別だけど)
ひゃっくりをしようと思ってできる者もいない。

俳句は詠もうと思って詠むには違いないけれど、どちらかといえば、くしゃみやひゃっくりの仲間だという気がする。

とにかく普通の文章を書く筋肉では、俳句は作れない。
それを賜るまで、待っていなくてはならないのだ。

だから、何て言うか、まずまず体調の整っている時でないと、俳句も青ざめているような気がする。
生きが悪いのだ。

エッセイはちょっと無理しても普通に書ける。

でも俳句は、無理すると落っこちて腐りかけている柿のようなものに、なってしまったりするのである。






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秋アラモード

秋アラモード

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本日の1曲/Adriano del Sal, Guitarist



木犀香柔らかに溜まっている時間



木犀香最上階まで停止せず



秋夕焼け誰でも知ってる歌の節



難題をほぐす方法残る虫



黄落や眠る女の瞼開く









ここのところ、仕事が忙しかった。

クライアントのイメージと噛み合わず一からの直しになったり、自分の中でもイメージが固まらずに、作るもの作るもの、没にせざるを得ず、使わずに済む時間をどっさり使わなければならなかった。

イメージと言うのは、オリンピックの聖火台のようなもので、ランナーはひたすらそれ目指して、一歩一歩進まなくてはならない。
もしこのイメージが、不確かな心許ないものだったり、場所がはっきりしていなかったらどうにもならない。
ところが、そういうことも間々あるのであり、今一つどうしてもイメージが膨らまないということはあるのである。

資料不足や、使える色の限定、使えるデザインの限定、クライアントの注文、などとの間で、膨らんでいたイメージが次々使用不可能になり、どんどんイメージが狭く貧困になっていくと、こういうことがおこりやすい。

イメージというものは、不思議なものである。

「今、ここ」にはないものなのだ。
要するに、現在にとってはまだ「非現実」なのだ。

しかしその「非現実」が、漠然としたものからはっきりとしたものに、赤々と燃えてくると、全てのものが動き出す。

動き出すとは言っても、決してスムーズに行くものではない。
置いてみた石を、「イメージ」という光に向かって、「そこではない」「ここでもない」「押してもダメなら引いてみな」のくりかえしで、ひたすらに「コツコツ」とした膨大な「試行錯誤」のくり返し、それがデザインという仕事なのだと思う。

物の位置が一ミリ右か左かで、印象は全く変わる。
色のトーン、明るさ暗さ、鮮やかさ、鈍さ、これらのものも、ほんのわずかな差で、全体のバランスまでが変わって来る。

デザインの仕事をしていると、いつも浮かんでくる言葉は、「丸腰」と言う言葉だ。

いくらデザインの理論や色彩学を学んでいたとしても、いざ始めてみると、全ては遠い絵に描いた餅、のようになってしまう。
いやもちろん、基礎的な理論は知っていた方がいい。
しかしそれは、webコーディングのように、知っていれば即役立つような代物ではない。

全ては、現在という一枚の白紙の中で、どういう一歩を踏み出したか、それでは次はどういう一歩が展開できるのか、ということだけが頼りの世界で、こういった色の取り合わせがいいとか、黄金分割の構成がいいとか、そういうこととは違う次元で物事が運んでいくことになるのだ。

言ってみればマニュアルの無き世界が突如始まり、「こんなはずではなかった」「なんでこーなるの!」「おかしいなー」という、自分の感覚だけが頼りの、サバイバルのような世界に突入してしまうのだ。

マニュアル無き世界で、どう自分の感覚を信じてゆくか。
いつも「原点」戻ることを余儀なくされる、そういう仕事なのだと思う。

「人生」って言葉は好きでは無いけれど、これはどう考えても、「人生」そのものだという気がする。
自分なりに色々学んだり、準備したり、想像したり、若い時には随分と「絵に描いた餅」についてさらに念入りに考察したものだ。

しかしその後の事を思うと、いつもいつもその「絵に描いた餅」は役に立った試しがなかった。
世界は不条理のジャングルのようなもので、自分の家庭や身の回りでさえが、そうだった。

「絵に描いた餅」、「理想」「あるべきかたち」、こういうものはことごとく眼前から消えていった。

日々ただひたすらに、今起きていることから、できる最善の「次に展開する一歩」を積み重ねていっただけだった。
他にどうすることができただろうか。
「絵に
描いた餅」はただの「絵に描いた餅」なのである。

目前にあるのはただ、今現在と、そこから派生する、「次の一歩」それのみなのだ。

だが、「絵に
描いた餅」は消滅してしまったとしても、そうやって進んだ自分なりの一歩一歩の遥かな先方には、
きっと「聖火台」のようなものがあるのではないかと、思う時がある。

それはものの良し悪しや、何が立派かなんてこととは全く無関係な聖火台だ。
煌々と火が輝いてるとは限らない。
朧げな光かもしれない、弱々しく消える寸前のような時もあるかもしれない。

でもそこには、やっぱり何かがあるような気がする。


それはきっと、「自分自身」のようなものではないかと、私は思うのである。






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満月や人のからだの水動く



秋雨が過ぎた時間を撫でている



彫像の怒り確かに天高し



唐突な言葉投げ出している柘榴



ひとの影また生き生きと秋晴れぬ



少し身を離れて浮きぬ愁思かな







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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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