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鱗雲

鱗雲

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本日の1曲/Bill Evans Trio - I Loves You, Porgy



鱗雲無形となってゆく体



忘却の大群流れ鱗雲



鱗雲行けるとこまで行ってみる






見上げると、空一面に光が攪拌されたような、細かな鱗雲が広がっている。

空と言うものが、こんなにも広々としたものだということを、普段はすっかりと忘れ去っている。

「鱗雲」あるいは「鰯雲」、どちらにするかはその時の句の気分や響きで、こっちでなければ、と言う時もあれば、どっちに変えてもそんなに大差は無いという時もある。

鱗雲を眺めていると、自分が一枚の皮膚だけになってしまったような気持ちになって来る。
何処までも伸びる透明な一枚のラップのような。

そして鱗雲がそれとなく囁いて来るのは、「忘却のすすめ」である。

最もこれは、鱗雲に鍵ったことではなく、「秋の海」なんかも、おんなじである。

だが「秋の海」は、もっと乱暴で、ぶっきらぼうで、「囁く」なんて優しさはあまり持ち合わせていない。

それは遠い祖先の背中のように、ソッポを向いていながら、愛想の無い無遠慮な波で、「忘却のすすめ」を投げつけてくる。

それに比べると、鱗雲は親切である。
あくまでも、見るものの身に沿うように、流れ、静かに形を変えながら、しばしの間、私たちを緩やかな放心の中に泳がせてくれる。
その「放心」は、子供の頃には嫌と言うほど味わっていたものなのだけれど。


「忘却」とは「考えないこと」あるいは「考え過ぎないこと」だ。

私達は一日中、思考のベルトコンベアの上に乗っかっているように、何かを考え、選択することの繰り返しで生きている。
無論考え無しで生きていたらば、仕事も健康も何もかも、維持していくことは不可能だ。

しかしこれは自動化されやすい。
リセットすることがむつかしくなってしまうことが頻繁にある。

そんな時、鱗雲は私の心を捕まえて、静かに放し飼いにしてくれる。

端から端まで、そこにあるのは「静かな今」だけで、それも緩やかに蠢いて、ひとつのところにいないのだ。







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虫の声夜の輪郭を辿る



虫の声眠る地層の最上階



湯に髪が広がりゆきぬ虫の闇



コスモスや視線俄かに錯乱す



コスモスや青空少し遠すぎる



短調の唄の短き林檎かな



梨食へば夜の公園静まりぬ






林檎、梨、葡萄など秋の果物は大好きな私であるが、その美味に浸りながらも、ふと、秋の果実は、どこか寂しさのある味のような気がする時がある。

美味しいのに変わりはないのだが、たとえば音楽にも長調の旋律と短調の旋律があって、どちらが良いと言うことではなく、素晴らしい音楽は、どちらの調であったとしても素晴らしいように。

言うなれば、秋の果実の味覚には、、短調の素敵なメロディの持っているような、しんとした、幽かな寂しさのようなものが、どこかにあるような気がするのである。

それは秋の澄み切った大気の持っている、涼やかな透明感と同じ響きを持っている。

どこか寂しい、でも美しい。

「色無き風」という季語があるけれど、初めて知った時には、「なんじゃこれ?」と思ったものであるが、ある時、そうか、この秋の大気や風の、「透明感」のことを言いたかったのかも、そう思った。

そうした中で実る果実は、やはりその透明な淡い寂しさを、どこかに孕んでいるいるのかもしれない。






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檸檬

檸檬

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本日の1曲/Janis Ian - Jesse




一灯の如く灯りし檸檬かな



人の意に沿ってはおれず檸檬かな



檸檬ひとつ企てひとつ胸の内



檸檬齧って白き帆となる真昼かな









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最近買った本で、とても気に入っているものがある。

それは俳句の本でも、デザインの本でもなく、「ベニシアのハーブ便り」という、京都、大原で古民家暮らしをしている、イギリスの貴族出身の女性の自然の中での暮らしぶりを、沢山の写真やエッセイとともに綴ったものだ。

ベニシア・スタンリー・スミス、TVなどでご存知の方も多いと思う。
ブームを巻き起こしたと言ってもいいのではないか、本やDVDの人気も凄いが、ついに映画まで出来てしまったし。(2013)

私も、何かの雑誌で、彼女がイギリスの貴族階級の生まれであることは知っていたが、写真やエッセイを読んで驚いたのが、本当に「お城」と呼ぶしかないような所に住み、門番小屋まで行くのには、自分専用の馬で行く、という、何かの物語で読んだような生活そのままなのだった。

しかし彼女の母親は、短気で情熱的な性格だったようで、「恋をするたびに結婚した」というから、大変なものである。4回結婚している。
結婚していようが、子供が沢山いようが、独身の時と同じようなスタンスで恋をした人のようである。

そのたんびに、幼い子供たちははやくに実の父とは離れ離れになり、義理の父親に、やっとなついて来た頃に、また離別して、新たな父親を迎えなくてはならない。
うーん、これは大変だ。陰でこそこそ不倫することに比べたら、いいのか、どうなのか、でも子供たちにとっては、大変気を使う生活だったのではないだろうか。

そんな中で、1960年代に、カウンターカルチャーの只中で青春を迎えたベニシアは、貴族社会でこのまま配偶者を待つ生活への疑問、本当に自分のしたいことは何なのか、暗中模索する。

そして家出同然でインドへ自分探しの旅に出て、そののちに日本にたどり着く。
日本では、英語学校を経営し、二度結婚をして、四人の子供をもうけ、現在に至っているのである。

登山家でカメラマンでもある現在の夫とふたりで、京都大原の古民家を時間をかけて改造し、修復し、庭をつくり、沢山のハーブを育てて、それを生活のあらゆるシーンで役立てる。
沢山のハーブ料理のレシピから、ハーブから作る、石鹸、シャンプー、塗り薬、まで、作り方が紹介されていて、随所に夫が日本語に翻訳したというエッセイが、またそれらを一層興味深いものにしている。
そして京都大原の、奥深い自然の営みの美しい写真が、見るものを魅了してしまう。

この本が、何故こんなに気に入ったのか、私は考えた。

そもそも私が最近ハーブに興味を持ったのは、自分と家族の血圧などの体調のために、放任していた料理の塩分をコントロールしようと思ったところから始まる。
単に塩分を減らした料理の、美味しく無い事このうえなし、それでハーブを使ったら、シンプルな味付けでも、美味しいものができるのではないかという、そんな目論見からだった。

だがこの本は、単なるハーブの栽培法の本ではなく、単なるハーブ料理のレシピ本でもなく、単なるエッセイでもなく、単なる写真集でもないところが、大いに私の気に入った。

これらの要素のどれが欠けても、これほど面白くはならなかったのではないだろうか。



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自前で育てたハーブをふんだんに使った、彼女の料理のレシピは、謂わば彼女の人生の結果であり、彼女の作っている様々な手作りのハーブの生活用品も、彼女の選んできた自分の道の、一つ一つの結果なのだ。
大原に住んですぐに、自分の家から出てゆく生活排水が、用水路を通って、やがては鴨川へ垂れ流しされていることを知った彼女は、合成洗剤を使うのをやめ、自分でローズマリーの食器用洗剤を作ってしまう。
彼女の持っている、言葉で組み立てられた理屈ではない、思想のようなもの、それがライフスタイルへとスムーズに何の矛盾も無く、受け継がれている。

いわば人生でやっていることが、統一が取れている、というのかな。
そういうところに、凄く魅力を感じたのだ。

それに比べて、自分の生活は一体、なんなんだ!って思ってしまう。

一言でいうと、「雑然と、分裂し、混乱している」のだ!

料理はそれほど好きな方ではない。
だからこそ、色々レシピを追いかけたり、新たなことをやってみないと、気が上がらない。
一言でいえば「義務感に追いかけられつつ、やっている」ので、毎日のことなのに、楽しくないのである。

まあ、仕事の時はもう、PCに向いている頭を、後ろに向けた途端に、やるべき家事が待っている、というような生活なので、すさんでくるのは無理もないかもしれないが。

また部屋を見渡せば、それはまあ、デザインを仕事にしているのだから、少しはインテリアってものにもこだわりはある。
しかし!中途半端なのである!
あるいは、それはまさしく、ただの「インテリア」なのである。

古民家に住みたいとは思わないし、彼女とは趣味が全然ちがうけれども、彼女の選ぶ物の一つ一つに、矛盾の無い、丁寧に、本気に、物を選んだ結果を見ることができる。
彼女がやっているのは、ひとつのホーム・デコレーションなどではなく、彼女の「生き方」を「物」に照射して選び抜いた結果なのだ、と思う。

自分の家の物を見渡せば、物一つ選ぶときに、「妥協」しているところが、ありありと見えてくる。
「とことん気に入っているわけではないんだけど」「まあいいか」
「こんな感じを狙ってるんです」「でもとりあえず今はこれでいいです」みたいな声が、何処からともなく聞こえてくるのだ。だからそれはいつまでも「物」以上の物ではない。

気に入ったものが無ければ、作ればいいのだ。

そこまでせずに、中途半端なものの中で、お茶を濁しながら、この年まで暮らしてきた自分。

まるでサイズの合わない靴下や手袋を文句を言いながら使用しているような自分。
私にとって、「生活」は「創造」ではなかった。
少しばかりでもデザインの仕事をしたり、また、俳句を詠んだりという、そういうことばかりが「創造」で、「生活」は面倒くさく、私ではない私がやっているかのような気持ちで暮らしていた。

「生活」の中に「自分らしさ」を、全く生かしてこなかったような気がする。
忙しさを理由に、生活に能率しか追及してこなかったのだ。

彼女のように、田舎暮らしができる運命ではないとしても、学ぶことは沢山ある。
「生活」を「創造」に変えていく楽しみを、彼女は教えてくれるのだ。

ローズマリーの食器用洗剤かあ、ラベンダーと重層のクレンザー!

その本を抱えてデパートの本屋から出て、エレベーターを降りてゆく時、つくづく、何かこういう生活が、大切なものの代償として、あてがわれているような、そんな気持ちになった。

デパートには、いかにも何もかもありそうであるが、本当に欲しいものは、きっとありはしない。

時間経過が刻まれた家具も、ペンキの剥げかかった具合が何とも可愛らしい箪笥も、使い心地の良くなったタオルも、生きている香り高いハーブも、心地よい秋風も、流れてゆく雲の形の千変万化も、

そう、ホントに今の私が欲しいものは、売っていないのだ。












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野良猫の怯え幽かに秋の風



秋の風ひと数えてる大通り



秋の風我の背丈を計りゆく



少女期に似てくる還暦蓼の花



水澄みて忘れられなきこと多く



水澄みて等身大の我映る









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九月

九月

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本日の1曲/Pat Metheny with Charlie Haden - Cinema Paradiso




九月来る影を探している光



ひと流る方へ雲流れ九月かな



九月かな皆で歩いているひとり









九月が来ていることを人はなかなか気付かない。

何故ってそれは九月というものが透明だから。

夏に戻ってしまったような日や、台風や、色んな目立った役者が出たり入ったりするものだから、それらの間に挟まれて、ちらりちらりと背景が貌を出すように、静かに透明な九月が、確かに来ているのだけれど。

真夏の夥しい光の海が少し遠のく。
いつの間にか、色濃くなってくる影が、光を捕まえて、深くしてゆく。

西日の射している雑踏がステンドグラスのように輝いて来る時、やっと九月がその輪郭を露わにし始める。

日が落ちて、果実のような夜が深まる。
人々の見ている少し疲れた夢から、行き場の無くなった人影が、そっと抜き取られる。

九月の巨大な船が影たちを乗せて出発する。
船は大きな神殿に到着する。
何も祭られていない神殿。
影たちはそこに到着する。

神殿には無限に続くかと思うような数の柱があり、

祭壇からは筒抜けて向こうが見えている。
向こうは、眩暈がするほどの数の星たちの散乱する、深海のような宇宙があるばかり。

無言で横たわっている銀河。 星々の気が遠くなるような距離。

九月という神殿。








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爽やかや雲は静かに衝突す



平均台の上の林檎の若さかな



カーテンの裾綻びぬ虫の声



口紅を買って戻れば残暑かな



猜疑心月の表を磨きをり



朝顔や子供の欠伸やはらかき



物語始めるように葡萄食ふ








葡萄が好きかそうでもないかは、単に味だけの問題ではないらしい。
私の身の回りの男性は、葡萄をあまり有り難がらない。
「食べるのが面倒くさい」と言うのである。

まあ、蜜柑でさえ面倒くさがる手合いだから、葡萄となればもっと細かい。よほど堪忍袋の緒が切れるのだろうか。

息子も、昔は大好きだった葡萄が、大人になった今は「食べるのが面倒だ」とのたまう。

私なぞは、生粋の面倒くさがり屋にもかかわらず、あの葡萄の一粒一粒から迸り出る、熟成した秋の夜そのもののようなあの味、あの味覚を味わいたいがために、手は自動的に、小まめに、勝手に動いてゆくというものである。

ことさらに意志を使わずとも、きれいさっぱりと無くなってしまうのだから、こんなに楽なことはないのだけれど。
よほど食い意地が張っているということなのだろうか。

普段はものぐさなくせに、現金なものであるが、この手の自動運動というものは、どこかで身に覚えがある。

ああ、あれだ。

何と言うのか忘れたが、壊れ物を梱包する時に、緩衝材として入っている、ビニールの、空気で膨らませた豆みたいなやつが、プチプチと並んでいる、あれ。
宅配便に入っていると、荷物を取り出すのもそこそこに、いつの間にか手が、勝手に動き出しているのであるから困ったものだ。
息子が呆れた顔で見ている。

何はともあれ、葡萄のような味わい深い果実を、面倒だからの一言でスルーしてしまうなんて、こんな勿体ない話はない。

では葡萄が、桃や林檎のように、大きな一粒の果実だったら、美味しいだろうか。

うーん、うーん、いかがなものだろう。
桃のようにジューシーで、美味しいか?

いやどうも、あんまりなあ。

葡萄の美味しさは、噛んだ皮から迸り出る、あのフレッシュな動きと無縁では無いような気がするのだ。

一つ一つの美味しい部屋を訪ねるような、

秋の楽しみ。






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虫の闇

虫の闇


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本日の1曲/Stacey Kent - Quiet nights of quiet stars (Corcovado)


手鏡の中の真夜中虫の声



虫の闇過ぎて再び虫の闇



拡大鏡の文字膨らみぬ虫の声



虫の闇地にも星空ある如く








8月も半ばを過ぎると、夜道を帰宅する時、あちこちで虫の声を耳にするようになる。
猛暑になったり、涼しくなったり、台風になったり、残暑になったりしながらも、回り舞台の後ろに回っている方では、やはり色々な小道具や役者が確実にバトンタッチしているのだ。

虫の声というものが、私の中では、「闇」とセットになっている。
「闇」と言っても、それは夜なのだから、当たり前であるが、もっと言えば、「空間」のようなものを、あの声で感じるのである。

帰宅して、暗い玄関周りで、冷たい鍵をバックの中に探っている時、いきなり周りの植え込みから、「リリリリ・‥‥」という声がする。
すると、そこに今までは大して意識することのなかった、小さな空間、黒々とした艶やかな「闇」が、ありありと虫の声によって、目覚めてくるような、そんな気がするのだ。

虫の声が大きくなると、その漆黒の闇も、膨張する。

普段は「闇」なんてものは、意識になかなか上らない。上ったとして、非常に物質的な、ただの「暗がり」という感じで、研ぎ澄まされた虫の声によって、艶やかに切り開かれていくような、瑞々しい「闇」とは違う。

「虫」に纏わる季語には、「虫の声」「虫の音」「虫集く(むしすだく)」「虫の夜」「虫の闇」「虫の秋」「虫時雨」など、色々あるのだが、個人的に最も好きなのは、「虫の闇」だ。

だが虫の声も、ここ10年で、結構スケールが小さくなって来た。
圧倒的に、数が違うような気がする。
最も自然と言えば公園か人の家の庭くらいしかない住宅街だからかもしれず、郊外へ行けば、いやというほど「虫集く」が味わえるのかもしれないが。

10年ほど前の9月初旬頃、家人が出払って、一人で家にいた時のことだ。

折から涼しくなってきた気持ちの良い風に乗って、一体何匹の虫の声が重なっていたものだろう、右から、左へ、後ろから、前へ、沢山の虫の声の分厚い大合唱が、全ての窓を開け放っていた家中を、縦横無尽に通り抜けていた。

まだその頃は、向かいに空き地もあったし、近所には、夏になれば草深くなる場所も点在していた。

あまりの気持ち良さに、私は一人寝そべって、体内を虫の声が通過してゆくのに、ただただ身を任せていた。

それは琥珀色の深い輝きを持っている様な気がした。

そしてふと気がつくと、私の身体が、すっかり透き通ってしまったような錯覚に陥った。
自分というものが、ただの虫の声と風の音との、無形の通過点でしかなく、そのふたつの大きな流れの中に、すっかり透過してしまったような感じになったのだ。

私は、虫の声をたっぷりと含んだ風に、薄っぺらな凧のようになって、吹かれるに任せた。

あのような素晴らしい体験は、残念ながらあの後はあまり無く、思えば段々と虫の声の数が少なくなってきているのは、確かなようである。

虫の声は、暑さのあまり朦朧としていた意識を、ひと時覚醒させてくれる。
まるで汚れていた眼鏡を綺麗に拭いて、周りを見渡したような、そんな気持ちになるのである。

そして綺麗になった眼鏡で、本も読みたいし、普段は嫌いな片付け物もちょっとしたくなったり、あくまでも今の自分の座標のままで、私というものの、地層を少し掘り下げてみたい、そんな気分になるのである。

それから虫の声は、肉厚でしぶとい残暑の夜を、少しづつ、鎮静させてくれるような気がする。
湿気に膨らんで巨大な綿菓子のような夜の暑さを、鋭利で美しい音色で、静かに整えて、冷却してくれるような気がするのだ。

少しづつ、少しづつ。








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朝顔やまだ何も映らぬこころ



秋扇開きて言葉仕舞いこみ



知らぬ人ばかりの夢に百合の花



一瞥し振り返らずや遠花火



立葵夜の向こうを見てをりぬ




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新涼

新涼

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本日の1曲/Janis Ian- At Seventeen 



新涼の私の中に戻りゆく



涼しさの整ってくる目鼻立ち



涼しさや額の扉開け放つ



新涼の坂を自転車滑り降り








以前にも書いたことだけれども、花や草木というものは、確実に成長しているにもかかわらず、肉眼でその動いている瞬間を見ることができない。それがいかにも不思議で不服で、つまらないなあと思っていた。

6月末に、コニファーや南天、アベリアなどの低木類の苗を植えこんだ花壇が、ふと出かける時に見たら、なんだか急に、皆大きくなっているではないか。
毎日水をやりつつも、大して大きくならないなあ、もっとどんどん伸びるのかと思ったのに、ちょっとつまらない、などと思っていたのだ。
注意して凝視していると、ものというのはなかなか、変化してゆかない。
しかしどうだ、このところ仕事が忙しく、ちょっと心が離れていたら、ん?なんだか3歳児くらいだった苗達が、急に幼稚園生くらいの背丈になっているではないか!

こんな風に、何もかもが、それとわからぬうちに、私の背後で変化してゆく。
毎日の似たり寄ったりな暮らし、同じことを繰り返すことに、半ばうんさりしながらも、大して変わり映えのせぬ日常を送っているのだが、

少しづづ、少しづつ、そのバック・グラウンドでは、確実にいろんなことが、変わっているのだ。

この年になると、大きな変化は却って困りものだ。
寧ろ変化が無いというのは、ありがたいのだということが、だんだんわかって来る。

でも、今日やっていることを基盤にしながらも、色んな事が、去年の今頃とはかなり違う事情になっている。

それはたとえば、ラヴェルの交響曲「ボレロ」さながらに、最初から最後まで、主題のメロディーは同じ旋律なのに、加わる楽器や、伴奏などが、どんどん変わっていき、そして最後まで、あの曲を聞いていて、「飽きる」ということがないのと、同じようななことなのだ。

良い変化もあれば、悪い変化もあれば、悲しい変化もあれば、面白い変化もある。

私はもう、決して去年の私ではない。
表面だけ見ているだけでは、全く分からないかもしれないが、私を構成しているパーツである細胞自体が、もう去年のものでは通用しないのだ。

ぼっきりと枝の折れたところが、ある。
大きな立派な枝が、見るも無残に、ぼっきりと折れているのだ。

これは再生しないのだ。
このあとには、決して同じ枝が再生することはない。

でも、すぐそばに、新しい枝が、生えている。
これはまだ、細くて頼りないけれど、ここから、新しい私が、またドンドン再生してゆくのだ。

しかし、あの大きな、美しかった枝は、決して再生しない。
そこは間違ってもらっては困る。

終わってしまうものは、終わり、似ているけれども、違うものが、成長してくる。

悪い変化が起きた時、悲しい変化が起きた時、
喜ばしい変化のようには、とても受け入れることができない。

人間だから、それで当たり前なのだと思う。

でも時が経って、ふと振り返る余裕ができた時に、あれもこれも、それも、つまりは「変化」だったんだ、
善かれあしかれ、「変化」なのだ、そんな感慨にかられる時もある。

考えてもみれば、日常の何もかも、変化していかないものはない。
毎日作っている食事だってそうだ。
良く作っているおかずが、微妙に変化していき、その時その時の癖みたいなものがあり、ずっと作り続けているレシピでさえ、その味付けには微妙な移り変わりみたいなものが出てくるものだ。

服の好み、好きな作家、好きな音楽、肉親との関係、友人との付き合い、行きつけの喫茶店、趣味、何もかもが、変化していく。
子供を産めば、その変化たるや、特急列車のようであるし、恋も、愛も、何もかも、変化していかぬものはない。
昨日と同じと思っている今日に、それはもう、何処かが微妙に形を変えている。

夕焼けの色も、月の位置も、雲の形も、花の美しさも、全てが変化してゆくのだけれど、一つだけ、確かなのは、


それは決して、前の状態には戻らない、ということだ。








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夕暮れて白粉花迷子の如く咲き




蝉鳴けば色濃くなりし我の影




白木槿短き朝の夢消える




秋日傘誰にも言わぬと決めたこと




思い出す葡萄ゆっくり解体す





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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
60代突入・主婦時々グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・ガーデニング・音楽・デザイン。

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