春寒・春寒し

春寒・春寒し

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本日の1曲/Eva Cassidy - Yesterday



春寒や小さき歩幅で歩みをり



列車また遅れてをりぬ春寒し



むつかしい貌の犬吠え春寒し



春寒の鍵確かめに戻る道



春寒や端切れの如き夢を見て



春寒の小鳥音符の軽さかな

ある休日の朝、ベランダの植木鉢に植えてあるコニファーの枝先に、何か細かいものが動いた。
よく見ると、小鳥がつがいで来ていて、葉の中に出たり、入ったりしている。
つがいで来ているのだから、雀だろうと思って見ていると、ほんのり抹茶のような色味が見えた。
えっ!鶯? と思って、そっと観察していると、いやいや目の周りがくるりと白い。
じゃあ、メジロだ、と思ってそばにいた息子を呼んだ。
鳥の事にはとんと疎い私だけれど、メジロぐらいなら、分かるのだ。

「そーっとね、気配ですぐ逃げちゃうから」

二羽のメジロは、その動きの軽やかなこと、軽やかなこと、いつまで浮いてる風船の中の、ヘリウムガスだかなんだかが少々入っているのではないかと思うほどに、ぽんぽんと軽やかに葉の中を移動している。

重力に反している。 私は思った。
どのみち、飛べるんだから、地震の時はなんていいだろう。

それにしてもその動きの可愛らしいことこの上なく、ポポポポポポ…という感じ。
コニファーの葉に潜ってしまって、葉がプルプルと動いているだけでも、その葉の動きさえ可愛いのだ。
鳥というのは、飛んでいる時の動きも見とれてしまうほど優美だし、水鳥がくるくる泳いでいるのも、実にスムースな動きで、見ていて癒される。

いや鳥だけではない、野生の動物のしなやかな動作には、それだけで見飽きない美しさがある。
猛獣は猛獣の美しさ、小動物には小動物の動きの可愛さ、美しさがある。

同じ生物でありながら、何故人間だけがこうもぎくしゃく動いているものだろうか。
わざわざスポーツや舞踊のような形を作らなくては、美しい動きができないとはおかしなものだ。

小鳥や動物のように、動きそのものが可愛らしく、美しいのは小さな子供だ。
三つ、四つくらいがピークだろうか。
一時たりともじっとしていない子供たちの、その蝶々のような軽やかな動きには、ついつい目を奪われてしまう。

昔息子に、外で私に会うと、いつも「せかせか」歩いてる、と言われて、「がーん」となった。
何処かで何かが、深く心当たりがあるのだった。
いつも時間に追われている、そのことが心にまず染み付いていると、当然体の動きも、その感覚に操られるに違いない! いつもいつも先を急いでいるマリオネットのような…! いやだー!
要するに、優雅でなく、せかせかしているおばさん、いつの間にかそんなものになっていたのだ!

おまけに、そのころの私はヘアスタイルがショートボブだったんだが、「ショートボブは似合わない。よけいせかせかして見える!ロングヘアの方がいい!」などと訳のわからない方向へ話がなりゆき、おかげで今ではコラーゲンのすっかり減少したバサバサな髪なのに、頑張ってロング・ヘアーにしているのだ。

どういう繋がりなんだろうと、考えたことがあったのだが、きっと息子の中では、ショートボブは「短い髪」で、「ボーイッシュで、活動的」イコール「せかせか」、にどこかでイメージが結びついたのかも。
それと対局的な位置にあるイメージが「ロングヘアー」イコール「優雅」だったのかしら。

だけどね!中身が優雅でなきゃ、絶対優雅にならないから!
といいつつロングにしている自分がわからない。息子の言うことにはちょっと影響されてしまう自分がいる。

しかし驚いたのは、メジロの動きを一緒に見ていた息子が、「可愛いなー!」と本気で感動していたことだ。
ちょっと覗いて、すぐに行ってしまうだろうと思っていたのに、一緒になって、ずっと見ている。
その上、「バードウォッチングする人の気持ちが分かったなあ」とかしみじみ言っている。

「ホントに?」
「うん。これは、可愛いよー!」だって!

