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百合

百合


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本日の1曲/Sting - Fields of Gold (Live) - Sara Niemietz & W.G. Snuffy Walden




百合の香の湖となりゆく静けさや ゆりのかのうみとなりゆくしずけさや)



百合の香に今日一日の指輪置く



偽れば百合のかをりに包囲され







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万緑の一天押せりどこまでも


ほぼ二カ月ぶりに、時々通りがかることのある、長い銀杏並木の下を車で通って、驚いた。
以前よりも、銀杏の樹々が、あからさまに大きくなっていたからだ。

梅雨時には植物の成長が速くなるのは普通だが、たった2か月で、こんなに印象が変わるほど、大きくなるものかと訝しんだが、考えてみれば6月からの度重なる豪雨のせいで、いつもの年より、急成長したのかもしれない。

その隣の桜並木のある公園を見やると、そちらの桜も縦に横に、かなりボリュームアップしているではないか。

美しいのは確かだが、何かその大きさには、怖いような、畏れ多いような、胸騒ぎも感じる。

「記録的な雨」という言葉が、もう普通に常識的に使われるようになっていて、ということは当然、記録はどんどん更新しているのだということを思うと、ぞっとする。

「ゲリラ豪雨」、まさに。よく言ったものだ。

屋根を打つ音は、激しく、打楽器のようで、水の仕業とは思えない。攻撃されているように感じる。
だが、こちらの方ではまだまだ序の口なのである。九州などはどれほど大変なことになっていたことか。

だが待てよ。
温暖化によって水蒸気が多くなって、豪雨豪雪になっているのだから、樹々が大きくなって、二酸化炭素を吸収して酸素を作り出してくれるなら、大きくなってくれた方がいいのではないだろうか。

いやいや、あまりに大きくなってしまったら、台風が来たら倒れやすい事を思うと、これまた問題である。
下は車道だし、すぐ後ろには住宅街もある。

同じ県内の方がブログにアップした写真で、何の変哲もない公園のポプラの木が、台風で根こそぎ倒されて転がっているのを見て、空恐ろしい気持ちになったのを思い出す。
やはりある程度剪定しながら、大きさを抑えて行かなくてはならないだろう。

