風光る

風光る

20184i.jpg今日のBGM/Bonnie Raitt - Wounded heart


目つむればひとつ海あり風光る

俳句は「眼前」にあるものも詠むけれど、「ここには無い物」も詠むことができる。
上手くいけば、それは表現にひとつの奥行を与えてくれる。

子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」
の中の雪は、病床にあって、その時起きられなかった子規にとっては、傍にありながらも、眼前に見ることのできない「雪」だ。

しかしそれだけになおのこと、この句の中の雪は、せつないまでに純粋に「白い」。

私は、平坦な言葉でできているこの句が、何故心の奥底に引っかかってくるのか、長い間不思議だった。
子規の眼前には無い、見ることの叶わなかった「雪」が、だからこそ魂の次元にあるような純白の「雪」として、読む人の胸を打つような、そんな気がするのである。





風光る郵便物に良き一通



風光る駅まで走る身の重さ

線路脇の道を歩いていると、後ろで踏切の警報が鳴りだす。
うわあ、大変、あの電車に乗らなくちゃ!駅のホームも見えてはいるが、これはひとしきり走らねばならない。
小走りに走り出すが、走ってみて驚く。
なんだこれは。
これは私の身体なのか。
全ての連結部分が分解寸前、という感じでやたらガチャガチャと揺れている。
なんだか自分で自分という神輿を担いで、練り歩いているみたいだ。
これはいかん。
前に走ったのは一体いつだったのか、その時はこんなじゃなかったのに。
筋肉量が大分減少しているのかもしれない。
そうだ、筋肉は沢山の内臓や骨やら何やらを、組み紐の如く、ぎゅうっと編み上げて、しっかりと荷造りしているのだから、こいつがすっかり緩み出しているにちがいない、これは大変。

足は上げてるつもりなのだが、その実ちっとも上がっていないのだろう。
筋肉の紐が緩んでいるからには、脳の命令だって、ピピっとはゆかないのだろう。

風は光っているけれど、これでどうする、あー、電車が駅に入って来た、でも私もどうにかこうにか、駅に入って行く!
間に合った!

でもこれじゃ今日から筋トレだ。
私は電車の中で扉に凭れ掛かりながら、息を切らして考える。

放っておいたら、色んな物の入った風呂敷包みのようになってしまうー!






風光る聞き耳をたてている木の葉



通り過ぎてゆくものばかり風光る

天気の良い4月の休日ともなれば、一歩家から出れば、家族連れの自転車やら子供たちの小さな集団やら、ベビーカーを押している母親や、うら若い幸福そうなカップルやら、そんな様々な人たちにすれ違う。または、追い越される。
木々はもう新緑の眩しい光を、思いっきり風に跳ね返している。

ベビーカーの母子とすれ違えば、自分もまた小さな息子のベビーカーを押していた頃を思い出す。
ちょっと外出するにも、あれこれと荷物をまとめて、大変だった。
おしめにミルクに、着替え一式。ベビーカーに、アレコレ玩具もぶら下げて。

その赤ん坊が今となっては、私にWebプログラミングなど教授しているのだから、なんだか笑ってしまうなあ。
息子に教わった、F12キーで出てくる開発者ツールとやらの何という便利なこと!
座布団の上におさまって昼寝していたちっちゃな息子が、今となっては私に何やら教えているというのだから、なんというか、感無量である。 とても嬉しい。

幸せそうな家族連れが通れば、ああ、自分もあんな時があったんだなあ、
幸せそうな恋人同士が通り過ぎれば、ああ、自分もあんな頃があったんだなあ。

快速電車のように過ぎた日々。

目まぐるしかった、忙しかった、色んな事があり過ぎた、信じがたいこともたくさん起きた。

これからは、一体どうなっていくのだろうか。

風が光っているばかり。





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咲き過ぎて途方にくれている椿



春昼に暗中模索してひとり



菜の花や雲の標本作りたし



花は葉に夕べあちこち水の音



花は葉に誰にでもあるよな秘密



葉桜を離れていかぬ星ひとつ



草若葉みな一天に引かれをり

木々の「若葉」は夏の季語だが、「草若葉」あるいは「若草」は、春の季語だ。
公園の草たちも、青い青い天から、見えない糸で引っ張られているように、勢いよくピンと伸びている。

