風光る

風光る

20184i.jpg今日のBGM/Bonnie Raitt - Wounded heart


目つむればひとつ海あり風光る

俳句は「眼前」にあるものも詠むけれど、「ここには無い物」も詠むことができる。
上手くいけば、それは表現にひとつの奥行を与えてくれる。

子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」
の中の雪は、病床にあって、その時起きられなかった子規にとっては、傍にありながらも、眼前に見ることのできない「雪」だ。

しかしそれだけになおのこと、この句の中の雪は、せつないまでに純粋に「白い」。

私は、平坦な言葉でできているこの句が、何故心の奥底に引っかかってくるのか、長い間不思議だった。
子規の眼前には無い、見ることの叶わなかった「雪」が、だからこそ魂の次元にあるような純白の「雪」として、読む人の胸を打つような、そんな気がするのである。





風光る郵便物に良き一通



風光る駅まで走る身の重さ

線路脇の道を歩いていると、後ろで踏切の警報が鳴りだす。
うわあ、大変、あの電車に乗らなくちゃ!駅のホームも見えてはいるが、これはひとしきり走らねばならない。
小走りに走り出すが、走ってみて驚く。
なんだこれは。
これは私の身体なのか。
全ての連結部分が分解寸前、という感じでやたらガチャガチャと揺れている。
なんだか自分で自分という神輿を担いで、練り歩いているみたいだ。
これはいかん。
前に走ったのは一体いつだったのか、その時はこんなじゃなかったのに。
筋肉量が大分減少しているのかもしれない。
そうだ、筋肉は沢山の内臓や骨やら何やらを、組み紐の如く、ぎゅうっと編み上げて、しっかりと荷造りしているのだから、こいつがすっかり緩み出しているにちがいない、これは大変。

足は上げてるつもりなのだが、その実ちっとも上がっていないのだろう。
筋肉の紐が緩んでいるからには、脳の命令だって、ピピっとはゆかないのだろう。

風は光っているけれど、これでどうする、あー、電車が駅に入って来た、でも私もどうにかこうにか、駅に入って行く!
間に合った!

でもこれじゃ今日から筋トレだ。
私は電車の中で扉に凭れ掛かりながら、息を切らして考える。

放っておいたら、色んな物の入った風呂敷包みのようになってしまうー!






風光る聞き耳をたてている木の葉



通り過ぎてゆくものばかり風光る

天気の良い4月の休日ともなれば、一歩家から出れば、家族連れの自転車やら子供たちの小さな集団やら、ベビーカーを押している母親や、うら若い幸福そうなカップルやら、そんな様々な人たちにすれ違う。または、追い越される。
木々はもう新緑の眩しい光を、思いっきり風に跳ね返している。

ベビーカーの母子とすれ違えば、自分もまた小さな息子のベビーカーを押していた頃を思い出す。
ちょっと外出するにも、あれこれと荷物をまとめて、大変だった。
おしめにミルクに、着替え一式。ベビーカーに、アレコレ玩具もぶら下げて。

その赤ん坊が今となっては、私にWebプログラミングなど教授しているのだから、なんだか笑ってしまうなあ。
息子に教わった、F12キーで出てくる開発者ツールとやらの何という便利なこと!
座布団の上におさまって昼寝していたちっちゃな息子が、今となっては私に何やら教えているというのだから、なんというか、感無量である。 とても嬉しい。

幸せそうな家族連れが通れば、ああ、自分もあんな時があったんだなあ、
幸せそうな恋人同士が通り過ぎれば、ああ、自分もあんな頃があったんだなあ。

快速電車のように過ぎた日々。

目まぐるしかった、忙しかった、色んな事があり過ぎた、信じがたいこともたくさん起きた。

これからは、一体どうなっていくのだろうか。

風が光っているばかり。





応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村






咲き過ぎて途方にくれている椿



春昼に暗中模索してひとり



菜の花や雲の標本作りたし



花は葉に夕べあちこち水の音



花は葉に誰にでもあるよな秘密



葉桜を離れていかぬ星ひとつ



草若葉みな一天に引かれをり

木々の「若葉」は夏の季語だが、「草若葉」あるいは「若草」は、春の季語だ。
公園の草たちも、青い青い天から、見えない糸で引っ張られているように、勢いよくピンと伸びている。