一体全部で何本あるのだろう、ここの銀杏並木は長い。

その樹々が、全て、見上げる時に幽かな眩暈を感じるような高さになっていて、雨上がりの乾ききっていない葉を、珍しく顔を出した強烈な太陽に煌めかせている。

そこへ風が吹いて、あたかも天から、柔らかな光の破片が降ってくるようである。


しかし、その美しさには、どこかに底知れない、静かな恐ろしさが、ある。

樹々たちは古代の神々のように、高みから人を見降ろしているように、感じる。



この樹々たちから見たら、私達もまた、甲虫やら雀くらいのものなのであろう。

人間は、小さい。 けれども、そのことをほとんど忘れているような気がする。







稲妻や一人の粥の匙に我



凌霄花義理人情にぶら下がり



号泣の雨のち晴れて凌霄花






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夕焼けて過去に深入りしてをりぬ



夕焼けの死の雑踏を潜り抜け



金魚かな不安の日々を右左



猜疑心夏服たたみまたたたみ



蝉時雨言葉が底をついた時


一番蝉時雨を大量に浴びていたのは、やはり子供の頃だったのだろうと思う。

アスファルトの道はまだまだ少なく、人体のようにデコボコしている土の道、血管のように入り組んでいる路地などの上に、豊かな緑が覆いかぶさるように揺れていた。

そして蝉時雨は、いつでもそこにあったのだ。
しかし、ふとその只中にあることに気が付くのは、いつも何かが終わった時だったような気がする。

近所の友達と夢中になって遊んでいて、ケンカになり、悪態をつき合って、相手がいなくなって一人取り残された時。

家族に叱られて泣きながら家を出て来て、駆け込んだいつもの空き地。そしていつの間にか泣き止んだ時。

一心不乱に読んでいた長編の漫画を読み終わって、しばし呆然としている時。

数人の友達とプールに行って、存分に遊んで、誰一人口を利けないほどに疲れてしまった帰り道。

そんな時、蝉時雨は、私達の無言に取って代わるように、何処か地の果てからでも湧いて出てくるかのように、聞こえてくる。

そして私の策略も嘆きも冒険も、そこでぴったりと、終わることを余儀なくされ、また、そのことにほっとしている自分がいるのだった。

街中のせいもあるだろうが、今年はまだ蝉時雨には遭遇していない。梅雨が長引き、夏はまだこれからである。







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睡蓮

睡蓮

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本日の1曲 / MAKOTO OZONE / She



睡蓮を遠ざかりても刻明に



睡蓮を見てよりこころ決まりをり


数ある睡蓮の句の中でも、とりわけ好きな句がある。

睡蓮の水に二時の日三時の日 後藤比奈夫

睡蓮と言う花は、幻想的とよく言われるけれども、何か明晰な透明感もあって、特に白睡蓮は見た者の心のもやもやした芥を一瞬にして払ってくれるような、清涼な雰囲気を持っている。

比奈夫の句は、睡蓮の浮かんでいる水に午後二時の日差しがあり、そしてまた午後三時の日差しまでの推移を詠んでいるのだろうが、睡蓮の花をめぐる時間と光の静かな動きの他には、何も無い。

その透明感が、睡蓮の花になんと相応しいことだろう。
そう思って、大事に懐にしまっている、一句なのである。






万緑へバイク数台加速せり



辿り着く場所は我が身や昼寝覚め





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木下闇抜ければ港輝きぬ



そこからは回想絶たれカンナの緋



七夕や下界の日常命がけ


天上界は七夕であるが、下界は誠に恐ろしい状況になっている。
温暖化の影響で、豪雨が日本を次々に襲い、記録的な大雨が梅雨を引き伸ばしている。
梅雨明けは7月下旬になるのではとの予想だ。
その後には、台風シーズンが待っている。
毎年記録更新していくような豪雨で、いったいこの先何年無事に生活していけるのだろうか。
こんな不安な時代に、一体私達は何をしたらいいのだろうか。
いや、おそらくは、何をしなければいいのだろうか、と問う方が妥当なのだろうが。

そこへもってきて、まだまだコロナの不安も抜き差しならない。
東京から他県へ移らないようなどと言ったって、そもそも隣接する県は東京で仕事をする人々のベットタウンである。このままでは、他県の感染者も再び増加することは目に見えている。

一刻も早く、その地域の状況に応じた、きめ細やかな対策を講じてほしい。





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語り合いまた触れ合いて合歓の花



少しづつ癒えていく時合歓の花



心太光とともに掻き回し


14,5歳の頃、中学校の帰りに道に友人達と甘味処によると、自分は必ず、心太を注文していたのを、覚えている。
小太りの友達が、2つケーキを注文して、それを食べながら、上目遣いにこちらを見る。

そのころの私は、ガリガリのやせっぽちだった。
「○○は、心太なんか食べてるから、そんなに痩せてるのよね」
恨めしそうに私を見ている友人の手は、もう2個目のケーキにフォークを立てている。
まるでその手は彼女の意志とは無関係に動いてでもいるようだ。

何故あんなに心太が好きだったのか?

一言で言うと、心太そのものよりも、あの酢醤油に、思いっきり利かせた辛子の味、あの刺激的な味が好きだったのだろうと思う。

そのころの私は、はたから見たら、目立たない、普通の、一見大人しそうにさえ見える中学生に過ぎなかったのだと思う。
しかし、その中身と言えば、まさに子供から大人へと急激に変化する過度期の、ジェットコースターに乗っているような混乱した、忙しい魂、だったのだ。

まず、文学、というものに開眼した。

それは小学校で夢中になっていた児童文学の手合いとは違っていた。

小学生の頃、世界はひとつだった。
大人の世界と子供の世界に別れてはいても、根源的に世界はシンプルにひとつ、だった。
しかし大人の文学というものに触れた時、世界は一つではなくなった。シンプルではなくなった。

世界に対して、また自分に対して、解釈というものが存在するのだということが、まず大きな驚きだったのだ。
そしてまた、それは自分がいきなり大人になったような、甘美な歓びを密かに伴っていた。

それにしても私が読んでいたのは、文庫本の翻訳物ばかりで、日本のものにはさっぱり食指が動かなかった。それから、教科書に掲載されているものを、面白いと思ったことも、一度も無かった。それはそうだろう。あんな細切れのものを、名文ですからって差し出されたって、面白がりようが無い。

だが文学少女という言葉が存在する通り、私の読書好きは10代が頂点で、後は緩慢に衰退して、おおよそ終点となってしまった。

今では俳句に関するもの以外は、あまり読まなくなってしまった。
特に小説は読まなくなった。(
村上春樹は例外的に読むけれども)
「筋」というものに疲れるようになったのである。

またアートへの目覚めも、その頃だった。
ダリ、マックス・エルンスト、キリコ、などのシュールレアリスムの絵画を愛し、またパウル・クレーを溺愛していた。

そして兄の影響で聴いていたフォークソングでは飽き足りなくなっていた。
過激で多忙な思春期の魂には、ロックの方がぴったり来るようになっていた。
Tレックス、デビットボウイ、ストーンズ、ピンクフロイド、ジェフ・ベック、並べてみるとそのころ聞いていたのは、ブリティッシュ・ロックばかりだ。

そんな大忙しの魂だったから、甘味処へ友人と行ったとして、まったりと甘い蜜豆だのモンブランだのイチゴショートだのを食べる気には、とんとならなかったのだろう。

退屈な教科書を、端から暗記させられるような毎日にうんざりしていた思春期に、初めて知った文学の味は、この上なく刺激的であり、

それはまた、心太のあの、きっぱりとした酢醤油に目一杯利かせた、小規模な稲妻のような辛子の味、それに共通するものがあったに、違いない。




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額の花

額の花


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本日の1曲/What a Wonderful World/stacey kent
時々、以前ご紹介した曲を再度リンクさせていただく時があります。どうしてもこの曲が気分、というのがあって。



額の花眠れぬ夜も眠る夜も



雨止めばすべて眩しく額の花



額の花ナースの視線たじろがず


看護婦さんというのは、何故だか美人が多いような気がする。
だが、当然のこととはいえ、血だの傷だのを正視する視線の冷静さは、ごく普通の女性からしてみると、尊敬の念を感じざるを得ない。
もちろん、そうでなければ困るし、そのおかげで病人や怪我人は回復していく。

術後、尿管だの点滴だの、また傷のあるあたりの自分の身体から突き出ていて、その中を血が通っている管もあり、スマホやタブレットみたいに管だらけの自分を発見して、一瞬血の気が引いてしまいそうになる。しかし、それらの恐ろし気なもの達を、自分の意識から「一括無視」することで、何とか心の平穏を保つ。

だが尿管だけはどうにも気分が悪く、少しでも体の角度を変えると膀胱炎の時のような不快さがあるので、なかなかに体を動かせなかった。これについては、翌朝早速歩けることを確認して、取ってもらって、さっさとトイレに行けるようにしてもらった。

傷の状態を見るために、医師の回診以外にも、「お傷の状態を見せていただきに来ました」と、一日に何度も看護婦さんが来る。
想像したほどでは無かったとはいえまだ痛むし、ぎゅっと巻かれている晒しのような物の苦しさに耐えるだけで精いっぱいで、自分の傷を見るような勇気は、どこを探してみたって、見当たらない。
私は恐怖の一念で、自分の傷を見ることは避けていた。

ところが、看護婦さんたちが、来るたびに傷を見ると、口をそろえて、「あー!、きれい、きれい!」、というのには、驚いた。
まるでお花屋さんの女性たちが、素晴らしいアレンジメントブーケを作って、皆で覗き合って、「ワー、きれい!」とでも言っているような感じである。

「??綺麗な傷とはいかに」
しかし、それを訊ねるのもちょっと憚られるというものだ。
素人の自分には、分からぬ領域ではあるが、素人なりに想像すれば、「腫れていない、化膿していない」そんなところなのだろうか?

ある午後、3人くらいで来た看護婦さんの一人が言った。
「ご自分のお傷、もうご覧になりましたか?」
「いいえ、まだです」
「ご覧になっておいた方が、いいですよ、一緒に、見てみませんか?」
やんわりと辞退すると、看護婦さんは言った。
「お家に帰られてからおひとりで突然ご覧になると、びっくりされてしまったり、お傷の正しい状態がわからないと、変な風になってしまった時に、それが分からなかったりして、よくありません。今、一緒にご覧になっておきましょう。」
仕方なく、生返事をして看護婦さんに従うことにしたのだが、その看護婦さんは、私のベッドの高さからちょっと下がった位置で、しゃがみこんでいた。