植物といえども、そこには確固とした意志のようなものを感じる。







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春アラモード2

春アラモード2

20184h.jpg
本日の1曲/クライスラー「愛の喜び」羽田健太郎

クラッシックのバイオリン曲「愛の喜び」をハネケンが縦横無尽にジャズ?にアレンジ。
ハネケンは「軽音楽」というイメージのフィットするピアニストだけれど、これは重厚かつモダンな凄いアレンジ。しかも聞いてて楽しい!
まさに「自在」という言葉がぴったり。
こんな風に、俳句が作れたらなあ、というのが私の密かな願望。
古きものと、新しきものの間を、一つの方法論にこだわることなく自在に行き来して、楽しく俳句を作りたい。
しかし…言葉にするのは簡単だが、これがなかなか。
そういう境地を目指して今日も俳句を…。



たんぽぽや屈めば我の影の中



たんぽぽの黄の残像を持ち歩く



たんぽぽやシャッター増える商店街



いぬふぐりこの頃寂しき視力かな



いぬふぐり風が子猫の毛を立てる



朧の夜隣の家は誰も居ず



朧の夜そっと遮断されている言葉



春の風事の成り行き変えてほし



簡単に溶ける謎々チューリップ



チューリップ遠慮している暇はない



春の月夢の中では起きている



自分が眠ってしまった後に、見るのが夢なのだから、そうなると一体夢を見ているのは誰なんだ、ってなことになる。

私はどうにも沢山の夢を見過ぎて、大変疲れる。
なぜそんなに夢を見ていることを覚えているかというと、夜中に数回目が覚めるからであって、そのたんびに、あーコワかったとか、あー忙しかったとか、あー、この支離滅裂なストーリーは一体何なのよ!とか、いちいち思い出して記憶してしまうからなのだ。

簡単に調べてみたら、夢を見ている時に、深く関わっているる脳の中の部位は、海馬・橋・後頭葉・外側膝状体という部分なのだそうだけれども、覚醒時に一番活躍する意識的な活動をしている前頭葉でさえも、なんと70%が睡眠中も活動しているというではないか! 休息しているのは、その内の30%くらいなのだという。内臓や神経など、体の様々な組織を活動させておくためには、脳も活動していなければならないとか。
そりゃそうだ。

ってことはつまり、私が眠ったところで、部分的な私が眠っているだけのことで、わたしの睡眠中の体を維持させたり、夢を作り出して見せたりしているのは、起きている私よりも、一回り大きい、起きている私を囲んでいる大きな私、そんな風に考えると近いのかもしれない。

覚醒中の自分と、睡眠中の自分というのは、もっと、意識と無意識、表と裏、みたいな単純な構造をイメージしていたのだが、そうではないんだ。

どちらかというと、起きている時の自分の意識の方が、偉そうと思っていたのだけれど、こうなってくるとちょっと違うようだ。

大きな自分がいて、ヌ~っと立っていて、その掌に、もう一人小さな自分が、立っている。その自分は、せっせと立ち働いたり、食べたり、飲んだり、怒ったり、笑ったり、俳句を作ったりしていて、何かと忙しい。

やがて、夜が来て、その掌の上にお布団をひいて、小さな私はコテンと寝てしまう。
それでも大きな私は、ヌ~っと、起きているのだ。 掌で私を寝かしたまま、灯台のように、煌々と。一晩中。

うーん、なんて言うか、有り難いというべきか。  うん、そうだ。有り難いのだ!

覚醒時の自分が寝てしまっても、大きな自分が自分を守っていてくれるんだから、考えてみると、命というのは、物凄く精巧なシステムではないか。
ただぐうたらと寝て、起きようとすればば膝だの腰だのアチコチが痛くて、あーもう、年だなあ、などとぼやきつつ必死で起きるのだが、裏では驚嘆すべき神秘なシステムが一晩私を守ってくれているのだ。

しかも、覚醒時の意識的な脳の部分が部分的に眠って休息している間に、脳は人の記憶の中の、その人にとって、重要なものやそうでないものを、組み換え、削除し、構成し直して、新たな記憶のグループに作り替える、「記憶のグループ」の更新をしているのだそうだ!

こういう作業が昼間の覚醒時に行われずに、睡眠中に行われるわけは、覚醒時には、様々な情報が外界から手を替え品を変え脳に入って来るので、こういう情報過多な状態では、込み入った作業ができないからなのだ、と言う。

そうか。やっぱりおでん屋のおでんの汁のように、古い汁はあるわ、水は足されるわ、新たな具は入って来るわ、出ていく具はあるわってわけで、人は毎日更新されているわけだ。

脳の奥深いところで、そういう複雑な作業が繰り返されているのを、意識の方の窓から覗いたものが、夢なのだという。

こりゃわけがわからなくて、当たり前だ。 断片的なはずだ。 それがまたパッチワークされて、摩訶不思議なストーリーになっているのだ。 納得。

また興味深いのが、夢に出てくる登場人物は、大体自分の中の、分身なのだと言う。
自分の中の、その登場人物的な、部分なのだと言う。
例えば、攻撃的な武将とかだったら、自分の中の攻撃的な部分、なのだそうだ。

それから怪物や怖い人に追いかけられるのは、誰でも見る夢だが、恐れることはないらしい。
その「怖いもの」は自分の中で、今、感情的に引っかかっている「問題」なのだということだ。

そもそも夢というのは、明るく楽しいものよりも、どうしても不安だったり、怖かったり、わけのわからないものが多いのが普通らしい。
これは、生物としての生存本能みたいなもので、不安などのマイナス要素の感情的要因が、外界からの様々な問題から自分を守るシグナルとして働くためらしい。

他にも面白いなと思ったのは、睡眠中に、「記憶の定着」ということがあるらしく、覚醒時に必死で暗記したり練習したりして、うまくいかなかったものも、睡眠中に、うまい具合にその記憶が定着させるような働きがあるそうで、良く寝た次の日に、「あれ?できるな!」なんてことがあるらしい。

眠りというのはずいぶんと奥が深く、不思議なものだ。

そういえば昔から、「果報は寝て待て」とかいう諺もあるし。
やるだけやったら、あとは寝て待つ、するとこういうご利益もあるのだろう。
グリム童話では、もう商売を続けられなくなりそうな靴屋で、夜中に小人がそっと立派な靴を仕上げておいてくれる、なんて話もあったっけ。

さて、そろそろ瞼が重くなって来た。 

ブログをアップして、大きな灯台のような自分の中に、寝に行くとするか。

なんか、凄いシュールな世界‥‥‥。 







春陰の噴水重く零れ落つ



春陰の大きな門を固く閉づ



菜の花に流れ込む青空垂直



菜の花の黄の押し問答聴いている








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囀り

囀り

20184e.jpg
本日の1曲/Simone Kopmajer - Come fly with me


髪解けば囀り零れ落ちてくる



囀りや昨日の冷えの残る家



囀りの一樹の影が充実す



パイナップルの缶開いて囀れる



見えずとも鮮やかなりし囀りぬ


溌剌とした囀りのする方を見ても、その囀りが見える訳ではない。
鳥の姿も見えない。ただ煌めくようなその声の鮮やかさに、魅惑されているばかりだ。

囀りにもし色があったら、それは何色なのだろう。
時刻や場所にもよるだろう。鳥の種類にもよるだろう。

一般的には、暖色系や金、銀かなと思っていた。
輝いているような光を感じるからだろうか。黄色からオレンジ色へのグラデーション、その辺が想像しやすいと思っていた。

囀に色あらば今瑠璃色に      西村和子

この俳人は、「瑠璃色」だと言う。
瑠璃色というのは、宝石のラスピラズリの色で、わずかに紫がかった鮮明な深い青。

しかも「今」とある
陽光の輝く中で聴いていた囀りが、ふと日が翳って、涼しい、瑠璃色に思えたのかもしれない。

庭木や街路樹の囀りと、森林の中などの囀りでは、また全くイメージが違う。
自分の家や街で聴く囀りは、明るくて日常的な暖色系のイメージが強いかもしれないが、澄み切った大気の森林の真っ只中では、清らかな青や緑などの寒色系に聞こえそうだ。

群青といふ名の囀りを聞いてゐし      安東次男

群青だという俳人もいる。
深い山の翳りの中の、水や木々や風や、そんなものと一緒に、交響楽のようになって聞こえてくる囀りは、群青色なのだろう。

私の住んでいる街の駅前に、夕方になると沢山の雀が集まって来る木が一本あって、大変な囀りの大合唱となる。
たまたまそういう時に通りかかると、私にはどう見ても、囀りを含めたその木全体が、金色に輝いているように思えて仕方ない。
夕刻の西日が当たっているせいもあろう。しかしその賑やかな囀りの、大きく緩やかな塊は、眩い金色に煌めいているようにしか、思えないのだ。


前略と書いてより先囀れり     岡田史乃

囀りや母となりたる妻ねむる       山崎ひさを

囀りと聞きとめしとき目覚めけり     林翔

囀りの夢の出口にゐたりけり      島田和子  






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柔らかく息をしていて桜散る



花散りぬ人それぞれの荷物かな



風光る草に自分を明け渡す



風光る巨大な花を虫急ぐ



朧月ゆっくり願望遠くなる



サイネリア美男の微笑精密に


時々行くブックカフェの店員は、どういうわけか美男美女が多い。
とりわけ一人の若い男性が、抜きん出て美男子である。

また抜きん出ているのは容貌だけではなく、喫茶店の給仕としての立ち居振る舞い、その表情などが、非の打ちどころがなく完璧なのである。
あまりにも完璧な丁寧さ、謙虚さ、にっこりと微笑む時の、心のこもった様子、それらの調和のとれたリズム感、なんだかお客の方がたじたじとしてしまう。

プロ意識なのだろうか。
しかしそういうあざといものを感じさせない。あくまでも端正な微笑みは明るいのだ。

でもいつも思ってしまう。
疲れない?
家へ帰って、ぐったりしないのかな。
ほら、もう一人の男の子みたいに、一生懸命だけど、ちょっとぶっきらぼうの尻尾が出ているくらいの方が、疲れないんじゃない。

いやいやもしかして、俳優志願なのかもしれない。それなら演技に見えないような演技を修行できて一石二鳥だ。

しかし、見ていると女客は皆、彼の問いかけへの返事の声が、ワントーン高いような声ばかり。
女の子の店員たちも、コロコロと鈴のように朗らかな声で、いかにも嬉しそうに一緒に仕事をしている。

うーん、ああやって一日中女性たちの暖かい眼差しや、ワントーン高い声にずっと囲まれていたら、自然、自分の方もトーンがやや高くなるってものかもしれない。

それで少々ハイな接客になるのかもしれない。
そして恒常的に機嫌も良く、あのリズミカルで完璧なサービスを、不自然にならずに提供できるのかもしれない。



聞こえないふりをしている春の闇



花冷えや心にもある地層かな



春愁の扉の重き百貨店



シャボン玉最後のひとつ塀を越す



菜の花に電信柱続くのみ


電信柱っていうものは、時にはやけに頼もしい感じがする。
宮沢賢治の童話のように、元気良く行進し出したとしても不思議はない。
うわーっと菜の花が咲いているような場所で、抜けるように青い空に、黒々と力強い電信柱が、何処までも続いている。
そんな場所に出会うと、理屈抜きでエネルギーがチャージされる。

線路の枕木なんかもその仲間だ。
どこまでも、単調に、黒々と続いてゆくもの。

どういうわけだか、こういうものたちが、菜の花にとっても似合うのだ。








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椿・落椿

椿・落椿

20184b.jpg
今日の1曲/Eva Cassidy - Blue Skies


満月に見下ろされている椿



緞帳の重たき舞台椿咲く



椿踏む柔らかく闇割れていく



気を病めば一斉に椿が増える



落ちていることも知らずに椿かな




落ちた姿も散々詠まれている椿だけれども、中でも特に印象に残っているのが、この句である。

「椿落つ今日の心の隙間かな」 井上閑子

30年も前のことになるが、俳句を始めたばかりの頃、鍵和田袖子先生の句会に1年ほど行っていた。
その時、助手の講師をしていらしたのが、井上先生だった。

こんなにミニマムな詩形式の中にも、様々なスタイルのようなものがある。
たった数個の言葉で構成される詩の宇宙。その言葉達の、距離、角度、繋がり方は千差万別で、言葉の間に、大きな跳躍があったり、飛翔があったり、あるいは無かったり。
でもどんなスタイルでやるかが問題なのではない、と思っている。
どんなスタイルで詠んだとしても、いいものはいいし、つまらないものはつまらない。