植物といえども、そこには確固とした意志のようなものを感じる。







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村




スポンサーサイト




20181k.jpg
今日の1曲/Maxence Larrieu 「亡き王女のためのパヴァーヌ」


雪降って祈っている屋根また屋根



雪降りぬ何巻もある物語



雪降って言葉の隙間埋めてゆく



雪積むやひと日ひと日のうへへまた



雪降ってゐる過去の中今の中

子供の頃は、雪が降ればそれだけで興奮したんだから、今思えばたいしたものだ。
雪が積もるのが珍しい関東だからということもあるだろう。

雪がやんだら、もうじっとしてなんかいられない。
とにかく外へ行く、とにかく何をしてみたって面白い。

踏んで歩くだけで面白い。
触ってみる、落としてみる、蹴ってみる、齧ってみる、描いてみる、捏ねてみる、投げてみる。
小さな雪だるまはすぐできる。
近所の子供もいる時は、雪合戦のような運びにもなった。

だが、最終的に誰かが言い出す遠大な思い付きは、ほらあれ、「かまくら」というやつである。
雪国の、こんもりと大きな、お家のような、「かまくら」。
中でおやつを食べたり、遊んだりしている絵や写真を見るにつけ、「面白そう」「楽しそう」と憧れに胸躍らせる。

兄と私と弟と二つづつ年の飛んでる三人兄弟だったんだけど、上二人小学生、下幼稚園くらいだったんだろうか、何度かその思い付きにチャレンジしたものだ。

最初の頃の勢いといったら、天まで届くかというような意気込みで始めるのだが、いかんせん子供の体力と持続力では、残念ながらに最後まで志を成し遂げられたためしはなかった。積雪の量からしても、かまくらを作るには心もとない。

最終的には、自分の身長にさえまだまだ届かぬような、雪だるまでさえない、不思議な、無目的な雪のオブジェを原っぱに唐突に残したままに、お腹がすいたり、暗くなってきたりして、帰ってしまうのだった。

しかし長じても、やってることは大して変わらなかったような気がする。
若い頃には、随分とこの途中放棄「かまくら」まがいの事をしていたものだ。

さて還暦も目前というこの頃になってふと考えれば、さすがに少しは前進していることに気が付く。

というか、大人になると時間が圧倒的に少なくなるから、あれこれと「かまくら」を無意味に作り始めることをセーブして、できそうにないことには、初めから手を出さなくなっただけのことかもしれない。

大きなかまくらは、とりあえずひとつ作り終えた。
小規模ではあるが、50代になってから、デザインの仕事ができるようになったこと。

だがこれは、入口だった。

つまり、このかまくらは、入ってみると、「トンネル」になっていて、奥へ奥へと、延々と続いているものだったのだ。
仕事なのだから思えば当たり前なのだが、その先は新たな試練のジャングルだ。

いやいやこれに限らず、きっと私にとっての、あの「かまくら」みたいなものっていうのは、たいがいこういうことになっているに違いないのだ。

「やったー!」「できた!」「やっとここまで来た!」

ゴールだ!と思った、そこからこそが、新たなスタートラインになっているのだ。







寒菊や一度決めたらかヘりみず



山眠る海空眠る人眠る



枯木立あるく速度でかんがえる



寒の星小さな予感的中す



冬の梅プラトニックのままで暮れ



寒月や待っていたらば湧かぬお湯



寒燈の鏡にありぬ夜半かな



蜜柑剝くあの一言を思い出す



昔から我を知ってる冬木かな







応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村






朝顔・花火など

朝顔

20178d.jpg



朝顔やまだ新しきものおもい



朝顔や夜裏返り朝となる



朝顔やすみやかに星逃げてゆく



朝顔や空の皮膚まだ優しくて



朝顔の色のいちずを振り返り

少し前の夏に、朝顔の苗を買い込んで、玄関前に植え付けた。
苗についていた写真では、大層美しい大輪の、淡いピンクとブルーの朝顔で、私はそれが咲くのを、かなり楽しみにしていた。
ツルが伸びてゆき、蕾もついて、さあ咲いたかなと、毎日玄関から外へ出るときには、ぱっと開いた大きなラッパのような花を想像しては、朝顔を見る。