そして私を見上げるようにして、傷を覆っていた晒しのようなベルトを取ると、「さあ、ご覧になってください、見えますね?」と促した。
これ以上は無理というくらい下目使いになりながら、「ええ」と私は頷いた。

「大丈夫、綺麗な状態ですから、安心なさってください。よくご覧になれましたか?」
「ええ」と私は再び頷いた。
看護婦さんたちは、仕事を終えて満足すると、出て行った。

しかし、本当のことを言うと、いくら目一杯下目使いをしてみても、私にはさっぱり自分の傷が見えなかったのだ。

何故って、顔の下半分で大きく嵩張っているマスクが、私の視界をすっかり塞いでしまっていたのだから!

(看護婦さん、ゴメンナサイ、でも順調に回復していますからー。)





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体温計音の幽かや小糠雨



退院のどの道行くも梅雨青葉


退院というものが、どんなにいいものか、実際に家に着くまでは、まだそれほどのものとは思わなかった。
病院では医師も看護婦さんも親切で、嫌な思いをすることもなく、ごく普通に過ごせたし、帰りの日も、お天気にも恵まれ、車窓から見る木々の、5月より少し落ち着いて来た青さが、眼に沁み込むような美しさだった。

しかし家に着いてみると、退院というものがどれほど素晴らしいイベントか、暫くの間、興奮さめやらず、というほどだったので、我ながら驚いた。

自分の身の回りに、自分にとって大事なものや必要なものが、全て定位置にあり、殆どの目に入るものが、自分の好みで集められている。
一言で言えば、自分を取り囲む空間の「居心地の良さ」や「便利さ」ということなのであろうが、それは普段は「当たり前」のことになってしまっているから、意識に上らずに生活しているというわけだ。

手を伸ばせばすぐに飲みたいものが飲みたい温度で飲める、読みたい本が手に取れる、食べたいものが自分で決められて、したいことをしたい時間にすることができる。日常当たり前にしているこんな基本的なことが可能だということが、これほどの幸福感をもたらすとは。
その感覚は湯水の如く温かく、自分をぐるっと取り巻いて、翌朝まで素晴らしい音楽の余韻のように、私をふわりと包んでいた。

一番嬉しかったのが、最近模様替えしたベランダに植え付けた花々たちを見た時だった。
養生の身で、ダイニングの椅子から、こんな可愛らしい花達を見ることができるなんて、なんていいんだろう、と思った。まだ傷は痛んだが、真っ先にしたのは、花達の水やりだった。

メーテルリンクの童話、「青い鳥」の話をふと思い出していた。

子供の頃読んだ時には、何か物足りない感じが残ったことも、思い出していた。





十薬の小さき祈りの形して



ジギタリス鏡暫く怖ろしく



ビニ傘の夫に追いつく緑雨かな





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梅雨晴間言葉の虹が見える時


言葉というものが、その人の生活に、大きな影響を与える時がある。
普段聞き流している人様としての意見や評価以上のもの、単なる言葉を超えているものだ。

主治医の言葉に、今回随分と自分は助けられた。

癌と分かった時に、思い詰めてノイローゼ状態になっていた自分に、いかに現代、乳癌が多いか話してくれて、「悩んだら、悩んだだけ損をするから!」と励ましてくれた。

その言葉のリアルな説得力に、私の不合理な不安はぴたりと治まった。健全な分量の不安だけが残った、というべきか。
もしこれが「あまり悩まれないようにね」というごく普通の言葉だったら、どうだろう。そこまでの力を持っただろうか。
これは自分にとっては、もう「言葉」ではなく「治療」だった。「最初の治療」だったのだと思う。

今日は梅雨晴間で、退院してから2度目の検診だ。
主治医は傷を診察すると、「すごくきれいだから、水も抜かなくていいし、次の検診も2週間先でいいからね」とのこと。 やれやれ一安心。

入院中も、心臓の頻拍発作の持病はあるし、切迫頻尿やら膀胱炎癖やら、厄介なアレコレを考慮に入れてくれて、出来るだけの事をしてもらえたようで、本当にありがたかった。

退院したとはいえ、まだまだ不自由な身体で、初体験の術後の後遺症のようなものもあり、おっかなびっくりの生活なのだけれども、主治医の、いい方へ、いい方へと誘導するような言葉が、自分の「あり方」を、方向づけてくれる、そんな感じなのだ。
よく分からない場所で、ウロウロ迷っている自分、そこで、「こっち、こっち」と言って、目印の石を行くべき方向に投げてくれる、そんな言葉。