井上先生のこの句は、どこにも突飛な距離間は無い。
平坦な道をいつもの歩幅で歩いていく言葉達。
それなのに、すーっと日常が非日常に繋がっている。

「ギリシャ悲劇終へし愁思の靴へ雨」
「園枯れてより物思ふ裸婦塑像」
これらの句にも、同様の、日常と非日常のきめ細やかな同居があり、その滑らかさに、感嘆する。




菜の花や懐かしい話へ傾く



菜の花の灯りて駅はまだ先に



結び目の解けぬ心を春の風



春雷やわが体内の遠き場所



さくら散るくしゃみをすればなお散りぬ



塀の猫落ちそで落ちず春の昼

猫は塀の上が大好きだ。地面の上に比べたら、圧倒的に危険が少ないからだろう。ブロック塀の上に、こんもりと座っていて、麗かな春の光を存分に楽しんでいるのが、家の窓から見えている。
そのうちに、うとうととしているのだろう。
微かにふらついているかなと思ったら、ぐらっとくる。あっ、危ない、と思っても、そこは動物の鋭敏な運動神経、鮮やかに態勢を持ち直し、何事も無かったかのように、またこんもりと、座っている。
あの猫たちは、飼い猫ではないのだけれど、2件くらいの家で、定期的に餌を貰っている。何処か外で寝ているからには、さぞかしこの暖かさが、嬉しいことだろう。



我守る如柔らかき春の雨

駅から出たら、柔らかな針のように細い雨が降っていた。天気予報では、曇りだったから、傘を持たずに出たのに。
雨に濡れるのは大嫌いなんだけど、本降りではないし、仕方ないから、歩き出した。
しかし春の雨は、他の季節のどんな雨とも違っていた。
控えめで、物柔らかで、優しかった。
家までの7,8分、濡れているのに、私は何かに守られているような気持ちで、春の雨とともに夜道を帰宅した。



春満月ネオンの上に豊満に

繁華街の交差点で、東の夜空から出たばかりの満月が、度肝を抜くような大きさだった。
ぬっと、重たそうに出ている満月の下には、せせこましい安っぽい色の細かなネオンたちが犇めいていた。
そこへ大親分のように、どっかりと全き円の満月が居座って、瑞々しい淡い金色に輝いている。
さぞかし人間の作った玩具のような光達とは格が違うだろうと思いきや、さすが満月、太っ腹である。
下界に散らばる様々な色のネオン達を一斉に取りまとめて、どしんと大きな円を書き加えることによって、カンディンスキーの抽象画のような一枚の絵に、仕立て上げていた。



春昼のソナチネ宙を降りて来ず

どこの家からかはわからないが、滑らかなピアノの音が聞こえてくる。
ソナチネだ。自分もやった曲で、懐かしい。私と違って、かなり上手だ。
それはコロコロと春の暖かな空気の中を玉のように転がって、決して落下してこない。

こういう曲の対局にあるのが、例えばベートーベンの月光ソナタだ。
鬱と言えば乱暴だけれど、下手な演奏だったらそういう感じかもしれない。
上手な演奏ならば、えもいわれぬ神秘的な、瞑想的な、まさに「月光」の味わいだ。

自分は半ば自己流とはいえ、長年ピアノをいじっていたのに、たいして上達もせずに、譜面を見ないで弾けるものは、今となってはたったの2曲。
クラッシックならこの月光ソナタの第一楽章だけ。ジャズならば「ミスティ」だけ。
本当にこの2曲だけというのが情けない。いや、それさえも、この頃、ふっつりと弾いてる最中に頭が白紙になることがあって、恐ろしい。

しかしこの月光ソナタは、第一楽章だけならば、込み入った速弾き?部分がないので、ある程度弾ける人なら、難易度は高くない。いや、単に弾くことができる、というほどの意味だけれども。
だから素人の大人がたっぷりと感情移入して弾くには、格好の曲だと思うのだけれど。

ある日私が久しぶりにこの曲を弾いている時のことだ。
ご存知のように、「タタタ、タタタ」というゆっくりした三連符の和音が少しづつ色合いを変えてゆく。

それはまさに、月光が湖のさざ波に煌めいては柔らかく割れてゆく、その表情が刻々と変わっていくような、美しい和音の変化だ。その微妙な移り変わりに身を任せて、すっかり没頭して弾いていた、その時。

なんと窓の外から聞こえてきたのは、この辺に時々来ている、豆腐屋の笛の音!
この頃またこうして昔のように、小さな車で住宅街を売って歩く豆腐屋が復活しているのだ。

まさか、(キーはFでいくとなると)「ファソラーソファ、ファソラソファ、ソー」とはやらないまでも、調子っぱずれな玩具めいた音で、「ファァァァー、ソー、ファァァァー、ソー」と傍若無人な音で続けている。

これには参った。
全く違う世界が一同に犇めいて、組んず解れずつしている、これこそ「世界」の真実の在り様というものだ。
だがそのギャップは時には笑ってしまうほどに激しいのだ。
ベートーベンの月光ソナタと豆腐屋の笛が同一空間に同時に聞こえてしまう可笑しさ。

しかしだからと言って、中途で止める訳にはゆかない。
生ピアノというものは、望まなくとも、近所に聞こえてしまうもの。途中で止めたら、いかにも豆腐屋の笛に敗北したようではないか。
いや、実際には誰もそんなこと気にも留めないであろうに、そういう状態の只中では、自意識が異常に硬直してしまい、私は意地になって、最後まで月光ソナタを弾き続けた。
弾き続けるしか、無かったのである。

しかし弾き終わってみると、目一杯居心地の悪い、捉えどころのない無重力な沈黙が、辺りを埋め尽くしていたのだった。


(すみません、ソナチネアルバムはモーツァルトの曲は2曲だけで、あとはクーラウ、クレメンティ、ハイドン、ベートーベン、シューベルトなど複数の作曲家の曲を集めたものです。モーツァルトのものが多いと勘違いしていました。文は訂正しましたが、その前に読んだ方、ごめんなさい。)



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初桜・桜

初桜

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今日の1曲/BILL EVANS "Danny Boy" (Londonderry Air) Piano solo


初桜空に小さな不安かな



慣れぬ靴少し痛くて初桜



初桜夜の校舎に灯がひとつ



初桜してみたかった質問を



まだポケットに開かぬメール初桜












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人声のふととぎれをり花満ちる



陽も風も音も吸い込み桜かな



さくら咲き時計この頃遅れがち



昼と夜繰り返してまた桜かな



桜咲く湯飲みにお茶を注ぎ過ぎて



血液が少し足りない朝桜



人違いしている満開の花の下


昨夜コンビニに行ったついでに、少し桜のある近所の小学校へ足を伸ばした。
おおー、咲き出している、気遅れがちに、可憐な桜が。
半分は蕾といったところか。
初桜である。

明日昼間に、そのすぐそばの、中学校へ行ってみよう。
この辺では知らぬ人のいない中々の桜の名所。樹齢60年と言われる桜の大木が深々と、また高々と重なり、見る人を圧倒する迫力である。

果たして、次の日は朝から調子が悪かった。
頭痛のような肩こりが、たまに来る。
これは正しい肩こりではない。頑固で、容易に取れないくせに、移動する。PC稼業の身であるから、作業を終えた深夜に入浴し、そのあと肩こりをとるストレッチまでまじめにやり、体をほぐしてから寝たのに、起床時からガンガンと。

こいつは肩こりの変化球というか移動性低気圧みたいなやつで、季節の変わり目なんかにひょっこり出現する。
身心の冷え、つまり体の冷えと、心の冷えと、両方が同じ結果となって、何だかわからないが、紫色のゼリーのようなものが、体内の一部にとりつく、と私は仮定している。
すると、そこの血液循環が悪くなり、痛みが出たり、凝り固まったり。
頭にとり付けば頭痛になるし、お腹にくれば下痢をするし、足に出ればただ歩いているだけでも痛む。
いかようにも変身する紫色の虚血性?ゼリー。

こいつが来たら、もう仕方ない。相手にしすぎれば症状は強くなるが、その辺の扱いは難しい。
相手にしないように努めれば努めるほど、臍を曲げて逆襲してくるからだ。
だから、コントロールしようとしても無駄だ。ひたすら、「何かのはずみ」で治るのを待つしかないのだ。

その紫色の変化球肩こりを抱えたまま、私は中学校に桜を見に行った。

だんだん近づくにつれ判明したことは、こちらの桜は、小学校の方の奥ゆかしい桜と違って、なんともう満開になっているということだ。
ううっ、今回のブログは初桜でやるつもりでいたのに、もう句も作ったのに、どうしてくれよう。
満開の桜はその次の回にしようと考えていたのに。
言わずもがな、初桜とはその年に初めて目にした桜のことだが、私の中では、蕾の開きかけている2分咲きくらいの桜のイメージがあって、満開の桜と区別して詠むことにしている。