ところが、どうしたことだろうか。
大輪の特別の朝顔のはずが、開くには開いているようだが、使った後の布巾のように、しんなりと半開きにしなだれている。
毎日毎日、朝顔の花は、元気がなく、半開きのような、萎れかかったような、かなしい状態だった。
私は、その朝顔を買った園芸店に行って、様子を話した。
色々と話しをしたが、埒が開かなかった。よくわからない、と言われてしまった。

あれほど楽しみにしていたのに、不良品を買ってしまったのかと、大層不満だった。
青空にひらりと大きく、サキューラスカートの如く開くはずだった、朝顔。猛獣のような暑い夏に、少しでもささやかな楽しみを作ろうと思ったのに。

しかし、ある時私は雷打たれたかのように、真実に思い当たることとなる。

その真実とは、朝顔には何の罪もなかった、ということなのだ。
特別に大輪の美しい朝顔は、普通に毎日咲いていてくれたのだ。おそらく。
帰宅が深夜の主人と、私の在宅ワーカーという職業柄、寝るのは午前、4時。
どうしても午前11時ごろに起床となり、朝食、家事などが終わって、何か外出となると、早くて2時3時、完全に昼下がりなのである。

それでどうして朝顔がぴんと、ラッパのように咲いているわけがない。
夕方ともなれば、完全にしぼんでしまうが、まだそこまでいかない時間には、濡れたハンカチのように、しんなりと萎れかかっている、その状態の時間に、いつも見ていたということなのだ。

なんという間抜けであろう。
思えば子供が小学校の頃には、ベランダに朝顔の鉢植えなど置いて、愛でていたものだが、子が育ってしまってから、私はリアルタイムの朝顔に、ほとんど遭遇していなかったのだ。

花の俳句を作るとき、実際にその花を見て感動した方が、やはり作りやすいのだが、朝顔に関しては、子供の頃の朝顔の記憶が、あまりにも強烈に残っているから例外のようだ。

庭とも呼べないほどの小さな庭、そこにあった外の水道で、私は夏休みの朝、顔を洗ったり歯を磨いたりしていた。
庭のはずれに、毎年祖父が細長い木箱に朝顔をいくつか植えていて、まだ眠い目を覚ますような茄子紺や、瑠璃色、牡丹色や淡い桃色などの色とりどりの朝顔を見ながら、私は歯を磨いていたのだ。

それから、ラジオ体操に行って、実に開放的な気分で帰って来る。
そして家に入る前に、必ずもう一度確かめた。

あの朝顔たちの、一途な、色。





ランキング始めました。
応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村







花火・その他


20178e.jpg


上り下りの列車下行く花火かな



勿体をつけて開けば大花火



花火繚乱こころひらけるひとはいず



ひとごとの如き思い出遠花火



遠ければ遠きことおもふ花火かな

遠花火というのは、水槽の中の熱帯魚のように、静かである。
むろん、ドーン、という破裂音はしているのだけれど、やはりそれもそれなりに遠いものなので、近場で見る臨場感のある花火とは、大分質の違った娯楽のような気がする。

言うなれば、プールで実際に泳ぐ楽しみと、プールサイドで人々が泳いでいるのを見て、夏の雰囲気を楽しんでいる、そんな違い。

どんなに盛大に重なり合って打ち上げられていても、遠花火は何か寂しい。

花火を見ている自分と少しばかり離れて、平行して存在している場所に、花火のように速やかに、自動的に、過去の出来事がすーっと現れては流れてゆく。

そしてまた、その「思い出」達との間も、微妙に距離感があって、それを喜んでいるのか、そうでもないのか。

何もかも、定かではないのだ。




ストレッチ・マッサージ皆放棄夏の夜



かなぶんを月に返して寝る時間



鬼灯や大事なことを言えぬまま



人間の裏と表と鬼灯と



踏切にひとが並んで夕焼けぬ



空蝉のなかは小さき寺院かな



月見草力入れずに開きけり





ランキング始めました。
応援お願いします。
にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

























俳句との馴れ初め

ひとり気ままに30年くらい俳句を書いてきました。
若い時分は現代詩のようなものを書いていたのですが、俳句の独自のスタイルに魅かれて方向転換。
周りからはつまらぬ伝統回帰をしたという風に取られたりしましたが、私は堅苦しいことは抜きにして、俳句を「一行詩」と捉えています。