それで帰り際に夫とお礼を言って、「先生のおかげで」というと、主治医は傍にいた看護婦さんを指して、「イヤー、皆のおかげですよ」と言う。

私がニコニコしていたのだろう、
先生の最後の言葉は、こういうものだった。


「笑顔が戻って、ほんとに良かった!」

一瞬、虹が見えたような気がした。


私は帰る道々、「あんなお医者さんは、初めてだね!」と、夫に言った。

夫が答えた。「うん。滅多にいないな」。





一瞬で変わる気分やさくらんぼ



明け易し新しき我となるまで








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泰山木の花

泰山木の花


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本日の1曲/Eliane Elias - That's All



泰山木の花緑蔭を切り抜きぬ




服脱ぐように咲いて泰山木の花




よく眠れた日泰山木の花白く


泰山木の花というものの実物を間近で見たのは、ごく最近の事である。
いつもは通らぬ住宅街を入って行って、鬱蒼とした、まさに緑蔭と言うのにふさわしい、広い庭のあるお宅の横を通り過ぎようとした時に、濃い緑の中に、いきなり大きな空白のような「白」が目に飛び込んできたので驚いた。
よくよく見るとそれは花だった。

バレーボールほどの直径の、大きな花だ。
少し高いところに咲いてはいたが、その花がしっかりとした単純な構成で、肉厚な花びらをしていることは良く見て取れた。

六月には、白い花が良く似合う。
しかし、この花の迫力は、今までに見たどんな白い花とも違っていた。

泰山木の花は、鷹揚で、ゆったりと咲いていて、どんなことも気にしていないような、まさに泰然自若といった空気を漂わせている。

白い花というのは、幽玄なものも多く、ものによっては霊感のようなものを感じるものさえある。
泰山木の「白」は「聖なる」感じもあるにはあるのだが、もっと安穏としていて、どこかひとを安心させる柔らかさを持っている。

手術の日取りが今週半ばに決まり、近々入院することになった。
刻一刻とその日が近づいて来ると、さすがに何か落ち着かない。
色々細かなことで気が揉めるものである。

そんな時、ウォーキングの最中に発見した泰山木の花が、ことのほか気に入り、気になり、毎日会いにいくようになった。

良い医師に出会えたし、頼りになりそうな看護師さんにも出会えたし、後はもうベテランの方達に身をまかせて、なるようになるしかない。

それだのに、何か小動物の尻尾のように、不安がちょろちょろと目前をよぎる。


そんな時、泰山木の花にまた会いに行く。


もう少し、「自分以外」の人や物事を頼みにしてみたらどう?

泰山木の花は、そう言っているような気がする。 










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夏帽の中の虚ろや空と風



手短に話切り上げ夏帽子


夏帽子に眼鏡をして、マスクをして歩いていたら、ご近所さんに会って頭を下げても、俄かには誰だかわからないようである。
それはそうだろう。鏡で見ても、まるで変装しているみたいな有様だ。

まだ薄暑とは言え、ウォーキングなどしたらばマスクの下は汗だくである。

これから梅雨があるのがまだ救いかもしれない。
真夏日には、どうなることやら。


「夏帽子」という言葉は、やはりただの「帽子」とはニュアンスが違っている。
これは「夏」という、非常に派手な「季節をしょっている」からなのだろう。

また、「夏帽子」という言葉は、誰もが思い出の深い抽斗の中にしまってある、子供時代の「夏休み」というイメージとの繋がりを、持っているのではないだろうか。

その辺に置いてある、「夏帽子」のポッコリへこんだ空間の中には

通り過ぎて来た様々な夏の、しかしどこか似ている匂い、
そんなものがふっと、入っているような気がするのである。




クレーンの先端遠く薄暑光






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ベランダガーデニングその後



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自粛中のゴールデンウィークに一大決心でベランダの模様替えをしてから、はや一か月程経った。
その時に植えこんだペチュニアも、元気に育っている。
残念なのは、太陽の方を向いて咲いてしまうので、家の中から見ると、皆あっち向けほい、をしているということ。
鉢を回して少し方向を変えてみるが、あっという間にあっち向けほい、である。
こればかりは致し方ない。花はいつでも、太陽に恋してるんだからなあ。