ぽつぽつ人も見に来ている。
誰もが携帯を掲げている。

中学校の正門が桜の群れとともに近づいて来るともう、あまりの美しさに胸がいっぱいになって、少し歩いてはつい立ち止まり、立ち止まり、酔っ払いのように歩いていると、

前から真っ直ぐにこちらに向かってきた女性が、私を見て微笑みかけた。
それは微かなものではなく、鮮明で、明るかった。公然としていた。

見れば、子供が小さい時PTAで一緒だった、Tさんではないか!
住んでいるのもこの近所だし。
なんとなく、彼女が若返っているような気はしたが、私は懐かしさに思わず親し気な声を上げた。
「ワーッ!」
この後には言わずもがな、「久しぶり!」という一言が控えていた。

ことろが、私に向かってはっきりと微笑みかけていたこの女性の反応は、この小さな叫び声には、全く反応を示さなかった。微笑んではいても、そこははっきりと分かった。

瞬時に人違いだということを悟った私は、「すみません、人違いでー」と頭を下げた。

「あ、」彼女は軽く了解の声を漏らして、風のように通り過ぎた。

「ワーッ!」という最初の歓声で大きく出てしまっただけに、穴があったら入りたいと思ったが、なんと良く似た人というものが、世の中にはいることか。
丸顔に、ちょっとエキゾチックな大きな目、その顔立ちは彼女に酷似している。
てっきりTさんだと思ってしまった。

そこではっと気が付いたのは、彼女が今現在、あれほど若かろうはずはない、ということだった。
子供が小学校の頃は、お互いに若かった。もうあれから、かれこれ10数年もたっている!
それにその後、何度も見かけてはいる。自分もそうだが、ちゃんと年相応になっている。

それを彼女だと疑わなかったのは、その女性がこちらにはっきりと笑いかけていたことと、それから桜時の、何か少しくらい不思議なことがあってもおかしくないような、そんな魔力のせいだったのかもしれない。

それにしても彼女は何故私に微笑みかけていたのだろう。あんなにもはっきりと。
桜に酩酊して、フラフラ歩いているいい大人を微笑ましいと思ったのだろうか。何だか顔が赤くなる。

それから私は中学校に入って行くと、桜に浸かった。
どうせ見たように映らないから、携帯で撮るのはやめた。
大きな桜だから、神聖な雰囲気もあって、見ても見ても、まだ見つくしていないような気持ちになるのだった。

桜を見に来ている人の中に、一人で来ている男性が二、三人いた。
そのうちの一人が、私と同じくらいの年齢なのだが、他の人とは様子が違っていた。
桜の大木を仰ぎ見ながら、躊躇無く、ぴたりと立ち止まり、少し歩いては、また立ち止まるので、後ろから歩いて来る他の男性が、戸惑っているのだった。

それは私が多分夢遊病者のようにふらふらしているのとは、全く異質な状態なのだろうと思う。
彼は堂々たる確信を持って、何かを発見していた。
発見するたびに、足がぴたりと止まった。
そして、自分の1メートルくらい先の地面に、大きなリュックをバン、と投げ出すと、やおらかがみこみ、リュックの上のポケットから一眼レフのカメラを取り出した。

なあるほど。
写真家の眼が発見する桜は、私の見ている桜とは、またかなり違う桜なのであろう。
あの確信に満ちた躊躇の無い立ち止まり方が、私は羨ましかった。
それは私の、心ここにあらずといった立ち止まり方とは、随分と違っているような気がした。
「これだ!」と思った時、彼の心はカメラのレンズと同じように、はっきりと焦点が合っているに違いない。

色んな人の、色んな桜。老若男女それぞれの桜。今夜は皆の眼の中に、桜が棲みついて、この町は本物の夜桜と桜の残像で、さぞかし華やいでいるに違いない。

帰ってしばらくすると、紫の虚血性肩こりは大分楽になってきた。
陽の光も、風も、人声も、何でもしんみり吸い込むように咲いていた桜が、吸い取ってくれたのかもしれない。

そんな気分になる夜だった。








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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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