世界で最も短い形式を持つこの詩形が、何かを表現する時、細いホースから噴き出す水が鮮烈なように、非常にビビットにイメージが顕在してきます。
もちろん最短詩形といっても、単一なイメージではなく、時と空間を超えて重複したイメージの重なりを自在に包み込むこともできます。

また、私はこの短詩形に、何か強いノスタルジーのようなものも感じるのですが、そのノスタルジーは二つの性質の違う面を持っています。
ひとつは「季語」というタイムトンネルによって、過去が掘り起こされて現在に重なる、普通のノスタルジー。
もう一つは、短詩形のもつ鮮烈なイメージが、子供の頃や思春期の頃に体験している、生の強烈さと、何か関係しているように思えてならないのです。
「今、ここ、にしか生きていなかった実存としての自分」、そういうイノセントな状態へのノスタルジー。
原始的といってもいいような、「今、ここに、生きる」という無垢な状態への憧憬。
それは最短詩形というスタイルが自ずから持っている「取り合えずひとまとまりのイメージしか表現できない」という性質に、何か繋がってゆくものがある、私はそう感じたのです。

また、若い頃、絵を描いたり、詩を書いたり、様々に自分探しをしていたのですが、何かそういった「芸術作品」を完成させてしまうと、広義の意味での「生活」と「芸術作品」が、きれいさっぱり分かれて、きれいさっぱり分かれてしまうことが、つまらない、そんな気持ちをいつも抱えていました。
もっともこれは、「絵画」や「現代詩」がつまらないわけではなく、たまたま私がその年頃に、私なりの方法で、私なりの小さな哲学のようなものを持って、そういう風に芸術に関わっていた、というだけの話ですが。



11b.jpg




「生活」の入り口から入って、「芸術」の出口から出る、また「芸術」の入り口から入って、「生活」の出口から出る。
俳句はミニマムな空間のなかで、生活と芸術が自由に混ざりあい、いかようにも伸び縮みする、私にはそんな風に思えました。メビウスの帯のように。

何故こんなに小さな世界がどこまでも大きなものも内包でき、鮮烈かつ柔軟なのでしょう。
俳句は私にとって、今でも不思議で貴重な、小さな生き物です。

また、現代の物質的な日常生活の中で、「私」という「ものを感じるエネルギーの総体」である塊のようなものは、ともすれば背後へ背後へと押しやられて、痩せ細ってしまいます。

そういったエネルギーの塊としての自らと、万象とが一体となっている、人間として自然で健康的な状況を回復させたい。
そんな気持ちで、少々の俳句を作り、自分の生活で出会った物・事をありのままな感性で雑文にしてみようと思っています。



11f.jpg

ランキング始めました。
応援お願いします。

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村


12月 風とオリオン(2016)

髪の先指の先まで冬茜

寒くなってきたなと思っているとほぼ同時に、日が沈んだ後の茜空が、その色を深く、鮮やかに熟成させていく。
その茜色は、体全体に浸み込んでしまう。
甘酢に漬け込まれたはじかみのように、その色から逃れる術はない。




風漲り巨きオリオン押し上げる


201612a.jpg

最近好きでよく聞いているのが、ラリー・カールトンの「フィンガー・プリント」という曲。
ラリー・カールトンはごく最近になって好きになったギタリスト。
若い頃には、あまり聞かなかった。
でもラリー・カールトンでもあんまりギンギンのものは、はやっぱり飛ばしてしまう。
ギターの音の余韻を十分に楽しませてくれるようなスローな曲の方がいい。
一般には、「ギターの泣き」というやつ、私的には、「ギターの音の空間」とでも言いたいんだけれど。

あの空間の中に、いろんなものが入ってくれるんだけど、空とか海とかそういうものはもちろんだけど、もっと宇宙的な、SFチックな抒情が入ってくるのが、ラリー・カールトンのギターの特徴だと思う。
ラリーカールトンをさんざ聞いていて、深夜ゴミを出しに行ったら、見たこともないほど、オリオンが大きく見えて、強風のせいで星はきらめいていた。
寒さに小走りしながらも、私は息を大きく吸った。
澄んだ冷たい風が、オリオンはじめ、諸々の冬の星を天心に向かって、ぐいっと斜めに押し上げた、そんな風に感じたと言えば、一番近い。









ランキング始めました。
応援お願いします。

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

ブロとも一覧

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR