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オリオン

オリオン

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本日の1曲/Larry Carlton - Fingerprints




オリオンや闇一枚を率いたり



オリオンや正論少し傾きぬ



オリオンや開けっ放しの風の門






二年前の今頃、大きな問題を抱えていた私は、ラリー・カールトンのこの曲(本日の1曲)をひどく気に入っていて、一日に何度も聞いていた。

問題がいかようにも進展せずに停滞したままなのが、せっかちな自分には一番応えるのだった。
少しでもどのようにでも、何か進展さえして問題に風穴があいてくれば、わずかながらにでも視界がきいて来れば、精神衛生は保たれるというものだ。

しかし窓の無い部屋にいるような状態で、とっかかりのない白い壁にいつまでも四方を囲まれていては、自分の根っこが腐乱してくる。

そんな日々、深夜生ゴミを出しに行く時通る崖ぞいの道の、大きく視界が開けて剥き出しになっている夜空に、いつもオリオン座が定位置を占めていた。

オリオン座だけでなく、そこから唐突に広がっていく夜空の
巨大な空間が、自分の鬱屈を瞬間的に洗ってくれるような気がしていた。

そしてその崖っぷちで、いつもオリオンと闇とセットになっていたのは、縦横無尽にのたうち回っている突風だった。
大蛇さながらに力強い突風は、小さな人間の都合などお構いなしだった。

これが一月や二月だったらたまらない。
しかし冬の最初の頁がめくられたばかりのような時期の風は、まだ身をまかせるのにそれほどの苦痛は無かった。

突風はオリオンの矩形の中を抜けてくるように思われた。

その度にオリオンは異様に煌めいた。

オリオンが煌めけば、風もまた新たに生まれてくる。

そして風が生まれれば、またオリオンが輝いた。

その光景には、ラリー.・カールトンのこの曲が、ひどく似合っていた。
突風のそのしぶとい厚みに、この曲の厚みが、ぴたりと合っていた。

オリオン座の硬質な煌めきと、真っ逆さまに落ちてゆくような夜空の闇の深さと、奔放な突風と、自分の中で勝手に自動再生されてくるこの曲が、

私の中では同じ一つもののように、がんじがらめに輝いていた。






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秋灯を消せば部屋も我も消え



短日の丁寧に歩いている石段



記憶の隅をまさぐっている夜霧



濃紅葉遠い悲鳴が消えてゆく



深秋の化石となっている言葉



枯木立交錯してゆく我と空



立冬や小さき船が滑り出す











俳句というのは、自律神経で作るような気がしている。

何故って、自分の思うようにできないからである。

なんだかんだ言っても、エッセイというものは、普通の体性神経を使って書けるものではないだろうか。
どんな状態であっても、書きだせばなんとか書いていくことができる。

ところが俳句はそうはいかない。
くしゃみをしろと言われてできる者はいない。(もっとも、くしゃみのふり、と言うなら話は別だけど)
ひゃっくりをしようと思ってできる者もいない。

俳句は詠もうと思って詠むには違いないけれど、どちらかといえば、くしゃみやひゃっくりの仲間だという気がする。

とにかく普通の文章を書く筋肉では、俳句は作れない。
それを賜るまで、待っていなくてはならないのだ。

だから、何て言うか、まずまず体調の整っている時でないと、俳句も青ざめているような気がする。
生きが悪いのだ。

エッセイはちょっと無理しても普通に書ける。

でも俳句は、無理すると落っこちて腐りかけている柿のようなものに、なってしまったりするのである。






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薄紅葉

薄紅葉

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本日の1曲/フジ子・ヘミング~ため息(リスト)


薄紅葉人とのあはひ皆遠く



薄紅葉子の思考回路透けて見え



一瞬に日差しが戻る薄紅葉



吐く息のいまだ見えずに薄紅葉






植物と言うものは、見た目も性質も千差万別で、そこのところは人間も同じといえばそうなのだが、いざ育ててみればこれがなかなか一筋縄では行かない。

手をかけていても、どうもひ弱でついには枯れてしまうものもあれば、、放置していてもどんどん育つものもあるが、しかしそれだけに放任していたら他のものを牽制してしまうので、今度は積極的に刈り取らなければならないものもある。

枝垂れてくるもの、直立するもの、放射状に広がるもの、常緑のもの、秋に葉を落とすもの、花の咲くもの咲かぬもの。
緑と一口に言ったって、濃い緑、青みがかった緑、黄緑、灰色っぽい緑、とトーンは色々であるし、銅葉と呼ばれる赤紫や赤茶系統のものもあるし、これら様々な少しづつ違う色目のものが、一緒にあるからこその、景と言うものが生まれる。

同じような色味や形態の植物ばかりでは、変化がつかずに、面白みが出ない。
最も、わざと同じ種類を幾何学的に模様のように植栽する場合は別であるが、その場合も、背景と前景の植物は、対照的な色や形態にしないとメリハリが出ない。

長年植物とは関わっていたけれど、植えっぱなしという感じで、本腰を入れていたわけではない。
今も、多忙のため、丁寧なことは全くしていないけれども、以前より進歩しているとは思う。

今年は初めて「挿し木」というものを試みた。

その時期に生まれているからだろうか、紫陽花はとても好きな花である。
これを増やしたくて、マニュアルを見ながら、小さな植木鉢に葉を植え付けておいた。
三つ挿していたもののうち、一つはだめになったのだが、二つは無事に根付いたようである。

この小さな植木鉢を見るたびに、密かに微量の「ワクワク感」がうごめく。
この感じ、根底にあるほのかな「してやったり」感は、「ポケットの中にはビスケットがひとつ」、という、小さなころに耳タコになるくらい散々聞かされた歌の歌詞とシンクロしている。

「ポケットの中にはビスケットがひとつ、もひとつたたけばビスケットはふたつ」
「もひとつたたくとビスケットはみっつ、たたいてみるたびビスケットはふえる」
「そんな不思議なポケットがほしい、そんな不思議なポケットがほしい」♪

この歌詞のような、ささやかな「してやったり」感と、切ったヒトデがそこからまた再生してゆくような生命への驚きがミックスして、「挿し木」は私の趣味の戸棚の奥の方に確固たる位置を占めることとなった。

「オリヅルラン」などは、放射状に伸びた葉の合間から、ひょいひょいと子株を先端につけた茎がどんどん出てくるから、これを取ってどこかに植え付ければ、丈夫なので植えたそばからすくすくと育つ。
それで気が付くとあっちもこっちもオリヅルランだらけになって、どんどん放射状にみどりの噴水のような葉が増えてゆく様は、ちょっとしたかくし芸でも披露しているような嬉しさがある。

植えて一番役立っているのは、ハーブの「ローズマリー」で、以前にも書いた、ベネシア・スタンリー・スミスの書籍によりすっかりハーブに魅了された私は、手始めにローズマリー・バジル・ラベンダーなどを植え付けた。

ローズマリーは様々な料理を美味しくし、そのままちぎって香りを嗅ぐと、「なんだこれ」というほど癖のある、強い香りで、「いい香り」からはかけ離れているのに、多すぎないように気を付けて、他のハーブなどとも合わせると、料理のグレードが一気に上がるのには、本当に驚いた。

特に「秋刀魚の塩焼き」のような和風の料理も、劇的に美味しくしてくれるのは意外だった。
塩をした秋刀魚の胴体に包丁でちょいちょいと斜めの切込みを数か所いれて、ニンニクの薄切りを挟み込む。後は適当に、ちぎったローズマリーをうまく胴体の上に置いて、グリルで焼く。
裏返すときに、乗せたものは大体落ちてしまうけど、あまり気にせず。
こうして焼いた秋刀魚は生臭さが取れてめっぽう美味しく、醤油などかけてしまうとその風味が損なわれるので、何もかけない。

晴れた日に植物が陽の光に透けているのを見ていると、様々な問題に満ちた生活のうっとおしい瘡蓋のようなものが、ふっと取れるように思う時がある。
一時的かもしれないが、こういう時間こそが大切だ。
それは理論や理屈による解放ではない。
理屈抜きに、光へ向かって傍若無人に伸びてゆく緑というものの力が、伝染してくるのだ。

そして千差万別な植物のように、人もまた千差万別だ。

単純な者、繊細な者、力の強い者、頭の良い者、積極的な者、受動的な者、行動的な者、内向的な者。

ピンからキリまで様々な性質の者がひしめいていて、自分とよく似たような者は、これがなかなか、いそうでいない。少し似ている者には出会うのだけれど、やっぱり部分的な相似にとどまっている。

「頭の良い者」と一口に言ったって、皆「頭の良さ」を生かせる部分が違っている。
「数字」を使う時に頭の良さを発揮する者と、「言葉」を使う時に頭の良さを発揮する者は、結構正反対の性格だったりする。
また観念的な理論の組み立てや、芸術的な面では素晴らしい力を発揮することができても、実生活での現実的な采配は不得意、という者もいる。
誰でも、「好きなこと」、「やるのが億劫でないこと」をしている時には、普段気付かないような「気配り」や「計算」が本能的にできて、にわかに「優秀」になるのではないだろうか。

だから、人間が皆違っているということ、これは本当に素晴らしい事なのだと思う。
あるシーンで「優秀」なものが、あるシーンでまるで役に立たない、ということは良くあることだ。

人はきっと、誰でも誰かのために、何かができるように、出来ているのではないだろうか。

自然というものは、皆違っている。
そしてそれは、自然という物自体の、知恵なのかもしれない、と、そんな風にも思うのだ。







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秋雨の丁寧に縫っている無言



白菊やひとの祈願が密集す



秋晴れの古い箪笥に住む祖先



潔癖な月に問いただされている



秋薔薇に巧妙に隠れている悔恨



秋の星奇数ばかりが集まりぬ
 



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秋アラモード

秋アラモード

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本日の1曲/Adriano del Sal, Guitarist



木犀香柔らかに溜まっている時間



木犀香最上階まで停止せず



秋夕焼け誰でも知ってる歌の節



難題をほぐす方法残る虫



黄落や眠る女の瞼開く









ここのところ、仕事が忙しかった。

クライアントのイメージと噛み合わず一からの直しになったり、自分の中でもイメージが固まらずに、作るもの作るもの、没にせざるを得ず、使わずに済む時間をどっさり使わなければならなかった。

イメージと言うのは、オリンピックの聖火台のようなもので、ランナーはひたすらそれ目指して、一歩一歩進まなくてはならない。
もしこのイメージが、不確かな心許ないものだったり、場所がはっきりしていなかったらどうにもならない。
ところが、そういうことも間々あるのであり、今一つどうしてもイメージが膨らまないということはあるのである。

資料不足や、使える色の限定、使えるデザインの限定、クライアントの注文、などとの間で、膨らんでいたイメージが次々使用不可能になり、どんどんイメージが狭く貧困になっていくと、こういうことがおこりやすい。

イメージというものは、不思議なものである。

「今、ここ」にはないものなのだ。
要するに、現在にとってはまだ「非現実」なのだ。

しかしその「非現実」が、漠然としたものからはっきりとしたものに、赤々と燃えてくると、全てのものが動き出す。

動き出すとは言っても、決してスムーズに行くものではない。
置いてみた石を、「イメージ」という光に向かって、「そこではない」「ここでもない」「押してもダメなら引いてみな」のくりかえしで、ひたすらに「コツコツ」とした膨大な「試行錯誤」のくり返し、それがデザインという仕事なのだと思う。

物の位置が一ミリ右か左かで、印象は全く変わる。
色のトーン、明るさ暗さ、鮮やかさ、鈍さ、これらのものも、ほんのわずかな差で、全体のバランスまでが変わって来る。

デザインの仕事をしていると、いつも浮かんでくる言葉は、「丸腰」と言う言葉だ。

いくらデザインの理論や色彩学を学んでいたとしても、いざ始めてみると、全ては遠い絵に描いた餅、のようになってしまう。
いやもちろん、基礎的な理論は知っていた方がいい。
しかしそれは、webコーディングのように、知っていれば即役立つような代物ではない。

全ては、現在という一枚の白紙の中で、どういう一歩を踏み出したか、それでは次はどういう一歩が展開できるのか、ということだけが頼りの世界で、こういった色の取り合わせがいいとか、黄金分割の構成がいいとか、そういうこととは違う次元で物事が運んでいくことになるのだ。

言ってみればマニュアルの無き世界が突如始まり、「こんなはずではなかった」「なんでこーなるの!」「おかしいなー」という、自分の感覚だけが頼りの、サバイバルのような世界に突入してしまうのだ。