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パセリ、イタリアンパセリ、バジル、写真に写ってはいないけど、タイム、ローズマリーなども大きくなってきてくれた。
ちょこちょこ取っては、料理に使うと、本当に美味しくなるので、重宝している。
なまじ立派なハーブガーデンなどあったら、手に負えないだろう。このくらいの小規模なものが私にはちょうどいい。





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一番手前に写っているのが、大好きなラベンダー。
花が一旦終わって、全部切り戻しておいたら、小さな二番手の花達が上がってきた。こういうのって、嬉しいなあ。

やりたいことは色々ある。
壁には、シックな濃い色のアイビーを這わせて背景にしたい。全部元気な色だと疲れちゃいそうだから。
一重の白い茨の花も植えたいけど、花の時期は終わっちゃってると、来年かな。

矮性の百日紅の、白か淡いピンクが欲しいけど、カイガラムシが付くことがある、っていうので、模索中。
夏はこのベランダが暑すぎて、殆どの花は元気なくなってしまうから、夏に咲いてくれるものが何か欲しいんだけど。

入院中、夫はちゃんと水やりをやってくれだろうか。
ペチュニアの花がら摘みばっかりは、無理というものだろうなあ。
なんたって、べたべたしたものが大嫌いなんだから。





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初夏(はつなつ)

初夏(はつなつ)


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本日の1曲/Gilbert O'Sullivan - Alone Again



初夏の白き余白を歩きたし


子供の頃、駄菓子屋で、「塗り絵」というものと、「着せ替え」というものを、良く買っていた。
「塗り絵」は言わずと知れているが、線描きのみのイラストが描いてあるもので、それを好きな色で塗りつぶすというもの。一袋の中に、数枚の塗り絵がセットされていた。

それを買って、一枚ずつ塗りつぶしてゆくのだが、これから来るであろう楽しみの事を思うと、まだ塗っていないものが多ければ多い程、私は満足していた。

いっぽう「着せ替え」というのは、一枚の紙に、まず少女などの本体の、正面と後ろ姿の絵が描かれており(それは貼り合わせて一人の少女として完成する)、それからその少女の着替えの洋服のイラストが、何種類か描かれているものだ。
着替えの洋服は、大抵正面から見た図柄だけが描かれていた。

そして自分で、それらを切り抜いて、いわゆる紙製の、着せ替えごっこをするのであるが、その着替えの洋服には、肩のところなど、何か所かに、四角くて白い「折り返し部分」が付いている。糊しろ、に似たようなものだ。
そこを折って、本体少女に、着替えの洋服を「引っ掛ける」のである。
そうしないと、着替えの服は、少女本体に留めつけられない。
その真っ白い折り返し部分が、どういうわけか子供心に、面白くて、強く印象に残っているのだ。

そういえば、ブラウスやシャツの襟も、昔は白が多かった。
ストライプや花柄のシャツブラウスに、輝くような真っ白な襟が付いているのが、粋な時代があった。

手帖のまだ書き込まれていない部分、まだ使っていないノートの匂い、白い余白はまた、まっさらな未知だった。
そして子供時代や思春期には、そうしたまっさらな未知が、どれほど身近に有り余っていたことだろう。

それからあっという間に、長い年月がたち、生きていくことはあらゆる意味で、複雑になってきた。
充実もあり、困難もあり、充実は困難とセットになっていたり、やるべきこともやりたいことも、どう考えても多すぎて、気が付くといつも疲れていたような気がする。

はつなつ、この眩しいような、白っぽい、響き。
柑橘類を齧った時のような、はつらつとした、この発音。

せめてこんな季節には、もう少し単純だった頃の自分に、会いに行きたい。






初夏の雲の高さで考えて


いくら考えたところで、どうにも分からないことがある。
どちらへ行ったらいいものか、迷いに迷うことがある。

そんな時には考える事自体を一旦やめる。

だが一旦やめることこそが、思いのほか難しい。






死と隣り合わせの休日躑躅燃ゆ


前代未聞のゴールデンウィークだった。

爽やかな天気の日もあったが、風が搔き乱していく、公園の満開の躑躅の中でさえ、子供たちを遊ばせている大人達の脳裡から、死のウィルスの事が離れることは無かったに違いない。