なんだか私は安心した。

社会人一年生の息子は、最近仕事が大変で、結構ストレスフルな感じだったから、ちょっと心配だったのだ。

プログラミングの仕事をしているのだけれど、研修中は前向きだったのが、いざ仕事になったら、太平洋にいきなり小舟で繰り出したような有様だと、疲れた顔で帰宅するようになった。
それでも上司には恵まれて、とても良い人で教え方も上手いと言うし、残業の無い生活を社員にさせたいというポリシーの会社だったので、七時半には帰って来てしまう。恵まれているのだ。

そう言っても、月曜が来ると思うと気持ちが暗くなる、などと言って、帰宅すると、スマホ三昧、しかもタブレットをスマホの前に置いて、スマホでゲームだかなんだかやりつつ、その待ち時間だか空き時間に、タブレットでアニメや映画を見るという、液晶漬けの毎日。
ストレス解消になるなら放っておこうと思っていたが、あれで気が休まるものかと内心疑っていた。

だって、人間の脳は、絶えず「こっちとこっち、どっちがいいか。あれにするか、こっちにするべきか」などと、いうなれば選択三昧。たとえゲームと言えど、そのことに変わりはない。
そのわずかな空白時間にまた違う情報で脳を一杯にしていたら、気が休まるわけはない。
休日もあまり出かけないで、ひたすら一日バーチャル漬けなのだ。

かく言う私だって今の生活からPCは外せない。
仕事がまずPCでやる仕事だし、趣味のブログも、デザインの勉強も、レシピも、インテリアの参考も、百均グッズの利用法も、健康の情報も、もうホントにこれが無くては困ってしまう。
でも、それはあくまでも「リアル」の世界のための「バーチャル」の情報であって、「リアル」と「バーチャル」がメビウスの帯のように循環している。

息子を見ていると、「バーチャル」一辺倒だから、心配なのだ。
何か「リアル」の方で、趣味を見つけたら、といつも言っているのだけれど、「興味のあるもの何もない」というつれない返事。

それが珍しく、リアル界の小鳥に、本気で感激しているのだ!
なんといい傾向ではないか。
ああ、これを機会に「バードウォッチングすることにした」とか言って、休日に外へ出かけるようになれば、しめしめなのになあ! まあ、そんなにうまくは問屋が卸さないだろうけど。


だがここ何日か、息子は帰宅すると、プログラミング言語の勉強をするようになった。
ストレス解消とはいえ、遊び三昧だと、却って不安になるのではないか、何か一つの言語に習熟したら、それが自信になって仕事に対する気持ちも少し変わるんじゃない、などと控えめに言ってみたのだ。

息子は返事をしなかった。
でもここ何日か、帰って来ると机に座っている。
状況はすぐには変わらないだろうしし、液晶漬けであることには変わりはないけれど、少しでも明るい気持ちで毎日を過ごしてほしい。
下手なことを言って、気が変わってしまわないように、それこそベランダの小鳥の前を通り過ぎるように、そぉーっと、知らんふりをして息子の部屋を通り過ぎる。
ついでに健康的にバードウォッチング、などと欲は出さないことにしておこう。


でも、こういう成り行きだけは勘弁してほしい。

「バードウォッチングのゲーム見つけたから、買ってきた!」







雲は今駿馬のかたち黄水仙



黄水仙夜の背筋が伸びている



薄氷や嘘を信じたふりをして



パンジーに風のつむじを見つけをり



パンジーの色隠れてる闇夜かな



ヒヤシンス新聞記事を棒読みに



天気雨の如き思い出ヒヤシンス



如月や風の坩堝の瑠璃色に



これからのことのみ思ふ物芽かな










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春浅し・浅春

春浅し・浅春

20182d.jpg本日のBGM/Bill Evans - Like Someone in Love


春浅し何待つうちに月日たち



イヤリング片方落とす春浅し



春浅し種の見ていた夢を見る



泣いている子供何処かに浅き春



浅春の空の瘡蓋取れる朝



春浅し時間に傷がついている



浅春の風に打たせるままに行く


春の風は光を煽り立てるように勝手気ままに吹く。
そして新しいものを連れてきたのは、いつもこの気まぐれな春の風だった。

早春にふと思い出すのは、やはり自分の人生も時間割が早春だった頃のことだ。

中学を卒業したばかりで、くんずほぐれつしていた5人くらいの友人達で、房総の海辺の民宿に一泊した。いわゆる卒業旅行というやつだ.。皆15歳だったし、子供だけでというのはまだ割と珍しかったけど、なんとか全員の親の許しを経て、実行することにあいなった。

私達が一体、海辺で日がな一日何をしていたか。

実に、今思い出しても微笑んでしまうのだが、なーんにも、しなかったのである。

15歳の少女が5人。一日中海岸をうろうろしながら、したことと言えば貝殻を拾ったくらいのもの。
後は各々、己の頭の中に目一杯の空想を携え、空想を食べ、空想を並べたり、並べ替えたり、陽に干したり、波に洗ったりしていたのだ。
そしてきっと私達は、お互いにそういうことに没頭していることを、知っていた。

私達が持っているたのは、現実への不満と、自分に合うように作り上げた非現実への憧憬だけだった。
中途半端なものはそんなになかった。

現実はいつも不格好で、自分の背丈に合わない服のようだった。
15歳なのに、将来への明るい夢なんか、殆ど持ち合わせがなかった。
現実と自分の作った非現実を並べてみると、それはどうにも違い過ぎていた。
天と地ほどに、赤と黒ほどに、ダイヤモンドと石ころほどに、それは違い過ぎていた。

私達は早春の浜辺で、ただただ自分達の空想を、貝殻を磨くように磨き上げていたのだ。


それから2年ほど経過して、私は初めての恋をした。
そのころ親しくしていた友人の弟と。
一つ年下で、肩まで髪を伸ばしていた。 黒いロンドン・ブーツを履いていた。
そしてなんと私は赤いロンドン・ブーツを履いていたのだ!
今思えば実に空想的なファッションだった。鉄腕アトムじゃあるまいに。
写真を撮っておくべきだった。
さぞかし面白かったに違いない。

二人ともロックが好きで、今考えてみると共通点はそれだけだったんだけど。

はじめて二人で会った日、高架線のホームで、嬉しいやら緊張するやら、若いから二人とも一生懸命カッコつけようとしているのに、そんな二人に早春の風は全くもって無慈悲だった。

上から下から右から左から、春の風は容赦無く二人の髪を掻き混ぜて、立ち上げて、振り下ろした。

二人ともすっかり閉口してしまい、無口になって、ベンチに座ったまま下を向いていた。
いつでも理想と現実のギャップは、こうして私の人生を掻きまわした。

すると彼が一言、しみじみと、「いやだよなー、風は」とつぶやいた。
「うん」 それでやっと会話が始まったのだった。

そんな断片的な、大して意味の無い記憶のかけらを、はっきりと覚えているのもおかしなものだ。

夢中になっていた年下の男の子。

ずっと続くと思っていた恋。
ずっと続くと思っていた若さ。
ずっと続くと思っていた未来。 湯水のようにあった時間。

あの赤いロンドン・ブーツを履いていた女の子が、還暦のおばさんになるなんて、誰が想像しただろう。
これこそが生命の神秘でなくてなんだろう。 神秘であり、不可解であり、不条理だ。
肩までの長髪で学ランを着ていた男の子も、きっと今はおじさんで、お腹が出ているに違いない。

会いたいかって?
いやー、会わない方がいいに決まってる。そりゃお互い様だけど。

早春は早春でいい。

生きいてれば、時間のベクトルは無慈悲なまでに一方通行だ。
戻りたくったって、戻れない。

でも時たま時間は二重になっている。

季節の変わり目に、なにかがふとエア・ポケットのようにいきなり私を捕まえる。


その中には、動かない時間がある。









虫の影ふいに湧き出る春障子



春障子ひかりに耳を澄ましをり



特急が過ぎるホームの余寒かな



春星の思い出しかけている言葉






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立春・春立つ

立春・春立つ

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秒針の音かるくなり春立ちぬ



春立ちぬ気軽にひとを呼び止めて



無防備なこの世のものや春立ちぬ



立春の人のまなざし浅くなり



春立ちぬ遠く列車が走りだす



立春の猫の背にあるひかり濃く



立春やひととひととは噛み合わず

ここ数年、聴く音楽が変わって来た。

ジャンルは「クラッシック」「ジャズ」「ロック・ポップス」などなんでもありなんだけど、乱暴に言ってしまえば、「静かな音楽」になって来た。
「静かな音楽」と言っても、今はやりの「作業用BGM」みたいなものではなく、隅々まで魂の行き渡っているようなナイーブなものでなくて食指は動かない。 
たとえば 
Eva Cassidy - Songbird

アップテンポのものももちろん聴くけど、エネルギーがむき出しで巨大な火の玉になっているようなものでなく、ガラスの立方体の中に、熱い花火が上がっているのを閉じ込めたような、そんな感じの音楽。(笑)
たとえば、 Ron Carter - The Shadow Of Your Smile
モダン・ジャズの中では、こういう耽美的というか、シックなのが好き。

あと今よく聴くのは1970年代ロック・ポップスのカバー・バージョン。
カバーと言っても、原曲の良さが無くなったような、中身のスカスカなスポンジケーキに砂糖をまぶした、みたいなのは、願い下げだ。
一番素晴らしいのは無論オリジナルとしても、そのシンガーが昔愛聴した曲を、歳月を重ねて良くも悪くも色々な経験をした後で、今ならこう歌う、そんな情感の濃い、完熟しているカバー曲が好きなのだ。
たとえば 
How deep is your love - Simone Kopmajer

クラッシックの場合は、ものによりけりだけど、交響曲はほとんど聴かない。
「ダダダダーン!」と来るような衝撃は、今の生活では別にいらないのだ。
だからといって、ああいう音楽がつまらないとか、ゼーンゼン、そんなことは思っていない。
ああいう大きなエネルギーの空間の中にすっかり入って、一緒に流れるのはそれはそれで大変なカタルシスだろう。
でも今、私の生活ではいらない。今の自分の感情のレベルとか、疲労のレベルとか(笑)「波長」みたいなものにスッと入ってきてくれる音楽が必要なのだ。薬局で今の自分に合った薬を処方してもらうように。
今気に入ってるのはこれ。 
神尾真由子「瞑想曲 op.42-1」 (なつかしい土地の想い出) チャイコフスキー

あらゆる音楽を隅から隅までリサーチしてる時間なんかとてもじゃないけど無いし、
年齢や体質が変わるのと同じように、好みの音楽が変わるのは、ごく自然なことだと思う。
エネルギーが炸裂しているような音楽に「おおっ!凄い!」と立ち止まることもある。息をのむこともある。でも今は、深入りせずに通り過ぎる。

以前のブログにも書いた、馴染みの「ロック・バー」に久しぶりに顔を出した。
前には「和光のとんかつ」持参で行ったなにがしを書いたが、今度は「恵方巻」を持っての来店。近くのスーパーが店を閉めて、こういうものを買いたければ、隣町まで歩くか、反対の駅まで電車でゆくか。今日は電車でゆく方を選び、ついでにそのスーパーの目前にあるその店にふらりと立ち寄る。うちの夕飯は10時すぎなのだ。

カウンターの客が私だけになって、何気に音楽の話が始まった。
前述したような、今自分が聴いている音楽のタイプを、マスターに説明しようと、話し始めた。
マスターは店は一応「ロックの店」ということだが、幅広く色んなジャンルを聴いている。

しかし「静かな音楽」と言った途端に、もう「あー、駄目駄目そんなの」みたいな運びになった。
どう説明したらわかるかなあ。
「うるさいのはもうダメなんだよね」、「例えばフリー・ジャズとかは聞かない」と私が言ったら、頭ごなしに「あー、そうやって選り好みしてちゃダメなんだよ!なんだって聞かなきゃダメなんだよ!ミュージシャンに失礼だよ!」
そりゃ正論だ。でもそれはそれ。こちらはこちらの物を見る角度ってもんがある。
それにロック全てを聞いてなくたって、ジャズ全てを聴いてなくたって、クラシック全てを聴いてなくたって、自分なりのアプローチで全てのジャンルから、選りすぐりのものを掘り出すようなやり方だってある。

私が言ってるのは、オーネット・コールマンとかコルトレーンとかセシル・テイラーとかが試みたような、アバンギャルドとか、アナーキーと呼ばれるような、凄い混沌とした音。でもそれだって、この人たちのやったことのほんの一部だし。「この人は聴く・聴かない」というのではない。どんなミュージシャンだって、色んなアプローチで色んな曲を演奏する。

理屈でなく、感覚だ。誰が、ではなく、そのアルバム、その曲で聴きたいかどうかは変わる。

だから感覚的に、聴かないのは、あらゆる原色のペンキを一挙にぶちまけた、混沌の塊が炸裂したような音。
抽象的な音がダメってんじゃなく、諧調を感じる、バランスの取れた抽象は好きなのだ。
これは絵画の好みでも一緒だ。
あとはこれでもかというような圧力を感じる無秩序な音。そういうのは聴かない。聴きたくない。スルーする。
この「聴かない」ってのが腹が立つらしく、向こうは興奮してくる。待て待て、向こうがつばを飛ばしてるからって、こっちも乗ったら、マズイ。

マスターの場合は、昔は好きな音楽とそうでもないものとあったのが、ある時「全ての音楽」が素晴らしく、どんな音楽でも聴こう!と開眼したことがあったんだと言う。それは前から聞いていた話で、いい話だな、と思っていた。でも「マスターズ・ストーリー」は滔々と述べるのに、「私のストーリー」には耳を貸そうともしない。
誰にだって、同じようなマイ音楽ストーリーがあるんじゃないの。
マスターの言わんとするところは分かっているし、全ての音楽、そのミュージシャンの存在を丸ごと聴くというのは、最も正統的な音楽の聴き方だ。
でも私の聴き方は違う。自分のその時その時に必要な音楽を探していく。若い時に聴いていたものが今も必要とは限らないし、若い時に全然関心の無かった音楽が今とてもぴったり来たりする、そのことに忠実なだけ。
どちらもありなんじゃないの、と言いたいだけなんだよね。

「だからね、静かな音楽ってのは、静かなだけじゃなくて…」
( 静かで、魂が震えるような、音楽なんだよ!)と、私が言おうとする。
それなのに、「だからね、静かな音楽」のあたりまでしか言わせない。

その辺まで言うと、「ダメダメ!」「違うの!」と途中で横やりを入れてきて、その後を言わせない。

ここからはもうどんどん、ずれてゆく。
何がずれてゆくかって、音楽の話では無くなって来る。だんだん腹が立ってくるのは、音楽的な意見の違いなんかではない。そんなの違って当たり前だ。

そうではなく、人の話を頭一つ分くらいしか聞こうとせずに、ひたすら自分の意見だけを押し付けようとする、この態度!
相手には「言わせない」というやり方だ。何か言おうとすると遮って、とにかく話を続けさせない。
特に相手が女だとこうなるようだ。
こういうの、大嫌いなんだよね。

少なからずむかむかしてきて、「マスター、も少し人の話を、後の方まで聞きなさいよ!」
と言っても、全然聞く耳持たない。

「俺はね、全ての音楽を聴いてんの!とにかくもう、全て!」なんて教祖さながらに言ってる。嘘に決まってる。
だってマスターからクラッシックの音楽の話を聴いたことはない。
「へー、じゃあマスターはクラッシックも聴くんだ?」と言ったら、

「聞くよ!すべての音楽を聴いてる、聴いてない音楽なんかない!」「マーラーだってなんだって聴いてるよ!」

「じゃあ誰のマーラーが好きなの?」「好きな指揮者は?好きな演奏家は?」と言ったら、一人の名前も出てきはしない。「ほらねー!」と言っても、「とにかく俺は聴いてない音楽なんかないんだ!」だって。

あげくに、「静かな音楽なんてもんは、音楽なんかじゃない、そんなの、音楽聞く必要なんかないだろう、そんなんが良けりゃ、川のせせらぎでも聞いてろよ!音楽聞く必要なんかないんだよ!」と吐き捨てるように言うではないか。

それを聞いた途端、突然私の頭の上の「蓋」みたいなものが、ポカっと取れた。
そう、熱いいお茶の入った湯飲み茶碗の蓋とか、なんかそういうものが、ポカっと。

私はマスターに向かって、言った。

「いーかげんに、人の話を最後まで聞けって言ってるでしょー!」
「静かな音楽音楽って、その後があるのっ!」
「いいっ?静かで、しかも魂が震えるような音楽って言おうとしてるんだよっ!」

「いーや!さっきそうは言わなかっただろう!」
「言おうとしてるのに、あんたが聞こうとしなかったんでしょーがっ!」

そして最終的に、マスターを睨みつけて、あろうことか

「この頑固ジジイー!」と言っていたのである。

凄い。 言いながら、(これを言ってるのは一体誰なんだ?)と思った。
人様にこんな言葉を投げたのは生れて初めてだ。人生初のことはまだまだ起きるんだなあ。

そしてレジでお金を払いながら、
「マスター、その石頭、どぉーにかしなさいよっ!」

「もう来んわ!」と何故か関西弁の捨て台詞を残して、思いっきり店のドアを閉めたのであった。


ああ…「春が立つ」はずだったのが、一字違いで、「腹が立つ」に…。

仕方ない。あれも立春なら、これもまた立春。 
我慢がきかなかったのもまた、春が故かもしれない。
色んなものの種も、地面の中でむくむくと動き出してるに違いない。

そういえば今日は、寒くなかったなあ。







寒明けのみずのはやさで夢をみる



春隣すっかり約束忘れゐて



チェロの音に洞窟ありぬ二月かな



薄氷優しい言葉割れてゆく



寒菊やメトロノームに狂いなし



人の縁遠くなりつつ余寒かな



束ねをり髪と記憶とヒヤシンス



春を待つ駅で電車を待ちながら






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寒波

寒波


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本日のBGM/Sting - When We Dance


棒の如寒波の夜をひた歩く



吐く息の生き物めいて大寒波



大寒波星座緊りて揺るがざる



大寒波去らずシンクを洗い上げ



無生物の匂いしている大寒波



大寒波高層ビルの下急ぐ


今年の1月の寒波は凄かった。
まだ過去形にするのもなんだけれども、正月初っ端から、外出をするのを、毎日やっぱりやめよう、と挫けてとうとう三が日家にいた。

去年の1月にも寒波が来て、そのことはやはりブログに書いてあるが、短かった。
その長さが、今年はスケールが違っている。来る日も来る日も寒波、寒波。間にちょっと和らいだ日は、数えるほどだった。

先日仕事で夜、人に会わなくてはならず、帰りにタクシーを使った。

車が滑り出すや否や運転手が言う。「さーむいですねー!」
「ホントですね」
「いやー、でもまあ、私達が子供の頃なんかも、寒かったもんですよ。その辺凍ってたし、手は皸だらけだったし、痛くてねー! ああ、でもお客さんとは世代が違うから、分からないかもしれないなー」だって!

心の中で「ヤッター!」
見たところ運転手は多分同世代。
夜目遠目傘のうちとは言うけれど、夜間後部座席もそのうちかぁ。

「いーえ、私が小さい頃もそうでしたよ。皸もできましたよ。小学生の時なんか、服一杯重ね着してて、友達と、『今日、何枚着てるかー?
っていうのが、遊びみたいなもんでね。5枚とか、普通に着てましたよ。」

「お客さんいくつ」信号で止まって運転手がちょっと振り返る。
見なくていいから、夜目遠目夜間後部座席だよ、と思いつつ、昔のことを考える。

確かに昔も寒かった。
でも考えてみると、住宅事情が今よりずっと厳しかった。サッシなんてのは、まだまだそんなにお目にかからなかった。障子や、ガタガタいってるガラス戸の枠は木だったし、雨戸も木製。隙間風は普通だった。練炭火鉢や石油ストーブが主な暖房器具だ。

それにダウンコートなんてものは無いから、とにかく沢山重ねて着ていたなあ。玉葱みたいに。
人間側の生活水準ってものがそもそも違う。

「夏は猛暑、冬は大寒波、春と秋は年々短くなり、これでこの先一体、どうなっていくんでしょうねー」と私が言うと、「未来の心配なら、少子化の方が、心配ですよ!」と運転手。
「どんどん国民が減っちゃうんだからね、税金払うもんがどんどん少なくなって、年金なんかだって、成り立たなくなっちゃう」

そりゃ少子化だって、深刻だ。
でもねー、大自然の営みの人為的な力の全く及ばぬ恐ろしさには、適わないのではないだろうか。

この大寒波の原因は、太平洋赤道付近の海水の水温が平年より低い状態が続く、「ラニーニャ現象」だという。
水温が平年より高い状態が続くのが、「エルニーニョ現象」だ。
いずれにしても、これらの現象が起きた年は、気温が異常に高くなったり、低くなったりするようだが、「ラニーニャ現象」が起きると、偏西風が蛇行するため、夏は猛暑、渇水、冬は寒くなる、と言うのだから、これまた夏が思いやられる。
温室効果ガスとの関連も、諸説色々であるが、このまま温室効果ガスが増え続けると、こういう海水の異常現象の起きる頻度が高くなっていく、とも言われる。

知り合いの息子さん夫婦が、子供はもたない、と言っているそうだが、その理由の一つとして、「地球がこの先どうなるか分からないから」と言っているそうだ。

これを笑えるだろうか。

少子化の問題だって、原因は複数だろう。複数だから、すんなりと解決してゆかない。
またこういう社会現象は、個人の財布の紐と直結しているのではないだろうか。

少子化問題は、少子化以外の問題と深く関わっているのだと思う。

この社会で普通に生きていくには、まとまったお金が必要な項目が多すぎるのだ。
まず住居費の問題、賃貸では老後に貸してもらえなくなるから、どうにかしなくちゃと思う。
で、頑張って住居を購入するが、ローンと固定資産税で生活は締め付けられ、年月が経つと、ある時ドカンと雪崩のように、突然修繕費が発生する。さらに現在は売りたい時に売却が難しい問題も加わってきている。
老後の生活も、終身で安心できる施設に入るには、いったいいくらかかることやらー。

学費だって、どう考えても高すぎる。
大学なんて、途中からは、一体週に何時間勉強してるの、って程度で、なんであんなに大枚払わねばならないのだ。

こうした生活の中で、子供を産む選択肢を削る人が増えても、不思議はないし、もとより結婚せずにひとりで生きていった方が良いのでは、という考えも出てくるだろう。
今の若い人達は、何でもシュミレーションしてみるし、電化製品の購入ひとつだって、じっくりネットで口コミを研究してからなんだから、行動を起こす前にあれこれと綿密に考えるのではないか。
あるいは選択以前に、「できない」という場合だってある。

これは夢だけど、
もっと公営住宅が、便利な場所に段階的に色々あったりして、抽選なんかでなく普通に入れて、老後も安心して借りていられて、例えば同じ建物内に、いよいよ自力で生活できなくなった場合のためのケア付き老人ルームなんてものがあったり。
夢ですよ!そりゃ。 でももしそんなだったら、誰もが安心して子供を産む気になるだろうに。

金銭的な問題ではないのでは、と言う向きもあるかもしれない。
しかし金銭的な問題と精神的な問題だって分かれてはいない。
お金を稼ぐことだけでほとんど全ての時間がつぶれたら、精神的な充足感は無くなってしまう。

そこへもってきて、「地球の未来」という懸念まで加わる昨今の事情。

全てのことが、芋づる式に裏で繋がっているのではないだろうか。


運転手に、生まれた年を言うと
「なんだ、同い年じゃないか」。

そして珍しいことに、お金を払う時、半端をおまけしてくれた。

車から降りると、まるで冷蔵庫のチルド室ような、寒気だった。









誰かいるような気がして寒椿



地球の心配家庭の心配布団干す



手袋を脱ぐように自分を始める



冬薔薇の中に畳まれている時間



押し寄せる睡り一気に寒林に



冬服やどこからともなく年を取り



寒月にひとつの額向き合いぬ






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今日の1曲/Maxence Larrieu 「亡き王女のためのパヴァーヌ」


雪降って祈っている屋根また屋根



雪降りぬ何巻もある物語



雪降って言葉の隙間埋めてゆく



雪積むやひと日ひと日のうへへまた



雪降ってゐる過去の中今の中

子供の頃は、雪が降ればそれだけで興奮したんだから、今思えばたいしたものだ。
雪が積もるのが珍しい関東だからということもあるだろう。

雪がやんだら、もうじっとしてなんかいられない。
とにかく外へ行く、とにかく何をしてみたって面白い。

踏んで歩くだけで面白い。
触ってみる、落としてみる、蹴ってみる、齧ってみる、描いてみる、捏ねてみる、投げてみる。
小さな雪だるまはすぐできる。
近所の子供もいる時は、雪合戦のような運びにもなった。

だが、最終的に誰かが言い出す遠大な思い付きは、ほらあれ、「かまくら」というやつである。
雪国の、こんもりと大きな、お家のような、「かまくら」。
中でおやつを食べたり、遊んだりしている絵や写真を見るにつけ、「面白そう」「楽しそう」と憧れに胸躍らせる。

兄と私と弟と二つづつ年の飛んでる三人兄弟だったんだけど、上二人小学生、下幼稚園くらいだったんだろうか、何度かその思い付きにチャレンジしたものだ。

最初の頃の勢いといったら、天まで届くかというような意気込みで始めるのだが、いかんせん子供の体力と持続力では、残念ながらに最後まで志を成し遂げられたためしはなかった。積雪の量からしても、かまくらを作るには心もとない。

最終的には、自分の身長にさえまだまだ届かぬような、雪だるまでさえない、不思議な、無目的な雪のオブジェを原っぱに唐突に残したままに、お腹がすいたり、暗くなってきたりして、帰ってしまうのだった。

しかし長じても、やってることは大して変わらなかったような気がする。
若い頃には、随分とこの途中放棄「かまくら」まがいの事をしていたものだ。

さて還暦も目前というこの頃になってふと考えれば、さすがに少しは前進していることに気が付く。

というか、大人になると時間が圧倒的に少なくなるから、あれこれと「かまくら」を無意味に作り始めることをセーブして、できそうにないことには、初めから手を出さなくなっただけのことかもしれない。

大きなかまくらは、とりあえずひとつ作り終えた。
小規模ではあるが、50代になってから、デザインの仕事ができるようになったこと。

だがこれは、入口だった。

つまり、このかまくらは、入ってみると、「トンネル」になっていて、奥へ奥へと、延々と続いているものだったのだ。
仕事なのだから思えば当たり前なのだが、その先は新たな試練のジャングルだ。

いやいやこれに限らず、きっと私にとっての、あの「かまくら」みたいなものっていうのは、たいがいこういうことになっているに違いないのだ。

「やったー!」「できた!」「やっとここまで来た!」

ゴールだ!と思った、そこからこそが、新たなスタートラインになっているのだ。







寒菊や一度決めたらかヘりみず



山眠る海空眠る人眠る



枯木立あるく速度でかんがえる



寒の星小さな予感的中す



冬の梅プラトニックのままで暮れ



寒月や待っていたらば湧かぬお湯



寒燈の鏡にありぬ夜半かな



蜜柑剝くあの一言を思い出す



昔から我を知ってる冬木かな







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お知らせ

いつもご訪問頂きありがとうございます。 「俳句とエッセイ時々音楽」のブログ名を、「A Cup of俳句」に改名させていただきます。宜しくお願いいたします。

プロフィール

ネコヤナギ

Author:ネコヤナギ
俳句は一行詩。コンパクトな宇宙です。それと日々出会う物・事を気ままに綴り、ジャンルにこだわらない音楽のことも少し。俳句は1994年から書き溜めていたものを2017年1月から遡ってまとめました。
50代後半、双子座・A型・主婦兼グラフィックデザイナー。在宅ワーカーです。
趣味は俳句・デザイン・音楽・手織り。最近ホロスコープの奈落に足を突っ込んでいます。

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