マニュアル無き世界で、どう自分の感覚を信じてゆくか。
いつも「原点」戻ることを余儀なくされる、そういう仕事なのだと思う。

「人生」って言葉は好きでは無いけれど、これはどう考えても、「人生」そのものだという気がする。
自分なりに色々学んだり、準備したり、想像したり、若い時には随分と「絵に描いた餅」についてさらに念入りに考察したものだ。

しかしその後の事を思うと、いつもいつもその「絵に描いた餅」は役に立った試しがなかった。
世界は不条理のジャングルのようなもので、自分の家庭や身の回りでさえが、そうだった。

「絵に描いた餅」、「理想」「あるべきかたち」、こういうものはことごとく眼前から消えていった。

日々ただひたすらに、今起きていることから、できる最善の「次に展開する一歩」を積み重ねていっただけだった。
他にどうすることができただろうか。
「絵に
描いた餅」はただの「絵に描いた餅」なのである。

目前にあるのはただ、今現在と、そこから派生する、「次の一歩」それのみなのだ。

だが、「絵に
描いた餅」は消滅してしまったとしても、そうやって進んだ自分なりの一歩一歩の遥かな先方には、
きっと「聖火台」のようなものがあるのではないかと、思う時がある。

それはものの良し悪しや、何が立派かなんてこととは全く無関係な聖火台だ。
煌々と火が輝いてるとは限らない。
朧げな光かもしれない、弱々しく消える寸前のような時もあるかもしれない。

でもそこには、やっぱり何かがあるような気がする。


それはきっと、「自分自身」のようなものではないかと、私は思うのである。






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満月や人のからだの水動く



秋雨が過ぎた時間を撫でている



彫像の怒り確かに天高し



唐突な言葉投げ出している柘榴



ひとの影また生き生きと秋晴れぬ



少し身を離れて浮きぬ愁思かな







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秋の暮

秋の暮

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本日の1曲/STACEY KENT || What A Wonderful World