新緑の我を忘れているいのち


ある時は傍若無人なまでに、新緑の勢いは力強い。
これでもかこれでもかというかのように、惜しみなく新たな緑を噴出させる。

しかしそれを見ているこちらは、刻々と年ばかり取っていく。
新緑が眩しければ眩しい程に、その差が気になって来るような。







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あの薔薇もこの薔薇も熟睡している


薔薇の薔薇たる所以は、必死で生きているようには見えないということだろう。
事実はどうあれ、そうは見えないというところが肝心で、鉄線花のような一本気なひたむきさも無ければ、菜の花のような無垢な生命力も無ければ、雪柳のような清らかさ、向日葵のような貪欲さも持ち合わせていない。

薔薇はただひたすら、自らに充足していて、それだから、時には倦怠感さえ漂わせている。

薔薇は深く眠っているようにも見える。







噴水の完結しないものがたり


噴水は完結しない。
自らの喜びや憤怒を噴き上げては、また水面に落とし、新し気な物語を作り上げてはまた語り始めるけれども、それはどこかでもう聞いた物語だ。怒りの物語はまた新たな怒りを編み出すし、喜びの連鎖はまた新たな喜びを生み出している。






克明な蟻の黒さを驚きぬ


庭いじりをしていると、ふと花に上って来る大きな蟻の際立った黒さに、ドキッとさせられることがある。
それは柔らかな花達に対して、本当に異質な、克明な色だ。
勤勉で精密な、生命のシステム一式が、こんなに小さな記号みたいな体にぎっしり詰まっていることは、どう考えても不思議である。
蟻と花。 花と蟻。 異質なものだらけがそれぞれに助け合ったり殺し合ったり、不思議だらけのこの世界。




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五月闇ビルにHOPEの文字点灯


ここのところ間近に心臓の頻拍発作が起きていた。
今夜もまた救急病院に主人の車で駆け込まなければならなかった。

自分の場合、普段の心拍数が80前後として、160などになってしまうので、不整脈とは言えそれはもう、倍テンポで心臓が爆走するし、だいたいがその鼓動の打ち方がたいそう深く激しくなるので、苦しいったらありゃしない。
中には失神してしまう人もいるようだが、それもそれで、怪我をしたりして、大事になるのではないか。
ここのところ間近に発作があったので、右手も左手も点滴の痣だらけである。

私の頭の中は、発作の苦しさだけでなく、コロナへの恐怖やら、これから控えている癌の手術の心配やら、何やらかにやらが、一挙に押し寄せて、詰まった排水管のようになって混濁としていた。
一種の極限状態だ。

程なく救急病院といったところで、目前に超高層ビルが現れた。

私は目を見張った。

直方体の超高層ビルの半分上の方に、「HOPE」という文字が大きく、明るく煌めいていたのだ。

その「HOPE」という文字は、圧倒的に大きかった。そして明るかった。

(後に調べてみると、そこはホテルで、コロナウィルスの影響で客足が遠のいていたので、空いている客室を使って、ウィンドウ・イルミネーションを実施しているのだそうだ。
コロナに感染した人々と、日々戦っている医療関係者を応援するため、だと言う。)

私の眼には、涙が浮かんできた。

まだ心臓は狂ったように激しく拍動していて、物を考えたり、感じたりすることは、いつもの10分の1くらいしかできなかったが、私の心の中に、「HOPE」という文字が大きな光のように、溶け込んでくるような、そんな気がした。
どこかで誰かが、「頑張って」「大丈夫」と言ってくれている、そんな気がしたのである。


勿論私はコロナに感染したわけではなく、医療従事者でもないわけだが、こんな状態で、あの文字が響かないわけはない。
コロナは様々な状況の人々に計り知れない影響を与えている。元々の病気の治療や手術が遅れて不安な思いを抱える人々や、仕事を追われたり、店を閉めたりせざるを得ず、人生の指針が大きく狂ってしまった人々が、どれほど沢山いることだろう。



私が目にしたのは、たった一つの、単語だった。

しかし、

言葉はイメージを引きだす。 イメージを集める。
言葉を伝えること、そしてイメージを共有すること。

もしかしたらそこには、デザインという仕事の、本当の原点があるのではないだろうか、
絵柄云々以前の、本来の出発点。

無事発作が治まった後からのことだが、そんなことを、ふと考えさせられた。




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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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