秋の暮闇に重りがついている



秋の暮テレビをつけて外出す



玄関の靴についてる秋の暮








秋の暮に底はあるだろうか。

私はあると思うのだ。

とっぷりと暮れてゆくその闇の重たさ、その先にあるのは奈落のような夜なのだが、その奈落には、柔らかな底があるような気がするのである。

肌を刺すような冷気の冬の暮とは違って、まだ肌になじむ温度のせいかもしれない。

その柔らかな闇は、人影と溶け合う。
どこかに寂しさはあるのだけれど、人をあたたかく包み込むような、受け入れてくれるような夕闇なのである。

秋の暮の道を歩いていて、その次の角を曲がると、うっかり幼い頃に住んでいた町に、迷い込んでしまうかもしれない。

舗装された道はまだまだ少なく、ゆるやかに起伏した坂道や、血管のようにややこしい路地が入り組んだ、土の匂いのする道。

そして門のそばに大きな榎の木のある、木造の小さな家。
ここは私の生家なのだ。
榎の木の幹には、大きな穴が開いている。
ここには色んなものを入れて遊んだものだ。

ここもまた、とっぷりと秋の暮の真っ只中だ。

窓から見えるのは、つけっぱなしの白黒テレビ。
テレビだけがついていて、人気は全くない。人っ子ひとりいないのだ。

門の鍵も玄関の鍵も開いているのに、誰も居ない。

それは何故かって、それは過ぎ去った「時間」の中だから。

もう誰も住むことのできない「時間」だから。

それでも私の中のどこかにいつでも沈殿している「家」。
秋の暮の、濃い闇に混ざって、どこからともなく浮上してくる、懐かしい町のゆるやかな面影。

蝉の抜け殻のように、人っ子ひとりいないのだけれども、

妙に生暖かい、時間の止まっている、「町」。









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白菊や思い出せないひとの顔



晴々と白菊に嘘見抜かれる



白菊や静かに侵食される月



柿の実になつかしきもの皆化ける



柿深く沈めり空の青き肉



食べ尽くす林檎の中のしじまかな










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秋澄む

秋澄む

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本日の1曲/フジ子・ヘミング~愛の夢



我のみと歩いてをりぬ秋澄めり



秋澄めり水平線で止まる空



小窓から見える小窓や秋澄みぬ



秋澄めば垂直に落ちてくるピアノ







秋もたけなわとなり、大気は涼しさだけではなく、しんとした透明感を帯びてきて、外をあるけばその澄み切った空気が四肢に纏わりついて、身も心も引き締まってくるようだ。

同じような温度でも、春先とはまるで感覚が違う。
きめの細かい肌のような大気が、何かと過剰になっていたこころの絡まりを、静かに整理してくれるような気がする。

そして、家族がいてもいなくても、友人がいてもいなくても、愛する人がいてもいなくても、世界にただ一つの存在である自分にすっとリンクして、自分の原型に戻るような、そんな瞬間が、秋にはある。

それは動物的な感覚かもしれないし、もっともっと原初的な、土や岩石の持っている、遠い記憶のようなものかもしれない。
だだっ広い大地と、筒抜ける空との間に、森閑と存在している鉱物の太古の記憶。

秋になると色んなものが、上から下へ落下するような、内へ内へと沈み込むようなニュアンスを放ちはじめる。
春夏の外へ外へと弾けていくような感じと正反対の雰囲気だ。

こんな時には、突然ピアノの音に触れたくなる。
きっと、それはピアノが打楽器であるということと関係があるのかもしれない。

打楽器だから、上から下へ、ポーン、と鍵盤を「押す」のである。
素直に鍵盤を押されたピアノの音は、落下してくる大粒の雨垂れのように、どこにも無駄な引っかかりがない、純粋な音だ。
その滴は、そのままの動きで、気持ち良い重みとともに心に落下してゆく。

たとえばエリック・サティのジムノペディがいいかもしれない。

あの曲の持っている透明感は、「秋澄む」という季語に、ぴったりだ。

でもYou Tubeで検索しても、いい感じの弾き手のものが見つからない。
ウロウロしているうちに、フジコ・ヘミングの「愛の夢」に出会って、そして、感動した。

フジコ・ヘミングの「愛の夢」は大人の音だった。
大きな、堅牢な孤独をしっかりと持ち合わせた、大人の「愛の夢」だった。

その音は、しっかりと自分の中に降りてゆく、確実に降りてゆく、でもその底にあるものは、もう自他の区別の無いような、大きなエネルギーの塊のようなものなのだ。


ところで話は大きく変わるけれども、樹木希林が亡くなって、彼女と内田裕也の40年にも及ぶ別居婚がまた話題になって、何かと取り沙汰されている。

芸能界には、全く興味はないけれど、樹木希林については、昔から時々雑誌のインタビューなどで、なかなか面白い人だなあ、と思っていた。

彼女の娘にしてみれば、「どうしてこんな無意味な婚姻関係を続けるのか」といつも不満を持っていたようだが、

人間というのは、全くもって、複雑な生き物だ。

一筋縄では、とてもいくものではない。

美しいだけの、暖かいだけの「愛」などというものは、「乙女の祈り」みたいなものだ。
それは架空の御伽噺でしかない。
愛があれば憎しみも悲しみも顕現してくるのが人間だ。

しっかりと堅牢な「自己」を持ち合わせている者は、決して心のごまかしができない。
悲しみや失望をごまかすことができないのだ。
残念なことに、人というものは、言葉を尽くせば誰も彼もわかり合えるような生易しいものではない。

だったら、どんな形を取ったって、いいではないか。

40年もの間、距離を置きながらも交流し、
とうとう離別することはなかった、それは「自分」というものをごまかすことのできなかった者が、また「愛」もごまかすことができなかった、

どちらかを優先すれば、どちらかを半端な形で犠牲にすることになる、それができずに、にっちもさっちもいかなかった。
だから両方を生かしたままに、できるような形で、やってみた。

そういうことなのではないのかと思う。

秋の夜空にしんみりと輝いている星座のように、距離を置きながらも、いや置いたからこそ、その形は遂には崩れなかった。


そういうことなのだろうなあ、と、身につまされて、思うのである。






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萩咲くや記憶のほつれている夕べ



秋晴れて缶コーヒーは空っぽに



我が額月の額に向き合いぬ



秋の暮前行く人の背に扉



速達や秋夕焼けに追われゐる



思案切りも無く木犀香膨らみぬ




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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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